孤独な王女

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コケても歩く

小旅行⑤

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 まさに一触即発の空気だった。
 ゲオルグとアロイスが視線だけで射殺しそうな眼力でレオンハルトとナージャを睨んでいる。入り口に佇むターシャ(女装はしてない)も殺気立っている。
 レオンハルトはナージャに笑いかけると、ゆっくりとゲオルグとアロイスに振り返った。

「可愛い妹を寄ってたかっていじめるとは、兄としてなってないんじゃないかな?」
「――黙れ、レオンハルト」

 ナージャに向けたものより何十倍も憎しみのこもった声が、ゲオルグの口から漏れた。

「落ちぶれたものだな。そこの小娘に頼らなければあなぐらから出てこれなかったとは。お前の祖父も嘆こうよ。とんだ腰抜けだ」
「腰抜けは君だろう?母や叔父の傀儡になって偉ぶっている君のようには、私は到底なれないね。恥ずかしすぎて」

 このレオンハルトの物言いに一番驚いたのはリエンだ。柔和で温厚な顔をしておいて、ゲオルグに対しては釘を打ち付けるように語気が強く、嫌みだって言うし、せせら笑ったりもする。ちょっと新鮮だ。

「やってるねぇ」

 リエンの隣にとんと足を鳴らして並び立った男から、そんな暢気な感想が漏れた。リエンの顔を覗き込むその男の眉は細く、顎が尖っている。文官のような雰囲気のレオンハルトほどの体の厚みもなく、武人のようなゲオルグたちとは明らかに毛並みが違うが、風貌はどことなく似ていた。

「やあどうも、傭兵くん」
「ミラン」

 ターシャの制止の呼びかけで確信した。第五王子――いや、空席ができたから第四王子に繰り上がった男。第二王子派につくことを宣言したという王子。レオンハルトとは違い胡散臭い笑みを浮かべていたのだが、むっとしたようにターシャを振り返った。

「お前ね、仮にもお兄さまを呼び捨てにするなよ」
「黙れ愚兄」
「うっわあ可愛くない異母弟だなぁ!アナスタシア、君の双子の兄がおれに対して失礼なんだよ!」
「ミランお義兄さまお静かにお願いしますね」
「こっちも冷たい!」

 低温な賑わいをこっそり距離を取りつつ見ていると、外をうろちょろしていたガルダから呼ばれたので、もたらされた情報に耳を傾ける。リエンの確保した捕虜はゲオルグたちに認知されていない。ゼンの部下が密かに面倒を見ているはずだった。

「……第三妾妃って確かフリーセアと親密なんだっけ」
「東の貴婦人はそうおっしゃっていたはず」
「ゼンはなんて?」
「可能性としては高いが、直に探りを入れるには目立ちすぎて不可能だと」
「それもそうだよね、じゃあ他の要素から潰していって。少なくとも王子たち本人の意志かどうかは確かめたい」
「わかった」
「ところでガルダもゲオルグに欲しがられたりしたの?」
「嫌ですって断ったけども、リィもか」
「殺気はやめとこうか。ジヴェルナの手先だからって処刑するより、もったいないから寝返らせようって魂胆だよ」
「おれはしっかりきっぱりはっきり断った」
「うん、私としても転職されたら困る」

 えっとガルダが目を見開いた。リエンはそれに気づかず、再び室内に視線を巡らせた。異母兄たちの嫌みの応酬やらなんやらをナージャが窘め、ターシャも手伝っている。アロイスとミランはそれぞれやいのやいのと首魁を煽っているので、今のところ、リエンとガルダのやり取りはまだ注目を集めていない。

「じゃあよろしく」
「えっちょっとリィ」

 言いかけるガルダの眼前で、無情にも扉が閉ざされた。その直後、振り返ったリエンは「あ」と声を漏らした。

「――いい加減に……」
「は、ちょ、おいナージャ待て」
「してください!!」

 スッパアアアアン! と大変清々しい効果音が鳴り響き、室内に静寂が舞い降りた。
 みな思わず口を閉じ、神妙な顔になった。その視線の中心には肩をいからせたナージャがいる。王女らしからぬ仁王立ちで、片手を思いきり振り下ろした格好から、ゆっくりと体を起こしてゆく。そんなナージャを止めるために腕を伸ばした中途半端な格好で固まっていたターシャは、ぎこちなく首を動かした。ナージャの振り下ろした手が握っているもの、それは……。

