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三章 記憶と人間の街
正しさ
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二十年生きただけでは、この世の何が正しくて、何が悪いのかを理解することなんて出来なかった。
リーエイ・チアンは悪いことは好まなかった。殺人や窃盗、貧困も良くないことだと理解していた。ルーツに中国を持つ彼だが、ひとりのイギリス人としてどこか「英国紳士たるものこれぐらいは出来なければ」のような謎の固定観念らしいものを持っていた。そのため彼の学校での成績は常にトップクラスで、出来ないことといえばむやみに人を殴ること、人のものを勝手に使うことぐらいだった。そんな彼は容姿もよく非常に人から愛されていた。明るく優しく、そして頭もよく善悪の判別がつく彼を信頼し、頼る人は少なくなかった。
十八歳の時に戦争が始まり二十歳で徴兵された彼は、最初は全くの約立たずだった。人を殺せず上官に怒られる日々を続けてきたある日、彼の中の何かが壊れてしまった。怒鳴られ続けることと毎日いつ死んでもおかしくない上に不衛生な現場に居続けることに精神が限界を迎えてしまったのだ。怒鳴られるのは嫌だし、勝って早くこの場所から引き上げられるなら。そう考えた彼は躊躇うことなく初めて人間の頭を撃ち抜いた。彼が撃った人間は簡単に倒れ、動かなくなった。その瞬間、リーエイの心臓は高鳴っていた。人を殺した恐怖と、興奮から彼は笑っていた。
それ以来、彼は誰よりも人を殺した。躊躇うことなく銃を構え、戦車を動かし、撃って潰して、そうして一年半が経つ頃には彼の目に光はなく、学生時代の優しかった「リーエイ・チアン」という人間はいなかった。人を殺し敵を勝たせるために生きる駒としての「リーエイ・チアン」の顔に優しさはどこにもなかったのだ。そのうち彼は学生時代からの友達のリールにこう言われる。──「もうそこまで殺すことに執着しなくてもいいんじゃないか」と。それほどまでに当時の彼は人を殺していたし、長く戦場に居た。冬は足が凍える塹壕に平気で数時間居たり、戦車がいつ通ってもおかしくない広々とした荒野に隠れて人間が来るのを待っていた。常に精神を張りつめていた彼の目は血走っていることが多かった。
「関係ないよ。僕………俺は早くここから抜け出したいだけだから」
「………」
ぼそぼそと呟いた彼に対して当時のリールは何も言えなかった。「それならむやみに殺さずに俺と軍医でもやらないか」なんて誘えなかった。当時の彼は、リーエイという人間の友人でありながら、どこか彼に恐怖心を抱いていた。
国が戦争に勝った日の翌朝、リーエイは泣いた。膝から崩れ落ちて泣いた。国は勝った。これはあの過酷な場所で自分が願っていたことだ。だが、どこか苦しい。何故だろう。すぐにわかった。誰よりも人を殺してしまった自分に、学生時代の自分が戻っていることに気がついた。残虐だったリーエイ・チアンに心優しいリーエイ・チアンが語りかける。「そこまで必死にならなくても良かったんじゃない?」「君がそこまで手を汚す必要はなかったよね」──それらの言葉はリーエイを苦しめた。やはり人殺しは駄目だった。戦争だから、なんて理由は理由にならない。わかっていたはずだ。だからはじめの頃は誰も殺せないで怒られていたのだ。ひたすら泣いて毎日を過ごし続けた。命を奪った相手の家族に頭を下げようにも、自分は誰を殺して誰の誰が家族なのかも知らない。顔も名前も知らない人をただ「ここを早く出たい」「そのためにも国を勝たせたい」なんて浅はかな理由で殺し続けた自分に謝る方法なんてなかった。いや、彼らの遺族が自分なんぞに謝って欲しくないだろうこともなんとなくわかっていた。リーエイ・チアンは空気や人の感情の機微を読み取ることがずっと苦手だった。本人は無自覚だ。だからこそあの場違いな明るさをした性格を持っていた。それでもこの事だけはすぐにわかったのだった。
