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一章 光と霧の街
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「……………?」
地面が、固くない。空気も、冷たくない。周りが明るくて、暖かい。明らかに自分が過ごしてきた環境ではないことだけはわかる。まさか、上層部の野郎に奴隷として拉致されたか?
「目が覚めたんだね」
「!」
家主だろうか、頭が丸い時計の文字盤の「異形」が話しかけてきた。彼はしっかりと人間の言葉で話してくる。やはり、奴隷として連れてきたのだろうか。奴隷にあれこれ指示を出して自分の生活を楽にする為に、人語を覚えたのだろうか。
「ああ警戒しないで。俺は中層部のヒトだから、別に君を奴隷にするとかそういうつもりは無いよ」
「嘘ならいくらでも言える」
「嘘じゃないって。ほら、リンゴをすりおろしてみたんだけど、食べれそう?」
「……」
要らない、と言おうとしたらお腹が小さく鳴った。異形に助けてもらうなんて、訳がわからない。仕方なく貰って食べてみたそれはとても甘く美味しかった。リンゴはこんなに甘さがある果物だったのか。
「良かった、食欲はありそうだね」
初めて知った甘さに夢中になっていると、彼が嬉しそうに言った。
「最下層に生ってるリンゴは大抵が野生だから、こんなに甘くないんだ」
「そっか。雑炊かうどん、どっちがいい?」
ぞうすい、とうどん……どっちもあまり知らない食べ物だ。
「どっちでもいい。あと、体調が良くなったら帰らせてもらう」
「じゃあうどんにするよ。別に好きなだけここにいたらいいと思うよ、俺は人嫌いじゃないし」
「……」
時計頭の異形は確かに自分を奴隷にするつもりは無いようだ。リンゴに毒はなかったし、味はとても良かった。それに今気がついたが、服が新品に変わっている。こんなに白い服は見たことがない。生地も厚く、簡単に破れそうにない。部屋も床にゴミが散乱しているわけでもないし、窓ガラスが割れているわけでもない。
「お待たせー少し柔らかめに茹でてみたよ」
ほかほかと湯気が上がる椀の中にはやや太い麺と小さめの肉と油揚げ、ねぎが入っていた。
「こんなものを本当に食べていいのか?」
「いいよ。君のために作ったんだもん。あ、そういえば名前言ってなかったね! 俺はリーエイ。君は?」
「……名前なんて知らない。親も知らないし」
うどんを食べようとした時にそんなことを訊かれてしまったので、つい不機嫌に答えてしまった。しかし、彼──リーエイはそんなことは気にしていないようで、何か考えているようだ。
「君、文字は読める?」
「読めるわけない。学校? も行ったことだってないんだ」
「そっか、服のポケットの中にボロボロの紙が入っててね。そこに『ユーイオ』って書いてあったんだよ」
あの服にポケットなんてあったのか。それに、そんな紙まで。
「きっと君を産んでくれた人が書いたんだろうねぇ」
その一言に機嫌はさらに悪くなる。危害を加えるつもりがなくても、無神経なのは腹が立つ。
「僕の親なんてどうでもいい。産んでくれた、なんて言い方も嫌だ。それで捨てられたなら、その人たちにとって僕は邪魔な存在だったんだろ? そんなこともわかんないのかよ異形はよ」
ほかほかと美味しいうどんを作ったのは彼だとわかっていても、言い方に腹が立って仕方なかった。生まれて十年、物心ついた時から「どうして自分には親すら居ないのだろう。どこに行ったのだろう」と考えてきたことだった。そしてある時、「ああ、待っていたって彼らは来ない。僕は捨てられたんだから」と悟ってしまった。生きる為に一緒に盗みを働いてきた友達が窃盗罪で捕まった時、その子の親が必死に上層の人間に頭を下げているのを偶然見たからだ。自分は上層の人間に突き出されることはなくても、盗みがバレて中層部の店主や下層部の店主にボコボコに殴られることはよくあったし、それで彼らを止める人間も、自分を庇うようなことをしてくれる人間もいなかった。自分には助けてくれる人なんていない、そう確信したまま数年過ごしてきた。だから、親なんていないし知らないしこの先再会する必要もないものだとずっと思っていたのに。「産んでくれた」? 何を言ってるんだこの異形は。お前もそんなことをほざくなら、こんな飯──。
「おっと」
