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最終章 輪廻と霧の街
感情
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ある程度の方向が決まり、もう寝ようという雰囲気が流れ始めたのは深夜三時のことだった。各々歯を磨き、自室に入る。
「ユーイオ」
「ん、何」
歯磨きを終えたヴァクターが近付いてくる。最近姿を消すことなく、適当にリビングのソファで寝たり、僕のロッキングチェアで寝たりしているのは気付いているが言っていない。
「リーエイさん、父さんの部屋に入ってったんだけど」
「あー、いいんじゃない? リーエイだし」
「あ、ユーイオもそういうのに寛大な方?」
なぁんだ、とヴァクターは落胆か安堵か分からない声を出す。
「で、リーエイたちが何」
「……なんでも。それよりさ、今日はベッド借りていい?」
「…………………もう一度言っていただいてよろしい?」
突然の一言に僕は言葉を呑み込めなかった。
「え、ベッド借りていいかって聞いてるだけ」
「それつまり僕は?」
雑魚寝しろと? 僕のベッドなのに? 僕がそう戸惑っていると、ヴァクターはそうじゃなくて、と溜息を吐いた。何様だお前。
「借りるんだから、ユーイオはいつも通りユーイオのベッド使えばいいよ」
「………ごめんなんか今お前のことめちゃくちゃリーエイに見えてる」
「失礼だなぁ。今リーエイさんのことを話したのと少し関係あるんだよ」
「リーエイたちの? なんでよ」
状況がわからない。リールがリーエイのことを好いているのはなんとなく察しているが、それと僕のベットを借りることがどう関係するのだろう。
「父さんの部屋には当然だけどベッドがひとつしかないわけ」
「うん」
「どっちも背高いし、リーエイさんは少し細いと思うけど、父さんはがっちりしてる」
「うん」
「父さんはリーエイさんのこと好きだろうから雑魚寝はさせないと思う」
「それはそうだろうよ」
リールが少し強面なだけで中身は優しいことぐらい、もうわかりきっている。
「じゃああのベッドで二人で寝てるってことにしかなんないじゃん」
「……おう?」
それがどうした。リーエイに嫉妬か? と、僕が半笑いでいると笑うなとでこぴんを食らった。最近知ったのだが、彼のでこぴんは異形の身体をもってしてもとてつもなく痛いのだ。
「それってどんな気持ちなんだろうって」
「は」
「リーエイさんは多分何も考えてないでしょ」
「まぁリーエイだからな」
「でしょ、でも父さんは明らかにリーエイさんのこと意識してるわけ」
──こいつ何言ってんだろ。最下層時代のマナーのままでこの話聞いてたら途中で半目で鼻ほじってたかもしれない。勿論馬鹿にしている意味も含まれている行為だ。それを知っているし、十八歳も間近なのでやらないが。
「リールの気持ちを体験してみたいのか?」
「父さんがどんな気持ちか気になってるとひとりで寝るのがなんだか勿体なく感じてさ」
うーん、親子。実際にリールは添い寝はしなくても、誰かが寝ている空間で寝ることが好きな気はする。何回目かの僕が訊いたら確か好きだって言っていたはずだ。落ち着くし、一人で寝る虚しさを感じなくて済む、みたいなことを理由として言っていた気がする。よくわからないと思っていたが、人が簡単に死ぬ生き物であること、その生き物が更に簡単に死んでいく様を見てきたことを考慮すれば、そう思うのかもしれないと結論づけることにしたのだった。
「好きにしたら? 僕はともかくお前ちっさいし」
「僕一応君より歳上になるんだけど」
「へーへー」
ユーイオが壁側、ヴァクターがその目の前に寝転がる。ヴァクターは子供の身体なのに、二人で寝転がってみると案外このベッドも小さく感じる。
「で、どう?」
「んー……」
しばらく黙ったあと、ヴァクターは言った。
「父さんと寝た時よりは安心感がない」
「うっせ」
当たり前だ。僕はお前の父親じゃないのだから。逆にリールと同じくらい安心感がある、なんて言われても困惑モノだ。
「でも不安は感じないよ」
「ふぅん」
「ユーイオは?」
「は?」
どうしてそんなことを知る必要があるのか。僕が目を丸くしていると、何にも思わない? と微笑まれた。
「何にも思わないわけじゃない」
「へぇ?」
「ベッドから落ちられたら困るな、とは……」
「おい」
