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見上げた空は・下章
流れ星③
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西の内陸の秋風は砂と水の匂いがする。アルビオン領では花の香気に加え、河川を通じてフリーセアからほんのりと潮の匂いが届いていたが、それとは真逆だ。
「これまた、徹底的だな」
道々に配置した「影」から届いた報告に、レーヴは喉の奥で笑った。ジヴェルナの快進撃はやすやすと止まらないらしい。まだアールスを取り返し、次の砦攻略の中盤という局面だが、もう奪還したと続報が入ってもおかしくない頃だ。
まさかの少女王が自ら旗を掲げ奇襲を仕掛けたことからそれは始まった。
その後に張った罠の数は「影」が遠方から見ただけでも三種。二重の斥候、側近の合流、捕虜の早期解放だ。だが、レーヴはそれだけではないはずだと睨んでいる。
ジヴェルナ陣中の情報をうっかり漏らしたのを、解放した捕虜に拾わせているはずだ。その内容は……神聖王国との国交、それからジヴェルナ国内の結束にまつわる某か。斥候が二重ということは、リエンは不穏分子の存在を心得ている。あの娘は間違いなく、それを活用しようとするだろう。それに最強と謳われた従者を初戦に出さなかったのもあえてのはずだ。手札の選び方、見せ方、出し方に余念なく、徹底抗戦へ全霊を傾けている。リエンなりの方法で。
「あの娘、今度は定石で手堅く攻めているとはいえ、まともな戦など端からする気がないな」
リーナが春をもたらすならば、その娘は夏を呼ぶ。生気と若さを挑発する青嵐を前にすれば、わざとらしい爺言葉も引っ込んでしまうというものだった。杖もまともにつくのが馬鹿馬鹿しく思えて、手慰みのためだけに携えている有り様だ。
「あの方なりの勝ち筋というものがあるのでしょう」
レーヴに情報を手渡す前に目を通していたサームが、レーヴの笑い混じりのぼやきにそう答えた。こちらもほんのり口許が綻んでいる。そんな悠然たる二人組を、目を血走らせながら見ている者があった。
「おや、殿下を置いてきぼりにしてしまいましたな。こちらをどうぞ。戦場におられない殿下もご覧になった方がよろしかろう。なんといっても総大将なのですから」
レーヴは紙片を差し出しながらにこりと笑った。
「いかがです、ずいぶんと殿下の見込みとは異なっておりますが、疑われるならご自分でもご確認なされよ」
「……貴様」
「八つ当たりよりも内省を先にすべきと進言しましょう。時間は有限だ。そう、我が国の女王は軍勢を引き連れ、すぐにこの国まで参るでしょうからな」
その「八つ当たり」の最中に押しかけてきたので、中断されて部屋の隅に転がされている人の形の物体をちらりと見た。
ウルゼスの顔色は怒りでどす黒く、しかし嘲笑に乗るのは辛うじてこらえているとみて、表情がぴくぴくとひきつっている。斬りつけるのを堪えているのは、レーヴがなぜここにいるのかを訝しんでいるからだ。
レーヴはどうやら、ジヴェルナからまっすぐこの屋敷まで進んできたようだった。レーヴがリエンの不興を買いに買って捕縛命令が出ているとまでは知らなかったが、リエンと特に懇意にしていたネフィルを引きずり下ろしたことで関係が冷え込んでいるとは察している。アルダの侵攻に際して都合よく隙ができたのは、この老人の意図かもしれないとも。
だが、なぜアルダに迎合するような振る舞いをしているのかは疑問である。ウルゼスとこの老人との関係は娘の仇のみしか思い当たらない。だがそれも極々秘された事実であり、レーヴが知っているのかどうか……知らずにここにいるなら相当な間抜けだと、ウルゼスは自身の怒りを宥めるように内心で扱き下ろした。女王の祖父が売国奴とは、あの女王、ひたすら身内というものに恵まれていないらしい。