ばしゃ、とうどんの汁がかかる直前にリーエイは立ち上がった。そして、次にユーイオが見たのは自分が薙ぎ払う前の、まだほかほかと湯気を立てるうどんだった。
「は?」
「いやーカッときたからって食べ物を粗末にしちゃダメだよぉ、ユーイオ。あとごめんね、俺まさかそんなにユーイオが親って存在を憎んでると思わなくてさ」
目の前の陽気に話す異形が何かしたことには違いないのだろうが、一体何をしたのかまでは人間にはわからなかった。
「お前……」
「ん?」
「今何をした? 本当はもうとっくに僕を殺し終わっていたりするんじゃないか?」
青黒い髪に隠された目は確実に自分を睨んでいる。見えなくても、殺気だけは伝わった。
「俺に子供を殺す趣味なんてある訳ないじゃん。さっきのは俺の「ユニークスペル」だよ」
「「ユニークスペル」……?」
「うん、俺たち異形は三つのジャンルの「スペル」を使えるんだよ。全ての異形が共通して使える「コモンスペル」と、個々で別々のものを持つ「ユニークスペル」、で日常生活を楽にする「パッシブスペル」!」
言っていることの大半が左耳から右耳へ流れていったが、とりあえず彼は何かしらの魔法のようなものを使ったらしい。
「それで、さっき俺が使ったユニークスペルは【時間詐称】さ」
「た、いむ……らぐ?」
「そ! 使い方次第で色々応用効くからどんなスペル? って訊かれたら答え方に困るんだけど、例えば時間を止めてみたり早送りしたり逆に巻き戻したりできるかな」
「へぇ……で、なんでそんな大事そうなことを僕に話してくれるわけ」
「え? だってあんな最下層に家族も居ない君が居続けたところで天寿をまっとう出来るようにはとても思えないからさ」
リーエイは至極真っ当だと言わんばかりにそう言い放った。たしかに最下層は汚いし臭い。けれども、僕はそこで生まれてそこで育ってきた。
「……だからって、今からこんなところに住めなんて納得できない」
うどんを完食し、水を飲んでから言った。リーエイは怒るでもなく悲しむでもなく、「今日から家族って言おうとしたことまでわかってるなんて偉いね!」と僕を褒めた。
「え、異形と僕が家族?」
そんなこと出来るのか、と言いかけたところでリーエイが親指を上に向けた。
「出来るよ! 君を養子として迎え入れるんだ。外ほど厳しくないから、君の体が良くなったら役所に一緒に行こうか」
びっくりした。彼の口から「外」という言葉が出たことに。僕は今までこの街から広がる「外」について考えたことなんてなかった。自分を取り巻く最下層の汚れた世界が、ずっと僕のすべてでその先に続く道は絶たれていたからだ。
「……リーエイ」
「うん?」
「「外」って、どんな所?」
リーエイはそうだね、と少し考えてから話し始める。
「君はこの街で生まれ育ってきたんだったね? 俺は違うんだよ」
「リーエイは別の場所で生まれたってことか」
「そう! 中国系イギリス人~って言ってもわかんないね、俺今こんな顔だし」
それはそうだ。彼の顔は金縁で黒の時計針が一時三十二分二十秒で止まった時計の文字盤なのだ。それに中国? もイギリス? もよくわからない。話の流れからして「外国」なのだろう。
「俺イケメンだったのになーって今でもたまに思うね」
ほら、とリーエイに渡されたのは白黒の写真だった。そこには目鼻立ちがくっきりしていて優しい表情を浮かべる男性が写っていた。
「……誰これ」
「俺だよ? 女顔ってよくからかわれたよ」
女顔──たしかに、言われてみれば女の子らしいというか、柔らかい雰囲気を漂わせてはいる。写真の裏を見ると、文字がかすれているのが見えた。
「リーエイ・チアンって書いてるよ」
「? リーエイって名前ふたつあるのか?」
「苗字だよ。チアンって家に生まれたから」
よくわからないが、リーエイにも家族がいたということだろう。
「さ、そろそろ返して」
じっくり見ていると、ぱっと写真を取られてしまった。
「それにしても白黒なんてかなり古そうなのに、その写真は結構綺麗なままだったな」
「ああ、これも俺のスペルだよ」
「言ったでしょ、応用が効くって」と言いながらリーエイは空になった椀を流しへ運ぶ。無神経で何も苦労していなさそうな彼だったが、その広い背中はどこか苦しそうでもあった。
地面が、固くない。空気も、冷たくない。周りが明るくて、暖かい。明らかに自分が過ごしてきた環境ではないことだけはわかる。まさか、上層部の野郎に奴隷として拉致されたか?
