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コケても歩く
小旅行⑥
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かくり、とナージャの頭が下がり、本当に眠ったようだとリエンは少し離れたが、ぎょっとして逆戻りした。ナージャの鼻からたらりと一筋赤いものが流れていた。
「拭くもの!清潔なもの!ちょうだい!」
誰かから差し出された手巾をナージャの鼻に押しつけ、顔色を見た。昼寝で持ち直したはずが、今は病的に白い。しかし、呼吸は正常だった。熱もないし、血もすぐに止まった。
「あまり揺すってはいけないだろうね。こちらに寝かせよう」
レオンハルトがそう言って、軽々とナージャを抱えて運んだ。部屋の隅に置かれていた長椅子に横たえさせ、髪を分けて頬を撫でた。
「衛兵に父上付きの侍医を呼びに行かせた。あと水とかも用意させてる」
アロイスはそう言うと、ゲオルグから脱いだ上着を放り投げられたので、ターシャに横流しした。ターシャはとっさに受け取ったはいいが、無言で二人を睨み付けた。
「……お前たちの埃を被った汚ならしい上着よりましな寝具にはなるだろう」
「……どうも」
ぶっきらぼうなやり取りの後にナージャの毛布代わりに上着がかけられた。宝石が縫い付けられているし男物の頑丈な革素材なので華奢なナージャには無骨すぎる見た目だが、裏には絹が張っており、手触りと温かさは保証できる。重くて寝苦しいかもしれないが、それもわずかな時間のことだ。
やれることがなくなったミランはやれやれと肩をすくめながらナージャのすぐそばに陣取るリエンを見た。
「アナスタシアは病かな」
「わからない。でも、寝不足気味だったのは確か。それから疲労。きっとここ一ヶ月ほど、心から休めた時間はなかっただろうね」
レオンハルトとターシャが心痛に顔を歪めた。原因という自覚があるらしい。それに近しいはずのミランは相変わらず胡散臭い笑みで適当に相づちを打っており、ゲオルグとアロイスは無言でナージャの寝顔を見下ろしていた。レオンハルトたちが乱入する前、忙しそうに部屋を後にしようとしていたのはなんだったのか、動くそぶりがない。
(……いや、ほんとにナージャ殿下の完封勝利だわ、これ)
殺伐とした空気などとうに霧散している。ナージャが気絶しかけながらもふらりと手を伸ばしたときには確信していたが、こうしてこの面子で穏やかな沈黙の時間を共有できるとはにわかには信じがたい。しかし、これがナージャが押して押して押しまくって得た結果だった。
頑張ったね、と思いを込めてまた額に口づけると、今度はリエンに何ともいえぬ視線が集中した。
「……なにか」
「お前、アナスタシアは王女だぞ」
「知ってるけど、それが?」
「なぜ口づけた」
「称賛の思いを表現したくて」
「他の行為で示せ」
「あ、手の甲か」
なぜそうなる、という反応が返ってきたがリエンは無視した。一応ナージャの手首をやんわりと持って脈の確認をしていたが、やはり穏やかなままだ。
「ナージャ殿下の休む部屋は用意されてるの?まさかあんなことがあった後宮に帰すわけじゃないよね」
「つくづく口の利き方を知らん小娘だな」
「敬意は払ってるつもりだよ、一応。なにせ庶民なもので、貴い方々とのちゃんとしたやり取りの仕方がよくわからない」
ターシャがよく言うぜと肩を竦めていた。レオンハルトの方はまだ衝撃を受けているようだ。それもそうだ。少なくとも彼の目の前ではいつも深窓の令嬢を気取っていたのだから。
「……おれの宮に一室を用意させている」
ゲオルグが渋々と言ったように答え、ついでにレオンハルトとミラン、ターシャの宿もそこに決定した。
派閥のしがらみがない医師というとザクセン王直属しか考えられず、アロイスの手配した侍医はその期待通りに適切にナージャを診察し、リエンからも話を聞き、「過労です」と判断した。ヒュレムのような老爺を想像していたリエンだが、この侍医は比較的若かった。三十歳くらいだろう。明日の朝にまた診察すると言って、看病のことを簡単に告げて帰っていった。
先にアロイスの案内で部屋に向かうことになったナージャを運ぶためにガルダが呼ばれ、その顔を見たレオンハルトが再び固まった。そういえばガルダって近衛騎士長だったな、と内心で手を打ち合わせたリエンである。国賓と面識がないわけがなかった。
「あ、そういえばこの手巾、誰のだろ」
「いい、寄越せ。後で洗濯に出しとく」
横からアロイスに奪われたので、アロイスが出したものだったのかもしれない。
「女王ってありなの?」
「礼儀ってもん知ってるか?」
「あなたたちが頭から否定しなかったことが驚きなんだけど」
「……お前、どうせおれには手打ちにされっこないとか思ってるだろ」
「そんなことはない。少なくとも槍で突かれた時はひやりとした」
複雑な顔で口をもごもごさせたアロイスだが、結局は誉め言葉と受け取ることにしたようだった。