「だから己を引き立てろと?」
「……これはこれは。ご自分にそのような価値がおありだとお思いのか。器量が一つ、いや二つ回りほど足りてはおりませんで、悪しからず」
「なんだと!?」
「他国の公爵家風情が、なんたる口を利く!」
もはや我慢ならぬ、とウルゼスの護衛らが大喝と共に剣を抜き、ウルゼスの視線一つで意を受けて斬りかかった。態度ばかりが大きいだけの老爺は恐怖も鈍っているのか、じっとそれを見つめ、逃げようとはしない。代わりに抜く手も見せぬ早業で護衛を斬り伏せたのはサームだった。
「呆れたものですな。この期に及んで、私が娘の仇の一つも知らぬとお思いとは。欲ばかりが先立って物事をまともに見ることもできぬ王子が相手では物足りなく思えてしまいます」
「――抜かせ!者共、斬れ!!」
とうとう堪忍の緒を切らしたウルゼスが叫ぶと、部屋の外からもどっと兵士たちが雪崩れ込んできた。レーヴの薄ら笑いが人波に紛れていく。逃げ出しはしていないのか、悲鳴と金属音が一定の場所から響いている。
結局なんのためにレーヴがウルゼスと面会を望んだのか聞き出せなかったが、そんなもの、まだ他に方法がある。いや最初からそちらにすればよかった。
ここまでされても侮辱を耐える必要性など、ウルゼスには存在しない。
「この役立たずが、なにをもたもたしている!」
部屋の隅でぐったりと横たわっていたラーズの髪を掴んで引きずり立たせようとした、その手にナイフが突き刺さった。
「……この目で見るのは初めてですが、あまり心地よいものではありませんね」
痛みにのたうつウルゼスを兵士たちの隙間から見たサームが、そう呟いた。冷酷無比の表情の裏で、ごみのように打ち捨てられている見知らぬ娘が誰と重ねられているのか、わかる者はレーヴくらいだった。なるほどとレーヴは腕を組んだ。報告などではよく知っていたが、あの娘は過去にあのような仕打ちも受けたらしい。
「――殺せ!許さん、許さんぞ!王子であるおれにこのような傷をつけるなど!捕らえておれの前に首を寄越せ!」
「殺せと言ったり捕らえろと言ったり、どちらなんですかな」
レーヴは呆れてひとりごちたが、その声は喧騒に踏み潰されてウルゼスにまで届いていないだろう。いくら広い部屋とはいえ、数十名も押し寄せれば武器を振るうことすらおぼつかない。攻撃というよりも数の圧に押されつつ、レーヴはサームの背に声をかけた。
「お前でもこの数は苦しいか」
「まさか。これしきの手数だけではガルダ殿の足元にも及びませんよ」
サームが平然と応じたと同時に、先頭の兵士たちの首や顔が次々切り裂かれ、血の華を咲かせた。咲き誇ってすぐに散る、おぞましくも儚い花。突き出された刃を明後日に向け、足をもつれさせ、急所のみを狙って目まぐるしく立ち回る様は、ゼンたちがここにいたならばシュバルツの後宮でのガルダの戦いぶりを彷彿とさせられるだろう。影を縫うように武器を閃かせる様は派手とはほど遠く、だが無駄なく洗練された技倆ゆえに、ある種の美しさすら醸していた。殺される側からすればどちらも変わらず、ただ死神に屠られているだけだが。
次々量産される死体におののく兵士もいたが、背後では怒り心頭の王子が殺せと喚いている。しかも激して正常な判断を見失っているのか、手の治療を人に任せながらも、この場から離れることなど考えもしていないようだった。そして、王子の身を案じてお逃げくださいと進言できる者は、この場にいなかった。仕える者として、最も王子の傲慢さ、残忍さを知っていたからだ。
「レーヴさま。あの娘にご興味が?」
「あるのはお前の方だろう。私の予定は変わらんよ。お前は好きにしたらいい」