「目が覚めたんだね」
「!」
家主だろうか、頭が丸い時計の文字盤の「異形」が話しかけてきた。彼はしっかりと人間の言葉で話してくる。やはり、奴隷として連れてきたのだろうか。奴隷にあれこれ指示を出して自分の生活を楽にする為に、人語を覚えたのだろうか。
「ああ警戒しないで。俺は中層部のヒトだから、別に君を奴隷にするとかそういうつもりは無いよ」
「嘘ならいくらでも言える」
「嘘じゃないって。ほら、リンゴをすりおろしてみたんだけど、食べれそう?」
「……」
要らない、と言おうとしたらお腹が小さく鳴った。異形に助けてもらうなんて、訳がわからない。仕方なく貰って食べてみたそれはとても甘く美味しかった。リンゴはこんなに甘さがある果物だったのか。
「良かった、食欲はありそうだね」
初めて知った甘さに夢中になっていると、彼が嬉しそうに言った。
「最下層に生ってるリンゴは大抵が野生だから、こんなに甘くないんだ」
「そっか。雑炊かうどん、どっちがいい?」
ぞうすい、とうどん……どっちもあまり知らない食べ物だ。
「どっちでもいい。あと、体調が良くなったら帰らせてもらう」
「じゃあうどんにするよ。別に好きなだけここにいたらいいと思うよ、俺は人嫌いじゃないし」
「……」
時計頭の異形は確かに自分を奴隷にするつもりは無いようだ。リンゴに毒はなかったし、味はとても良かった。それに今気がついたが、服が新品に変わっている。こんなに白い服は見たことがない。生地も厚く、簡単に破れそうにない。部屋も床にゴミが散乱しているわけでもないし、窓ガラスが割れているわけでもない。
「お待たせー少し柔らかめに茹でてみたよ」
ほかほかと湯気が上がる椀の中にはやや太い麺と小さめの肉と油揚げ、ねぎが入っていた。
「こんなものを本当に食べていいのか?」
「いいよ。君のために作ったんだもん。あ、そういえば名前言ってなかったね! 俺はリーエイ。君は?」
「……名前なんて知らない。親も知らないし」
うどんを食べようとした時にそんなことを訊かれてしまったので、つい不機嫌に答えてしまった。しかし、彼──リーエイはそんなことは気にしていないようで、何か考えているようだ。
「君、文字は読める?」
「読めるわけない。学校? も行ったことだってないんだ」
「そっか、服のポケットの中にボロボロの紙が入っててね。そこに『ユーイオ』って書いてあったんだよ」
あの服にポケットなんてあったのか。それに、そんな紙まで。
「きっと君を産んでくれた人が書いたんだろうねぇ」
その一言に機嫌はさらに悪くなる。危害を加えるつもりがなくても、無神経なのは腹が立つ。
「僕の親なんてどうでもいい。産んでくれた、なんて言い方も嫌だ。それで捨てられたなら、その人たちにとって僕は邪魔な存在だったんだろ? そんなこともわかんないのかよ異形はよ」
ほかほかと美味しいうどんを作ったのは彼だとわかっていても、言い方に腹が立って仕方なかった。生まれて十年、物心ついた時から「どうして自分には親すら居ないのだろう。どこに行ったのだろう」と考えてきたことだった。そしてある時、「ああ、待っていたって彼らは来ない。僕は捨てられたんだから」と悟ってしまった。生きる為に一緒に盗みを働いてきた友達が窃盗罪で捕まった時、その子の親が必死に上層の人間に頭を下げているのを偶然見たからだ。自分は上層の人間に突き出されることはなくても、盗みがバレて中層部の店主や下層部の店主にボコボコに殴られることはよくあったし、それで彼らを止める人間も、自分を庇うようなことをしてくれる人間もいなかった。自分には助けてくれる人なんていない、そう確信したまま数年過ごしてきた。だから、親なんていないし知らないしこの先再会する必要もないものだとずっと思っていたのに。「産んでくれた」? 何を言ってるんだこの異形は。お前もそんなことをほざくなら、こんな飯──。
「おっと」
ばしゃ、とうどんの汁がかかる直前にリーエイは立ち上がった。そして、次にユーイオが見たのは自分が薙ぎ払う前の、まだほかほかと湯気を立てるうどんだった。
「は?」