──今、我が子が似たような状態になろうとしている。このイカれた街を潰すためとはいえ、前世の双子の弟を殺して自分含めこの街の住人を解放しようと企てている。しかし、この子には悪いことを嫌う感性は今の我が子の年代だった頃の自分ほど強くはない。元々この子は明日自分が無事に生きているかも想像できないようなところで生きてきたのだ。とはいえ、元家族の子を殺すことで救済になるのだろうか。ユーイオ曰く、前世の魂は弟を殺すことでこの世から解放させてあげたいとのことらしいが──もっとも、俺にはそれがあまり理解できない。感性が違うからだろう。ユーイオの前世の魂は日本生まれ日本育ちの少女だ。倫理観も違うだろう。
「リーエイ?」
ユーイオの声がする。おかしい。ユーイオは昼から夕方までリールと異能のコントロールの練習をしているはずだ。
「ねぇってば」
「………」
「リーエイ! 何ぼーっとしてんのさ」
「うわっ帰ってきてたの!?」
ばん、と目の前のローテーブルを叩かれ俺は寝そべっていたソファから飛び起きた。
「帰ってきてたも何ももう六時半だよ!!」
「え? ……………うーわ本当だ、ご飯の準備とか何もしてない」
リーエイは頭を抱えた。しかし、数秒して冷蔵庫の中に何が入っていたのかを思い出した。
「リーエイ?」
「今日のご飯だよね? 大丈夫、すぐに出来ると思うから待っててくれる?」
「……わかった」
ほっとした。空腹時のユーイオはやや怒りっぽいところがある。特に能力のコントロールの練習の後は集中して疲れきっているから尚更だ。
冷蔵庫の冷凍室にやはり鯖の味噌煮の冷凍食品があった。味噌は日本の調味料だというし、栄養もあるらしい。これならきっと文句なしだろう。勿論この冷凍食品も、冷凍されたままこの街に落ちていたものだ。おそらく、世界に必要とされなくなった人が持っていたものだったり、世界の分別のうっかりミスだったりでこの街に流れ着いているのだろう。そうでなければこんなに美味しい味噌のものがここにある訳がない。
「レンジでいいのかぁ、便利だな」
リールはたしかあまり魚が好きじゃなかったはずだ。二切れしかないこの鯖は俺とユーイオの分にしよう。リールは適当に前日に作って冷凍したマカロニグラタンを出せば何も言わないはずだ。
「「「いただきます」」」
鯖の味噌煮とマカロニグラタンが食卓に並ぶ。食べるものは違っても、家族とは食卓を囲んで食事をしたいものだ。
「リーエイ」
食後、皿洗いをしているとこの時間にしては珍しくユーイオが話しかけてきた。リールは書斎にいるようだ。
「どうしたの?」
「……僕、明日久しぶりに最下層に行こうと思うんだけど」
ユーイオは俺から目を逸らして言った。俺が「駄目だ」と言う前提で言ったらしい。実際に「駄目だ」の「駄」は口から出かけていた。しかし、ここで理由も聞かずに拒否してしまうのは親としてどうだろうか。──間違っていないだろうか。
「………ユーイオ、それはどうして?」
「……その」
「うん」
「最上層者を潰す前に最下層のゴミ掃除にでも行こうかと思って」
なんだそんなことか。てっきり親として嫌われたから家出をするのかと思った。いや、家出は何も言わずにするものか。
「そっか。気を付けてね。帰りはいつぐらい? 夜ご飯は何にしようか」
「えっ」
怒るどころか「気を付けて」と心配する俺にユーイオは驚いて目を丸くした。
「怒ると思った?」
ユーイオはこくこくと頷く。