「ナ、ナージャ、それは、なんだ」
「ハリセンというらしいわ。紙で作る高級かつお手軽な道具だって」
「お手軽!?」
「私のように非力でもそれなりの威力が出るの。拳骨より痛くない手段をリィが教えてくれたの」
「……あんたの入れ知恵かよ!」

 ちなみに先ほど叩いたのはテーブルだ。いい音がした、とリエンは睨まれているにも関わらずしみじみと頷いた。

「庶民の間で使われてるよ」
「なんっでガセって言葉は知らねえのにこれは知ってんだよ!!」
「ちゃんと思い出してみたら、美希も一回だけふざけて使ってた。もったいないよね」
「いや誰だよそいつ!?」

 内宮に呼ばれるまでナージャに相談を受けて作成したのはリエンである。拳骨で連想するのがゼンとバルトだった時点で、連鎖的にアスガロを思い出したのは仕方ないことだった。振り方の指導もした。

「お義兄さま方、そこに直ってくださいな」

 可憐な笑顔の小柄な王女がとんでもない凶器を持っている現状を、ターシャ以外は全く受け付けられないようだった。レオンハルトでさえひきつった笑顔で硬直している。

「ただのお仕置きに使うつもりでしたが、言っても聞かないならこうするしかありませんよね?責任に応じて平等に、ですからね――こうです!」

 ゲオルグの頭がしばかれ、次にレオンハルトの頭へハリセンが閃く。アロイスは顔面を横殴りにされ、ふうっと一呼吸置いて態勢を整えてからの強烈な一打がミランの脳天に襲いかかった。

「なんでおれだけ顔面!?」
「気分です」

 ナージャはぱしりと自分の手にハリセンを軽く打った。いい運動をしたとばかりに顔の血色がよくなっている。

「いいですか、今は暢気に言い争いをしている場合ではないのです。今こうして無駄ないがみ合いをしているから、シュバルツに付け込む絶好の機会だとか散々に言われてしまうんです。お隣が非戦の国で運が良かったですね!」
「ナージャ殿下、夕べの件にフリーセアが関与してる疑いあり」

 しれっとリエンが報告すると、王子たちの目が一斉に集まった。その気まずそうな顔を見るにすっかり忘れていたようだが、ここには身内以外もいたのである。もちろんナージャは異母兄たちのそんな動揺には構わなかった。

「どういうことですか、リィ」
「第三妾妃の指示だと証言した者がいた」 

 王子の位と同様に妾妃の地位も逐一変動しており、今の第三妾妃は第六、否、第五王子の母だ。生家はフリーセアと国境を接する港湾都市を治める土豪で、後宮内でもそれなりに地位が固い。その息子については上の王子たちの勢力が過大だったため、これまでは跡目争いに参戦していても目立たなかった。しかし今は状況が異なる。

「うちに打撃を与えるついでに、第一王子派に咎を擦り付けるところまで折り込み済みって考え?」

 真っ先にそう尋ねてきたのがミランだった。ゲオルグたちのところまで言及する辺り、頭の回転が速い。

「そこまでの情報はない」
「君の意見は?」
「……派閥の内情に詳しくないことが前提だけど、第一王子派は軍閥だと聞く。あの兵士たちの長が第一王子ならば、後宮内の騒乱の責任を問う形で弱体化を招く可能性がある」

 ミランはおれも同じ考えだと白々しく頷いた。今の問いかけはリエンを試していたらしい。先ほどより興味津々といったように眺め回され、内心でリエンは舌打ちした。やはりシュバルツの王子はくせ者揃いだ。少なくともここにいる連中は全員。