後ろを歩くガルダの懐に、布の塊がある。一応顔の下半分は出しているので人だとはすぐにわかるそれを、アロイスはちらっと見た。
「さっき、お前、完勝と言ったな」
「あの場で何も言わなかったってことは、負けたって自覚があるんでしょ?……ああ、なるほど。潔いんだねえここの王子さまたち」
「……それは絶対褒めてねえだろ」
「感心はしてる」
気性が荒いわりには冷静な判断力あるんだ、という点で。
アロイスはとうとう、げんなりとため息をついた。それがゼンのやっていた仕草に似ていて、リエンはちょっとだけ笑った。
ナージャの素質を認めてしまったからその言い分までついうっかり丸々信じてしまったことが「負け」である。決定打がザクセン王の女王発言というのがナージャ本人には不満でしかないだろうが、それだけ王子たちにとって父王の存在は大きかった。
「飲まねばやってられん」
深更、ゲオルグの堂々たるやけくそ発言で用意された酒類は多種に及ぶ。酒倉から運ばせたものに加え酒杯を適当にくすねてきて、王子たちはみっともなくも床に腰をつけて(外見上は)仲良く酒盛りである。つまみと称してレオンハルトとミラン、ターシャが懐から出したのは干し肉や乾燥果実といった携帯食料だ。これまた王子たちの食卓(床)に並ぶには貧相だが、ジヴェルナの豊かな食事事情とはほぼ正反対に位置するシュバルツなので、誰もがこういった保存食を食べ慣れている。さらにほぼ全員が初陣を済ませた武将でもあり、洗練された宮廷料理だけしか受け付けないような繊細さは持っていない。
一応、王子たちだけの秘密の会談だが、ひとまず全員、空きっ腹に物を詰めていく作業に没頭した。
リエンとガルダには別室に寝かせたナージャの護衛をさせており、この部屋には王子たちしかいない。いくらでも砕けた格好ができた。
「こうして集まるのは初めてだな」
ふとアロイスが呟くと、レオンハルトがそうだねと同意した。
「わざわざ行事もないのに顔を会わせたいと思ったこともないし、周りだってうるさいからね。ゲオルグ、君の叔父上はどうしたんだい?」
「今頃第三妾妃の吊し上げに躍起になっている。アナスタシア同様にフォルカーのことも釘を差しておいた。お前こそデンケル親子を野に放ったのか」
「その言い方は悪意しか感じないんだけど。二人はどこかの誰かに屋敷を燃やされて寝る場所がないので留守番しているよ、きっと」
「きっととはなんだ」
「さあね」
「あんたら、顔つき合わせたらいっつもこうだな」
アロイスは呆れて酒杯を傾けた。異母兄二人の相性の悪さはきっと生まれつきだ。派閥はあんまり関係ない。
「ナージャの推察はどうなんだい」
「お前は」
「私を支持してる人々は反ゲオルグ派としてまとまってるからね。君が私の前に向かい合っている限り、地盤が揺らぐことは早々ない」
「そーそー。おれが加わったっつっても、おれ自身が大した勢力持ってたわけじゃないし、元から一度だって王さまになろうなんて思ったことないし」
「ミラン、じゃあなんでお前、これまでもったいぶってた?」
「アロイス義兄上がそれ言う?あっさり全部をゲオルグ義兄上に差し出したくせに。おれは一番いいタイミングでレオン義兄上の力になりたかっただけだから」
胡散臭い、という視線が集中した。「ね?効果的だったでしょ?」と言われて笑顔で相づちを打っているのはレオンハルトだけだ。ターシャは自分の酒をちびちび飲みつつ横目でミランを睨み付けた。
「隠れ家にいる間、お前しょっちゅう外と連絡取ってただろ。しかも城内のやつ宛て」
「ありゃ、ばれてた?」
「義兄上にわからないように何をやろうとした?この場で釈明してみろよ」
「釈明ねえ……」
「クルトを殺したのはお前じゃないのか」
「まあそうだね」
あっさりした返答に、尋ねたターシャの方が驚いた。ミランはそれを見てにやりと笑んだ。
「正確にはおれの臣下面した馬鹿がやらかしたことだけどね。クルト義兄上が外務大臣の娘と内々に婚約成立したうちに焦って毒をポチャン、だよ。城から逃げ出すときの騒動でそいつは死んじゃったけど」
死んだというか殺されたのだろう。ミランの手によって。
外務大臣は元々ミランの母の縁戚だったが、寝返った彼ではなく寝返らせた王子が毒殺された辺りに、王族の地位の脆さが露見している。
「造反した上に次の寄生先もなくなったから大臣は結構孤立してるらしいね。自業自得だけど。一度はおれに見切りつけたのはいいんだけどさあ、どっち付かずに隠れ家探してて鬱陶しかったからこっちから餌を垂らしたんだよ。そしたら適当な情報しか持ってこないし、教えた偽宿の場所がゲオルグ義兄上に潰し回されてるしで、笑いも出てこなくなったよ。今は第三妾妃と組んでるんじゃない?殺すならクルト義兄上よりそっちの方がよかったのに、本当に馬鹿だよねえ」
「……あー、あのいけすかないおっさん……確かに鬱陶しかったな」
「……ナージャがこの騒動を『下らない』って言ってたのが、よくわかった」