「別にゴミの掃除でしょ? 何も悪くない。間違ってないことだよ。怪我にだけ気を付けて、ユーイオが無事に帰ってきてくれるなら俺は何だっていいよ」
そう、これは清掃活動だ。──殺し? いやいや人聞きの悪い。最下層に蔓延る犯罪の温床を少しでも減らせるならいいことこの上ない。
お風呂から出て、僕は珍しく夜風に当たっていた。勿論家を出たわけではない。家のバルコニーで涼んでいるだけだ。僕がこの街を消すまであと四年半ほどだろうか。この街を消した後、リーエイたち異形がどうなるかは分からない。仮に人間に戻るとしたら先天性の彼らは間違いなく消えてしまうし、百五十歳前後など訳のわからない年月を生きたリーエイたちも死んでしまう。しかし、これが異形として取り残されるとしたらどうだろうか。彼らはきっとその異能を使えるままだろうし、その代償も抱えて生き続けられるだろう。僕としては親がこの街の外でも生きられるのは有難いが、そうなると人間に忌み嫌われて結局世界に馴染めないだろう。その時のことだけが、今の僕にある不安だ。リーエイはきっと「仕方ないよ、人間は分からないことがいちばん怖いんだ」とか言って笑って過ごすんだ。わかってる。リールも「ああ、所詮人間はそんなものだ」とか悟ってリーエイとふたりで居続けるはずだ。それ以外の異形のヒトたちがどう思うか。どんな反応をするのか。
「ユーイオ、そろそろ戻らないと身体を冷やすよ」
「リーエイ……」
「うん?」
僕が名前を言ったその声だけでリーエイは僕がなにか考えていることがあるのを察したらしく、薄いブランケットを持ったまま首を傾げる。
「リーエイはさ……霧の街が消えた後も異形として地球に生かされるのは嫌?」
「………そうだね、どうだろうね。俺は戦争で汚れきった世界を見たのが最後だからね。すぐに嫌とか答えを出すのが難しいんだよね」
うーん、と真剣に考えてリーエイは答えてくれる。
「人間に……その時計頭は怖がられるかもしれない。ううん、絶対に嫌がられる。多分この街の外のヒトたちは最下層の僕らみたいな反応をすると思うんだ」
「……そうだよね、俺だってはじめは今の俺にびっくりしたぐらいだもん。それにねユーイオ。所詮人間は人間だからね、俺含め人間っていうのは自分たちが全知全能だと思い込んでる節があるから。だからどうしても……「わからない」ことが何よりも怖いことになると思うよ」
そうなるとやっぱり少し街の外をこの姿で生きるのは怖いかも、とリーエイはやはり笑った。僕の親は優しすぎる。血と汗と謀略に汚れた世界を知っているから。人が多く死んで土地を奪うだけで簡単に勝ち負けが決まることを経験したから。そして、それらのことが起きて平和が崩れることはとてつもなく簡単で止められないことだと身をもって理解しているから。だからこそ、この親は誰よりも優しい異形になれる。リールだってそうだ。口にあまり出さないだけで、リーエイと同じぐらい優しい。
「人に優しくし続けるには、自分自身に余裕を持たせ続けることが必要だと思ってる」
いつだったか、僕が最下層で生きていた頃の話をした時にリールが言った言葉だ。その通りだと思った。最下層の人間は誰も自分自身を生かすので精一杯で、他の人に気を配る余裕など欠片ほどもなかった。殴り殴られ、風邪は引きっぱなしでも食べ物を探し続けて、下層の人間が捨てたブルーシートやボロきれのような服で寒さを凌ぐしかない日々を何年続けても、その環境が良くなることはついぞなかった。知能もなければ技術もない。最下層の劣悪すぎる環境で生きていくにはひたすら暴力と口論の練習が必要だった。口論を上手くできるようになると、暴力を振るわれる前に相手を丸め込ませて手に入れたものを奪われることも減るからと思ったからだ。
「リーエイ……」
「ん?」
「正しさって、なんだろうね」
「……」