「ほら!早速付け入れられてますよ!」
「喚くな。女は引っ込んでいろ」
「この期に及んでそうおっしゃるのですねわかりました」

 ゲオルグはまた頭をしばかれた。
 音はすごいが大した痛みがないので、ゲオルグはどう反応すればいいのかわからないようだった。普通に殴られていたら激昂していたはずだが、今はむしろ毒気を抜かれてしまっている。避ければいいのになぜか避けられないのは、根本的にナージャが敵意を持っているわけではないからだ。

「席にお掛けくださいな。いずれにしてもクルトお義兄さまのことをはっきりさせなければなりません」
「……そ、その前に、ちょっと、いいかな、ナージャ」

 レオンハルトがぎこちない挙手とともに話を遮った。珍しい灰色の瞳がひたりとリエンに向いたまま、微動だにしない。どことなく顔色も悪い。

(……あ、知らなかったんだ。そして今気づいたんだ)

 ターシャはなんと言ってレオンハルトとミランを城へ連れてきたのだろうか。ターシャが苦い顔をしている辺り、リエンの正体を伝え忘れていた、というわけではなさそうだが……ふとミランにちらっと視線を投げていたので察した。ミランの目の前で伝える気にはなれなかったらしい。
 先ほどミランへわかりやすく素っ気ない態度を取っていたのも、同じ派閥に属するはずなのに捨てきれない警戒心から出ていたわけだ。

「義兄上さま、この方は私をジヴェルナからシュバルツまで送り届けてくれた恩人です。それどころか私を常に警護してくださっています。夕べの襲撃の時も、この方と相棒の方が活躍してくださいましたの」

 双子がなんでもないような顔をしつつ必死に視線で出す合図を、レオンハルトはなんとか受け取った。まだ血色は悪いが、なるほどと頷いて穏やかな笑みを作った。その切り換えの早さはさすがだ。

「……ならば感謝しなくてはいけないな。大事な異母妹を守り、助けてくれてありがとう。すまないが名前を教えてい、くれないだろうか?」
「リィです、義兄上。さっきナージャが呼んでいましたよ」

 ボロが出かけたところでターシャがフォローし、「まあ女傭兵なんてこの国じゃ珍しいですからね」とレオンハルトの驚きをごまかした。
 空気が凍りつき、また王子たちの視線がリエンに集まった。

「――おんなぁっ!?」

 しばしの沈黙のあと絶叫したのはアロイスだ。のけぞるどころか化け物でも目の前にしたように身構えたので、さすがに「おい」と言いたくなった。

「確かに、わかればちゃんとした女の子の顔立ちだね。へえ、それで傭兵なんて、強いんだね」

 ミランの言葉にゲオルグがアロイスを見る。無言で首を横に振りまくっているアロイスにナージャは爽やかに笑いかけた。

「ええ、アロイスお義兄さまの不意打ちにあっても華麗に反撃してみせましたのよ!」
「――アロイス……?」

 レオンハルトが思わず冷たい声で笑いかけ、アロイスは「ちげーよ!!」と飛び上がった。

「アナスタシアの部屋に面する庭で不自然に突っ立ってたんだよ!むしろ傭兵を倒したやつだと思ったんだ!だいたいこんな出るとこも出てない貧相な後ろ姿で誰が女だって気づけるか!おれは女ってわかってて剣を向けるほど腐ってない!って痛ぇ!」
「剣じゃなくて槍だったけど」

 体型についてはナージャがハリセンでしばいてくれたのでとやかく言わない。というかべしべしと叩き続けているし。ターシャはレオンハルトから漏れる冷気をごまかすのに必死だ。

「ちょ、いた、やめろって、アナスタシア!」
「お義兄さまの、好みなんて、知りませんけどね!失礼以外の何物でもないんですよ!」
「好みっつーかこれに惚れたら単なるロリコンだろうが!」

 ナージャの渾身のハリセンとターシャの正拳突きが見事にシンクロした。
 崩れ落ちるアロイス。笑顔のまま固まるレオンハルト。噴き出そうとして変な声を上げるミラン。ゲオルグは、ナージャはともかくターシャの攻撃にはまなじりを吊り上げたが、弁明の余地はないので不問にするようだ。以前求婚されたリエンからすれば、ゲオルグも問答無用でロリコンの仲間入りだが。
 懲りないアロイスは床に膝をついたままナージャとリエン(のどことは言わないが胸や腰の辺り)を見比べて、ないわ、と首を振り、ナージャが満面の笑みでハリセンを握りしめたので「それはそうと」と慌てて立ち上がった。