僕が神妙な顔つきで言うと、ヴァクターに小突かれた。だが、その後いきなりヴァクターが胸元に頭を押し付けるようにしてきたので驚いた。
「何? 何?」
「…………異形だけど人ってこういうことか」
「いやだからいきなり何?」
僕が困惑していると、ヴァクターはへへ、と笑った。
「心臓がきちんと動いてるんだ、ユーイオは」
わかるよ、と言われた。先天性だろうと後天性だろうと、異形であれば心臓など存在しないのが普通だ。異形は先人の願い、もしくは人の成れの果てだからだ。概念か、怪物──そんなものに心臓なんて必要なかったのだ。しかし、ゲレクシス──不要の子はどこまでも例外だったのだ。人であり異形のゲレクシスの者は血を流し、動く心臓がその身にきちんと残されている。異形にもそれらしい器官はあれど、すべて偽物だ。
「……うらやましい」
「そう?」
「当たり前だ、僕たちは人間だったんだから」
ヴァクターは僕の心音をずっと聴いている。そして、一言呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
「この音、安心する」
僕ははっとした。普段から気丈に振る舞い、異能を使いこなすヴァクターは見た目通り子供の頃にこの街に来て、それから異形として生きてきたのだ。人として生きた年数よりも遥かに長く異形として生きてきている。心音を失ってもう何年経つのか。ふとした時に感じる鼓動さえ自分からは感じられない、そんな体になってでも父親の近くに居続けると決意した彼は、今までどんな思いを心の底に沈めてきたのだろう。
「懐かしい?」
「………そう、だな、そう言う方が今は正しいか」
「ヴァクター」
「……ん」
「血の繋がりは無いし、生まれた時も場所も違うけど」
「うん……」
「僕は三人のこと家族だって思ってるよ」
「…………あたりまえだ、そんなの」
ヴァクターの声がゆるく、柔らかくなっていく。
「父さんが……家族だって言うから、初めは仕方なくそう思ってたよ、でも……今は、うん……ユーイオは僕にとって………」
「…………? ふふ、寝たな」
小さく、家族と言ったのが聞こえた。何年も聞いてこなかった心音に安心して、眠ってしまったらしい。胸に耳を当てて幼い寝顔で眠る彼をどかすのも面倒だし、野暮だろう。行き場の無い腕を仕方なく彼の小さな背中に回して眠ることにした。
「おやすみ、いい夢を」
──夢を見た。イギリスのあの家で、誰かとひとしきり喋って、僕が先に眠くなって、その誰かに背中を優しくさすられる夢。母さんのような優しさと雰囲気はあったけれど、断言出来る。あれは母さんじゃない。意識はゆっくりと現実に引っ張られ始める。母さんだったらな、なんて思いながら意識だけが現実に戻された。目は開かない。開けたくない。どうせまた、異形としての朝を迎えるしかないのだから。
「ユーイオー」
「!」
リーエイさんの声が扉をノックする音と一緒に部屋の外から響いた。仕方なく目を開けると、熟睡しているユーイオの寝顔が目の前にあった。起こそうか悩んだ末、起こさないことにした。朝ごはんが冷めるなぁとリーエイさんに罪悪感を覚えつつ、扉の鍵が開かないよう異能で細工をしてやった。
「え? 開かないんだけど」
がちゃがちゃとリーエイさんが扉の鍵を開けようと奮闘する音が聞こえる。そして、父さんを呼ぶ声が聞こえた。
「………あー、どうせヴァクターの仕業だろ」
「なんでヴァクターが?」
「知らねぇよ。それよりユーイオの返事は?」
「ない。多分寝てる」
「……ヴァクター、ユーイオを起こしてくれ」
──嫌だね、と心の中で返事をする。父さんの頼みであっても今回ばかりは譲れない。というのも、僕は期待していた。閉じた瞼が開かれて徐々に見えていく金色の美しさというものを、見てみたいと感じてしまったのだ。
「ヴァクターはここに?」
「それも知らねぇ、ただ手先が器用だからな。こういう小細工も出来るだろうよ」
眠そうな父さんの声が聞こえてくる。そんなに眠いなら、二度寝すればいいのに。だって、時計を見たらまだ七時半じゃないか。僕たちが寝たのは少なくとも三時半以降なのに、睡眠不足も甚だしい。
「……ヴァクター、お前は起きてるだろ」
父さんが言った。ご名答、流石は親子。しかし僕は何も言わない。何か声を出したらユーイオが起きる気がしたからだ。
「………はぁ、仕方ない。行くぞリーエイ」
「え、いいの?」
