孤独な王女

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見上げた空は・下章

暗迷③

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 ラーズが、主であるウルゼスの命令でセルゲイから読み取ったのは、ジヴェルナ王族、とりわけ王位に近いリエンとヴィオレットの精神のあり方だった。
 これから懐柔、籠絡していく――そうして気づかれないように王国を腐らせる毒を注いでいくには、相手の内面を知らなくては、満足な成果は得られまいと思ってのことだ。
 風のように掴み所を失くすように心がけているセルゲイが、珍しく王子王女との付き合いを公然たるものにしていたので、そこに個人的な関係が築かれているはずだと考えたウルゼスは正しい。だからこそセルゲイをあえて生かして捕らえさせた。政争に参入しない情報通の男が二人を判断するとき、そこには公平な視点があるだろう。その視点からの答えが欲しかった。

 ウルゼスの失策は、セルゲイの目から見た二人を、直接には知らなかったことだ。
 リエンもヴィオレットも、視点の一つだけでその性格を把握するには複雑すぎる内面を持ち合わせている。もちろんウルゼスは他にも情報を集めて二人の人物像を固めていたが、特殊な事情で二人とも表舞台に現れた回数すら少なく、得られた情報などたかが知れている。そんな回りくどいことをせずとも、直で見て話してみれば、より正確に、二人が屈折していることを思い知ることができただろう。
 だが、ウルゼスにはセルゲイに近付けないのと同じ理由で、不用意にジヴェルナに踏み込めなかった。それを考えると、そもそも十数年ほど前からの失策ということになる。

 ジヴェルナ王妃リーナの死。

 目障りだったヴォルコフ商会にも欲張って手を出したのがいけなかった。セルゲイからの激しい報復ゆえに密かに根を巡らせていたジヴェルナから中途半端に手を引かざるを得なかった。
 そこから繋がる情報不足がここに来て響いていると考えてもいい。ただし、ウルゼスはそれをいまだ自覚していなかった。

 自信満々に正使として送り出した臣下が這う這うの体で、しかも手ぶらで帰ってきても、女王の印象を塗り直すには足りなかった。ベリオルやエルサといった周囲の才幹が口を出したのだろう、やはりアーヴィンを討ったとて油断ならぬと、そう考えたきり。
 女王の生みの母を殺したという「実績」も女王を無意識に侮る要因となっていた。

「それならば、今一段手痛い目に遭ってもらおう」

 テルミディアを獲るだけで足りないならば、領地の三つくらいはこのまま奪い取ってしまおうか。神聖王国への「分け前」もこの際激しく踏み荒らせ。そうすればあちらから許しを乞うだろう。玉座を前に野心もなく、ただ泣いて逃げていったばかりの心持ち。疑惑まみれの王子を弟と頑なに呼び王太子の座まで与えるとは、盲目な溺愛ぶりだ。寝首を掻かれる心配もできないとは、なんとも愚かな女王であることよ……。



 ジヴェルナ攻略戦の大将でありながら戦地から離れたアルダの都市に優越に身を置くウルゼスは、だからこそその一報が届くまでに、有限な時間を無駄にした。
 まさに戦地にいたであろう汚れた装束の兵士が、ウルゼスの館に駆け込んで言うには、レーヴ・アルビオンが単身でアルダに乗り込んできた、ということだった。








☆☆☆









 アルダの使者を蹴り出した直後の会議はのっけから紛糾した。
 国としての対応を問う使者も返事をもらうのに長くても数日かかる目算ではあったはずだ。そこをリエンは独断かつ即断であしらった。アルダという一国の面子を一切考えない傍若無人っぷりで。
 なぜだ、専横が過ぎる、交渉は外交の基本だろう、アルダ側の出方を探る機会だったのに、なぜ帰した、などなど。
 抗議と不平と不満が織り混ざった発言に満たされた議場で、沈黙している者の方が大層少ない有り様だった。
 発言録をまとめるの大変だろうな、とリエンは思いながらしばらくこの騒ぎを見守っていた。議長のような役目を担い、意見を集約してリエンに奏上するのが仕事のはずのハロルドまでだんまりを決め込んでいるせいで、秩序も統制もどこかに行ってしまっている。狂騒に喘ぐ面々も他者の発言を聞くより己の言いたいことを言ってしまいたい欲が強すぎるのか、なぜだと声高に叫びながら、実のところリエンの返事を待っているわけでもなかった。

