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見上げた空は・下章
剥落⑤
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本神殿に戻ってすぐ、ファーランはエリスに客二人の世話を頼んだ。
「手土産を取ってくる。しばらく時間がかかるので、それまで任せたぞ」
「それ、おれたちも行ったら駄目なのか?」
「ぞろぞろと雁首を揃えても暇なだけだ。のんびり待っていろ」
「わかった。食事は一緒に摂る?」
「そうだな。万が一のためにそれが妥当か」
本神殿は二人の客にとっては敵陣真っ只中だ。明日の午後にはがらりと変わる予定だが、今はなおさら油断できない。「巫」が匿うことはできるが、勘づいた神官がこっそり害を為す可能性があった。
そこまで覚悟してこの国に乗り込んできたユーフェとイオンとしては、ジヴェルナで色々無防備だったエリスがその危惧を持っていることが意外だった。まさか食事に毒を、とまで考えられるとは。
ファーランはちょっと笑うと、エリスの頭を無造作に撫でた。エリスは突然のことに驚いたようだが、猫のようにとろりと目を細めて甘んじて撫でられた。
「それやられるの、久しぶりだな」
「そうだな。撫で心地がずいぶん面白い」
「うっ、もうやるなよ」
つい数ヵ月前に丸刈りにされたのを思い出し、短い頭髪を押さえて後ずさるエリスに、ファーランは残念だと笑い、行ってくると言って、さっさとエリスたちに背を向けた。
「じゃあおれたちも行くぞ。待つ間が暇だから王女の話でもしろ」
「……えっと」
「なんだ。それ以外に共通の話題があるなら言ってみろ」
「あんた、王女サマのこと、憎んでるかと思ったけど。この人も」
イオンがユーフェの代わりに言った。全身丸刈りになったのも刺青を彫られたのも全てリエンの命令によるもので、ユーフェとガルダでやったのだ。実際に再会した当初は恨みがましく指差されてあれこれ文句を言われた。そのあとは一切なく、いきなりの「反省」発言だが。
切り替えについていけず、微妙な反応になるのも仕方がないだろう。
「ああ、それは」
エリスは形のいい眉を寄せてふいと顔を背けた。
「……おれたちみんなまとめて特殊だって、ファーランが言ったからな。悪魔つきとか考えるのやめたら、言いがかりだったし、やりすぎだったなと……おれが受けた暴力もやりすぎだったけど!!」
「いいえむしろあのくらいで感謝するべきです」
「本気で切り落とそうとしてたもんな……」
ユーフェが真顔で断言し、イオンが遠い目でぼやくと、エリスは当時を思い出したように蒼白になって口をきゅっと結んだ。それでもぷるぷると肩が震えている。
「だ、脱臼は、やりすぎだろ!」
「下手に手加減したら返り討ちに遭うでしょうが。か弱い女性になにを求めているんですか」
「人一人ぶん投げといてか弱い!?」
「力比べは確実に負けます。ですけど、リエンさまはガルダさんも大剣付きのまま投げますよ。弱くてもコツさえあればできるそうです。ねえ、イオンさん」
「あー、まあ、確かに間違ってはない……。間違ってはないけど……うん……」
一体どこで覚えたのやらと、政変のかなり前からリエンを時々見守っていたイオンは思ったが、飲み込むことにした。イオンも体術を修めているのでガルダの巨体を投げることは可能だ。理論上は。
「けどおれには絶対無理……」
ガルダの武芸の才は神にも等しいほど突出している。しかも剣術馬術弓術などものを選ばず、全般だ。加えて相手の特徴や技倆に合わせて戦い方を使い分けている。騎士が真正面から剣を振りかぶれば真正面から応じ、暗殺者が死角から一撃必殺の技を出せばそれを上回る速度で一撃、集団が相手となれば嵐のように立ち回る、というように。体格差や武器の違いにも通じる恐るべし即応力が、ガルダの最強たる所以。
そのガルダと試合とはいえ互角以上にまで持ち込んだリエンもまた、別の意味で多彩だった。柔軟性と俊敏性に重きを置いての先手必勝、もしくは撹乱。超近距離と遠距離を織り混ぜた攻撃の手数は馬鹿みたいに多い上に、そのほとんどが的確だ。加えて隙を絶対に逃さない。一瞬の余白さえあればあのガルダを投げ飛ばせるほどに。