「……確かに、気にかかりはしますが……」
「どうした、正直だな」
「ですが私も終わりは決めています」
「好きにしたらいい」
レーヴが二度言うと、サームは主をちらと振り返って、その後は一度も視線すらくれなかった。血風が渦を巻いてサームの周囲に飛び散る。
「必ず、後を」
「そう念を押すなら、先に行って待っておこう」
「この上ない幸せです」
これがこの主従の最後の会話となった。
サームが数歩を一瞬で進んだ。途端に開くレーヴとの距離。血を噴き出す兵士たちがまるでサームのために道を作るように倒れ伏す。全身から漂う殺気はその心得がない者でも感じ取れるほど。痛みに朦朧としていたラーズもぴくりと肩を震わせた。顔の形が変わるほどの殴打のせいか黒く滲む視界に見慣れないものが入り込んで、恐る恐る見上げると、そこにサームが立っていた。
ほんのわずかな時間で部屋の中の兵士を全員倒して、外から詰めかける兵士の他はレーヴとサーム、ウルゼスとラーズしか生きている者はいなかった。
ラーズには色々と状況が掴めなかったが、目の前の老人が庇っていたはずの口達者な貴人の元に、ラーズの主がこけつまろびつ近づいていったのに気づいた。腰の飾りの剣に手が置かれている。
「……あ……」
見ず知らずの他人に向かって危ないと言おうとしたのか、それとも主を呼び止めようとしたのか、ラーズ本人にもわからなかった。サームがその口許にきれいな指を添える。喋るなと仕草が言っていた。そして、触れた箇所からラーズに伝わってきたのも、同じ。
むせ返るような血の匂いの中にいるのに、この老人の心はセルゲイのように不思議な香木を焚いたような妙な温かさがあった。同情と哀れみと、その他のこれは、なんだ。痛みだけでなく泣きたくなるような、この柔らかな感情は……。
「はっ、護衛に見捨てられたか!さすが『忘れられた王女』の祖父だな!」
ウルゼスが哄笑とともに刃を抜く。サームのこともラーズのことも兵士のことも意識の外の様子だった。レーヴだけを見ている。
「殿下!」
兵士らが咄嗟に呼び止めた理由はラーズにはわからない。だがサームが腕を一振りしただけで遠くの兵士が倒れた。それでいてラーズには「お嬢さま、お名前は言えますか?」と穏やかに声をかけるのだ。なにも考えられず震えるように首を振った。
(私は、お姫さまじゃないし、お嬢さまでもない……)
心の中でやっと反論を思いついた時、肉を断つ、この短時間で嫌というほど聞き慣れた音がした。悲鳴は聞こえなかった。サームがラーズに覆い被さるように前屈みになり、その奥で何がどうなったのか隠された。だが気絶寸前のラーズにもわかった。この老人は、ラーズに死体を見せたいのではなく、自分が見たくないから、ラーズを抱え上げたのだ。
「傷に障るかもしれませんが、しばし我慢をお願いします。ここでは手当てのしようもありませんからな。……そこできょとんとする辺りも、本当に、あの方に似ていらっしゃる……」
あの方――なぜそこでジヴェルナの女王さまが出てくる。脳裏に映るのは綺麗な、けれど貴人にしては髪が異様に短い女の子。今のラーズと同じくらいか。ガラス細工のような印象だった。透明で硬い表面、けれど中身は空洞。案外脆いので大切に扱わないといけない。
と、二度目に切りつける音――直後に窓が割れた。サームの意識が初めて背後でもラーズでも兵士たちでもない方向に向いた。
「ボス……!?」
「……お前、主さまとあの方、どちらに遣わされた?いずれにせよ遅かったな」
飛び込んできたイオンは、サームの呆れ声もろくに聞いていないように、素早く部屋の中を見回した。そして、レーヴを見つけて、愕然とまたサームを見た。
「……なんで、レーヴさまがここに……!?それにボスも、なんで」