アロイスが同意したことでミランへの疑念はだいたい晴れたものの、ターシャは顔をしかめて酒を勢いよくあおった。
「異常だ。いや、普通かも知れないけど、とことん気に入らない。国の駒になるならともかく誰かの駒になって振り回されるなんざ、気色悪くてたまらない。ナージャのやつ、この辺りも過去視で見たのか……」
「ターシャ」
「義兄上、ナージャがあの場で明らかにしなかったのは、部外者がいたからってだけですよ。ナージャが『巫』であることは、ジヴェルナの王子王女も、ついでに神聖王国から留学してたらしいやつにも伝わってない」
レオンハルトは心配そうな顔になり、ミランは笑みを保ちつつもちょっぴり眉を寄せた。ゲオルグは素早くそれらを確認して酒杯を床に置いた。
「父上の寵愛の理由はそれか」
「……えっ、まじで?」
「アナスタシオス、あの子の力はこんなところで披露していいものじゃないと思うけど?」
「違う。この場じゃないといけないから言ってる。ナージャの力は眉唾物なんかじゃなく、本物なんだ。特にここ数週間はしょっちゅうそうして夢を見てる」
暗にレオンハルトとミランに向けて告げられた意味に、もちろん二人は気づいた。狂言でしかなかったはずが――ターシャは小さく頷いた。
留学から帰ってきてナージャのとんでもない博打を知ったレオンハルトは、独自に「巫」について調べていた。その能力の種類、特徴、影響、末路まで。シュバルツの歴史に散見された例は四つで、残された情報が少ないながらも、きっとナージャが博打に出る前にやってみせたように、「巫」について正しく認識する作業に没頭した。
たとえば「巫」はミヨナ教における聖人の生まれ変わりだとか。能力は万能ではなく、自在に使えるものでもなかったとか。
――たとえば、どんなに生活に恵まれていたとしても、総じて決まった年齢に落命するか廃人となる、とか。
一気に青ざめたレオンハルトの手から酒杯が滑り落ち、床に酒が飛び散った。
「うわっ、義兄上」
「……あ、ああ、すまないミラン」
「父上がお認めになるとは、よほどに有用なものか。迷信に傾倒するようなお人ではないはずだ」
珍しいことに、ターシャは動揺するレオンハルトを気遣うことなくゲオルグに応えた。
「ナージャは陛下が知ってることでおれらが知らないことを証明とした。グレスディルの和議の直後、陛下が当時王子として己の婚約者にクララさまを指名し、人質としてジヴェルナへ送った」
一同絶句した。
「ちなみにあの『ジヴェルナの守り刀』も、その事実を知らないそうだ」
「……馬鹿な!あの老爺が娘をやすやすと差し出したわけがない!だいたい婚姻にも悶着があったからおれの母が第一妾妃になったのだぞ!」
「クララさまは独断で陛下の指名に乗ったそうだ。数年ジヴェルナでお過ごしになり、帰ってこられた時にはもう婚約は形骸化していたから、誰でも割り込めたってことだろう。陛下自身もそこら辺は本当にどうでもよかったらしいな。クララさまを指名したのも、一番価値がありかつ自分に忠実だと見込んだからだろう」
ジヴェルナとしても、シュバルツ王家直系の姫を掌中に収めておいて損はなかった。エルサに求婚した直後だったから婚約者云々はお互い建前という認識ではあったが、ザクセン王子が国内の平定に失敗したときにはクララ姫を次期女王に立ててシュバルツへ侵攻し、事実上ジヴェルナの属国にすることだって視野に入れていたはずだ。だからその時までクララの存在は両国の間で極限まで秘された。そして、ザクセン王子が王になる目処がついたので人質としての価値が失われた。
クララ姫をジヴェルナに預けたことで受けた支援もあったはずだが、ザクセンは帰ってきた彼女を厚遇することもなく放置した。結果が妾妃という不名誉余りある地位の確立だ。
ザクセン本人から「種明かし」されたナージャも、それを伝え聞いたターシャも、よくも母とオイゲンとじいやはあの腐れ外道国王を血祭りに上げなかったものだとむしろ尊敬した。ゲオルグたちでさえ今話を聞いて、全力で顔面をひきつらせているというのに。
実際、憤怒に突っ走る彼らを、クララ妃が止めたのだろう。
「ナージャの力はある意味防諜のしようがないほど規格外のものだけど、自分が生まれる前のことしか知れないとかいう制約もあるし、ひとつの出来事を全部つまびらかに知るなんてのもできない。役立てるにも努力がいるんだよ。それから……」
ターシャは一旦言葉を切り、震える吐息を漏らした。あの時両頬に添えられた手のひらの感触が、まざまざと蘇ってきた。一度は離してしまった手。
「……ナージャは、これから長く生きられない。あいつがお前らを制して女王になっても、長く統治できなけりゃ意味がない」
とてつもなく静かな声だった。
ターシャはもう双子の片割れの運命を受け止めているのだと、レオンハルトは愕然としながらも思い知らずにはいられなかった。
「長く生きられないってのはどういうわけだ」
