フォギーシティ

淺木 朝咲

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最終章 輪廻と霧の街

ヴァクター・ウィンストン

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 生まれた家は、身分も低くなく、金にも困らなかった。先祖が上流階級で、今は中流。悪くなかった。
 父親は完全な異性愛者ではなかった。性別に関係なく、人の持つ人柄に惹かれる志向だったらしい。だからだろう、親によって仕立てられた結婚相手の母に特別な感情を抱かなかったのは。父は身分が低くないからと、子作りは頑張ろうと決意したらしい。男が産まれるまでは頑張ろうと決意した矢先、一人目で僕が生まれた。その時こそ父は安堵したらしいが、二年経っても歩こうとせず、ましてやハイハイも足を引きずるようにやる僕に疑問を抱いた。結果、僕が三歳の時に足に障害があると判明した。二人はとてつもないショックを受けていたらしい。仕方ないだろう。僕だって好きでこんな身体で生まれたわけじゃないんだ。
 それから暫くして、父は家を出ていった。「戦うの」と母は言った。幼い僕には戦うことがどういうことか、全く理解も想像も出来なかった。ただ、なんとなく怖いことだとは感じていた。
 戦争が始まっても、ある程度裕福な身分だからか、そんなに苦しくはなかったと思う。母が時々祖父母に僕を預けてどこかへ行くことはあった。今思えば、ヘルメットを作って少しでも蓄えを増やそうとしていたのだろう。障害を抱える僕のために、どんな状態で帰ってくるかわからない父のために。砲弾が来なくても、母は母なりに戦争に参加していたのだと思う。
 僕は、ひたすら外の様子を眺めて時間を潰すばかりだった。祖父母は時々一緒に外出してくれた。戦争があっても、日常は変わらない。生きていかなければならないからだ。食料品店から出た時、銃声が鳴った。祖母が右足を撃たれていた。何が起こったのかわからないが、きっと服や外見からなんとなく僕達がそれなりに苦労しない生活をしていたことを察知した誰かが憂さ晴らしにやったのだろう。近所の病院はいくらかの人員が戦場に割かれてしまいまともに経営出来なかったのか、祖母は自分を置いていくよう祖父に訴えていた。祖母は帰ってこなかった。きっと、暴行された上に金目のものを盗られていったのだろう。
 終戦も近付き自国の勝利が確実になってきた頃、母が死んだ。僕は守られた。祖父もその前に死んでいる。僕の家は何故か狙われていたのだと思う。父が何かしでかしたのだろうか。わからない。父は帰ってきたらどうなるのだろう。祖父母もいない、母もいない。生き残ったのは足に障害を持った八歳の僕だけなんて、希望がないにも程がある。幸い僕は手先が器用だったため、缶詰のフタを開けるのに苦労はしなかったし、特に生活に困ることは出なかった。そりゃあ、会話する相手もなくやること全てを終わらせる時間が倍以上になったのは多少苦痛ではあったが。そうでもしないと生きていけないのだから、泣く暇なんてなかった。泣いたのは人が死んだその日の夕方から夜明けまでだ。僕に死ぬ気が湧かなかったのは何故かわからない。多分人が死ぬことを目の前で見てきたから、こうはなりたくないと心のどこかで強く思ってしまったのだろう。母さんの後を追いたいとは、不思議とこの街に来た今も思ったことは無い。
 戦地から五体満足で父は帰ってきた。「ママは?」と訊かれ、何も言えなかった。無言を貫いていると、父は僕の方を揺さぶって、「エリスは!! なんで何にも言わないんだ!?」とものすごい剣幕で言った。仕方なく僕は一言で事実を伝えた。
「……死んじゃった。おじいさまも、おばあさまもみんな」
 父は声を押し殺すようにして泣いた。恋愛感情こそ無くても、情は湧いてきちんと彼女を家族として受け入れていたのだ。それに、母さんの人柄は悪くなかったし。父さんのことをしっかり受け入れて、僕達のことを心から愛してくれた人だった。
