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コケても歩く
小旅行②
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ナージャは、また夢を見ていた。
こんなに頻度が多くていいのかしら、とちょっと疑問に思いつつ、目の前の光景を俯瞰する。夢の登場人物がいかに心をくすぐろうとも動じてはいけないと、一回目の時点で痛いほどナージャは思い知っていた。
見ているものは過去で、ナージャが生まれる前のこと。取り返しのつかない真実しかそこにはない。
(今回は二百五十年前か……)
周囲の建築様式や装飾品、会話の内容から時代を推定し、登場人物の名前も確認する。知らない名前の時もあったが、それよりは歴史に偉人として名を残した者の方が、登場頻度は高かった。歴史好きが無駄にならないのでなによりだ。
この夢を現実にどれだけ生かせるかは、ひとえにナージャの才覚に依る。
中には史実にない出来事もある。思いもよらぬ人と親しかったり、憎み合っていたり。それでも過去は過去だと思えば、この能力の意味はない。
必死に学ばなくてはならなかった。過去から今へ繋がる時代を、ナージャの思い描く未来へ向けて進めていくために。
「ナージャ殿下、ちゃんと眠れてないの?」
ふあ、とこぼれたあくびを手で隠したら、リエンからそんな声をかけられた。現在昼前だ。ぱちん、と頬を叩いて目を完全に覚まさせる。ナージャは自分が過去視の「巫」だと、リエンたちに明かしていなかった。きっと、この力に目覚めていなかったら言っていたかもしれないけれど。
伝えたところで、リエンが目の色を変えるとは到底思わない。それでも知らない方がお互いにとって負担がなくていい。
「ちょっと、緊張してるみたいです」
「今のうちに寝ておく?」
「……いいえ、やめておきます」
「そう?」
「私はそこまで神経が太くないのです。リィは……確かに緊張しなさそうですね」
「ちょっと、勝手に納得しないでよ」
傭兵のリィと名乗ってこの場にいるリエンだが、平素の態度を崩すつもりもなくナージャと気軽に会話していた。ナージャが畏まられた瞬間に震え上がって抵抗したのが理由のひとつである。周囲にいる侍女からとんでもないものを見る顔つきで凝視されても、リエンは相変わらず平然としたものだ。ナージャに勧められたので椅子にも座ったし、お茶だって飲んだ。護衛とは考えられないほど図々しい。
よくよくリエンを見れば女と気づくものもいただろう。そういう者は特にリエンを珍獣のように見ているのだ。隣に座るガルダは苦笑するだけで、こちらの方はまだ弁えたような素振りである。ちなみに、誰もがガルダをジヴェルナ一の剣士だとは思っていない。
ナージャしかリエンたちの素性を知るものはいない。これから会う人が気づくのか気づかないのか、気づいたときはどう反応するのか……ナージャとしては少しわくわくしてしまう。緊張なんてほとんど感じない。
「陛下にお会いするのが楽しみなんて、初めてです」
目にもの見せてやる、とその茶色の瞳は煌めいていた。
☆☆☆
リエンたちは順調に旅路を進んでいき、王都にも、検問の兵士たちの怠慢のお陰でナージャは素顔のまま偽名を使っただけで通過できた。大人しい外見に騙されて本質を見ようともしない甘さは万国共通なのだと証明したようなものだ。今やシュバルツでは、ジヴェルナを味方につけたナージャは時の人となっているはずなのに、この体たらく。これまでナージャの顔を誰も覚えようとしていなかったのだ。リエンは呆れ、ガルダは気まずげだった。
三人はそのまま城へまっすぐ向かうつもりだったが、途中でリエンの顔を知る者に見つかり、予定変更した。
かつてジヴェルナでリエンを誘拐してくれた、ゼン・ガレットの部下の一人だった。
なぜここに、と叫んで剣を抜こうとした彼に「久しぶり!」と大げさに振る舞いつつ駆け寄る。抱き着くように見せかけ喉に拳を突き込み、ぐえっと情けない声を上げたところで、首に腕を絡めてきゅっと締め上げた。傍目には知人との感動の再会にしか見えなかったことだろう。
もちろん当の男は、年頃の美少女の抱擁にときめきなど感じる暇すらなかった。