「元々のおれの兵までどうやって手懐けたんだ。義兄上の勢力崩すのにお前も無関係じゃないだろうが。それで仲裁とか言うんじゃねえよ」
「手懐けた覚えはありません。たまたま城下で見つけられた時にお願いしたら陛下のところまで導いてくれた、優秀で信頼できる方々です」
「――なんだと?」

 ゲオルグが不穏な声で制止し、ミランが首を捻った。

「城下でって、じゃあどうやって王都まで来れたのさ」
「母の名を借りて商人の娘と偽ったら、検問はあっさり通過できましたけど」

 ミランは目を丸くし、「あっは」と手を打ち合わせた。

「なあんだ、お前、秘密の通路とかで城にぽんっと出てきた訳じゃなかったんだ!?」
「そんなもの知りません」
「あっはっは、みんなこれ疑ってたんだよアナスタシア!それがまさか正面突破!思ったより度胸あるんだなあ!」
「黙れ、ミラン。アナスタシア、なぜ王都の検問の段階で身を明かさなかった?」
「夕べのようなことが考えられたからです、ゲオルグお義兄さま。少なくとも私は、第一妾妃さまやカレイド侯爵さまのことさえも信用しておりません。自分の家へ帰宅することにまでこそこそするつもりはありませんが、それまでの間に帰れない身になってしまうのは、一番避けなくてはならないことでしょう?」
「……なぜ、母や叔父を、おれと分けて問う」
「先ほども申し上げました。あなたがシュバルツ王家の血を引くゆえです。それに……ゲオルグお義兄さま、あなたはアロイスお義兄さまを味方になさいましたね。アロイスお義兄さまの率いていた方々は北部の豪族や流れ者、学者など多岐に渡っており、どれもこれもくせ者揃いのはず。それを束ねられるのは、ひとえにアロイスお義兄さまの気性と才覚ゆえでしょう。あなたはアロイスお義兄さまを味方になさるより敵としてまとめて切り捨てた方が、犠牲は多いものの未来の安全を買うことができたはずです。ですが、結局、そうはしませんでした。さすがにどう協定を結ばれたかは私も存じませんが、失くすことにかけて慎重でいらっしゃるのは、間違いないでしょう?」
「お、おう……あれ?これおれ結構評価高いな?」
「黙れアロイス」
「ですがゲオルグお義兄さまの臣下は、立場が新参に取って変わられるのではないかと怯えるでしょう。たとえゲオルグお義兄さまのお心に配慮して内部分裂を起こさなかったとしても、足元を磐石にするために手柄の争奪戦が勃発するはずです」
「……お前を手柄とするということか」
「捕らえてあなたに差し出すならまだいい方ですが、私は今までレオン義兄上さまの臣下でしたから。しかもジヴェルナの援助がついていると勘違いされていたら、深く考えるまでもなく、亡き者にした方が都合がよいと考える者は限りなく多いはずです。彼ら自身が自陣の損害を考慮するにしては、あなた一人に責任を押し付けすぎていたきらいもありましたし。……二年前の私も他人事ではありませんでしたが」
「なんだと?」
「なんでもありません」

 方々、彼らなど、ナージャは繊細に言葉を選び使い分けていたが、それに必死すぎて、この場の全員の驚愕には気づいていないようだった。

(政治的な考え方が身につきすぎてるように見えるのは、気のせい?)