「僕が正しくあろうとすればするほどアイツは敵になって、どんどん対立の溝が深まるばかり。僕が正しくある為には前世の兄弟を消す必要がある……僕は命を繰り返すけど、アイツはそんなこと、きっと出来ない。僕はきっとこの街が消えても異能を持った人間──イレギュラーとして生き続けるだろうし、この異能自体がそもそもイレギュラーだとしたら僕は何回も命を繰り返すことになるからさ。……ねえリーエイ、僕はこの先死んだ後もまた生まれ直して、誰かを正しさの為に消して、罪を上書きしていくんだよ」
ユーイオの声は震えていた。自分が怖い。そう言わんばかりのその声が、その人がどうやってこの街ひとつを消し飛ばすのだろう。勿論ひとりではない。わかっている、だが、肝心のこの子がこうも弱っていれば消せるものも消せない。
「ユーイオ、大丈夫。確かに何も知らない人からしたらユーイオは人を簡単に消せる悪人になりうるかもしれない。けれども、ユーイオは悪くない人を消したことなんて一度もないだろう?」
「っ違う、僕が言いたいのは……その悪い人も他の誰かからしたら悪くないんじゃないかって思うと……僕がやろうとしていることが本当に正しいのかわからなくなってくるってことなんだよ」
この街のカーストが大嫌いだ。その頂点に立つアイツさえ消せばそれは崩壊するはずだ。新しく頂点に立とうとする者がいればこっそり消せばいい。そもそも、アイツを消せば最上層にある「停滞」の呪いが無防備に晒される。僕はそれを消せばいいだけだ。簡単にそう考えていた。だが、それが本当に正しいことなのだろうか。きっと、リーエイたち後天性異形の中には誰かしら「この街に一生居続けたい。向こう側へは戻りたくない」と考えているヒトも居るはずだ。先天性異形は過去の人々の願いそのものだから、街が消えたら居場所が完全に失われる。僕の企みを聞けば自分たちがどうなるかなんとなく予想はつくだろうから間違いなく蜂起する。──ああ、そうだ。
「みんな………みんな自分が生き抜くことで精一杯のこの街じゃあ、ダメなんだ」
リーエイ・チアンは悪いことは好まなかった。殺人や窃盗、貧困も良くないことだと理解していた。ルーツに中国を持つ彼だが、ひとりのイギリス人としてどこか「英国紳士たるものこれぐらいは出来なければ」のような謎の固定観念らしいものを持っていた。そのため彼の学校での成績は常にトップクラスで、出来ないことといえばむやみに人を殴ること、人のものを勝手に使うことぐらいだった。そんな彼は容姿もよく非常に人から愛されていた。明るく優しく、そして頭もよく善悪の判別がつく彼を信頼し、頼る人は少なくなかった。
十八歳の時に戦争が始まり二十歳で徴兵された彼は、最初は全くの約立たずだった。人を殺せず上官に怒られる日々を続けてきたある日、彼の中の何かが壊れてしまった。怒鳴られ続けることと毎日いつ死んでもおかしくない上に不衛生な現場に居続けることに精神が限界を迎えてしまったのだ。怒鳴られるのは嫌だし、勝って早くこの場所から引き上げられるなら。そう考えた彼は躊躇うことなく初めて人間の頭を撃ち抜いた。彼が撃った人間は簡単に倒れ、動かなくなった。その瞬間、リーエイの心臓は高鳴っていた。人を殺した恐怖と、興奮から彼は笑っていた。
それ以来、彼は誰よりも人を殺した。躊躇うことなく銃を構え、戦車を動かし、撃って潰して、そうして一年半が経つ頃には彼の目に光はなく、学生時代の優しかった「リーエイ・チアン」という人間はいなかった。人を殺し敵を勝たせるために生きる駒としての「リーエイ・チアン」の顔に優しさはどこにもなかったのだ。そのうち彼は学生時代からの友達のリールにこう言われる。──「もうそこまで殺すことに執着しなくてもいいんじゃないか」と。それほどまでに当時の彼は人を殺していたし、長く戦場に居た。冬は足が凍える塹壕に平気で数時間居たり、戦車がいつ通ってもおかしくない広々とした荒野に隠れて人間が来るのを待っていた。常に精神を張りつめていた彼の目は血走っていることが多かった。