あれだけ攻めて攻めて攻めまくる攻撃形態にはさすがのガルダも馴染みがなかったのか、対応が遅れ、一度は床に背中をつくこととなったのだ。
暗殺者向きの戦い方しか知らないイオンでは逆立ちしたってできない芸当で、リエンのように戦うこともまた難しい。自分のやり方で精進するしかないとげんなりしていると、エリスがさらに真っ青になって「や、やっぱり悪魔つきだから」と言い、ユーフェは「関係ないです」とスパッと切った。
「それでしたら、交流会ということにしませんか?あたしからリエンさまやジヴェルナについてご紹介できることはしますので、ディライラ・アングレイ神官からも、あなたや、この国についてなど色々伺いたいです。もちろんお話しできる範囲内で構いません」
「おれのことまで?」
あまりに意外だったのか、エリスはきょとりと目を丸くした。
「目下、あたしたちと一番親しいのはあなたとディライラ・スハルトさまになります。国交を考えたら、より親密にしていった方がお互いのためになるので。……『巫』の方々にとって国交がどれほど重視されるかわかりませんが」
ユーフェとしてはそこらの神官や王族を当てにしたくない思いがあった。生みの父母、養い親の家族を思えばどうしてもそうなる。リエンに暴行を働いた件にしても、特権階級のエリスはともかくとして、留学中の責任者であるジュールまで罰則なし、無罪放免の扱いだとはさすがに想像していなかった。国家間の問題にまで発展し、エリスを守れもしなかったくせに降格も更迭もなく、今もジュールは元気に本神殿で働いているらしい。「神の代理人」とかいう役職で。
この国に対する信用値はもはやゼロ以下なので、消去法で、親交を深めるなら「巫」しかいない。当のエリスはそんなことまで気にしていないのか、ああ、と思い出し笑いをした。
「ファーランはお前がいる限りは気にするだろうな。あんな生き生きした姿を見るの、初めてだった。長年引きこもりの亀みたいだったのに、お前のために本神殿も出ていくくらいだったんだから」
「亀って……」
「うん、ああいうの、いいな」
エリスは幼子のように金の瞳を輝かせてユーフェを見た。
「わかった。仲良くしてやる。いつかファーランと一緒にジヴェルナに旅行に行くかもしれないからな。お前に子どもが生まれたりしたら移住も考えはじめるかも。王女には会いたくないけど、そこはお前が手配しろよ」
うきうきで先導し始めたエリスに一拍遅れて、ユーフェとイオンもついていった。反応が二人揃って遅れたのは、勝手にユーフェの結婚出産まで未来を作られたからではない。
はしゃいだ楽しそうな声が描く未来は、何年後を想像しているのだろう。
イオンの小さな声がユーフェの耳にだけ届いた。
「……『いつか』って」
「……ディライラ・アングレイ神官は、おそらく、寿命をご存じありません」
ユーフェは吐息に紛れて苦々しく呟いた。
ファーランが口止めした理由がなんとなくわかった。どこか幼く無垢な一面を持つエリスが、寿命という翳りに侵されることを避けたかったのだろう。だが、と思う。
(どうして、自分の寿命について知らないの)
「巫」のことなら、この国が一番史料が残っているはずだった。過去視のユーフェミアと言っていたから、きっとアングレイとスハルトも、それぞれ能力を授けられた聖人の名で、エリスとファーランはそれを称号のように与えられているのだ。聖人の誰が、どんな異能を持っていたのか――その死や後の生まれ変わりのことまで全て、この本神殿に収められていてもおかしくないのに。
どうして他国の王女が知れた程度のものが、「巫」当人であるエリスには備わっていないのだろう。
ファーランはあと二年も経たず、エリスの前からいなくなる。そのことを知らず、今日と変わらぬ未来を描く後ろ姿に、ユーフェは自らを道化と言っていたファーランの表情を思い出した。
(そういえば、ばあちゃんのことも知らなかったって……)
なんだか胸が騒いだ。ファーランは今、自室ではなくどこへ向かっている?