「いやーカッときたからって食べ物を粗末にしちゃダメだよぉ、ユーイオ。あとごめんね、俺まさかそんなにユーイオが親って存在を憎んでると思わなくてさ」
目の前の陽気に話す異形が何かしたことには違いないのだろうが、一体何をしたのかまでは人間にはわからなかった。
「お前……」
「ん?」
「今何をした? 本当はもうとっくに僕を殺し終わっていたりするんじゃないか?」
青黒い髪に隠された目は確実に自分を睨んでいる。見えなくても、殺気だけは伝わった。
「俺に子供を殺す趣味なんてある訳ないじゃん。さっきのは俺の「ユニークスペル」だよ」
「「ユニークスペル」……?」
「うん、俺たち異形は三つのジャンルの「スペル」を使えるんだよ。全ての異形が共通して使える「コモンスペル」と、個々で別々のものを持つ「ユニークスペル」、で日常生活を楽にする「パッシブスペル」!」
言っていることの大半が左耳から右耳へ流れていったが、とりあえず彼は何かしらの魔法のようなものを使ったらしい。
「それで、さっき俺が使ったユニークスペルは【時間詐称】さ」
「た、いむ……らぐ?」
「そ! 使い方次第で色々応用効くからどんなスペル? って訊かれたら答え方に困るんだけど、例えば時間を止めてみたり早送りしたり逆に巻き戻したりできるかな」
「へぇ……で、なんでそんな大事そうなことを僕に話してくれるわけ」
「え? だってあんな最下層に家族も居ない君が居続けたところで天寿をまっとう出来るようにはとても思えないからさ」
リーエイは至極真っ当だと言わんばかりにそう言い放った。たしかに最下層は汚いし臭い。けれども、僕はそこで生まれてそこで育ってきた。
「……だからって、今からこんなところに住めなんて納得できない」
うどんを完食し、水を飲んでから言った。リーエイは怒るでもなく悲しむでもなく、「今日から家族って言おうとしたことまでわかってるなんて偉いね!」と僕を褒めた。
「え、異形と僕が家族?」
そんなこと出来るのか、と言いかけたところでリーエイが親指を上に向けた。
「出来るよ! 君を養子として迎え入れるんだ。外ほど厳しくないから、君の体が良くなったら役所に一緒に行こうか」
びっくりした。彼の口から「外」という言葉が出たことに。僕は今までこの街から広がる「外」について考えたことなんてなかった。自分を取り巻く最下層の汚れた世界が、ずっと僕のすべてでその先に続く道は絶たれていたからだ。
「……リーエイ」
「うん?」
「「外」って、どんな所?」
リーエイはそうだね、と少し考えてから話し始める。
「君はこの街で生まれ育ってきたんだったね? 俺は違うんだよ」
「リーエイは別の場所で生まれたってことか」
「そう! 中国系イギリス人~って言ってもわかんないね、俺今こんな顔だし」
それはそうだ。彼の顔は金縁で黒の時計針が一時三十二分二十秒で止まった時計の文字盤なのだ。それに中国? もイギリス? もよくわからない。話の流れからして「外国」なのだろう。
「俺イケメンだったのになーって今でもたまに思うね」
ほら、とリーエイに渡されたのは白黒の写真だった。そこには目鼻立ちがくっきりしていて優しい表情を浮かべる男性が写っていた。
「……誰これ」
「俺だよ? 女顔ってよくからかわれたよ」
女顔──たしかに、言われてみれば女の子らしいというか、柔らかい雰囲気を漂わせてはいる。写真の裏を見ると、文字がかすれているのが見えた。
「リーエイ・チアンって書いてるよ」
「? リーエイって名前ふたつあるのか?」
「苗字だよ。チアンって家に生まれたから」
よくわからないが、リーエイにも家族がいたということだろう。
「さ、そろそろ返して」
じっくり見ていると、ぱっと写真を取られてしまった。
「それにしても白黒なんてかなり古そうなのに、その写真は結構綺麗なままだったな」
「ああ、これも俺のスペルだよ」
「言ったでしょ、応用が効くって」と言いながらリーエイは空になった椀を流しへ運ぶ。無神経で何も苦労していなさそうな彼だったが、その広い背中はどこか苦しそうでもあった。
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