孤独な王女

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見上げた空は・下章

波の揺りかご

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 ラーズの背中で、鉄格子ががしゃりと音を立てた。全く自由が利かず、裁かれるのを待つのみの罪人とは思えない剣幕でラーズを後ずさらせた男は、その音で我に返ったらしい。反省するように顔を歪ませた。

「……わりぃな、お姫さん。一応釈明しとくが、あんたにキレた訳じゃねえんだ」

 そうして男はにっかりと笑う。人懐こく、警戒する者でさえ気持ちを和ませるような、陽気な笑顔。ラーズも思わずほっと息を緩めた。まだ幼いわりに、生まれから人の悪意には敏感で、泣く方法さえ忘れたラーズでも、先ほどまでの男の形相には逃げ出したくなるほどの凄みを感じられたのだ。
 憎悪という言葉でも足りないほどの、どす黒く、重苦しく、激烈な感情。触れてもいないのに伝わってきたそれが、一瞬で凪いだように掻き消えたことで呼吸の仕方を思い出した。

「……私は姫なんて身分じゃない」
「おれにとっての話だからいいのさ」

 何がいいのか。ここが王族所有の屋敷の地下牢である以上、不敬どころの話じゃない。
 もしこんなところをウルゼスさまに見られたら、聞かれたらと思うと今から怖くなってくる。すると、男はそれすら見越したように言った。

「あんたの飼い主の性格は相変わらずかってしみじみ思うぜ」
「……誰のこと」
「おれは見ての通り、逃げも隠れも、抵抗の一つだって、鎖に繋がれてできるわけもないんだがなぁ。それでもこの場をお姫さまだけに任せるなんざ、よっぽど小心者なんだろうぜ。おっと、侮辱してる訳じゃねえぜ?あんたもおれの指す奴に心当たりはないんだろう?」

 すなわちここで反論でもすれば、それはラーズもこの男と同じ見解を持ってしまったと証明したということ。それもばれたら後が怖い。慌てて口をつぐむと、男は誉めるように目を細めた。

「あんたは馬鹿じゃないんだよな。でも、決定的に経験と力が足りない。飼われる以外の道を選びようがなく、これからもないと思い込んでいる。悔しいな」
「なんであなたが悔しがるの」
「大人の役目だと思うからだよ。そろそろこっちに来いよ。おれの頭を覗き見て得られるもんがあるなら、そうしろ。飼い主に成果を持ってかなきゃいけねえんだろ」

 今度こそラーズは棒立ちとなった。
 男はラーズがどういった存在であるか知っている。よしんばそれはまだ理解できるとして……その能力の細部にまで、気づいている。

「ただし、気をつけろよ。自分で言うのもなんだが、わりとえげつないからな」
「……変なおじいさんだ」
「変だからこそここまで生き残ってきたんだぜ。あんたも同じだろ、読心の『巫』」
「……うるさい。なにも知らないくせに」
「不快にさせたなら悪かったな。いやこれからもさせるが」

 若干不穏な言葉が聞こえたが、ラーズは無視することにした。気圧されたことももう忘れたことにする。これ以上、余計に心を掻き乱されたくないがために、大股で近づいた。
 座り込んでいる男の頭上、万歳のような形で壁に繋がれている片手に、指先だけで触れる。

「――っ!?」

 嫌というほど慣れたはずの行為なのに、今のラーズは小舟に乗って大嵐に見舞われたような衝撃に翻弄されていた。大概がその人物の思考、意識を読み取れるものなのに、読むことすらできない情報の奔流にラーズの脳がぐわんぐわんと揺さぶられる。欠片もラーズの掌に収まらない男の心。
 とっさにラーズは逃げ出した。手を離し、身を翻し、檻から出たところで喉の奥からせり上がってくるものに耐えきれなくなった。

「……あーあ。やっぱりそうなったか。おい、大丈夫か?」

 男は暢気に思えるほど平然とラーズの醜態を見守っていた。哀れむような視線すら向け、ラーズの嘔吐した痕を見て顔をしかめもした。

「あんた、まともに飯も食ってねえのか、食わせてもらってねえのか、どっちだ」
「……っ、うる、さい」
「言っとくがな。ちゃんと飯は食えるなら食え。身長伸びねえし不健康だぞ。ジヴェルナで今頃女王になってるあの嬢ちゃんもあんたに似てるけど、あっちは異常に頑強だからあんまり説得力はないんだよな。普通ならくたばっててもおかしくないんだが、どうなってるんだか……どっかに代償が出てるかもしれねえな」
「じょ、女王さまと、なんて、比べないで。私は、これでいいの」
「どうせ早死にするからってか?それでもあと十五年はあるだろ」