とっくに先を進んでいるエリスを呼び止めようとしたときだった。
「あ、れ?」
不意に意識が点滅したような感覚に襲われた。瞬くように変わる景色。イオンがいなくなり、エリスが消え、ユーフェはどこともわからぬ暗闇に取り残された。しかもなぜか瞼が重い。足元が濡れている気がするのはなぜだ。本神殿が雨漏りなんてするはずがない。いや、この風の容赦のない冷たさは、いつの間に屋外に出ていたのか――けれど、胸元が温かい。
小さなそれを逃がさないよう、抱きしめて丸まった。
いつの間にかユーフェはフェルミアーネになっていたが、自分では気づかなかった。
不意に、抱き込んだ灯火がぼうっと熱く燃え上がった。
――わたしたちは、道化なんかじゃない。
フェルミアーネではないフェルミアーネの声が吹雪の狭間に泣き叫んだ。
☆☆☆
ファーランは老婆の背中を無表情で見つめ、無言で部屋に入り込んだ。
「ジュール・リングス」
今さらのように名を呼べば振り向く老婆。今、エリスと親しげにしている様子よりも、まだシルヴァたちがいた頃、先代「神の代理人」の側をうろちょろしていた様子の方がファーランの記憶には印象的だった。後々、「神の代理人」が死んでジュールが後継に拝命されていたことも合わせて。
「『巫』さま!御用とあれば参じましたものを。このような見苦しいところにお出でにならずともよかったですのに」
「エリスに聞かれてはならない話だからだ」
本当は、エリスと客二人もここに連れてきて、手分けして空き巣を働くつもりだった。手土産と言ったのは本当だ。この部屋のどこかにリューダの形見がある。城で視たときは部屋の主が不在だったが、本神殿に帰ってきたときにまた視ると、この女の姿があったので、予定を変更したのだ。
この部屋は墨と灰の匂いに満ちている。書物の半分は丁寧に棚に納められ、半分は雑に積み上げられている。本棚にあるのは主に経典だ。幼い頃から読んできたためか、ずらりと並ぶ表題を一目見ただけで嫌気が差した。
「お前がメリエさまから盗んだ書物はどれだ」
ジュールの愛想笑いが固まった。ファーランが一歩踏み出すと、反射的にかジュールは仰け反った。それからいつもの人を食ったような笑みを浮かべる。もう遅いというのに。
「『巫』さま、その名は禁じられております。さま付けされるような者でもございません。それに、なにを盗んだなどとおっしゃるのでしょうか。私には心当たりが……」
「誰が、なにを、誰に向かって禁じたと?」
ファーランの唇に刻まれた嘲笑は、ジュールと、自身にも向けられたものだった。
聖人の生まれ変わりと誇りながら、ファーランもエリスも結局は本神殿に首輪で繋がれている。見えないから気づかないだけ。知らされないから気づけない。本神殿は、「巫」のためにある場所ではないと。
そんなこと、とっくの昔にわかっていた。抗えないと諦めていた。けれど、今は。
シルヴァが作り出したこの先で、夢を描いてゆくフェルミアーネの前でだけは。
「ああ、お前に盗んだ自覚がないのはわかっている。お前がメリエさまから黙って借りて、その直後にメリエさまが追放されただけだ。だが、その書物は、元はメリエさまがリューダさまに授けたもので、修繕のために一時的に返されたものだった。それでも心当たりがないなら、こう言おう。――お前が先代から譲渡されたものを出せ」
「なぜ、そんなものを……」
「なぜ?この私が、お前ごときのために説明せねばならないと言うのか?」
ジュールはざあっと青ざめ、ファーランの足元に伏した。他者の前ではどれだけ傲慢に振る舞おうと、ファーランとエリスの前でのジュールは、常に「神の代理人」の誇りゆえにへりくだっている。
「申し訳ありません!出過ぎたことを申しました!私はけして、『巫』さまに邪な思いはなく……!」
「いちいち喚くな。さっさと出せ」
「はい!」
ジュールはささっと書物の方へ進むと、なにがどこに積み上がったのか全部覚えているように、迷いなくそれを取り出し、ファーランへと捧げた。
ファーランは片手でそれを拾うと、やがて口許を緩ませた。
「……やはり残っていたか」
千里眼で見透せば、綴じた紙と紙の間、張り合わせた内側に、シルヴァとリューダの筆跡があった。子どもの落書きのような拙い文字はシルヴァ、流麗なのはリューダ。書物そのものは、ほぼメリエの文字で埋め尽くされている。メリエの形見すら髪紐以外残っていないと言っていたフェルミアーネにとって、とても貴重なものになるはずだ。