「関係ないよ。僕………俺は早くここから抜け出したいだけだから」
「………」
ぼそぼそと呟いた彼に対して当時のリールは何も言えなかった。「それならむやみに殺さずに俺と軍医でもやらないか」なんて誘えなかった。当時の彼は、リーエイという人間の友人でありながら、どこか彼に恐怖心を抱いていた。
国が戦争に勝った日の翌朝、リーエイは泣いた。膝から崩れ落ちて泣いた。国は勝った。これはあの過酷な場所で自分が願っていたことだ。だが、どこか苦しい。何故だろう。すぐにわかった。誰よりも人を殺してしまった自分に、学生時代の自分が戻っていることに気がついた。残虐だったリーエイ・チアンに心優しいリーエイ・チアンが語りかける。「そこまで必死にならなくても良かったんじゃない?」「君がそこまで手を汚す必要はなかったよね」──それらの言葉はリーエイを苦しめた。やはり人殺しは駄目だった。戦争だから、なんて理由は理由にならない。わかっていたはずだ。だからはじめの頃は誰も殺せないで怒られていたのだ。ひたすら泣いて毎日を過ごし続けた。命を奪った相手の家族に頭を下げようにも、自分は誰を殺して誰の誰が家族なのかも知らない。顔も名前も知らない人をただ「ここを早く出たい」「そのためにも国を勝たせたい」なんて浅はかな理由で殺し続けた自分に謝る方法なんてなかった。いや、彼らの遺族が自分なんぞに謝って欲しくないだろうこともなんとなくわかっていた。リーエイ・チアンは空気や人の感情の機微を読み取ることがずっと苦手だった。本人は無自覚だ。だからこそあの場違いな明るさをした性格を持っていた。それでもこの事だけはすぐにわかったのだった。
──今、我が子が似たような状態になろうとしている。このイカれた街を潰すためとはいえ、前世の双子の弟を殺して自分含めこの街の住人を解放しようと企てている。しかし、この子には悪いことを嫌う感性は今の我が子の年代だった頃の自分ほど強くはない。元々この子は明日自分が無事に生きているかも想像できないようなところで生きてきたのだ。とはいえ、元家族の子を殺すことで救済になるのだろうか。ユーイオ曰く、前世の魂は弟を殺すことでこの世から解放させてあげたいとのことらしいが──もっとも、俺にはそれがあまり理解できない。感性が違うからだろう。ユーイオの前世の魂は日本生まれ日本育ちの少女だ。倫理観も違うだろう。
「リーエイ?」
ユーイオの声がする。おかしい。ユーイオは昼から夕方までリールと異能のコントロールの練習をしているはずだ。
「ねぇってば」
「………」
「リーエイ! 何ぼーっとしてんのさ」
「うわっ帰ってきてたの!?」
ばん、と目の前のローテーブルを叩かれ俺は寝そべっていたソファから飛び起きた。
「帰ってきてたも何ももう六時半だよ!!」
「え? ……………うーわ本当だ、ご飯の準備とか何もしてない」
リーエイは頭を抱えた。しかし、数秒して冷蔵庫の中に何が入っていたのかを思い出した。
「リーエイ?」
「今日のご飯だよね? 大丈夫、すぐに出来ると思うから待っててくれる?」
「……わかった」
ほっとした。空腹時のユーイオはやや怒りっぽいところがある。特に能力のコントロールの練習の後は集中して疲れきっているから尚更だ。
冷蔵庫の冷凍室にやはり鯖の味噌煮の冷凍食品があった。味噌は日本の調味料だというし、栄養もあるらしい。これならきっと文句なしだろう。勿論この冷凍食品も、冷凍されたままこの街に落ちていたものだ。おそらく、世界に必要とされなくなった人が持っていたものだったり、世界の分別のうっかりミスだったりでこの街に流れ着いているのだろう。そうでなければこんなに美味しい味噌のものがここにある訳がない。