「ああ、昼食までには降りてくるだろうよ」
そう言って二人は部屋の前から去っていった。さてユーイオはまだ寝ているだろうか。
「ユーイオ」
「………」
ああ、ばっちり爆睡だ。リーエイやリールの声に慣れているから起きないのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。なにか悪戯をしても良いのだが、そんなことをしたらユーイオが怒るのは間違いない。仕方なく、眠る前と同じようにユーイオの胸元に頭を寄せた。僕が寝ていた場所には一切ない体温がそこにはある。異形でもあるからか、その体温は人のそれよりほんの少し低く、ぬるい。でも、今はそれで十分だ。ぬるい体温と、整った拍動を響かせる心臓。それがユーイオが生きている証拠だ。とく、とく、と命を刻む脈と、静かな寝息を感じていると僕まで眠くなってきた。
「んぅぅ……」
「ちょ」
寝返りを打とうとしたユーイオが完全に僕の上に乗っかる形で動いてきた。やばい、潰れる。
「ユーイオ………くるし」
押し退けようとするが、びくともしない。かといって下手に力を入れたら吹き飛ばしかねない。異形の身体は本当に不便だ。動く心臓は無いし、安堵する温もりも無い。あるのは馬鹿力と異能だけ。あまりにも木偶の坊で、人間らしくない。人間ではないので仕方ないのだろうが。
「……………ふふ」
「……ユーイオ」
「………はは、おはよヴァクター」
ヴァクターはユーイオの顔を見上げた。その瞬間、ばちっと目が合う。あ、金色。宵に浸したような髪色が、その金をいっそう綺麗に輝かせている。
「…………取り敢えずどいてくれる?」
「はは、ごめんごめん」
「お前ずっと起きてたな?」
「起きる気分じゃなかったんだよ、それにヴァクターあったかいし」
「は?」
セミロングの髪を櫛で梳かしながらユーイオは言った。あたたかい? 僕が? 有り得ない。僕は異形で、もう人間じゃなくて、だから動く心臓もないのに。
「それお前の熱が伝わったからじゃねぇの」
「ううん、ヴァクターはちゃんとヴァクターであったかいよ。てかその口調何? リールの真似?」
「知らない、口がそう動いた」
僕に熱なんてあるわけがない。きっとユーイオの勘違いだ。そう思うしかない。そう思わない方がおかしい。
「それより朝ごはんが出来てるって」
「うん聞いてたよ」
「なんで返事しなかったんだよ」
「あったかくて気持ちよかったんだよ、そんなに怒らないでよ」
「……ユーイオってリーエイさんに似てるよね」
「どこがよ」
むっとユーイオが顔を歪める。そんなに似てると言われるのが嫌だったのか。
「少し言葉にしづらいけど、なんか言動がさ。リーエイさんが言いそうなことをリーエイさんが言いそうなトーンで言い出すときがある感じ」
「……ふぅん、気の所為だと思っとくよ」
認めたくないらしい。ハーフアップに髪を整えて、いつものユーイオになった。今気付いたが、ユーイオはくせっ毛だ。外に内に好き放題に跳ねた毛先が可愛らしい。
「それ元々?」
「ん? あぁ、髪?」
「そう」
「そうだけど。何?」
今度は何を言い出すんだと言わんばかりにユーイオが僕を睨む。
「いや、からかうつもりはなくてさ。なんか巻いたりしてるのかと思ってたんだよ」
だって、ユーイオの椅子で寝ようが夜明けには勝手に目が覚めてリビングに移動していたから。
「寝癖を寝癖だって気付かれないで済むのだけがこの髪の長所だよ」
「確かに」
時計はまだ八時を指している。まだ二人も食べているかもしれない。
「あ、起きた」
「おはよぉ」
いつもの様に顔を洗って、歯を磨いてテーブルに着く。今日はバタートーストだ。素朴な味わいがかえって体に沁みる気がする。食べ終わって、ユーイオが自室に戻るのに僕も着いて行った。
「………なんだか昔の俺たちを思い出すね」
「そう……だな、懐かしいな」
それなりに良家な家で生まれたやんちゃなリールの後ろを、まだ使い慣れない言葉を必死に操って後ろから着いてきていたリーエイ。幼い頃のふたりは、振り回す側と振り回される側が逆だった。
「──なんで着いてくんの」
「え? 暇だから」
今日は寒いからベッドで本を読もうと決めていた。ヴァクターが着いてくるのは予想外だった。うつ伏せになって、だらしない姿勢でする読書がたまらないというのに、他人がいてしまってはそれも出来やしない。
「………ユーイオ」
「んー?」