「……そろそろ頭から水をぶっかけられたいか?」

 勢いが衰えてきた、そのわずかな空隙を的確に狙ったリエンの声に、やっと喧騒が止まった。

「お前たちの狂騒に付き合うことを会議とは言わない。邪魔をするなら去れ。時間がないので本題に入るが……」

 はじめから口をつぐんでいたベリオルたちは目を開き、リエンの視線がたった一人を刺し貫いていることに気づいた。末席中の末席にあって、この場でたった一人、リエンと同じ色彩を持つ者――。

「エドガー・アルビオン公爵」

 ぴしりと鞭で打つように声が途切れた。

「行方不明だったレーヴ・アルビオンが、アルダに入国する道を通った。お前の申し開きを聞こう」

 黙った代わりに息を呑む音が一斉に鳴り響いた。騒いでいた面々だけではなく、エルサやヴィー、ウェルベルまでエドガーに注目した。
 エドガーも驚き、青ざめた。リエンの示唆することは明らかだった。

「……それは……私の伯父がアルダと通じていたと……そういうことでしょうか」
「その事実をお前に問うている。レーヴのもたらした騒乱は全てこれに帰結されるのか否か」

 ハロルドと法務大臣レイズだけが、エドガーではなくリエンを見ていた。エドガーは明らかに初耳の様子だった。だが知らなかったとは言えない。言えるわけがない。アルビオン一族をどう裁くかはリエンの心次第であり、エドガーの対応次第なのだ。
 否定して、証拠を出さなくては処刑だ。売国はそれほど重い罪となる。ましてや外戚がそれを仕出かしたとなれば……アルビオンの血を引きながら生き延びれるのはリエンだけになる。公然とアルビオンを拒絶して一族を突き放した裏切られた者リエンだけしか。
 ネフィルでさえもシュバルツから引き取って殺す。ナキアやイオンといった「影」の面々も逃れられない。
 一族郎党が死に、アルビオンは滅亡する。

(……伯父上、あなたは……)

 エドガーはもう半年以上会えていないその人を呼んだ。レーヴが私欲でアルダと結んだとは考えたくなかった。だがそもそも、リエンとヴィオレットを追い込んだあの騒ぎすらエドガーには青天の霹靂、伯父の考えが一切把握できず、振り回されるだけだった。
 一人娘を奪われた憎しみで、それ以外はどうでもよくなったのか。愛した一族も領地も、妻も、元公爵としての矜持でさえ、この国への憎悪のかたに売り渡せるほどの修羅に成り果てたのか。

「答えろ、エドガー」

 はっ、とエドガーは落ちていた視線を上げた。この場で誰よりも怒っていいはずの人が、よりにもよって一番冷静なのに気づいたのだった。
 そうだ、リエンは「本題」と言った。対アルダの会議の本題だと。アルビオンの吊し上げがしたいわけではないのだ。

「……私は伯父の動向を否定できる証を持ち得ません。ですが、なぜアルダなのかは疑問です」
「フリーセアを選ばなかったことか」
「違います。我が一族が一族以外には非情なほど無関心であるのは、この場の面々も心得ているでしょう。それなのに、伯父は此度、一族を置いてアルダと関わったとか。そこが解せません」
「私の言を疑うか。見間違いだとでも?」
「いいえ」

 処刑秒読みの窮地にありながら、あくまでへりくだることなく淡々と答えるエドガーを見て、これまで長年領地に引きこもってきた新公爵の胆力を感じた者はそれなりにいた。そもそもエドガーがここ数ヶ月、伯父に反発していたことも知られていた。もちろん、それだけで信に足りるものではないが。

「改めて問う。申し開きはあるか」

 エドガーは一瞬黙った。それを言うにはかなりの努力が、意志が必要だった。
 重いな、と今さら思った。これをネフィルは背負っていたらしい。エドガーたちの代わりに矢面に立って、あの従弟は政変前後を見事に泳ぎきった。なに一つ奪われることなく。
 だからこそ、エドガーができないと言うわけにはいかない。
 一族が見放した少女をまっすぐに見つめた。これが償いか、とか殊勝なことは思わない。リエンが求めるのはじゃない。
 席から立ち、その場に跪いた。声がくぐもらないようにしんしんと喉を震わせる。

「――

 腹をかっさばいて、エドガーの持つ全てを、リエンが欲しいものを差し出す。リエンが欲しがっているならいくらでも、なんでも。出し惜しみはない。
 今さら――本当に今さらすぎる。だが、今だからこそとも言えた。
 恐らく、修羅のなり損ないのエドガーでなくてはできない選択だった。