「『巫』ってのはそういうもんだとさ。長生きした例はないし早世が常。調べりゃわかることだ。陛下もそれを受けて、近年中にナージャのために一家を立てることを決めた。外見上は臣籍降嫁だが、ナージャに相談役として国政に関与できる権力を与えるためだ」
「ああ、臣下じゃなくなったのって……そういう……」
「で、だ。老い先短いナージャの目の前で、下らない戦争なんざやらせるわけにいかない。少なくとも兄弟喧嘩に水を差しまくる馬鹿どもは排除一択だろ」
ターシャは一息ついて、また勢いよく酒を飲み干した。
「おれたちは王族だ。シュバルツの未来を背負ってる。断じてその誇りは汚されるべきものではない。ましてや己の利権だけを望むようなくそったれの駒に成り下がるわけにはいけないんだよ」
それは誰も否定するところではない。一大勢力を率いてきた信念と実績とを兼ね備えているからこそ、この場にいる王子たちは特に矜持が高いのだ。他者を利用するならともかく、利用される?ちらっと考えるだけでも全員の瞳に怒りが宿る。彼らはそんなことのために王位を目指しているわけじゃなかった。
「仕切り直すのはいい考えだね。今回はきっかけがきっかけだから、私かゲオルグのどちらかが死んでもそれで終わりにはならない。でもね、ミラン、君も先に言ってくれたらよかったのに」
「『身内に裏切られまくられちゃいましたアハッ』とか言えるわけないでしょ!?おれはゲオルグ義兄上が死んでもちゃんとレオン義兄上のこと補佐できる気でいたし!目指せ宰相位!叩き潰せ開戦派!軍事費をジヴェルナとの流通拡大へ横流し!」
「持ち前の胡散臭さどこ行ったってくらい正直っつーか、野望が具体的だな」
「まあねー。でも、今のままじゃ足りないよね、仕切り直すには。ねえ、ゲオルグ義兄上?」
しれっとレオンハルトたちが城に戻ってきたからといって、過熱した勢力争いが簡単に沈静化するわけがない。ゲオルグたち王子を抑えたとしても、所詮ナージャが無力なことには代わりなく、焼け石に水止まりだ。
「第三妾妃だって、アナスタシアへ危害を加えたって言っても言い逃れできる範囲だし?クルト義兄上の派閥もそろそろ爆発しそうだし?まあ煽ったのおれだけど」
「ミラン、お前、ろくなことしてねえな」
「なにせ時間だけはあったからねえここ一年ほどは。クルト義兄上の暗殺は予定外で焦ったけど、案外今日まで保ってるから運がよかったよ」
「……一年って。お前ほんっと胡散臭い奴だな」
アロイスが呆れ果てたのも当然だった。王子それぞれの勢力が激変したのが二ヶ月ほど前だが、ミランはそれよりもはるか以前からレオンハルトへ恭順の意志を示していたらしい。というか一年前といえば、レオンハルトが留学から帰った直後だ。
もうじき、いそいそコツコツと裏工作に励んだその成果がそろそろ出るわけだが、ミランは面倒そうだった。状況が変わった今では爆発などさせてはたまらないので。
「ちょうどいい機会だ」
これまで黙って異母弟たちのやり取りを聞いていたゲオルグは、顎を撫でながらそう呟いた。灰色の瞳が誰よりも鋭く振り向いたが、不敵に笑って返す。
鉾を収めるに足りないならば、足りる理由をでっちあげればよいのだ。
☆☆☆
ゲオルグの宮とは、軍部の一棟を、後見に裏打ちされた王子権限で私有化したものを指す。レオンハルトたちにとってはもちろん敵陣ど真ん中だが、ゲオルグが正式に招いたのだから不手際はゲオルグの失点となる。さすがにそんな状況でやからすような愚か者はこの宮には近づけない。 レオンハルトの臣下だったナージャを診察するために侍医が訪れた時も同じだ。リエンとガルダはナージャの眠る部屋で交代で休息して夜を明かしたが、後宮よりは寛ぐことができた。
ナージャもまた、早朝からさっぱりした顔で起き上がり、昨日のうちに処方された薬湯を飲んでいた。
「久しぶりに夢を見ずにぐっすり眠れました。これで今日も頑張れます」
「多分、あなたのお兄さんたち、みんな許さないと思うけどね」
「え?」
「本日まではごゆっくりとお休みになられた方がいいかと」
侍医が診察の片付けをしつつ口を挟んだ。ナージャにやはり特別な病の傾向はなく、過労という診断が明確になっただけだった。
侍医が席を立ったので帰るのかと思ったが、彼はナージャに向かって人払いを求めた。ナージャは一瞬驚いていたものの、その理由に心当たりがあるようではあった。リエンとガルダは素直に部屋から出ていき、代わりに王子たちがぞろぞろと入っていった。人払いは王族除外らしく、そのまま扉がぱたりと閉ざされた。
「……ナージャ殿下、ほんとに今日は一歩も部屋から出られないんじゃない?」
「それどころか寝台に縛りつけられるんじゃないですか?」
「ありえるわ、それ」
侍医の診察が終わるのを雁首揃えて待ち構えていた王子たちは、まさに妹を心配する兄の風情であった。レオンハルトとターシャを除いて表情には全く出ていない兄たちだったが、心配していなければなぜ大人しく廊下に整列までしていたのかという話だ。不毛な口論も一切なく、出てきたリエンとガルダを侍医と見間違えて一斉に身を乗り出してきたくらいだ。