「……いや、なんでも」
「何それ」
本に視線を向けたまま言葉を返す。
「いや、何を言うか、言わないかが品性だって父さんに昔叩き込まれたから」
ヴァクターが少し焦ったように言った。
「ふぅん? 品性のないことを言おうとしたってこと?」
「いや、その………」
「言ったらいいさ」
珍しく発言を躊躇うヴァクターにはよ言えと促す。
「……不安じゃないかなって」
「え?」
僕が本からヴァクターへ視線を向けると、苦笑いをうかべる彼がいた。
「街で変なことが次々に起きてるし、ユーイオ自身も危険な目に何回も遭ってるし」
ああ、なんだ。そういうこと。
「不安も何も、この街を消して人間として生きるって我儘の為に生きるのが僕だからね。不安どころか恐怖すらないかな。強いて言うなら三人が死ぬことに対しては唯一恐怖心を持ってる……かも」
「そっか、それならいいんだ」
「……」
何が言いたかったのだろう。わからない。考える必要もあまり感じない。ユーイオはほんの少し困惑を含んだヴァクターの笑顔を数秒見てから、本に視線を戻した。
──やはり根本的に思考が違う。ユーイオに脆弱な生き物として生きてきた時間が無いからか、それとも強制的にやり直す力があるからかはわからないが、死に対しての恐怖心が比較的薄い。自分が死ぬことに対しての恐怖心については何も言わないし、街が崩壊してどうやってあの場所──地球に行くのかもわからないはずなのに、どうしてそんなに不安がらないのかが僕には理解出来なかった。案外、僕が心配性な部分もあるのかもしれないが、それにしても自分が死ぬことに対して怖いと思ったことはないのだろうか。──いや、そんなことを訊くのは流石によした方がいい。それくらいわかる。それが品性だ。
それから、しばらくユーイオが本を読んで、僕が真横で適当にぐうたらする時間が続いた。時々ベーコンピエやおそらく地下にあっただろう古書がベッドの隅に突然現れることもあった。最上層者はこの異変に気付いているのだろうか。何も言わないからそれすらわからない。そもそも、彼が今何をしているのかなんてもっとわからない。わかる手段もない。
「何ぼーっとしてんだ」
「わぁ」
「寒いから紅茶淹れてきた」
飲むだろ? と手渡されたカップにはミルクティーが入っていた。
「リーエイが「たまにはあの頃よく飲んでたミルクティーが飲みたぁぁい」なんてうるさいから、仕方なく淹れてみたんだよ、本当はマスカットティーでも飲もうかと思ってたのに」
不満げに言いながらも、紅茶を一口含んで「美味しい」とユーイオは言った。基本的に食べ物の好き嫌いがないらしい。それを見てから、僕も紅茶を口に含んでみる。
「………おいしい」
びっくりした。こんなに美味しい紅茶を飲んだことがほとんど記憶になかったからだ。ユーイオが茶を淹れる達人だ、みたいなことはリーエイさんや父さんから散々聞いてはいたけれど、まさかこんなに上手いとは思っていなかった。茶葉の香りも、ミルクの甘い香りに負けることなく、それでいてミルクの優しい香りを邪魔することなく香っている。味わいも同じように、絶妙なバランスで成り立つ深い味をしている。
「そんなに驚く?」
「本当に美味しいんだって、僕これまた飲みたいって思ったもん」
「本場の人にそう言って貰えるんなら光栄でーす」
ユーイオは僕に顔を向けることなくそう言って、また紅茶を飲んだ。
こんなにも今は穏やかなのに、もうあと数週間もすれば街が消えてしまうのがヴァクターには信じられなかった。目の前で紅茶を飲む家族が街を消してしまうことも、自分を人間に戻してしまうことも、話を聞いている時だけは冷静に聞いていられるのだが、いざ想像しようとなるとどうも現実離れした内容のせいで想像がつかない。
「………ユーイオ」
「うん?」
「ユーイオを守るよ、僕は」
「え、いきなり何?」
「……気にしなくていいよ、僕なりの覚悟だよ」
「ふうん」
そう、守りきらなくては。これは呪詛と守護を司る異能を持った僕が出来る最高で最後の使命なのだと、そう確信している。小さい頃は守ることは弱い自分を傷つけない為だとばかり思っていた。父さんが戦場で敵をたくさん討ってきたのもその思想に影響しているのかもしれない。でも、本当にそう思っていた。けれども、今は違う。守ることは自分の大切なものをただのひとつも傷つけない為だと、胸を張って言える。だから、だからもし僕がユーイオを守りきれずに目の前で失うようなことがあったら──。