「レンジでいいのかぁ、便利だな」
リールはたしかあまり魚が好きじゃなかったはずだ。二切れしかないこの鯖は俺とユーイオの分にしよう。リールは適当に前日に作って冷凍したマカロニグラタンを出せば何も言わないはずだ。
「「「いただきます」」」
鯖の味噌煮とマカロニグラタンが食卓に並ぶ。食べるものは違っても、家族とは食卓を囲んで食事をしたいものだ。
「リーエイ」
食後、皿洗いをしているとこの時間にしては珍しくユーイオが話しかけてきた。リールは書斎にいるようだ。
「どうしたの?」
「……僕、明日久しぶりに最下層に行こうと思うんだけど」
ユーイオは俺から目を逸らして言った。俺が「駄目だ」と言う前提で言ったらしい。実際に「駄目だ」の「駄」は口から出かけていた。しかし、ここで理由も聞かずに拒否してしまうのは親としてどうだろうか。──間違っていないだろうか。
「………ユーイオ、それはどうして?」
「……その」
「うん」
「最上層者を潰す前に最下層のゴミ掃除にでも行こうかと思って」
なんだそんなことか。てっきり親として嫌われたから家出をするのかと思った。いや、家出は何も言わずにするものか。
「そっか。気を付けてね。帰りはいつぐらい? 夜ご飯は何にしようか」
「えっ」
怒るどころか「気を付けて」と心配する俺にユーイオは驚いて目を丸くした。
「怒ると思った?」
ユーイオはこくこくと頷く。
「別にゴミの掃除でしょ? 何も悪くない。間違ってないことだよ。怪我にだけ気を付けて、ユーイオが無事に帰ってきてくれるなら俺は何だっていいよ」
そう、これは清掃活動だ。──殺し? いやいや人聞きの悪い。最下層に蔓延る犯罪の温床を少しでも減らせるならいいことこの上ない。
お風呂から出て、僕は珍しく夜風に当たっていた。勿論家を出たわけではない。家のバルコニーで涼んでいるだけだ。僕がこの街を消すまであと四年半ほどだろうか。この街を消した後、リーエイたち異形がどうなるかは分からない。仮に人間に戻るとしたら先天性の彼らは間違いなく消えてしまうし、百五十歳前後など訳のわからない年月を生きたリーエイたちも死んでしまう。しかし、これが異形として取り残されるとしたらどうだろうか。彼らはきっとその異能を使えるままだろうし、その代償も抱えて生き続けられるだろう。僕としては親がこの街の外でも生きられるのは有難いが、そうなると人間に忌み嫌われて結局世界に馴染めないだろう。その時のことだけが、今の僕にある不安だ。リーエイはきっと「仕方ないよ、人間は分からないことがいちばん怖いんだ」とか言って笑って過ごすんだ。わかってる。リールも「ああ、所詮人間はそんなものだ」とか悟ってリーエイとふたりで居続けるはずだ。それ以外の異形のヒトたちがどう思うか。どんな反応をするのか。
「ユーイオ、そろそろ戻らないと身体を冷やすよ」
「リーエイ……」
「うん?」
僕が名前を言ったその声だけでリーエイは僕がなにか考えていることがあるのを察したらしく、薄いブランケットを持ったまま首を傾げる。
「リーエイはさ……霧の街が消えた後も異形として地球に生かされるのは嫌?」
「………そうだね、どうだろうね。俺は戦争で汚れきった世界を見たのが最後だからね。すぐに嫌とか答えを出すのが難しいんだよね」
うーん、と真剣に考えてリーエイは答えてくれる。
「人間に……その時計頭は怖がられるかもしれない。ううん、絶対に嫌がられる。多分この街の外のヒトたちは最下層の僕らみたいな反応をすると思うんだ」