書の内容もまた、この国の外でなら高い価値を誇るだろう。メリエが若い頃に各地を渡り歩いて集めた伝承や俗話をまとめた童話集で、ミヨナの神話に重なる話もあれば、神聖王国の建つ以前とおぼしき時代のものもある。女神の賛美一色の経典にはない、女神ミヨナの失敗や後悔などの「人間らしさ」が記されてもいた。
メリエなりのミヨナ教への向き合い方を映すような、そんな物語集。
公表すれば異端の書として非難は免れないそれを、リューダは大切に持っていた。ファーランも内容を知っているのは、幼い頃にリューダが何度か寝物語に読んでくれたからだ。
表題もない、分厚い革の表紙を指先でなぞった。
「……唯一、褒められるとすればこれだけだな。ジュール、よく完全な状態で保管していた」
「こ、光栄です……!」
「気色悪い信仰心も役立つことがあるのだな。ミヨナの姿が描かれたものは異端であろうと燃やすに忍びなく、とはもはや意味がわからないが。先代もそうやって死んだ。シルヴァとリューダさま、フェルミアーネを手にかけた責を取るくらいならば、はじめから殺さなければよかったのに」
「……は……?」
「フェルミアーネを殺し損ねたことにも気づかず無駄死にしたことも褒めてやるべきか。 私たちにも寿命の先があるという、なによりの証が存えていて、伴侶もある。リューダさまの側仕えだったお前すら、気づかずに手駒としていたのも、今思えば滑稽だな。――どこまでも下らない」
ファーランは書物を懐に仕舞うやいなや、呆けているジュールの顎を片手で掴み、瞳を覗き込んだ。意志を持たないことを誇りとする哀れな生け贄は、それすら自覚していないまま、黒目にファーランの激怒する表情を映し込んでいた。
「二年後、私はお前を嗤いながら、お前に殺されてやろう。幸福を思い出した以上、命など簡単にくれてやる。お前は、何一つとして私のものを奪えず、ただ『巫』を殺した罪をもって無為に死ぬのだ」
諦念をかなぐり捨て、憎悪の刃を拾い上げ、叛逆の言葉を紡ぐ。
聖人の生まれ変わりとして。生きている人間として。
こんな者共のために道化になるのは、もうやめだ。
「お前の死は栄誉に値しない。汚辱にまみれた魂を女神が受け入れるかどうか、お前自身で試すがいい」
「手土産を取ってくる。しばらく時間がかかるので、それまで任せたぞ」
「それ、おれたちも行ったら駄目なのか?」
「ぞろぞろと雁首を揃えても暇なだけだ。のんびり待っていろ」
「わかった。食事は一緒に摂る?」
「そうだな。万が一のためにそれが妥当か」
本神殿は二人の客にとっては敵陣真っ只中だ。明日の午後にはがらりと変わる予定だが、今はなおさら油断できない。「巫」が匿うことはできるが、勘づいた神官がこっそり害を為す可能性があった。
そこまで覚悟してこの国に乗り込んできたユーフェとイオンとしては、ジヴェルナで色々無防備だったエリスがその危惧を持っていることが意外だった。まさか食事に毒を、とまで考えられるとは。
ファーランはちょっと笑うと、エリスの頭を無造作に撫でた。エリスは突然のことに驚いたようだが、猫のようにとろりと目を細めて甘んじて撫でられた。
「それやられるの、久しぶりだな」
「そうだな。撫で心地がずいぶん面白い」
「うっ、もうやるなよ」
つい数ヵ月前に丸刈りにされたのを思い出し、短い頭髪を押さえて後ずさるエリスに、ファーランは残念だと笑い、行ってくると言って、さっさとエリスたちに背を向けた。
「じゃあおれたちも行くぞ。待つ間が暇だから王女の話でもしろ」
「……えっと」
「なんだ。それ以外に共通の話題があるなら言ってみろ」
「あんた、王女サマのこと、憎んでるかと思ったけど。この人も」
イオンがユーフェの代わりに言った。全身丸刈りになったのも刺青を彫られたのも全てリエンの命令によるもので、ユーフェとガルダでやったのだ。実際に再会した当初は恨みがましく指差されてあれこれ文句を言われた。そのあとは一切なく、いきなりの「反省」発言だが。
切り替えについていけず、微妙な反応になるのも仕方がないだろう。
「ああ、それは」
エリスは形のいい眉を寄せてふいと顔を背けた。
「……おれたちみんなまとめて特殊だって、ファーランが言ったからな。悪魔つきとか考えるのやめたら、言いがかりだったし、やりすぎだったなと……おれが受けた暴力もやりすぎだったけど!!」