その様子を思い出し、リエンとガルダは肩を竦めてこっそりと笑い合った。
「拭くもの!清潔なもの!ちょうだい!」
誰かから差し出された手巾をナージャの鼻に押しつけ、顔色を見た。昼寝で持ち直したはずが、今は病的に白い。しかし、呼吸は正常だった。熱もないし、血もすぐに止まった。
「あまり揺すってはいけないだろうね。こちらに寝かせよう」
レオンハルトがそう言って、軽々とナージャを抱えて運んだ。部屋の隅に置かれていた長椅子に横たえさせ、髪を分けて頬を撫でた。
「衛兵に父上付きの侍医を呼びに行かせた。あと水とかも用意させてる」
アロイスはそう言うと、ゲオルグから脱いだ上着を放り投げられたので、ターシャに横流しした。ターシャはとっさに受け取ったはいいが、無言で二人を睨み付けた。
「……お前たちの埃を被った汚ならしい上着よりましな寝具にはなるだろう」
「……どうも」
ぶっきらぼうなやり取りの後にナージャの毛布代わりに上着がかけられた。宝石が縫い付けられているし男物の頑丈な革素材なので華奢なナージャには無骨すぎる見た目だが、裏には絹が張っており、手触りと温かさは保証できる。重くて寝苦しいかもしれないが、それもわずかな時間のことだ。
やれることがなくなったミランはやれやれと肩をすくめながらナージャのすぐそばに陣取るリエンを見た。
「アナスタシアは病かな」
「わからない。でも、寝不足気味だったのは確か。それから疲労。きっとここ一ヶ月ほど、心から休めた時間はなかっただろうね」
レオンハルトとターシャが心痛に顔を歪めた。原因という自覚があるらしい。それに近しいはずのミランは相変わらず胡散臭い笑みで適当に相づちを打っており、ゲオルグとアロイスは無言でナージャの寝顔を見下ろしていた。レオンハルトたちが乱入する前、忙しそうに部屋を後にしようとしていたのはなんだったのか、動くそぶりがない。
(……いや、ほんとにナージャ殿下の完封勝利だわ、これ)
殺伐とした空気などとうに霧散している。ナージャが気絶しかけながらもふらりと手を伸ばしたときには確信していたが、こうしてこの面子で穏やかな沈黙の時間を共有できるとはにわかには信じがたい。しかし、これがナージャが押して押して押しまくって得た結果だった。
頑張ったね、と思いを込めてまた額に口づけると、今度はリエンに何ともいえぬ視線が集中した。
「……なにか」
「お前、アナスタシアは王女だぞ」
「知ってるけど、それが?」
「なぜ口づけた」
「称賛の思いを表現したくて」
「他の行為で示せ」
「あ、手の甲か」
なぜそうなる、という反応が返ってきたがリエンは無視した。一応ナージャの手首をやんわりと持って脈の確認をしていたが、やはり穏やかなままだ。
「ナージャ殿下の休む部屋は用意されてるの?まさかあんなことがあった後宮に帰すわけじゃないよね」
「つくづく口の利き方を知らん小娘だな」
「敬意は払ってるつもりだよ、一応。なにせ庶民なもので、貴い方々とのちゃんとしたやり取りの仕方がよくわからない」
ターシャがよく言うぜと肩を竦めていた。レオンハルトの方はまだ衝撃を受けているようだ。それもそうだ。少なくとも彼の目の前ではいつも深窓の令嬢を気取っていたのだから。
「……おれの宮に一室を用意させている」
ゲオルグが渋々と言ったように答え、ついでにレオンハルトとミラン、ターシャの宿もそこに決定した。
派閥のしがらみがない医師というとザクセン王直属しか考えられず、アロイスの手配した侍医はその期待通りに適切にナージャを診察し、リエンからも話を聞き、「過労です」と判断した。ヒュレムのような老爺を想像していたリエンだが、この侍医は比較的若かった。三十歳くらいだろう。明日の朝にまた診察すると言って、看病のことを簡単に告げて帰っていった。
先にアロイスの案内で部屋に向かうことになったナージャを運ぶためにガルダが呼ばれ、その顔を見たレオンハルトが再び固まった。そういえばガルダって近衛騎士長だったな、と内心で手を打ち合わせたリエンである。国賓と面識がないわけがなかった。
「あ、そういえばこの手巾、誰のだろ」
「いい、寄越せ。後で洗濯に出しとく」
横からアロイスに奪われたので、アロイスが出したものだったのかもしれない。
「女王ってありなの?」
「礼儀ってもん知ってるか?」
「あなたたちが頭から否定しなかったことが驚きなんだけど」
「……お前、どうせおれには手打ちにされっこないとか思ってるだろ」
「そんなことはない。少なくとも槍で突かれた時はひやりとした」
複雑な顔で口をもごもごさせたアロイスだが、結局は誉め言葉と受け取ることにしたようだった。
後ろを歩くガルダの懐に、布の塊がある。一応顔の下半分は出しているので人だとはすぐにわかるそれを、アロイスはちらっと見た。
「さっき、お前、完勝と言ったな」
「あの場で何も言わなかったってことは、負けたって自覚があるんでしょ?……ああ、なるほど。潔いんだねえここの王子さまたち」