 それから父さんはずっと病んでしまった。気付けば部屋の隅でぶつぶつ何か謝るようなことを繰り返していた。食事の準備などの家事はこの時代の男性にしては珍しく、自分からテキパキとこなす方だった。だが、家事以外の時間はずっと誰かに許しを乞うようなことを、繰り返し呟いては自責の念に駆られていた。僕は何も言えなかった。戦地の辛さを僕は何一つ経験していないし、もし経験出来る年齢になっても身体がそうさせないからだ。何も知らない僕の言葉なんて届くわけがないと、八歳なりに悟っていた。
 父さんは再婚もしなかった。ずっとずっと謝罪の言葉を垂れ流して家事を繰り返す日々が続いた。父さんはどうやらかなり優秀な戦績を挙げたらしく、その報酬のおかげで生活が困窮することはなかった。その代わり、毎日苦しむ父さんを見て心は自然と疲弊していった。それで、僕はなんとなく父さんが戦地で感じていた心の重苦しさを知れた気がした。気がしただけだ。本当はどうか知らない。
 数日後、いきなり父さんが消えた。靴はある。鞄もある。財布も残されている。忽然と、彼は姿を消した。僕はかなり焦った。父さんの苦しんでいる姿を見ることで僕自身の心は実際かなり辟易していたが、貴族の広い家に足に障害を持った子供一人が住むなんて不可能だ。全力で腕に力を込めれば手すりにもたれかかりながら階段の昇り降りが出来ない訳ではない。だが、その程度だ。僕の足は全く感覚を拾ってくれやしない。だから、どう力を入れて踏ん張って立てばいいかなんてわからないし、歩き方なんて尚更わからない。嫌だ。こんな体で、この先天涯孤独のまま生きていくなんて出来ない。いくら貴族生まれでも、こんな僕を養子としてまともに拾ってくれる大人なんているわけない。それくらいわかる。足に障害があるから、貴族の子として人身売買されることもないだろう。ひとりで野垂れ死にするしかないのだけは御免だ。それなら、僕はまだどんな所かはともかく父さんが消えた場所へ行きたい。父さんがまだ一緒にいてくれさえすれば、こんなな僕でも、生きていこうと前を向ける。
 ──そして、気がつけばこの街に居た。父さんらしき人は居ない。僕は自分の足を見つめた。しばらく歩くしかないのか。こんな不自由極まりない、惨めな足で。
 だが、実際は歩かなくてよかった。この街は変わっている。人じゃない見た目の何かが人語を話しているし、僕はというと浮いていたのだ。支えもなしに立つことが出来るのは、初めてのことだった。浮くのも当然初めてのことだから、最初はバランスをとることすら難しかった。すぐに慣れることが出来たのは幸いだったが、やはり父さんは居ない。
「……」
「………」
 ふと、僕の目の前で立ち止まって溜息を吐いた一人の人じゃない人──異形に目がいった。地球儀の頭、グレーのトレンチコート、とても高い背丈。何故だろう、すごく、すごく見覚えがある。地球儀頭の知り合いなんて居るわけがないのに、初めて見た気がしない。
「……あの」
「!」
 僕が声をかけると、その人は驚いて早歩きで逃げようとする。この人は浮くことが出来ないのだろうか。
「ま、待って」
 僕が呼び止める声に反応することもなく、その人はどんどん僕から離れようとする。駄目だ。ここで話すことが出来なかったら、僕達はもう二度と笑い合えない気がする。根拠も何も無いけれど、僕は何故だかこの地球儀頭が僕の大切な家族だって確信出来た。
「待ってよ父さん!」
「……」
 僕が叫ぶと、ぴたり、と地球儀頭の人の動きが止まった。その人は僕の顔をやっと見てくれた。僕自身の顔がどうなっているかは知らない。もしかしたら、この人みたいにとんでもない顔になっているかもしれないし、大して変わっていないかもしれない。腕や足が人間のそれと大して見た目が変わらないことだけはわかっていた。
「……ヴァクター、なのか?」
「! そうだよ」
 僕が頷くと、地球儀頭の人は僕をきつく抱きしめてくれた。
「馬鹿かお前……!! なんでお前がこんな所に来る必要があったんだ!」
「独りじゃなんにも出来ないんだよ。笑うのも、悲しむのも。だから会いに来たよ、父さん」