「こんな小娘に衆人の前で落とされたくなかったら大人しくしてね」
なんて耳元で脅されているのである。
リエンはそうして、その男を使ってゼンを呼び出した。
元より自分がジヴェルナの王女だと打ち明けるつもりもなければ、ゼンを密偵と明かす気もない。ただ、リエン王女の私兵である「赤毛の悪魔」がシュバルツに、それも見た目歳の近い少女を連れて王都にいる、ということを男に見せつけたのだ。この男は絶対にゼンに報告するはずだ。旧交を温めるという建前で日暮れに会う約束を取り付け解放すれば、素直に(少なくとも殺気の失せた状態で)立ち去っていった。あの様子なら、しっかり伝令のつとめを果たしてくれることだろう。元々ゼンの忠犬のような振る舞いをしていたのを、きちんと覚えている。言いつけを破ったときにしろ、ゼンの害になるからこそリエンとレナを殺そうとしたのだ。
ゼンは待ち合わせ場所に、昼間に出会った男を連れた二人だけで現れた。ナージャには彼のことを知り合いの傭兵だと話し、ゼンたち(特に部下)に向けては自身を「リエン王女のおつかいを仰せつかった身」と告げた。
もちろん、ゼンはリエンの少し後ろに控える少女の正体を、すでに察していた。
「……あんたぁ、相変わらずぶっとんだ真似しやがる……」
とんでもない頭痛を覚えたような顔を両手で覆い、さめざめと泣く真似をしている。
「それは王女さまに言ってよ」
「言えるかよ!」
「じゃあ諦めて」
リエンはけろりと言い返し、ナージャを隣に立たせた。
「ちょっとお願い聞いてくれる?」
「言っとくが今のおれは第一王子の陣営だぞ」
「だろうとは思ってたよ」
「寝返りの提案かよ」
「違うよ。ただ、この方を、お城に連れていってくれるだけでいい」
あなたはちゃんとそうしてくれるでしょう、とリエンの目が語っていた。ゼン本人から、ゼンの傭兵としての振る舞いを聞いているのだ。彼の背後に控える部下は、交渉ごとだと察したとたん、気配を極限まで消している。ナージャの素性を問いただすことも、リエンの無茶振りに不満の声を上げることもない。ゼンの部下たちは、雇い主や王子に忠誠を捧げているのではない。彼らはシュバルツの未来のためという前提の元、ゼンを信頼して従っているのだ。
(よくもまあ、こんな人たちばかりを集められたよね。これもゼンの資質かな)
密偵とも思えない、とリエンは感心するより呆れたが、それをおくびにも出さなかった。ちなみにベリオルは減俸処分にはかけたらしい。本当に密偵として馘を切られなかったのは、それほどまでに優秀で、替えの利かない存在だからだ。
「城に連れてって、それで?」
「そのあとはこの方の仕事。私たちは、この方の身の安全以外は一切命じられてないから」
「……本当か?この機に乗じて暗殺でもしかけるつもりじゃねえだろうな」
「そんな面倒なこと、しないよ」
国取りを面倒ごとと言い切られてしまえば、こちらこそ呆れ笑いを浮かべるしかない。ゼンは肩を竦めてリエンの後ろに佇む騎士をちらっと見たが、こちらも同じ。どっちも野心がなさすぎてからかい甲斐もない。
「それで?あなたたちにとって見ても悪いことじゃないと思うけど?まだ第二王子は見つかってないんでしょ。そこにこの方を連れてお城に現れた――となれば、あなたたちのお手柄にもなる」
「その場で第一王子に刺されるとは思わねえのか」
「それは絶対にない。どんな馬鹿でも、絶対に」
国境を賑わわせた姫が突如、わずかな供だけを連れて城に現れるのだ。すぐ殺すには情報が足りなさすぎる。
「……あんた、王子相手にとことん失礼だな」
「王女さまは馬鹿王子呼ばわりしてたよ、求婚のとき」
「それをおれに言ってどうすんだよ!」
「探ることばっかり言うあなたが悪い。私はちゃんと言ったよ。リエン王女さまは全てをアナスタシア王女殿下に委ねている、ってね」
とたん、ゼンは刺し貫くような視線を隣の少女に向けた。ナージャはわずかに怯んだものの、一歩踏み出した。
ここからは自分の出番だとよくわかっていた。
「私は、この国をジヴェルナの属国にするつもりも、内乱で疲弊させるつもりもありません。――この国の臣たるあなたに命じます。この私、シュバルツ第六王女アナスタシアを、陛下の元まで案内しなさい」