「……それは絶対褒めてねえだろ」
「感心はしてる」
気性が荒いわりには冷静な判断力あるんだ、という点で。
アロイスはとうとう、げんなりとため息をついた。それがゼンのやっていた仕草に似ていて、リエンはちょっとだけ笑った。
ナージャの素質を認めてしまったからその言い分までついうっかり丸々信じてしまったことが「負け」である。決定打がザクセン王の女王発言というのがナージャ本人には不満でしかないだろうが、それだけ王子たちにとって父王の存在は大きかった。
「飲まねばやってられん」
深更、ゲオルグの堂々たるやけくそ発言で用意された酒類は多種に及ぶ。酒倉から運ばせたものに加え酒杯を適当にくすねてきて、王子たちはみっともなくも床に腰をつけて(外見上は)仲良く酒盛りである。つまみと称してレオンハルトとミラン、ターシャが懐から出したのは干し肉や乾燥果実といった携帯食料だ。これまた王子たちの食卓(床)に並ぶには貧相だが、ジヴェルナの豊かな食事事情とはほぼ正反対に位置するシュバルツなので、誰もがこういった保存食を食べ慣れている。さらにほぼ全員が初陣を済ませた武将でもあり、洗練された宮廷料理だけしか受け付けないような繊細さは持っていない。
一応、王子たちだけの秘密の会談だが、ひとまず全員、空きっ腹に物を詰めていく作業に没頭した。
リエンとガルダには別室に寝かせたナージャの護衛をさせており、この部屋には王子たちしかいない。いくらでも砕けた格好ができた。
「こうして集まるのは初めてだな」
ふとアロイスが呟くと、レオンハルトがそうだねと同意した。
「わざわざ行事もないのに顔を会わせたいと思ったこともないし、周りだってうるさいからね。ゲオルグ、君の叔父上はどうしたんだい?」
「今頃第三妾妃の吊し上げに躍起になっている。アナスタシア同様にフォルカーのことも釘を差しておいた。お前こそデンケル親子を野に放ったのか」
「その言い方は悪意しか感じないんだけど。二人はどこかの誰かに屋敷を燃やされて寝る場所がないので留守番しているよ、きっと」
「きっととはなんだ」
「さあね」
「あんたら、顔つき合わせたらいっつもこうだな」
アロイスは呆れて酒杯を傾けた。異母兄二人の相性の悪さはきっと生まれつきだ。派閥はあんまり関係ない。
「ナージャの推察はどうなんだい」
「お前は」
「私を支持してる人々は反ゲオルグ派としてまとまってるからね。君が私の前に向かい合っている限り、地盤が揺らぐことは早々ない」
「そーそー。おれが加わったっつっても、おれ自身が大した勢力持ってたわけじゃないし、元から一度だって王さまになろうなんて思ったことないし」
「ミラン、じゃあなんでお前、これまでもったいぶってた?」
「アロイス義兄上がそれ言う?あっさり全部をゲオルグ義兄上に差し出したくせに。おれは一番いいタイミングでレオン義兄上の力になりたかっただけだから」
胡散臭い、という視線が集中した。「ね?効果的だったでしょ?」と言われて笑顔で相づちを打っているのはレオンハルトだけだ。ターシャは自分の酒をちびちび飲みつつ横目でミランを睨み付けた。
「隠れ家にいる間、お前しょっちゅう外と連絡取ってただろ。しかも城内のやつ宛て」
「ありゃ、ばれてた?」
「義兄上にわからないように何をやろうとした?この場で釈明してみろよ」
「釈明ねえ……」
「クルトを殺したのはお前じゃないのか」
「まあそうだね」
あっさりした返答に、尋ねたターシャの方が驚いた。ミランはそれを見てにやりと笑んだ。
「正確にはおれの臣下面した馬鹿がやらかしたことだけどね。クルト義兄上が外務大臣の娘と内々に婚約成立したうちに焦って毒をポチャン、だよ。城から逃げ出すときの騒動でそいつは死んじゃったけど」
死んだというか殺されたのだろう。ミランの手によって。
外務大臣は元々ミランの母の縁戚だったが、寝返った彼ではなく寝返らせた王子が毒殺された辺りに、王族の地位の脆さが露見している。
「造反した上に次の寄生先もなくなったから大臣は結構孤立してるらしいね。自業自得だけど。一度はおれに見切りつけたのはいいんだけどさあ、どっち付かずに隠れ家探してて鬱陶しかったからこっちから餌を垂らしたんだよ。そしたら適当な情報しか持ってこないし、教えた偽宿の場所がゲオルグ義兄上に潰し回されてるしで、笑いも出てこなくなったよ。今は第三妾妃と組んでるんじゃない?殺すならクルト義兄上よりそっちの方がよかったのに、本当に馬鹿だよねえ」
「……あー、あのいけすかないおっさん……確かに鬱陶しかったな」
「……ナージャがこの騒動を『下らない』って言ってたのが、よくわかった」
アロイスが同意したことでミランへの疑念はだいたい晴れたものの、ターシャは顔をしかめて酒を勢いよくあおった。
「異常だ。いや、普通かも知れないけど、とことん気に入らない。国の駒になるならともかく誰かの駒になって振り回されるなんざ、気色悪くてたまらない。ナージャのやつ、この辺りも過去視で見たのか……」