主が死ぬより先に、主を守って死ぬのも「影」の教育のひとつだ。なのに微妙に離れた位置におり、しかも背を向けている。まるでネフィルのように裏切ったかのように。だが、それはけっしてありえないはずだった。「影」はどうあろうと「主人」を必要とする生き物だ。それなくして生きてはいけない、そう、生まれたときから教え込まされている。
飄々と、レーヴに欠片も意識を向けていないサームが、イオンには信じられなかった。混乱してまともな状況判断ができない。
「ふむ?レーヴさまに用があったわけではないのか」
サームが今度は牽制しなかったので部屋にまた兵士たちが入り込む。ウルゼスは今度こそ兵士たちに連れられ出ていき、残った者たちが闖入者を警戒して武器を向けていた。
「ラーズ、なにをしている!!来い!!お前たち、ラーズを連れてこい!!」
声だけ廊下から聞こえてきた。間違えようがなくウルゼスの声である。サームの表情がすっと抜け落ちた。
「ここの王子は、殺せないのが残念なほどの醜悪っぷりだ。お隣の王子――王太子とは大違い」
「ラーズ?」
イオンははっとしたようにサームの腕に抱えられている少女を見つめた。
「恐らくこのお嬢さまのことだろうが、お前の用はこちらか?ちょうどよい」
「は、なん――」
「ぎゃあっ」
「ぐあっ!?」
廊下の奥から悲鳴が響く。武器を交わす音、いくつもの騒々しい足音、なにかを探すように叫ぶ声。明らかにウルゼスたちのものではない。
サームはとうとう肩をすくめた。ラーズの傷に障らないように器用に。
「次から次へと、今日のこの屋敷は千客万来なのかな」
部屋の中の兵士たちも意識を外に向けたとき、その頭上、高い天井まで飛び上がり、楽々と人波を越えて着地した人影があった。尾っぽのように一条、黒い紐が揺れる。いや、紐ではなく髪だ。さすがに全員が唖然として固まる空気の中、明らかに兵士でもなんでもない庶民の少年が身を起こし、血生臭い匂いに顔をしかめ、さっと周囲を見渡し――サームの懐に目を止めた。
「あっ、やっと見つけたぜ、お前会頭が言ってた女の子だよな!?生きてるか!?」
驚愕するにも許容量というものがある。
イオンはもはや悲鳴のように少年の名を呼んだ。
「ナオまで、なんでここにいる!?」
ーーー
字数の都合と話の切れ目が微妙なため、前話と今話と次話がぐちゃぐちゃになりそうな予感がします(というかもうごちゃごちゃしているかも)。
後から整理して組み替えるかもしれません。その場合、全体的な内容自体は変わらないようにします。
「これまた、徹底的だな」
道々に配置した「影」から届いた報告に、レーヴは喉の奥で笑った。ジヴェルナの快進撃はやすやすと止まらないらしい。まだアールスを取り返し、次の砦攻略の中盤という局面だが、もう奪還したと続報が入ってもおかしくない頃だ。
まさかの少女王が自ら旗を掲げ奇襲を仕掛けたことからそれは始まった。
その後に張った罠の数は「影」が遠方から見ただけでも三種。二重の斥候、側近の合流、捕虜の早期解放だ。だが、レーヴはそれだけではないはずだと睨んでいる。
ジヴェルナ陣中の情報をうっかり漏らしたのを、解放した捕虜に拾わせているはずだ。その内容は……神聖王国との国交、それからジヴェルナ国内の結束にまつわる某か。斥候が二重ということは、リエンは不穏分子の存在を心得ている。あの娘は間違いなく、それを活用しようとするだろう。それに最強と謳われた従者を初戦に出さなかったのもあえてのはずだ。手札の選び方、見せ方、出し方に余念なく、徹底抗戦へ全霊を傾けている。リエンなりの方法で。
「あの娘、今度は定石で手堅く攻めているとはいえ、まともな戦など端からする気がないな」
