フォギーシティ

淺木 朝咲

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最終章 輪廻と霧の街

透明

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 ユーイオの意志が、自我が強くなる度にわたしが起きていられる時間は減っていった。ユーイオがユーイオとして生きて、行動して、死んで、またユーイオとしてそれを繰り返す。しばらく寝ると言った手前勝手に起きるのはユーイオの癇に障ることだろうが、それでもユーイオがわたしのことを忘れているような気がして、わたしは、わたしは。
 思えば最後にまともに青空を眺めたのはいつだっただろうか。この街はどこも霧が青空を遮って、気分も上がらない。住人の心の影をそのまま写したような、そんな曇天の下で生きる彼らがわたしは好きではなかった。いつ終わるかもわからない平穏な日々と青空の下で、病弱な弟と、母と貧しいながらも過ごした日々の方がずっと楽しかった。それはきっと、今のわたしが強い孤独感を持っているからかもしれないが、だとしても不安定な国の中で生きたあの日々の方が楽しかったのは事実だ。
 たぶん、わたしは歳を取りすぎたのかもしれない。厳密に言えば死んでいるから取ってはいない。けれども、そこから自我を持ってこの世に存在し続けた時期はかなり長い。その分、弟が人をやめてどんどん他者を無駄に傷つけて、挙句の果てには自分まで傷つけてきたことも、止める術も持てないまま見続けてきた。もうやめて。その一言さえあの子には届かなくなってしまった。わたしはただ、昔のようにわたしを見て一言「姉さん」と呼んでくれれば、それだけで満足出来るのに。あの子にとってわたしは世界の全てだった。それが突然消えたのだ。悪いのはわたし。全てを狂わせたのは、このわたしだ。世界中の全員に謝っても謝りきれない。たかが階段を踏み外して頭から落ちただけでこんなことになるなんて、誰にも想像出来ないでしょう。「あ、死ぬかも」って思っただけの出来事が、こんな大事になるだなんて誰が想像出来たの。当の本人のわたし達でさえそんなことは出来なかったのに。わたしが階段から落ちさえしなければ、こうはならなかったのだろうか。──いいや、結局こうなっていたと思う。というのも、死んですぐの記憶は曖昧だけれども、暫くして家の近くに爆弾が落とされてお母さんが円を庇って死んで、結核を患った孤児になってしまった円が絶望していたのをわたしは見ていたから。戦争そのものは、当時のわたし達が止められるものではなかった。きっと当時は国民全員がそうだった。あの国にとっての人間は、ただの捨て駒だったのだから。でも、この街で起きていることは違う。たった一人の家族が執念で起こしたことを止めたいのに、止められない。無駄に人が死にゆく様を見ることしか出来ない日々は本当に無駄に長く感じられた。
 「あなたには記憶を保ったまま新しい人生を始める資格がある」とある日突然告げられた。見たこともない黒衣のヒト。同じ人間の見た目なのに、わたしに話しかけて、人間に認識されていない時点で人間らしい何かだと判断するのは容易だった。その人はどうやらあの世で、次の人生を待つ生命を管理する仕事を請け負っているらしかった。わたしは行方不明の魂としてずっと探されていたらしく、わたしを見つけたその人は開口一番「こんな所にいたんですか」と、わたしに言った。わたしはあの世が実在することも、そこへの行き方も何もかも知らない状態だったから「何が「こんな所」だ」と顔を顰めつつその時は頷いていたと思う。「ああよかった」と黒衣のヒトは言って、腕を一振りしてみせた。すると、景色は霧まみれの街からよくわからない──少し煌びやかな風景があったと思う。けれどそれも束の間、黒衣のヒトは「あなたを見つけるのが遅かったから、何故かわからないけれど生命がもう生まれてしまってます」と、少し困惑したような顔で言って、わたしを美しい世界から元の霧の街へ突き落とした。
 次にわたしがわたしとして意識を覚醒させた時には、わけのわからないことになっていた。辺りは真っ暗で、わたし以外の誰もいない。目の前にやけに大きな窓のようなものがあって、そこから街の景色が見えた。その街はわたしが知っている街なのに、とても殺伐とした雰囲気が漂っていた。いきなり窓の外の景色が揺れて、地面だけになった。ドカッ、とたれるような音がする度に景色が揺れる。暫くそれが続いて、終わった頃に「うう……」と知らない子の声が聞こえた。
「誰かいるの?」
 わたしは問いかけてみた。返事はなかった。それでも、この声はとても近くにいてくれているような気がして、わたしはいつかこの子と話してみたいと思った。
 わたしがその声の主が黒衣の言っていた「次の生命」だと気付くのにそう時間はかからなかった。景色が揺れる理由は誰かに殴られているからだと知った。その子はほとんど毎日殴られ、ボロボロになりながら生きているのだと知った。それでも、誰にも弱音を零さないでいるのも知った。強い子だと思った。けれど、この頃のわたしは脳天気なもので「どうしてこの子の親はこの子を心配してあげないのだろう」と思うだけでわたし達が置かれている状況がどんなものか、本当にわかっていなかった。
 今、改めて黒衣の言葉を思い出す。「記憶を持ったまま新しい人生を始める資格がある」。これはきっと、わたしを早く見つけて一から人生を歩めた場合のことだったのだろう。だって、今のわたしはユーイオだけど、ユーイオじゃない。ユーイオにはユーイオ・チアンとしての個性や自我がはっきりとある。それは絶対にわたしが手に入れられるものじゃないし、奪えるものでもない。要するにわたしは古い魂で、この子の残りカスのようなもの。要らない部分だけを集めた、残飯のようなもの。ユーイオは境遇が境遇だからか、わたしに気付いてからも特にわたしを排除しようといった素振りは見せなかったし、むしろ共生の道を取ってくれたとは思う。血の繋がりが無いにしろ両親もいるし、街を、壊れた弟を救える力もある。わたしが出来なかったこと、ずっと持てなかったものをこの子は大事に持っている。──ああ、そうね。
「わたしはずっと羨ましかったんだろうね」
 あたたかい家で愛されることが。家族を守り家族に守られることが。何より、弟を救える可能性を自分ではないユーイオが持っていることが。
 ユーイオ。優しい子。強い子。愛される子。覚悟のある子。そして、少しだけかわいそうな子。優しすぎて、強すぎて、すべてを背負う不憫な子。わたしはそんなあなたが、とても、本当に。
「大好きで、大嫌い」