「いいえむしろあのくらいで感謝するべきです」
「本気で切り落とそうとしてたもんな……」
ユーフェが真顔で断言し、イオンが遠い目でぼやくと、エリスは当時を思い出したように蒼白になって口をきゅっと結んだ。それでもぷるぷると肩が震えている。
「だ、脱臼は、やりすぎだろ!」
「下手に手加減したら返り討ちに遭うでしょうが。か弱い女性になにを求めているんですか」
「人一人ぶん投げといてか弱い!?」
「力比べは確実に負けます。ですけど、リエンさまはガルダさんも大剣付きのまま投げますよ。弱くてもコツさえあればできるそうです。ねえ、イオンさん」
「あー、まあ、確かに間違ってはない……。間違ってはないけど……うん……」
一体どこで覚えたのやらと、政変のかなり前からリエンを時々見守っていたイオンは思ったが、飲み込むことにした。イオンも体術を修めているのでガルダの巨体を投げることは可能だ。理論上は。
「けどおれには絶対無理……」
ガルダの武芸の才は神にも等しいほど突出している。しかも剣術馬術弓術などものを選ばず、全般だ。加えて相手の特徴や技倆に合わせて戦い方を使い分けている。騎士が真正面から剣を振りかぶれば真正面から応じ、暗殺者が死角から一撃必殺の技を出せばそれを上回る速度で一撃、集団が相手となれば嵐のように立ち回る、というように。体格差や武器の違いにも通じる恐るべし即応力が、ガルダの最強たる所以。
そのガルダと試合とはいえ互角以上にまで持ち込んだリエンもまた、別の意味で多彩だった。柔軟性と俊敏性に重きを置いての先手必勝、もしくは撹乱。超近距離と遠距離を織り混ぜた攻撃の手数は馬鹿みたいに多い上に、そのほとんどが的確だ。加えて隙を絶対に逃さない。一瞬の余白さえあればあのガルダを投げ飛ばせるほどに。
あれだけ攻めて攻めて攻めまくる攻撃形態にはさすがのガルダも馴染みがなかったのか、対応が遅れ、一度は床に背中をつくこととなったのだ。
暗殺者向きの戦い方しか知らないイオンでは逆立ちしたってできない芸当で、リエンのように戦うこともまた難しい。自分のやり方で精進するしかないとげんなりしていると、エリスがさらに真っ青になって「や、やっぱり悪魔つきだから」と言い、ユーフェは「関係ないです」とスパッと切った。
「それでしたら、交流会ということにしませんか?あたしからリエンさまやジヴェルナについてご紹介できることはしますので、ディライラ・アングレイ神官からも、あなたや、この国についてなど色々伺いたいです。もちろんお話しできる範囲内で構いません」
「おれのことまで?」
あまりに意外だったのか、エリスはきょとりと目を丸くした。
「目下、あたしたちと一番親しいのはあなたとディライラ・スハルトさまになります。国交を考えたら、より親密にしていった方がお互いのためになるので。……『巫』の方々にとって国交がどれほど重視されるかわかりませんが」
ユーフェとしてはそこらの神官や王族を当てにしたくない思いがあった。生みの父母、養い親の家族を思えばどうしてもそうなる。リエンに暴行を働いた件にしても、特権階級のエリスはともかくとして、留学中の責任者であるジュールまで罰則なし、無罪放免の扱いだとはさすがに想像していなかった。国家間の問題にまで発展し、エリスを守れもしなかったくせに降格も更迭もなく、今もジュールは元気に本神殿で働いているらしい。「神の代理人」とかいう役職で。
この国に対する信用値はもはやゼロ以下なので、消去法で、親交を深めるなら「巫」しかいない。当のエリスはそんなことまで気にしていないのか、ああ、と思い出し笑いをした。
「ファーランはお前がいる限りは気にするだろうな。あんな生き生きした姿を見るの、初めてだった。長年引きこもりの亀みたいだったのに、お前のために本神殿も出ていくくらいだったんだから」
「亀って……」
「うん、ああいうの、いいな」
エリスは幼子のように金の瞳を輝かせてユーフェを見た。
「わかった。仲良くしてやる。いつかファーランと一緒にジヴェルナに旅行に行くかもしれないからな。お前に子どもが生まれたりしたら移住も考えはじめるかも。王女には会いたくないけど、そこはお前が手配しろよ」
うきうきで先導し始めたエリスに一拍遅れて、ユーフェとイオンもついていった。反応が二人揃って遅れたのは、勝手にユーフェの結婚出産まで未来を作られたからではない。