「……」
この世の全てを呪い、何としてでも世界の全てを終わらせるしかない。
「ユーイオ」
「ん、何」
歯磨きを終えたヴァクターが近付いてくる。最近姿を消すことなく、適当にリビングのソファで寝たり、僕のロッキングチェアで寝たりしているのは気付いているが言っていない。
「リーエイさん、父さんの部屋に入ってったんだけど」
「あー、いいんじゃない? リーエイだし」
「あ、ユーイオもそういうのに寛大な方?」
なぁんだ、とヴァクターは落胆か安堵か分からない声を出す。
「で、リーエイたちが何」
「……なんでも。それよりさ、今日はベッド借りていい?」
「…………………もう一度言っていただいてよろしい?」
突然の一言に僕は言葉を呑み込めなかった。
「え、ベッド借りていいかって聞いてるだけ」
「それつまり僕は?」
雑魚寝しろと? 僕のベッドなのに? 僕がそう戸惑っていると、ヴァクターはそうじゃなくて、と溜息を吐いた。何様だお前。
「借りるんだから、ユーイオはいつも通りユーイオのベッド使えばいいよ」
「………ごめんなんか今お前のことめちゃくちゃリーエイに見えてる」
「失礼だなぁ。今リーエイさんのことを話したのと少し関係あるんだよ」
「リーエイたちの? なんでよ」
状況がわからない。リールがリーエイのことを好いているのはなんとなく察しているが、それと僕のベットを借りることがどう関係するのだろう。
「父さんの部屋には当然だけどベッドがひとつしかないわけ」
「うん」
「どっちも背高いし、リーエイさんは少し細いと思うけど、父さんはがっちりしてる」
「うん」
「父さんはリーエイさんのこと好きだろうから雑魚寝はさせないと思う」
「それはそうだろうよ」
リールが少し強面なだけで中身は優しいことぐらい、もうわかりきっている。
「じゃああのベッドで二人で寝てるってことにしかなんないじゃん」
「……おう?」
それがどうした。リーエイに嫉妬か? と、僕が半笑いでいると笑うなとでこぴんを食らった。最近知ったのだが、彼のでこぴんは異形の身体をもってしてもとてつもなく痛いのだ。
「それってどんな気持ちなんだろうって」
「は」
「リーエイさんは多分何も考えてないでしょ」
「まぁリーエイだからな」
「でしょ、でも父さんは明らかにリーエイさんのこと意識してるわけ」
──こいつ何言ってんだろ。最下層時代のマナーのままでこの話聞いてたら途中で半目で鼻ほじってたかもしれない。勿論馬鹿にしている意味も含まれている行為だ。それを知っているし、十八歳も間近なのでやらないが。
「リールの気持ちを体験してみたいのか?」
「父さんがどんな気持ちか気になってるとひとりで寝るのがなんだか勿体なく感じてさ」
うーん、親子。実際にリールは添い寝はしなくても、誰かが寝ている空間で寝ることが好きな気はする。何回目かの僕が訊いたら確か好きだって言っていたはずだ。落ち着くし、一人で寝る虚しさを感じなくて済む、みたいなことを理由として言っていた気がする。よくわからないと思っていたが、人が簡単に死ぬ生き物であること、その生き物が更に簡単に死んでいく様を見てきたことを考慮すれば、そう思うのかもしれないと結論づけることにしたのだった。
「好きにしたら? 僕はともかくお前ちっさいし」
「僕一応君より歳上になるんだけど」
「へーへー」
ユーイオが壁側、ヴァクターがその目の前に寝転がる。ヴァクターは子供の身体なのに、二人で寝転がってみると案外このベッドも小さく感じる。
「で、どう?」
「んー……」
しばらく黙ったあと、ヴァクターは言った。
「父さんと寝た時よりは安心感がない」
「うっせ」
当たり前だ。僕はお前の父親じゃないのだから。逆にリールと同じくらい安心感がある、なんて言われても困惑モノだ。
「でも不安は感じないよ」
「ふぅん」
「ユーイオは?」
「は?」
どうしてそんなことを知る必要があるのか。僕が目を丸くしていると、何にも思わない? と微笑まれた。
「何にも思わないわけじゃない」
「へぇ?」
「ベッドから落ちられたら困るな、とは……」
「おい」
僕が神妙な顔つきで言うと、ヴァクターに小突かれた。だが、その後いきなりヴァクターが胸元に頭を押し付けるようにしてきたので驚いた。
「何? 何?」
「…………異形だけど人ってこういうことか」
「いやだからいきなり何?」