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「おや、殿下を置いてきぼりにしてしまいましたな。こちらをどうぞ。戦場におられない殿下もご覧になった方がよろしかろう。なんといっても総大将なのですから」
レーヴは紙片を差し出しながらにこりと笑った。
「いかがです、ずいぶんと殿下の見込みとは異なっておりますが、疑われるならご自分でもご確認なされよ」
「……貴様」
「八つ当たりよりも内省を先にすべきと進言しましょう。時間は有限だ。そう、我が国の女王は軍勢を引き連れ、すぐにこの国まで参るでしょうからな」
その「八つ当たり」の最中に押しかけてきたので、中断されて部屋の隅に転がされている人の形の物体をちらりと見た。
ウルゼスの顔色は怒りでどす黒く、しかし嘲笑に乗るのは辛うじてこらえているとみて、表情がぴくぴくとひきつっている。斬りつけるのを堪えているのは、レーヴがなぜここにいるのかを訝しんでいるからだ。
レーヴはどうやら、ジヴェルナからまっすぐこの屋敷まで進んできたようだった。レーヴがリエンの不興を買いに買って捕縛命令が出ているとまでは知らなかったが、リエンと特に懇意にしていたネフィルを引きずり下ろしたことで関係が冷え込んでいるとは察している。アルダの侵攻に際して都合よく隙ができたのは、この老人の意図かもしれないとも。
だが、なぜアルダに迎合するような振る舞いをしているのかは疑問である。ウルゼスとこの老人との関係は娘の仇のみしか思い当たらない。だがそれも極々秘された事実であり、レーヴが知っているのかどうか……知らずにここにいるなら相当な間抜けだと、ウルゼスは自身の怒りを宥めるように内心で扱き下ろした。女王の祖父が売国奴とは、あの女王、ひたすら身内というものに恵まれていないらしい。
「だから己を引き立てろと?」
「……これはこれは。ご自分にそのような価値がおありだとお思いのか。器量が一つ、いや二つ回りほど足りてはおりませんで、悪しからず」
「なんだと!?」
「他国の公爵家風情が、なんたる口を利く!」
もはや我慢ならぬ、とウルゼスの護衛らが大喝と共に剣を抜き、ウルゼスの視線一つで意を受けて斬りかかった。態度ばかりが大きいだけの老爺は恐怖も鈍っているのか、じっとそれを見つめ、逃げようとはしない。代わりに抜く手も見せぬ早業で護衛を斬り伏せたのはサームだった。
「呆れたものですな。この期に及んで、私が娘の仇の一つも知らぬとお思いとは。欲ばかりが先立って物事をまともに見ることもできぬ王子が相手では物足りなく思えてしまいます」
「――抜かせ!者共、斬れ!!」
とうとう堪忍の緒を切らしたウルゼスが叫ぶと、部屋の外からもどっと兵士たちが雪崩れ込んできた。レーヴの薄ら笑いが人波に紛れていく。逃げ出しはしていないのか、悲鳴と金属音が一定の場所から響いている。
結局なんのためにレーヴがウルゼスと面会を望んだのか聞き出せなかったが、そんなもの、まだ他に方法がある。いや最初からそちらにすればよかった。
ここまでされても侮辱を耐える必要性など、ウルゼスには存在しない。
「この役立たずが、なにをもたもたしている!」
部屋の隅でぐったりと横たわっていたラーズの髪を掴んで引きずり立たせようとした、その手にナイフが突き刺さった。
「……この目で見るのは初めてですが、あまり心地よいものではありませんね」
痛みにのたうつウルゼスを兵士たちの隙間から見たサームが、そう呟いた。冷酷無比の表情の裏で、ごみのように打ち捨てられている見知らぬ娘が誰と重ねられているのか、わかる者はレーヴくらいだった。なるほどとレーヴは腕を組んだ。報告などではよく知っていたが、あの娘は過去にあのような仕打ちも受けたらしい。