 浮くことが出来ている時点で僕が普通の人間じゃなくなったことが父さんにはわかったらしい。父さんは相変わらず暗い顔だった。けれども、僕がここに来てしまったことはしっかりと受け止めてくれた。
 今はここに住んでいる、とウィンストン家の家と同じくらい綺麗で良さげな家に入れてもらった。そこで、僕が知らなかったことを父さんは沢山教えてくれた。僕の顔は色が変わったこと以外そのままだったが、僕達はもう人間とは呼べないこと。人に限りなく近い外見の僕でさえ異形というらしい。確かに、人間は浮いて移動することなんて出来ない。それに、その浮くことは異形でも僕以外出来ないかもしれないらしい。出来たとしても、僕みたいに自由自在に動き回れるわけではなさそうだ。それをきっかけに、父さんは僕に他に何が出来るか見せるよう言った。浮くこと、姿を消すこと。この時わかっていたのはそれだけだった。そんな、僕が何個も異能を使い分けられる変な異形だなんてこの時は全く知らなかった。それに、知った後も使い分けたところで何になるのだと不思議に思っている時の方が多かった。
 ──今はその、やたら使い分けが効く自分の力を誇りに思っている。家族をやっと自分の手で守ることが出来る。目の前で大切な人を亡くす可能性を自分で減らせる。それは僕にとってとてつもなく価値のあることだ。特に父さんに対しては、お荷物としてしか生きることが出来なかった僕が出来る最大限の恩返しだろう。父さんは僕がこの街に来たことを初めて知った時は馬鹿と叱ったけれど、僕はこの街に来たからこそ存在意義を得られたような気がしているんだ。それは何物にも代えがたいものだし、この感覚はきっとこれからも生きていく上で僕の大切なものになるのは間違いないことだ。だから、もしこの手で大切な人達を守りきることが出来るなら、それで僕が死んでも別に構わないとさえ思ってしまっている。僕があらゆるものを守れるのは、何も守れず、何も出来ない無力な自分が許せなかったから。
 父さんは今生きている人達の中で唯一血の繋がった人で、一番大好き。リーエイさん──いや、父さんのことを考えるとリーエイも父さんのことを支えてくれている(本人にその自覚があるかはさておき)から、勿論好きだ。ユーイオ。僕がこいつのことをどう思っているのか、正直自分でもよくわからない。家族と言えば家族だし、他人と言ってもまあ怒られはしないはずだ。だってユーイオはそもそも人間ですらないのだから。だからだろうか。よくわからない。大切なことに違いはない。一番死んで欲しくないとさえ思う。勿論、「回帰リュトゥール」を使われたくないのが一番の理由だ。ユーイオは「今回で最後にする」と覚悟を決めているようだし、いつでもそうだったが、本気だ。一生懸命に壁に立ち向かう君は本当にかっこいいと思う。──ああ、少しわかった。自分が死ぬことになってもユーイオを守り抜きたいと思うのは、ユーイオが死ぬのをもう見たくないからだ。ユーイオが死ぬくらいなら僕が死ぬ。そういうことだろう。
 能力をひとつ犠牲にしたって構わない。全部使い果たしても、自分以外の大切な人達が助かるならそれでいい。彼らが助かることが僕にとっての幸せで、恩返しだ。祖父の言葉を思い返す。「誰かを大切に思える人になれ」──ああ、なれたと思う。あの時はわからなかった。大切なものが勝手に手からこぼれ落ちる恐怖心で理解しようとすらしなかった。おじいさま、今ならわかる。そして母さん。大切なものをすくいあげることが出来る勇気と愛を、木偶の坊だった僕は百年かけてやっと理解することが出来た。父さんは身も心も呈して戦ってくれたから、今度は僕が父さんたちのためにそうするんだ。
 神様なんて信じたことなどただの一度もない。神様がいるならあんな戦いは起こらなかっただろうし、僕の足をこんな風にして僕を産み落とすこともなかっただろう。母さんたちが死ななければならないことも、父さんが病む必要も何も無かった。だからこそ、敢えて僕はこう言ってみせよう。神を信じない、真っ向から否定する僕なりの皮肉のつもりだ。
 愛せる人々かぞくぼく守護かごがあらんことを。
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