 どこまで知ってるんだろう、とラーズは喘ぎつつもぼんやり思った。まだ翻弄された余韻が残っていて、恐ろしいほどの情報の精密さにも危機感を抱けない。
 だが、これだけは事実だ。ラーズは別に、未来に希望なんて抱いていない。

「それまでに、死ぬから。いいの」

 人の考えたこと、思ったことを読み取れてしまうこの能力がある限り、ラーズの精神は常にひびが入った状態なのだ。いつ砕けてもおかしくない。
 唯一ひびを埋められるものがなんなのか、ラーズはわかっている。それが永遠に与えられることがないということも。だからこそ絶望している。
 けれども、悲観することはなかった。
 ファーランは、エリス共々身内に裏切られる、覆しようがない未来に絶望していた。愛されたからこそ、慕われたからこそ深く刻まれる傷。
 ラーズにはそんなものはない。はじめから愛情なんてものは一滴さえも注がれたことはないけれど、与えられたものが毒となって蝕まれるのなら、与えられない方がいい。空っぽなままでいい。
 ファーランたちよりましだ。心底そう思っている。ファーランもその気持ちに気づいたからこそ、ラーズの袖から見える折檻の痕を見ないふりをした。

「……お姫さま。あんた、何のために生きてる?」
「わからない。そんなこと」
「……そうか。もっかい覗くか?」
「いい。もう充分。ウルゼスさまのご所望のものは見つけた。それより、掃除しなきゃ……」

 つんとする臭いに顔をしかめる。後で掃除しなくてはならないが、地下牢なので換気もしにくいのだ。いっそ別の匂いで被せてしまおうかと考えていると、男が「それならセルマの葉がいいぞ」と言った。

「そこのクレムレート港で茶が売られてるはずだ。乾燥させたやつを置いとけば匂いを吸い取るんだ」

 なぜこの男は普通の人間のくせにラーズの思考を読んだばかりか、戦場から拉致され、目隠し状態で放り込まれた場所まで的確に当たりをつけているのか。本当に普通の人間なのかと疑えば、男は苦笑した。

「これでも『風の商人』なんでな。あんたの飼い主に警戒されるくらいの能力は自負してる」
「……あなたこそ、何のために生きてるの?」

 王族に堂々と逆らって、揶揄して。仲間を全員殺されて一人だけ捕まえられてもこの余裕。この男ならば処刑される未来だってわかっているはずなのに、どうしてこうも悠々としていられる?
 男は両腕を拘束されたまま、器用に首をかしげた。

「色々あるな。まず、死にたくない」
「どうして?」
「嫁も息子も娘も孫も戦友も、みんないなくなっちまったが……だからこそ、おれまであっさり死んでちゃ、あいつらに顔向けできねえんだよ」

 触れなくても伝わってくる情愛。愛する者が二度と手が届かない場所へ奪われても、変わらずに在り続けられるその心の強靭さ。まっすぐな意志。
 羨ましい、とラーズは率直に思った。この男に愛された者も、この男本人も。ラーズはそこまでして貫ける芯を持っていないから。もうなんとも言えずに、ラーズは踵を返した。

「ウルゼスの野郎によろしくな」

 男からは、ラーズが逃げ出すように檻から離れていくように見えているだろう。ラーズ自身でもわかっている。それでも、せめて惨めさをごまかすように「あなたが自分で伝えればいい」と吐き捨てた。
 地下から地上へ、明るい陽射しの元まで出ても、心の虚はちっとも温まらず、寒々しく風が吹き過ぎていった。