 リエンはターシャに「またあんたの入れ知恵か」と睨まれたが、断じて違う。偽名は城へ辿り着くまでの不必要な面倒ごとを避けるためのものだと思っていたのだ。こんなに深い洞察力を持っていたのかと舌を巻いた。

「……アナスタシア、今、お前は臣下、と言ったね」
「ええ、ミランお義兄さま。かといってどちらにつくというものでもありませんが」
「へえ?じゃあ女王目指すの?」
「じょ、女王……!?」
「その様子だと考えてなかったんだ」
「私にそんな大役は務まりません!ミランお義兄さままで、どうしてそんな冗談を……」
「――他に、誰かに言われたんだ?」
「はい、陛下に……」

 この時、王子たちの目の色がはっきりと変わった。

 自分たちの目の前に立つこの娘は、末端の口うるさく小賢しいだけの王女ではない。
 それ相応の才覚を持つ王位継承権保有者だ。

「へえ、この色々不安定なときに対立候補が出てきたんだ。しかもあの陛下のお墨付きがあるなんて、結構な難敵だねえ?」

 ナージャが余計なことを口走ったと気づいたのは、そうミランに指摘されてからだ。
 失敗したと思ったら、もうおしまいだった。不自然な沈黙と異母兄たちから溢れる威圧感に堪えるだけの虚勢が喪われていた。これまで忘れていた恐怖や緊張が津波のように襲いかかってくる。
 違う、そんな気はないと言おうとしたのに、喉はからからに干上がって
いた。ハリセンが手からこぼれ落ちる。こんなところで立ち止まってる時間なんてないのに。
 ――頭が痛い。耳鳴りがする。

「ナージャ殿下」

 リエンがいつの間にか背後にいて、ナージャの腕を掴んでいた。目の前には見慣れた背中が二つ。小さな頃からナージャを守ってくれた後ろ姿が横並びに立っている。

「だから兄としてなってないと言ってるんだよ。その物騒な気配をしまってくれないかな」
「ナージャに手を出してみろ。傷ひとつでもつけられる前にお前らをぶっ殺してやる」

 膝から力が抜けたところをとっさにリエンが支えてくれて、二人で床にへたりこんだ。レオンハルトがすぐに様子を覗き込んできて、ターシャはその間も異母兄たちを牽制するように睨みつけていた。

「ナージャ、よく頑張ったね」
「……ありがとう、ございます……迷惑をかけて申し訳ありません……」
「いいや。私は君の願いごとはもう二度と無視しないと決めてたんだ。君が私たちの争いを止めたいと言うなら私はかなう限り果たすことを誓うよ。もちろんミランもだ」
「ええ?義兄上、正気ですか?」
「君は私の臣下になると誓ったはずだ。私の決定に文句をつけるのか?」
「いやぁ、文句って言うか……仲裁とかそれこそ冗談じゃないですか。そのまま空隙を狙ってるとしか……」
「ミラン。それからゲオルグとアロイス。私とターシャは、君たちよりもずっとこの子と兄妹として生きてきたんだ。その私が断言しよう。ナージャは王位なんて望んでない。王位を狙って画策するにしてはこの動きは無駄に派手で、悪手だろう。父上の庇護を得たならそのまま父上の元にいることもできたんだ。その方が安全だし確実なんだから」

 レオンハルトはちらっとナージャを見て、呆れたように笑った。

「全く、君は一つ専念したら本当に全力で突き進むよね。もう少し立ち回りに気をつけてほしいって、以前も言った気がするけどね」
「も……申し訳ありません……」

 立ち上がろうとしたナージャをターシャとリエンが手伝い、椅子に座らせた。ついでにターシャはこっそりハリセンを遠ざけた。きっと後でオイゲンも殴るはずなので保管しておくだけだ。うん。
 ナージャの方はますます意識が遠のいていっていて、それどころではなかったが。

「……ナージャ?おい?」

 起きなきゃ、と思うのに、もう指先さえ満足に動かせなかった。唇でターシャを呼ぶ。手を引いてほしい。視界が墨で塗り潰されたように真っ暗なのだ。
 伸ばした手がやんわりと握られた。ナージャと同じくらい小さな手。一瞬だけ耳鳴りが止んで、その声が染み渡った。

「いいよ、ナージャ殿下。とっくに勝負はついてる」

 もう片方の手が瞼に優しく添えられ、額に柔らかいなにかが触れて離れていった。おやすみと言うように。

「あなたの完勝だよ。お疲れ様」

 







ーーー
東の貴婦人はエルサのこと。
ナージャは小柄なだけでリエンより女性らしい体格。
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