「――殺せ!許さん、許さんぞ!王子であるおれにこのような傷をつけるなど!捕らえておれの前に首を寄越せ!」
「殺せと言ったり捕らえろと言ったり、どちらなんですかな」
レーヴは呆れてひとりごちたが、その声は喧騒に踏み潰されてウルゼスにまで届いていないだろう。いくら広い部屋とはいえ、数十名も押し寄せれば武器を振るうことすらおぼつかない。攻撃というよりも数の圧に押されつつ、レーヴはサームの背に声をかけた。
「お前でもこの数は苦しいか」
「まさか。これしきの手数だけではガルダ殿の足元にも及びませんよ」
サームが平然と応じたと同時に、先頭の兵士たちの首や顔が次々切り裂かれ、血の華を咲かせた。咲き誇ってすぐに散る、おぞましくも儚い花。突き出された刃を明後日に向け、足をもつれさせ、急所のみを狙って目まぐるしく立ち回る様は、ゼンたちがここにいたならばシュバルツの後宮でのガルダの戦いぶりを彷彿とさせられるだろう。影を縫うように武器を閃かせる様は派手とはほど遠く、だが無駄なく洗練された技倆ゆえに、ある種の美しさすら醸していた。殺される側からすればどちらも変わらず、ただ死神に屠られているだけだが。
次々量産される死体におののく兵士もいたが、背後では怒り心頭の王子が殺せと喚いている。しかも激して正常な判断を見失っているのか、手の治療を人に任せながらも、この場から離れることなど考えもしていないようだった。そして、王子の身を案じてお逃げくださいと進言できる者は、この場にいなかった。仕える者として、最も王子の傲慢さ、残忍さを知っていたからだ。
「レーヴさま。あの娘にご興味が?」
「あるのはお前の方だろう。私の予定は変わらんよ。お前は好きにしたらいい」
「……確かに、気にかかりはしますが……」
「どうした、正直だな」
「ですが私も終わりは決めています」
「好きにしたらいい」
レーヴが二度言うと、サームは主をちらと振り返って、その後は一度も視線すらくれなかった。血風が渦を巻いてサームの周囲に飛び散る。
「必ず、後を」
「そう念を押すなら、先に行って待っておこう」
「この上ない幸せです」
これがこの主従の最後の会話となった。
サームが数歩を一瞬で進んだ。途端に開くレーヴとの距離。血を噴き出す兵士たちがまるでサームのために道を作るように倒れ伏す。全身から漂う殺気はその心得がない者でも感じ取れるほど。痛みに朦朧としていたラーズもぴくりと肩を震わせた。顔の形が変わるほどの殴打のせいか黒く滲む視界に見慣れないものが入り込んで、恐る恐る見上げると、そこにサームが立っていた。
ほんのわずかな時間で部屋の中の兵士を全員倒して、外から詰めかける兵士の他はレーヴとサーム、ウルゼスとラーズしか生きている者はいなかった。
ラーズには色々と状況が掴めなかったが、目の前の老人が庇っていたはずの口達者な貴人の元に、ラーズの主がこけつまろびつ近づいていったのに気づいた。腰の飾りの剣に手が置かれている。
「……あ……」
見ず知らずの他人に向かって危ないと言おうとしたのか、それとも主を呼び止めようとしたのか、ラーズ本人にもわからなかった。サームがその口許にきれいな指を添える。喋るなと仕草が言っていた。そして、触れた箇所からラーズに伝わってきたのも、同じ。
むせ返るような血の匂いの中にいるのに、この老人の心はセルゲイのように不思議な香木を焚いたような妙な温かさがあった。同情と哀れみと、その他のこれは、なんだ。痛みだけでなく泣きたくなるような、この柔らかな感情は……。
「はっ、護衛に見捨てられたか!さすが『忘れられた王女』の祖父だな!」
ウルゼスが哄笑とともに刃を抜く。サームのこともラーズのことも兵士のことも意識の外の様子だった。レーヴだけを見ている。
「殿下!」