「……………美代子?」
 目が覚めると昼を過ぎていた。特に夢を見た記憶は無いが、何故かまともに見た記憶のない美代子の顔が浮かんだ。笑っているのに、少し冷たくて切なそうな顔だった。
 リビングに降りるとリーエイはおらず、隣の時計屋でいつも通り黙々と手を動かしているのだと悟った。リールも図書館に仕事に行ったのだろう、誰もいないリビングは薄暗く、久しぶりに少しだけ寂しくなった。テーブルの上には「魘されてたけど大丈夫? ご飯置いとくね」とリーエイの字で書かれたメモとブルーベリーを添えたパンケーキが置かれていた。リーエイの作り置きはいつもそうだが、ラップを外すと盛り付けられた食べ物の時間が再び進み始めるようになっている。僕がいつ起きて、どのタイミングで食べるかわからないからだろう。だから、このパンケーキもいつ作られたかわからないが温かいままだし、ブルーベリーはさっき冷蔵庫から出したばかりだと言わんばかりに冷えていた。
 二人が戻ってくる夕方までは読書をする。どの道もう残り少ない平和な日々なのだ。少しくらい自由にさせて欲しかった。時々思うことがある。「どうして僕なのだろう」と。別に僕じゃなくても、この力があれば誰でもこの街をなんとかすることは可能だったはずだ。僕である理由は? ゲレクシスだから? 不要な子が命を巡らせる力を持って生まれる理由は? ──そんな僕の問いに答えてくれる書物なんて、この世にはただの一冊一ページ一行も無い。嘘でもいいから安心させて欲しい。「あなたは選ばれた勇者です。さあ、魔王を倒しましょう」なんていきなり強い武器を渡されて言われても困るに決まっているだろう。どうしてこの世はそれがわからない。
 悶々とそんなことを考えながら本を読み終える。内容はほとんど頭に入ってこなかった。時計を見ればそろそろ二人が帰ってくる頃だった。もう今日は何もしたくない。明日も、もういい。少しくらい時間を無駄にしたって大丈夫。誰も怒らない。頭にそう言い聞かせてリビングに向かう。ソファに寝そべって、ドアが開くのを待つ。
 だがユーイオは知らなかった。今日は誰も帰ってこないこと、いや、帰って来れないことに。
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