「……厄介なもん抱えてるよなあ」

 ラーズの軽い足音が消えていってから、セルゲイは後ろの壁に後頭部をすりつけてぼやいた。ラーズの顔が、どうしてもリエンやヴィオレットのものと被ってやるせない。
 幼少から大人に恵まれなかった子どもたち。しかもそのことを、全員が全員、理解しながら成長していったのだ。その結果として諦めや人間不信や反転しての博愛という、てんでばらばらな方向へ進んでいるが。
 特にリエンは、ラーズとはかなり近い。絶望しているのは共通だし、もしリエンが一人で立ち上がれず、ネフィルに出会ったのが死ぬ直前だったなら、ラーズと同じ道を辿っただろう。
 劣悪な環境から救出されても自我を持てず、道具として与えられた役目であっても、なにも与えられないよりましと考え、壊れた人形のように諾々と従う。嫌なことをそうとも認識できず、逃げるという言葉すら知らず、何があろうと「恩人」のそばから離れられない。存在意義がそこにしかないと思っているから、暴力だって受け止める。
 ……ネフィルはあれで感性はまともだし情が深いので、保護した当初はルシェルへの憎悪から利用したとしても、途中から痛ましさと憐憫と後悔とに苛まれて、暴力どころか誹謗すら自他に絶対に許さず、リエンのためにルシェルどころか王国を滅ぼそうとか考えるほど超過保護な保護者になっていそうだが。
 ちなみにこの場合、ヴィオレットも確実に再起不能なところまで病む。リエンが味方として在ったからこそ歪な環境でも真っ当に育ったのだ。敵対する位置にあったら絆もなにもなく、アーノルドのように凍りついた心を抱えて震えていたことだろう。それを暖められる存在は長く現れないまま、最悪砕け散っておしまいだ。

 当時、そこまで考えたわけではないが、わずかな懸念を抱きつつもセルゲイが後宮どころかジヴェルナにもろくに干渉できなかったのは、妻子や孫までもが殺されようとしていたからだ。結局守りきれず、商会を立て直したり報復に働いたりしているうちに手遅れになった。こう言うのはものすごく無責任で悔しくなるが、リエンが一人で立ち上がってくれて助かった。

(基本「巫」には子孫がいないからな。あの女王さまは、恐らく唯一の例外だからこそ、あの異常性なのかね。……けっ、この考え方も気に食わん)

 各王国での見解の一つに「巫」の力は子孫に受け継がれない、とあるが、そもそもまともに子を産めた者は歴史上いない。環境のせいか他の要因のせいか、不妊か死産かという結果になる。例が少ないので統計を取りにくいが、総じて子孫そのものが存在したわけではないことは確かだ。神聖王国に至っては直接殺しにかかっているし。
 いや、今はそんなことを考えたって仕方がない。優先して考えるべきはラーズのことだ。どうやって自分が逃げつつラーズも安全に匿えるか。あの様子だと無理やり拐うしかないかもしれない。できるできないは、外の情勢がセルゲイの推察通りなら、成功率は七分ほどある。

(まずあのお姫さまが港に出向くところからだな。ここがクレムレートでよかったぜ。多少手間が省ける)

 ラーズが嘔吐したのも、セルゲイの策というか予想通りだった。港に行かせるために別の口実も考えていたが、まず、引っかかるだろうと思っていた。
 自分の頭の中を覗けばどんなに優秀な奴だって発狂するだろう。若い頃は自分でも思考に翻弄されて酔うことさえあったのだ。情報が頭に溜まれば溜まるだけ破裂しそうにもなるが、なんとか思考を回して無理くり整理をつけることで余裕を持たせているだけで、常に極限一歩手前の状態である。
 傲慢で高圧的で吝嗇家のウルゼスが戦利品セルゲイの顔を直接見に来ないのは、そんなセルゲイの特殊性を恐れているからだ。
 しかも、一度ウルゼスはセルゲイの家族を殺した報復に痛い目に遭っている。それこそ破滅ぎりぎりまで追い込んだセルゲイだったが、当時のアルダ以西の情勢からほんのすこし手控えしたことがここに来て裏目に出たので、なおさら憎悪の炎もいきり立つ。

 セルゲイは権力を持たぬ平民だが、「風の商人」だ。家族を殺し尽くされ、親友も殺され、自由を奪われ、情報を引き抜かれ、それだけで済ませてやるものか。

(あとはあの野郎が餌に食いつくかどうかだが、お姫さまのあの様子だと、そこは確実だな。餌を餌とも気づかず飼い主に差し出すんだろうさ。その後は……)

 ウルゼスは、変な欲を出さず、セルゲイを捕らえた瞬間に殺すべきだった。
 両手を壁に拘束され、石床に投げ出された両足にも鎖で重石を繋がれてなお、セルゲイは何一つとして鎧も武器も失ってはいないのだから。

「……女王さま、あんまりキレんなよ?」

 必ず訪れるとある未来を思いやって苦笑めいた冷笑をこぼせるほどに、セルゲイにとっての地獄とは程遠い地下牢だった。






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