「これ以上私から申し上げることは、なにもありません」

 この時エドガーには、無表情のリエンがわずかに微笑んだように見えた。それこそ見間違うような、ほんのちょっとの違い。
「それでは」と、リエンは冷淡に告げた。

「エドガー・アルビオン。事実確認が済むまで西の塔に入れ」
「仰せの通りにいたします。ちなみにそのご確認とはどのように?」
「無論のこと。我が国を愚弄する輩をこの地から残らず駆逐すれば、明らかになろう」

 議場に別種の緊張が走った。
 つまり、この時からジヴェルナはあくまでも防衛ではなく、攻勢に打って出るということ。
 女王に即位して十日あまり、用意は整った。その最後の締めこそアルダからの接触だったのだと、全員がやっと気づいた。レーヴの件は口実程度、本題はその次だった。
 これまで数十年続いてきた方針を曲げて、リエンは力ずくで難を打ち払うという。そこにある思惑などいくらでも考えつく。穏健策を推進してからはじめての失地、王族の死、他の近隣諸国の動向……。それに対するリエンの答えは、徹底抗戦。だからリエンは、使者の口上も受け取った書状も一顧だにしなかったのだ。
 リエンも椅子から離れ、議場に集った面々を見渡した。王政を支える官僚ら、所領と財貨、人材を蓄えた貴族家当主たち。王軍を直接に統べる将軍、近衛騎士長、大公家当主もしくは名代、先王以来の側近、――リエンのたった一人の後継者。
 全員がそれぞれの感情を抱きながらも、女王だけを見つめて逸らさなかった。

「二の失地を許さず、テルミディアを奪還する」

 途切れた言葉の先を、唾を飲み込んで待った。そのままアルダに進軍し、どこまで土地を奪っていくのか……と想像したのと全く趣の違う答えが、リエンからもたらされた。

「私が先鞭を着ける」

 議場は今度は悲鳴で溢れ返った。












「――ちょ、っと待て!陛下!?」

 誰よりも狼狽したのは、これまで黙って成り行きを見守っていたベリオルたちだった。
 彼らはリエンのことをよく知っている。知っているからこそ、来てほしくない最悪な予感が目の前にぽんと飛び込んできて青ざめていた。

「どうしたの、ベリオル。王が戦地に出ることに問題なんてあったっけ?」
「慰問とか殿とかやたら守られた場所ならな!?なんだよ先鞭って!なんで先頭突っ走る気満々なんだよ!」
「王が殿にいるのは逃げ腰が過ぎるでしょ。却下」
「そこじゃない!!」

 ベリオルは悶えるように頭を抱え、次にエドガーが口角をひきつらせながら確認してきた。リエンの思惑をここまでは読め切れなかったエドガーは早くも責任を感じはじめていた。

「陛下……恐れながらお尋ねしますが、まさか、陛下おん自らが戦場で剣を振るわれる、と……?采配ではなく……?」
「王が一兵に混じっていたら大問題だわよ。もちろん両方やる。といっても、私は戦術に明るいと誇示するつもりはないよ。なにより軍を率いた経験がない」
「それならば……」
「だからとなにも知らないままに奥に座すほど、私の面は厚くない。私はお前たちに戦えと言った。ならば私も戦うのが道理」

 これに胸を打たれた者は多かった。王が戦中、飾りであっても戦陣に在る意味は大きい。味方の意気はいや増す上に、敵とて王がいるならば周りを固める優将を恐れて多少は怯む。だが、戦場は間違っても物見遊山できるような綺麗な場所ではない。王の安全は保たれるとはいえ、城とは違い、万事が行き届く訳でもない。行く道に屍は積み重なり、近くに血と汗の匂いを嗅ぎ、殺意と狂騒の狭間を駆ける……。大の男ならばともかく、少女が望んで行くところではないのに、リエンは臣下と共に血塗れになっても道を進むと明言したのだ。上から指図するだけではなく、共に並んで、と。
 だが、やっぱりリエンの古馴染みはしぶとかった。

「……戦い方ってもんがあるだろうが!陛下、実際だ、ようやく馬を乗り回せるようになったくらいじゃ前線なんて無理だ!」
「そこはね、工務大臣に命じていたから」
「何をだ!」
「私用の鎧と剣の制作」

 ぱっかんとベリオルの口が開かれた。急に己の名が出てきたテルまで責任を噛みしめるように項垂れた。確かに命じられて、配下へ作るように指示は出した。急ぎと言われたので要望を元に試作を数度持ち込んではまた直し、完成した昨日にはその報告だけした。だが、テルとてリエンが戦地に出ることまでは予想できても、まさか実際に干戈に足を伸ばしにいくとは考えていなかった。飾りはあるが、やけに実戦的だなと鍛冶が確かにぼやいていたけどさ……!
 だが、リエンの言葉に感激する者が出てしまった以上、もうテルも腹を括って片棒を担ぐしかなかった。このまま黙っていたら、ただの大言壮語だったのかと、リエンの顔に泥を塗ることになってしまう。