「ターシャ」
「義兄上、ナージャがあの場で明らかにしなかったのは、部外者がいたからってだけですよ。ナージャが『巫』であることは、ジヴェルナの王子王女も、ついでに神聖王国から留学してたらしいやつにも伝わってない」
レオンハルトは心配そうな顔になり、ミランは笑みを保ちつつもちょっぴり眉を寄せた。ゲオルグは素早くそれらを確認して酒杯を床に置いた。
「父上の寵愛の理由はそれか」
「……えっ、まじで?」
「アナスタシオス、あの子の力はこんなところで披露していいものじゃないと思うけど?」
「違う。この場じゃないといけないから言ってる。ナージャの力は眉唾物なんかじゃなく、本物なんだ。特にここ数週間はしょっちゅうそうして夢を見てる」
暗にレオンハルトとミランに向けて告げられた意味に、もちろん二人は気づいた。狂言でしかなかったはずが――ターシャは小さく頷いた。
留学から帰ってきてナージャのとんでもない博打を知ったレオンハルトは、独自に「巫」について調べていた。その能力の種類、特徴、影響、末路まで。シュバルツの歴史に散見された例は四つで、残された情報が少ないながらも、きっとナージャが博打に出る前にやってみせたように、「巫」について正しく認識する作業に没頭した。
たとえば「巫」はミヨナ教における聖人の生まれ変わりだとか。能力は万能ではなく、自在に使えるものでもなかったとか。
――たとえば、どんなに生活に恵まれていたとしても、総じて決まった年齢に落命するか廃人となる、とか。
一気に青ざめたレオンハルトの手から酒杯が滑り落ち、床に酒が飛び散った。
「うわっ、義兄上」
「……あ、ああ、すまないミラン」
「父上がお認めになるとは、よほどに有用なものか。迷信に傾倒するようなお人ではないはずだ」
珍しいことに、ターシャは動揺するレオンハルトを気遣うことなくゲオルグに応えた。
「ナージャは陛下が知ってることでおれらが知らないことを証明とした。グレスディルの和議の直後、陛下が当時王子として己の婚約者にクララさまを指名し、人質としてジヴェルナへ送った」
一同絶句した。
「ちなみにあの『ジヴェルナの守り刀』も、その事実を知らないそうだ」
「……馬鹿な!あの老爺が娘をやすやすと差し出したわけがない!だいたい婚姻にも悶着があったからおれの母が第一妾妃になったのだぞ!」
「クララさまは独断で陛下の指名に乗ったそうだ。数年ジヴェルナでお過ごしになり、帰ってこられた時にはもう婚約は形骸化していたから、誰でも割り込めたってことだろう。陛下自身もそこら辺は本当にどうでもよかったらしいな。クララさまを指名したのも、一番価値がありかつ自分に忠実だと見込んだからだろう」
ジヴェルナとしても、シュバルツ王家直系の姫を掌中に収めておいて損はなかった。エルサに求婚した直後だったから婚約者云々はお互い建前という認識ではあったが、ザクセン王子が国内の平定に失敗したときにはクララ姫を次期女王に立ててシュバルツへ侵攻し、事実上ジヴェルナの属国にすることだって視野に入れていたはずだ。だからその時までクララの存在は両国の間で極限まで秘された。そして、ザクセン王子が王になる目処がついたので人質としての価値が失われた。
クララ姫をジヴェルナに預けたことで受けた支援もあったはずだが、ザクセンは帰ってきた彼女を厚遇することもなく放置した。結果が妾妃という不名誉余りある地位の確立だ。
ザクセン本人から「種明かし」されたナージャも、それを伝え聞いたターシャも、よくも母とオイゲンとじいやはあの腐れ外道国王を血祭りに上げなかったものだとむしろ尊敬した。ゲオルグたちでさえ今話を聞いて、全力で顔面をひきつらせているというのに。
実際、憤怒に突っ走る彼らを、クララ妃が止めたのだろう。
「ナージャの力はある意味防諜のしようがないほど規格外のものだけど、自分が生まれる前のことしか知れないとかいう制約もあるし、ひとつの出来事を全部つまびらかに知るなんてのもできない。役立てるにも努力がいるんだよ。それから……」
ターシャは一旦言葉を切り、震える吐息を漏らした。あの時両頬に添えられた手のひらの感触が、まざまざと蘇ってきた。一度は離してしまった手。
「……ナージャは、これから長く生きられない。あいつがお前らを制して女王になっても、長く統治できなけりゃ意味がない」
とてつもなく静かな声だった。
ターシャはもう双子の片割れの運命を受け止めているのだと、レオンハルトは愕然としながらも思い知らずにはいられなかった。
「長く生きられないってのはどういうわけだ」
「『巫』ってのはそういうもんだとさ。長生きした例はないし早世が常。調べりゃわかることだ。陛下もそれを受けて、近年中にナージャのために一家を立てることを決めた。外見上は臣籍降嫁だが、ナージャに相談役として国政に関与できる権力を与えるためだ」
「ああ、臣下じゃなくなったのって……そういう……」