はしゃいだ楽しそうな声が描く未来は、何年後を想像しているのだろう。
イオンの小さな声がユーフェの耳にだけ届いた。
「……『いつか』って」
「……ディライラ・アングレイ神官は、おそらく、寿命をご存じありません」
ユーフェは吐息に紛れて苦々しく呟いた。
ファーランが口止めした理由がなんとなくわかった。どこか幼く無垢な一面を持つエリスが、寿命という翳りに侵されることを避けたかったのだろう。だが、と思う。
(どうして、自分の寿命について知らないの)
「巫」のことなら、この国が一番史料が残っているはずだった。過去視のユーフェミアと言っていたから、きっとアングレイとスハルトも、それぞれ能力を授けられた聖人の名で、エリスとファーランはそれを称号のように与えられているのだ。聖人の誰が、どんな異能を持っていたのか――その死や後の生まれ変わりのことまで全て、この本神殿に収められていてもおかしくないのに。
どうして他国の王女が知れた程度のものが、「巫」当人であるエリスには備わっていないのだろう。
ファーランはあと二年も経たず、エリスの前からいなくなる。そのことを知らず、今日と変わらぬ未来を描く後ろ姿に、ユーフェは自らを道化と言っていたファーランの表情を思い出した。
(そういえば、ばあちゃんのことも知らなかったって……)
なんだか胸が騒いだ。ファーランは今、自室ではなくどこへ向かっている?
とっくに先を進んでいるエリスを呼び止めようとしたときだった。
「あ、れ?」
不意に意識が点滅したような感覚に襲われた。瞬くように変わる景色。イオンがいなくなり、エリスが消え、ユーフェはどこともわからぬ暗闇に取り残された。しかもなぜか瞼が重い。足元が濡れている気がするのはなぜだ。本神殿が雨漏りなんてするはずがない。いや、この風の容赦のない冷たさは、いつの間に屋外に出ていたのか――けれど、胸元が温かい。
小さなそれを逃がさないよう、抱きしめて丸まった。
いつの間にかユーフェはフェルミアーネになっていたが、自分では気づかなかった。
不意に、抱き込んだ灯火がぼうっと熱く燃え上がった。
――わたしたちは、道化なんかじゃない。
フェルミアーネではないフェルミアーネの声が吹雪の狭間に泣き叫んだ。
☆☆☆
ファーランは老婆の背中を無表情で見つめ、無言で部屋に入り込んだ。
「ジュール・リングス」
今さらのように名を呼べば振り向く老婆。今、エリスと親しげにしている様子よりも、まだシルヴァたちがいた頃、先代「神の代理人」の側をうろちょろしていた様子の方がファーランの記憶には印象的だった。後々、「神の代理人」が死んでジュールが後継に拝命されていたことも合わせて。
「『巫』さま!御用とあれば参じましたものを。このような見苦しいところにお出でにならずともよかったですのに」
「エリスに聞かれてはならない話だからだ」
本当は、エリスと客二人もここに連れてきて、手分けして空き巣を働くつもりだった。手土産と言ったのは本当だ。この部屋のどこかにリューダの形見がある。城で視たときは部屋の主が不在だったが、本神殿に帰ってきたときにまた視ると、この女の姿があったので、予定を変更したのだ。
この部屋は墨と灰の匂いに満ちている。書物の半分は丁寧に棚に納められ、半分は雑に積み上げられている。本棚にあるのは主に経典だ。幼い頃から読んできたためか、ずらりと並ぶ表題を一目見ただけで嫌気が差した。
「お前がメリエさまから盗んだ書物はどれだ」
ジュールの愛想笑いが固まった。ファーランが一歩踏み出すと、反射的にかジュールは仰け反った。それからいつもの人を食ったような笑みを浮かべる。もう遅いというのに。
「『巫』さま、その名は禁じられております。さま付けされるような者でもございません。それに、なにを盗んだなどとおっしゃるのでしょうか。私には心当たりが……」
「誰が、なにを、誰に向かって禁じたと?」
ファーランの唇に刻まれた嘲笑は、ジュールと、自身にも向けられたものだった。
聖人の生まれ変わりと誇りながら、ファーランもエリスも結局は本神殿に首輪で繋がれている。見えないから気づかないだけ。知らされないから気づけない。本神殿は、「巫」のためにある場所ではないと。
そんなこと、とっくの昔にわかっていた。抗えないと諦めていた。けれど、今は。
シルヴァが作り出したこの先で、夢を描いてゆくフェルミアーネの前でだけは。