僕が困惑していると、ヴァクターはへへ、と笑った。
「心臓がきちんと動いてるんだ、ユーイオは」
わかるよ、と言われた。先天性だろうと後天性だろうと、異形であれば心臓など存在しないのが普通だ。異形は先人の願い、もしくは人の成れの果てだからだ。概念か、怪物──そんなものに心臓なんて必要なかったのだ。しかし、ゲレクシス──不要の子はどこまでも例外だったのだ。人であり異形のゲレクシスの者は血を流し、動く心臓がその身にきちんと残されている。異形にもそれらしい器官はあれど、すべて偽物だ。
「……うらやましい」
「そう?」
「当たり前だ、僕たちは人間だったんだから」
ヴァクターは僕の心音をずっと聴いている。そして、一言呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
「この音、安心する」
僕ははっとした。普段から気丈に振る舞い、異能を使いこなすヴァクターは見た目通り子供の頃にこの街に来て、それから異形として生きてきたのだ。人として生きた年数よりも遥かに長く異形として生きてきている。心音を失ってもう何年経つのか。ふとした時に感じる鼓動さえ自分からは感じられない、そんな体になってでも父親の近くに居続けると決意した彼は、今までどんな思いを心の底に沈めてきたのだろう。
「懐かしい?」
「………そう、だな、そう言う方が今は正しいか」
「ヴァクター」
「……ん」
「血の繋がりは無いし、生まれた時も場所も違うけど」
「うん……」
「僕は三人のこと家族だって思ってるよ」
「…………あたりまえだ、そんなの」
ヴァクターの声がゆるく、柔らかくなっていく。
「父さんが……家族だって言うから、初めは仕方なくそう思ってたよ、でも……今は、うん……ユーイオは僕にとって………」
「…………? ふふ、寝たな」
小さく、家族と言ったのが聞こえた。何年も聞いてこなかった心音に安心して、眠ってしまったらしい。胸に耳を当てて幼い寝顔で眠る彼をどかすのも面倒だし、野暮だろう。行き場の無い腕を仕方なく彼の小さな背中に回して眠ることにした。
「おやすみ、いい夢を」
──夢を見た。イギリスのあの家で、誰かとひとしきり喋って、僕が先に眠くなって、その誰かに背中を優しくさすられる夢。母さんのような優しさと雰囲気はあったけれど、断言出来る。あれは母さんじゃない。意識はゆっくりと現実に引っ張られ始める。母さんだったらな、なんて思いながら意識だけが現実に戻された。目は開かない。開けたくない。どうせまた、異形としての朝を迎えるしかないのだから。
「ユーイオー」
「!」
リーエイさんの声が扉をノックする音と一緒に部屋の外から響いた。仕方なく目を開けると、熟睡しているユーイオの寝顔が目の前にあった。起こそうか悩んだ末、起こさないことにした。朝ごはんが冷めるなぁとリーエイさんに罪悪感を覚えつつ、扉の鍵が開かないよう異能で細工をしてやった。
「え? 開かないんだけど」
がちゃがちゃとリーエイさんが扉の鍵を開けようと奮闘する音が聞こえる。そして、父さんを呼ぶ声が聞こえた。
「………あー、どうせヴァクターの仕業だろ」
「なんでヴァクターが?」
「知らねぇよ。それよりユーイオの返事は?」
「ない。多分寝てる」
「……ヴァクター、ユーイオを起こしてくれ」
──嫌だね、と心の中で返事をする。父さんの頼みであっても今回ばかりは譲れない。というのも、僕は期待していた。閉じた瞼が開かれて徐々に見えていく金色の美しさというものを、見てみたいと感じてしまったのだ。
「ヴァクターはここに?」
「それも知らねぇ、ただ手先が器用だからな。こういう小細工も出来るだろうよ」
眠そうな父さんの声が聞こえてくる。そんなに眠いなら、二度寝すればいいのに。だって、時計を見たらまだ七時半じゃないか。僕たちが寝たのは少なくとも三時半以降なのに、睡眠不足も甚だしい。
「……ヴァクター、お前は起きてるだろ」
父さんが言った。ご名答、流石は親子。しかし僕は何も言わない。何か声を出したらユーイオが起きる気がしたからだ。
「………はぁ、仕方ない。行くぞリーエイ」
「え、いいの?」
「ああ、昼食までには降りてくるだろうよ」
そう言って二人は部屋の前から去っていった。さてユーイオはまだ寝ているだろうか。
「ユーイオ」
「………」