「で、だ。老い先短いナージャの目の前で、下らない戦争なんざやらせるわけにいかない。少なくとも兄弟喧嘩に水を差しまくる馬鹿どもは排除一択だろ」
ターシャは一息ついて、また勢いよく酒を飲み干した。
「おれたちは王族だ。シュバルツの未来を背負ってる。断じてその誇りは汚されるべきものではない。ましてや己の利権だけを望むようなくそったれの駒に成り下がるわけにはいけないんだよ」
それは誰も否定するところではない。一大勢力を率いてきた信念と実績とを兼ね備えているからこそ、この場にいる王子たちは特に矜持が高いのだ。他者を利用するならともかく、利用される?ちらっと考えるだけでも全員の瞳に怒りが宿る。彼らはそんなことのために王位を目指しているわけじゃなかった。
「仕切り直すのはいい考えだね。今回はきっかけがきっかけだから、私かゲオルグのどちらかが死んでもそれで終わりにはならない。でもね、ミラン、君も先に言ってくれたらよかったのに」
「『身内に裏切られまくられちゃいましたアハッ』とか言えるわけないでしょ!?おれはゲオルグ義兄上が死んでもちゃんとレオン義兄上のこと補佐できる気でいたし!目指せ宰相位!叩き潰せ開戦派!軍事費をジヴェルナとの流通拡大へ横流し!」
「持ち前の胡散臭さどこ行ったってくらい正直っつーか、野望が具体的だな」
「まあねー。でも、今のままじゃ足りないよね、仕切り直すには。ねえ、ゲオルグ義兄上?」
しれっとレオンハルトたちが城に戻ってきたからといって、過熱した勢力争いが簡単に沈静化するわけがない。ゲオルグたち王子を抑えたとしても、所詮ナージャが無力なことには代わりなく、焼け石に水止まりだ。
「第三妾妃だって、アナスタシアへ危害を加えたって言っても言い逃れできる範囲だし?クルト義兄上の派閥もそろそろ爆発しそうだし?まあ煽ったのおれだけど」
「ミラン、お前、ろくなことしてねえな」
「なにせ時間だけはあったからねえここ一年ほどは。クルト義兄上の暗殺は予定外で焦ったけど、案外今日まで保ってるから運がよかったよ」
「……一年って。お前ほんっと胡散臭い奴だな」
アロイスが呆れ果てたのも当然だった。王子それぞれの勢力が激変したのが二ヶ月ほど前だが、ミランはそれよりもはるか以前からレオンハルトへ恭順の意志を示していたらしい。というか一年前といえば、レオンハルトが留学から帰った直後だ。
もうじき、いそいそコツコツと裏工作に励んだその成果がそろそろ出るわけだが、ミランは面倒そうだった。状況が変わった今では爆発などさせてはたまらないので。
「ちょうどいい機会だ」
これまで黙って異母弟たちのやり取りを聞いていたゲオルグは、顎を撫でながらそう呟いた。灰色の瞳が誰よりも鋭く振り向いたが、不敵に笑って返す。
鉾を収めるに足りないならば、足りる理由をでっちあげればよいのだ。
☆☆☆
ゲオルグの宮とは、軍部の一棟を、後見に裏打ちされた王子権限で私有化したものを指す。レオンハルトたちにとってはもちろん敵陣ど真ん中だが、ゲオルグが正式に招いたのだから不手際はゲオルグの失点となる。さすがにそんな状況でやからすような愚か者はこの宮には近づけない。 レオンハルトの臣下だったナージャを診察するために侍医が訪れた時も同じだ。リエンとガルダはナージャの眠る部屋で交代で休息して夜を明かしたが、後宮よりは寛ぐことができた。
ナージャもまた、早朝からさっぱりした顔で起き上がり、昨日のうちに処方された薬湯を飲んでいた。
「久しぶりに夢を見ずにぐっすり眠れました。これで今日も頑張れます」
「多分、あなたのお兄さんたち、みんな許さないと思うけどね」
「え?」
「本日まではごゆっくりとお休みになられた方がいいかと」
侍医が診察の片付けをしつつ口を挟んだ。ナージャにやはり特別な病の傾向はなく、過労という診断が明確になっただけだった。
侍医が席を立ったので帰るのかと思ったが、彼はナージャに向かって人払いを求めた。ナージャは一瞬驚いていたものの、その理由に心当たりがあるようではあった。リエンとガルダは素直に部屋から出ていき、代わりに王子たちがぞろぞろと入っていった。人払いは王族除外らしく、そのまま扉がぱたりと閉ざされた。
「……ナージャ殿下、ほんとに今日は一歩も部屋から出られないんじゃない?」
「それどころか寝台に縛りつけられるんじゃないですか?」
「ありえるわ、それ」
侍医の診察が終わるのを雁首揃えて待ち構えていた王子たちは、まさに妹を心配する兄の風情であった。レオンハルトとターシャを除いて表情には全く出ていない兄たちだったが、心配していなければなぜ大人しく廊下に整列までしていたのかという話だ。不毛な口論も一切なく、出てきたリエンとガルダを侍医と見間違えて一斉に身を乗り出してきたくらいだ。
その様子を思い出し、リエンとガルダは肩を竦めてこっそりと笑い合った。
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