「……そうだよね、俺だってはじめは今の俺にびっくりしたぐらいだもん。それにねユーイオ。所詮人間は人間だからね、俺含め人間っていうのは自分たちが全知全能だと思い込んでる節があるから。だからどうしても……「わからない」ことが何よりも怖いことになると思うよ」
そうなるとやっぱり少し街の外をこの姿で生きるのは怖いかも、とリーエイはやはり笑った。僕の親は優しすぎる。血と汗と謀略に汚れた世界を知っているから。人が多く死んで土地を奪うだけで簡単に勝ち負けが決まることを経験したから。そして、それらのことが起きて平和が崩れることはとてつもなく簡単で止められないことだと身をもって理解しているから。だからこそ、この親は誰よりも優しい異形になれる。リールだってそうだ。口にあまり出さないだけで、リーエイと同じぐらい優しい。
「人に優しくし続けるには、自分自身に余裕を持たせ続けることが必要だと思ってる」
いつだったか、僕が最下層で生きていた頃の話をした時にリールが言った言葉だ。その通りだと思った。最下層の人間は誰も自分自身を生かすので精一杯で、他の人に気を配る余裕など欠片ほどもなかった。殴り殴られ、風邪は引きっぱなしでも食べ物を探し続けて、下層の人間が捨てたブルーシートやボロきれのような服で寒さを凌ぐしかない日々を何年続けても、その環境が良くなることはついぞなかった。知能もなければ技術もない。最下層の劣悪すぎる環境で生きていくにはひたすら暴力と口論の練習が必要だった。口論を上手くできるようになると、暴力を振るわれる前に相手を丸め込ませて手に入れたものを奪われることも減るからと思ったからだ。
「リーエイ……」
「ん?」
「正しさって、なんだろうね」
「……」
「僕が正しくあろうとすればするほどアイツは敵になって、どんどん対立の溝が深まるばかり。僕が正しくある為には前世の兄弟を消す必要がある……僕は命を繰り返すけど、アイツはそんなこと、きっと出来ない。僕はきっとこの街が消えても異能を持った人間──イレギュラーとして生き続けるだろうし、この異能自体がそもそもイレギュラーだとしたら僕は何回も命を繰り返すことになるからさ。……ねえリーエイ、僕はこの先死んだ後もまた生まれ直して、誰かを正しさの為に消して、罪を上書きしていくんだよ」
ユーイオの声は震えていた。自分が怖い。そう言わんばかりのその声が、その人がどうやってこの街ひとつを消し飛ばすのだろう。勿論ひとりではない。わかっている、だが、肝心のこの子がこうも弱っていれば消せるものも消せない。
「ユーイオ、大丈夫。確かに何も知らない人からしたらユーイオは人を簡単に消せる悪人になりうるかもしれない。けれども、ユーイオは悪くない人を消したことなんて一度もないだろう?」
「っ違う、僕が言いたいのは……その悪い人も他の誰かからしたら悪くないんじゃないかって思うと……僕がやろうとしていることが本当に正しいのかわからなくなってくるってことなんだよ」
この街のカーストが大嫌いだ。その頂点に立つアイツさえ消せばそれは崩壊するはずだ。新しく頂点に立とうとする者がいればこっそり消せばいい。そもそも、アイツを消せば最上層にある「停滞」の呪いが無防備に晒される。僕はそれを消せばいいだけだ。簡単にそう考えていた。だが、それが本当に正しいことなのだろうか。きっと、リーエイたち後天性異形の中には誰かしら「この街に一生居続けたい。向こう側へは戻りたくない」と考えているヒトも居るはずだ。先天性異形は過去の人々の願いそのものだから、街が消えたら居場所が完全に失われる。僕の企みを聞けば自分たちがどうなるかなんとなく予想はつくだろうから間違いなく蜂起する。──ああ、そうだ。
「みんな………みんな自分が生き抜くことで精一杯のこの街じゃあ、ダメなんだ」
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