兵士らが咄嗟に呼び止めた理由はラーズにはわからない。だがサームが腕を一振りしただけで遠くの兵士が倒れた。それでいてラーズには「お嬢さま、お名前は言えますか?」と穏やかに声をかけるのだ。なにも考えられず震えるように首を振った。
(私は、お姫さまじゃないし、お嬢さまでもない……)
心の中でやっと反論を思いついた時、肉を断つ、この短時間で嫌というほど聞き慣れた音がした。悲鳴は聞こえなかった。サームがラーズに覆い被さるように前屈みになり、その奥で何がどうなったのか隠された。だが気絶寸前のラーズにもわかった。この老人は、ラーズに死体を見せたいのではなく、自分が見たくないから、ラーズを抱え上げたのだ。
「傷に障るかもしれませんが、しばし我慢をお願いします。ここでは手当てのしようもありませんからな。……そこできょとんとする辺りも、本当に、あの方に似ていらっしゃる……」
あの方――なぜそこでジヴェルナの女王さまが出てくる。脳裏に映るのは綺麗な、けれど貴人にしては髪が異様に短い女の子。今のラーズと同じくらいか。ガラス細工のような印象だった。透明で硬い表面、けれど中身は空洞。案外脆いので大切に扱わないといけない。
と、二度目に切りつける音――直後に窓が割れた。サームの意識が初めて背後でもラーズでも兵士たちでもない方向に向いた。
「ボス……!?」
「……お前、主さまとあの方、どちらに遣わされた?いずれにせよ遅かったな」
飛び込んできたイオンは、サームの呆れ声もろくに聞いていないように、素早く部屋の中を見回した。そして、レーヴを見つけて、愕然とまたサームを見た。
「……なんで、レーヴさまがここに……!?それにボスも、なんで」
主が死ぬより先に、主を守って死ぬのも「影」の教育のひとつだ。なのに微妙に離れた位置におり、しかも背を向けている。まるでネフィルのように裏切ったかのように。だが、それはけっしてありえないはずだった。「影」はどうあろうと「主人」を必要とする生き物だ。それなくして生きてはいけない、そう、生まれたときから教え込まされている。
飄々と、レーヴに欠片も意識を向けていないサームが、イオンには信じられなかった。混乱してまともな状況判断ができない。
「ふむ?レーヴさまに用があったわけではないのか」
サームが今度は牽制しなかったので部屋にまた兵士たちが入り込む。ウルゼスは今度こそ兵士たちに連れられ出ていき、残った者たちが闖入者を警戒して武器を向けていた。
「ラーズ、なにをしている!!来い!!お前たち、ラーズを連れてこい!!」
声だけ廊下から聞こえてきた。間違えようがなくウルゼスの声である。サームの表情がすっと抜け落ちた。
「ここの王子は、殺せないのが残念なほどの醜悪っぷりだ。お隣の王子――王太子とは大違い」
「ラーズ?」
イオンははっとしたようにサームの腕に抱えられている少女を見つめた。
「恐らくこのお嬢さまのことだろうが、お前の用はこちらか?ちょうどよい」
「は、なん――」
「ぎゃあっ」
「ぐあっ!?」
廊下の奥から悲鳴が響く。武器を交わす音、いくつもの騒々しい足音、なにかを探すように叫ぶ声。明らかにウルゼスたちのものではない。
サームはとうとう肩をすくめた。ラーズの傷に障らないように器用に。
「次から次へと、今日のこの屋敷は千客万来なのかな」
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「ナオまで、なんでここにいる!?」
ーーー
字数の都合と話の切れ目が微妙なため、前話と今話と次話がぐちゃぐちゃになりそうな予感がします(というかもうごちゃごちゃしているかも)。
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