「……『赤曜鉄』です。同じ厚みでも従来の鎧と比べて軽度はおよそ四割減、硬度は五割増しです。剣も同じく。ただし、量産できるほどには至っておりません。陛下のご要望で、剣は複数本、規格よりも細く短めに仕上がっております。この場にお持ちした方がよろしかったでしょうか。あいにく用意が足りず……」

 おお、と驚く声が漏れる中、予感がしていたのだろうハロルドまで項垂れた。「赤曜鉄」と名付けられたそれは、年越し、リエンがガルダにあげた腕輪と同じ素材だった。すなわちハロルド管轄の鉱山資源が肝要の合金。責任しかない。

「いや、いいよ。その機会は当日に」
「当日……」

 当日ってどの当日だろう、とテルとハロルドは遠い目をした。

「陛下、私も発言してよろしいでしょうか?」

 ここで丁寧に許可を求めたのはヴィーだった。リエンが「いちいちいらないのに」と言っても慇懃に無視していくのは毎度のことだ。

「それで、どうしたの?」
「陛下がお城を空けるならば、誰かが留守を預かるのでしょう。私は除外してくださいね。私もついていきますから」
「あなたは連れていくつもりだったわ。はじめから。その目で見て、肌で知って、全てを覚えなさい」

 ヴィーの目がわずかに輝いた。置いていかれると思っていたのだろう。それは周囲も同じだったらしく、エルサが貧乏くじを引かされる予感のためか嫌そうに顔を歪めていた。だがエルサもここに置いておくつもりはなかった。

「ホアン、ベリオル、ハロルド。お前たちに留守を預ける」

 リエンはその後、次々と貴族の名を挙げていき、それぞれに出陣か城詰めか他の任を命じた。陣中の位置や地名など細かく配置まで明らかにしていくが、いつから考えていたのかとオクマや将軍が唖然とするほど、無駄のない的確な指示だった。
 留守役を預かった面々にも口を挟ませない。王が城を出る、そこに生まれる隙を狙う輩はきりがないとリエンも承知の上だった。国にしろ、個人にしろ。特に、そろそろミシェルだけではフリーセアを抑えるのも苦しいだろう。
 この場にいたものも呼んだし、いなかった者も呼んだ。ハロルドとマティスが伝令を手配する算段を立てている。やがて最後まで名を連ね終わったあと、ヴィーがまたリエンを見た。

「陛下、あなたがアルビオンを必要としないのならば、私が預かっても?」
「王太子までなに言ってんだ!」
「ベリオルさま、落ち着いてください。間違ったことは言っていないでしょう。アルビオン公爵は拘束されるが、それ以外は手が空きに空いている。いまだアルビオンの力は残されていますが、陛下は何かのために温存なさるおつもりで?」
「いいえ。あなたが言った通り、必要ないから持っていかないだけ」
「でしたら、もったいないので私にください」

 ヴィーは他でもないアルビオンが己を処刑目前まで追い込んだことなど忘れたようにリエンにねだり、リエンもいちいち覚悟を問い質すこともなく「いいわよ」と差し出した。

「それじゃあアルビオン公爵名代セレネス・アルブスを王太子の麾下に配することとする」

 姉弟の息の合い方は、この会議の全てが予定調和のごとく。簡単にまとまった話にむしろ大人たちの方がついていけなかった。
 リエンは面白がるように笑っていたし、ヴィーも受けて立つように不敵な目をしていた。
 リエンが弟をなんとしても安全に守ろうとした、これまでとは話が違う。二人ともが戦地に飾りでなく赴き、ましてやヴィーは政敵を懐に入れてしまおうとしている。どさくさ紛れに背後から首を狙われてもおかしくないというのに、どこまでも平然として。
 やりたいことがあるのだろう、とリエンは察していた。そもそもヴィーは密かに単独の前線入りを打診していた。一度突っぱねたら引き下がっていたが、諦めていないどころか、腹案をさらに練っていた様子。

「以上、異論があるならこの場で聞く。ないならば会議は終わりだ」

 ヴィーはリエンから取った言質で満足したのか、もうなにも言わなかった。
 この弟が、どんなものを見せてくれるのか。――見せつけてくれるのか。
 リエンは今、それだけを楽しみにしていた。

「出立は明朝。そのつもりで支度にかかれ」

 さあ、血の海を征こうか。 







ーーー
軍指揮(采配)は不馴れと言いつつ実戦経験(剣)はあえて伏せた模様。
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