ああ、ばっちり爆睡だ。リーエイやリールの声に慣れているから起きないのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。なにか悪戯をしても良いのだが、そんなことをしたらユーイオが怒るのは間違いない。仕方なく、眠る前と同じようにユーイオの胸元に頭を寄せた。僕が寝ていた場所には一切ない体温がそこにはある。異形でもあるからか、その体温は人のそれよりほんの少し低く、ぬるい。でも、今はそれで十分だ。ぬるい体温と、整った拍動を響かせる心臓。それがユーイオが生きている証拠だ。とく、とく、と命を刻む脈と、静かな寝息を感じていると僕まで眠くなってきた。
「んぅぅ……」
「ちょ」
寝返りを打とうとしたユーイオが完全に僕の上に乗っかる形で動いてきた。やばい、潰れる。
「ユーイオ………くるし」
押し退けようとするが、びくともしない。かといって下手に力を入れたら吹き飛ばしかねない。異形の身体は本当に不便だ。動く心臓は無いし、安堵する温もりも無い。あるのは馬鹿力と異能だけ。あまりにも木偶の坊で、人間らしくない。人間ではないので仕方ないのだろうが。
「……………ふふ」
「……ユーイオ」
「………はは、おはよヴァクター」
ヴァクターはユーイオの顔を見上げた。その瞬間、ばちっと目が合う。あ、金色。宵に浸したような髪色が、その金をいっそう綺麗に輝かせている。
「…………取り敢えずどいてくれる?」
「はは、ごめんごめん」
「お前ずっと起きてたな?」
「起きる気分じゃなかったんだよ、それにヴァクターあったかいし」
「は?」
セミロングの髪を櫛で梳かしながらユーイオは言った。あたたかい? 僕が? 有り得ない。僕は異形で、もう人間じゃなくて、だから動く心臓もないのに。
「それお前の熱が伝わったからじゃねぇの」
「ううん、ヴァクターはちゃんとヴァクターであったかいよ。てかその口調何? リールの真似?」
「知らない、口がそう動いた」
僕に熱なんてあるわけがない。きっとユーイオの勘違いだ。そう思うしかない。そう思わない方がおかしい。
「それより朝ごはんが出来てるって」
「うん聞いてたよ」
「なんで返事しなかったんだよ」
「あったかくて気持ちよかったんだよ、そんなに怒らないでよ」
「……ユーイオってリーエイさんに似てるよね」
「どこがよ」
むっとユーイオが顔を歪める。そんなに似てると言われるのが嫌だったのか。
「少し言葉にしづらいけど、なんか言動がさ。リーエイさんが言いそうなことをリーエイさんが言いそうなトーンで言い出すときがある感じ」
「……ふぅん、気の所為だと思っとくよ」
認めたくないらしい。ハーフアップに髪を整えて、いつものユーイオになった。今気付いたが、ユーイオはくせっ毛だ。外に内に好き放題に跳ねた毛先が可愛らしい。
「それ元々?」
「ん? あぁ、髪?」
「そう」
「そうだけど。何?」
今度は何を言い出すんだと言わんばかりにユーイオが僕を睨む。
「いや、からかうつもりはなくてさ。なんか巻いたりしてるのかと思ってたんだよ」
だって、ユーイオの椅子で寝ようが夜明けには勝手に目が覚めてリビングに移動していたから。
「寝癖を寝癖だって気付かれないで済むのだけがこの髪の長所だよ」
「確かに」
時計はまだ八時を指している。まだ二人も食べているかもしれない。
「あ、起きた」
「おはよぉ」
いつもの様に顔を洗って、歯を磨いてテーブルに着く。今日はバタートーストだ。素朴な味わいがかえって体に沁みる気がする。食べ終わって、ユーイオが自室に戻るのに僕も着いて行った。
「………なんだか昔の俺たちを思い出すね」
「そう……だな、懐かしいな」
それなりに良家な家で生まれたやんちゃなリールの後ろを、まだ使い慣れない言葉を必死に操って後ろから着いてきていたリーエイ。幼い頃のふたりは、振り回す側と振り回される側が逆だった。
「──なんで着いてくんの」
「え? 暇だから」
今日は寒いからベッドで本を読もうと決めていた。ヴァクターが着いてくるのは予想外だった。うつ伏せになって、だらしない姿勢でする読書がたまらないというのに、他人がいてしまってはそれも出来やしない。
「………ユーイオ」
「んー?」
「……いや、なんでも」
「何それ」
本に視線を向けたまま言葉を返す。
「いや、何を言うか、言わないかが品性だって父さんに昔叩き込まれたから」
ヴァクターが少し焦ったように言った。
「ふぅん? 品性のないことを言おうとしたってこと?」