「ああ、お前に盗んだ自覚がないのはわかっている。お前がメリエさまから黙って借りて、その直後にメリエさまが追放されただけだ。だが、その書物は、元はメリエさまがリューダさまに授けたもので、修繕のために一時的に返されたものだった。それでも心当たりがないなら、こう言おう。――お前が先代から譲渡されたものを出せ」
「なぜ、そんなものを……」
「なぜ?この私が、お前ごときのために説明せねばならないと言うのか?」
ジュールはざあっと青ざめ、ファーランの足元に伏した。他者の前ではどれだけ傲慢に振る舞おうと、ファーランとエリスの前でのジュールは、常に「神の代理人」の誇りゆえにへりくだっている。
「申し訳ありません!出過ぎたことを申しました!私はけして、『巫』さまに邪な思いはなく……!」
「いちいち喚くな。さっさと出せ」
「はい!」
ジュールはささっと書物の方へ進むと、なにがどこに積み上がったのか全部覚えているように、迷いなくそれを取り出し、ファーランへと捧げた。
ファーランは片手でそれを拾うと、やがて口許を緩ませた。
「……やはり残っていたか」
千里眼で見透せば、綴じた紙と紙の間、張り合わせた内側に、シルヴァとリューダの筆跡があった。子どもの落書きのような拙い文字はシルヴァ、流麗なのはリューダ。書物そのものは、ほぼメリエの文字で埋め尽くされている。メリエの形見すら髪紐以外残っていないと言っていたフェルミアーネにとって、とても貴重なものになるはずだ。
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メリエなりのミヨナ教への向き合い方を映すような、そんな物語集。
公表すれば異端の書として非難は免れないそれを、リューダは大切に持っていた。ファーランも内容を知っているのは、幼い頃にリューダが何度か寝物語に読んでくれたからだ。
表題もない、分厚い革の表紙を指先でなぞった。
「……唯一、褒められるとすればこれだけだな。ジュール、よく完全な状態で保管していた」
「こ、光栄です……!」
「気色悪い信仰心も役立つことがあるのだな。ミヨナの姿が描かれたものは異端であろうと燃やすに忍びなく、とはもはや意味がわからないが。先代もそうやって死んだ。シルヴァとリューダさま、フェルミアーネを手にかけた責を取るくらいならば、はじめから殺さなければよかったのに」
「……は……?」
「フェルミアーネを殺し損ねたことにも気づかず無駄死にしたことも褒めてやるべきか。 私たちにも寿命の先があるという、なによりの証が存えていて、伴侶もある。リューダさまの側仕えだったお前すら、気づかずに手駒としていたのも、今思えば滑稽だな。――どこまでも下らない」
ファーランは書物を懐に仕舞うやいなや、呆けているジュールの顎を片手で掴み、瞳を覗き込んだ。意志を持たないことを誇りとする哀れな生け贄は、それすら自覚していないまま、黒目にファーランの激怒する表情を映し込んでいた。
「二年後、私はお前を嗤いながら、お前に殺されてやろう。幸福を思い出した以上、命など簡単にくれてやる。お前は、何一つとして私のものを奪えず、ただ『巫』を殺した罪をもって無為に死ぬのだ」
諦念をかなぐり捨て、憎悪の刃を拾い上げ、叛逆の言葉を紡ぐ。
聖人の生まれ変わりとして。生きている人間として。
こんな者共のために道化になるのは、もうやめだ。
「お前の死は栄誉に値しない。汚辱にまみれた魂を女神が受け入れるかどうか、お前自身で試すがいい」
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ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。
あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて…
あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?
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2021/07/04 カクヨム様にも投稿しました。
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