「いや、その………」
「言ったらいいさ」
珍しく発言を躊躇うヴァクターにはよ言えと促す。
「……不安じゃないかなって」
「え?」
僕が本からヴァクターへ視線を向けると、苦笑いをうかべる彼がいた。
「街で変なことが次々に起きてるし、ユーイオ自身も危険な目に何回も遭ってるし」
ああ、なんだ。そういうこと。
「不安も何も、この街を消して人間として生きるって我儘の為に生きるのが僕だからね。不安どころか恐怖すらないかな。強いて言うなら三人が死ぬことに対しては唯一恐怖心を持ってる……かも」
「そっか、それならいいんだ」
「……」
何が言いたかったのだろう。わからない。考える必要もあまり感じない。ユーイオはほんの少し困惑を含んだヴァクターの笑顔を数秒見てから、本に視線を戻した。
──やはり根本的に思考が違う。ユーイオに脆弱な生き物として生きてきた時間が無いからか、それとも強制的にやり直す力があるからかはわからないが、死に対しての恐怖心が比較的薄い。自分が死ぬことに対しての恐怖心については何も言わないし、街が崩壊してどうやってあの場所──地球に行くのかもわからないはずなのに、どうしてそんなに不安がらないのかが僕には理解出来なかった。案外、僕が心配性な部分もあるのかもしれないが、それにしても自分が死ぬことに対して怖いと思ったことはないのだろうか。──いや、そんなことを訊くのは流石によした方がいい。それくらいわかる。それが品性だ。
それから、しばらくユーイオが本を読んで、僕が真横で適当にぐうたらする時間が続いた。時々ベーコンピエやおそらく地下にあっただろう古書がベッドの隅に突然現れることもあった。最上層者はこの異変に気付いているのだろうか。何も言わないからそれすらわからない。そもそも、彼が今何をしているのかなんてもっとわからない。わかる手段もない。
「何ぼーっとしてんだ」
「わぁ」
「寒いから紅茶淹れてきた」
飲むだろ? と手渡されたカップにはミルクティーが入っていた。
「リーエイが「たまにはあの頃よく飲んでたミルクティーが飲みたぁぁい」なんてうるさいから、仕方なく淹れてみたんだよ、本当はマスカットティーでも飲もうかと思ってたのに」
不満げに言いながらも、紅茶を一口含んで「美味しい」とユーイオは言った。基本的に食べ物の好き嫌いがないらしい。それを見てから、僕も紅茶を口に含んでみる。
「………おいしい」
びっくりした。こんなに美味しい紅茶を飲んだことがほとんど記憶になかったからだ。ユーイオが茶を淹れる達人だ、みたいなことはリーエイさんや父さんから散々聞いてはいたけれど、まさかこんなに上手いとは思っていなかった。茶葉の香りも、ミルクの甘い香りに負けることなく、それでいてミルクの優しい香りを邪魔することなく香っている。味わいも同じように、絶妙なバランスで成り立つ深い味をしている。
「そんなに驚く?」
「本当に美味しいんだって、僕これまた飲みたいって思ったもん」
「本場の人にそう言って貰えるんなら光栄でーす」
ユーイオは僕に顔を向けることなくそう言って、また紅茶を飲んだ。
こんなにも今は穏やかなのに、もうあと数週間もすれば街が消えてしまうのがヴァクターには信じられなかった。目の前で紅茶を飲む家族が街を消してしまうことも、自分を人間に戻してしまうことも、話を聞いている時だけは冷静に聞いていられるのだが、いざ想像しようとなるとどうも現実離れした内容のせいで想像がつかない。
「………ユーイオ」
「うん?」
「ユーイオを守るよ、僕は」
「え、いきなり何?」
「……気にしなくていいよ、僕なりの覚悟だよ」
「ふうん」
そう、守りきらなくては。これは呪詛と守護を司る異能を持った僕が出来る最高で最後の使命なのだと、そう確信している。小さい頃は守ることは弱い自分を傷つけない為だとばかり思っていた。父さんが戦場で敵をたくさん討ってきたのもその思想に影響しているのかもしれない。でも、本当にそう思っていた。けれども、今は違う。守ることは自分の大切なものをただのひとつも傷つけない為だと、胸を張って言える。だから、だからもし僕がユーイオを守りきれずに目の前で失うようなことがあったら──。
「……」
この世の全てを呪い、何としてでも世界の全てを終わらせるしかない。
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