厳然たる命令を受け、ゼンは恭順の礼をとった。「この国の臣」とはいい言葉の使い回しだ、と内心で笑いつつ。
ゼンはジヴェルナの臣であると同時に、戦乱を避けようとするくらいにはシュバルツの臣でもあった。
「御意」
ナージャが城へ帰還したとなれば、蜂の巣をつついた騒ぎがますます大きくなるのも当然のことだった。
当然、第一王子派にとっては面白くない。ましてや城へ迎え入れたのが派閥に下ったはずの傭兵部隊ともなればなおさらだ。しかし裏切りだ寝返りだと言われてもゼンは全く堪えなかった。ザクセン王の近侍に取り次ぎ、王を待つまでに宛がわれた部屋の警護にもついた。権力者におもねることのないゼンたちだからこそ、王の遣いが訪れるまで何人たりとも面会を許すことはなかった。ナージャが王との面談に出ていけばお留守番である。
実際にザクセン王と対面するのはナージャだけで、リエンとガルダはその直前まで、護衛として彼女についていった。ジヴェルナでリエンがガルダの側仕えを許しているように、現在リエンたちはナージャの私兵として城を歩くことを許されていた。権限の保障はザクセン王が配下を通じて与えたので、たとえ第一王子がつまみ出せと言っても、リエンとガルダが失点さえ犯さなければ好きに動けるのだった。
(これ、娘を思ってのことじゃないんだろうなー)
(でしょうね。むしろ面白がってるんじゃないですか、この状況を)
(だよね。ナージャ殿下がここで孤立してちゃ、元の木阿弥だもの。無干渉のはずだったけど、変化を楽しむためならちょっとは茶々を入れる魂胆なんだね)
王と面談するナージャを応接間の外で待つリエンたちは、ひそひそと会話をする余裕があった。ナージャがどんな話をしているのかは知らないが、声を荒げている気配もないし、比較的淡々と進んでいるのだろう。
ザクセン王は、リエンたちによる護衛をナージャに認めたくせに、人払いは敷かなかったらしい。お陰で野次馬が集まりつつあったが、そう時間もかからずナージャが退出した。顔色が悪いようだったが、すぐに笑顔を取り繕って、リエンたちに「戻りましょう」と告げた。
「……どうしたの?」
「……少し、疲れました」
「そう。寝る?」
本当に何にも聞かないんだからなあ、とナージャは苦笑した。
「そうします。そのあと、少しお時間頂けますか?」
「じゃあ夕方頃に一度起こすよ」
「ありがとうございます」
そうして三人はゼンたちの待つ部屋へ引き揚げたあと、後宮のナージャ個人の部屋に行くことになった。おそらく新年の騒動の時だろう、荒らされまくっていたが、ごみを部屋のすみに掃けて空気を入れ換えればそれなりに休める空間にはなった。
「これだと、義兄上さまやターシャの部屋も片付けをしないといけませんね」
「そっちはもっと根気のいる作業になりそうね」
「お手伝いしてくれますか?」
「うん、いいよ」
こうしてナージャはひと月ぶりくらいに自分の寝台に横たわったのだった。ガルダやゼンたちには部屋の外で警備に働いてもらい、リエンだけナージャの部屋に残り、掃除で時間を潰した。
目覚めた時にすぐに使えるよう、浴室は念入りに整え、湯も張った。街で借りた宿で清拭だけはしたが、これから本格的に戦うナージャにはこういう落ち着くものが必要だろう。その間にも第一妾妃直々の遣いがやって来たようだが、男たちであしらっていた。本来その立場を考えれば許されない愚挙だが、「煩わしい対応は好きに投げてもおれが許す」というザクセン王の発言はとても素晴らしい効果を発揮したらしい。
目覚めたナージャはリエンの配慮にひどく喜んだ。その勢いでリエンまで風呂に引っ張り込まれたのは誤算だったが、休んでいる間の出来事を教えるついでにリエンも体をほぐせたので、よかったということにする。
こざっぱりしたナージャは、きりりと表情を引き締めた。
「ゲオルグさまにお会いする前に、義兄上さまをお迎えしましょう」
リエンはきょとんとした。
「……どこにいるのかわかったの?」
「わからなくても大丈夫です。そろそろ、王都の至るところまで、私がお城に帰還したことは知れているでしょうから」
「自分たちでお城に来るってこと?それ、ナージャ殿下が先に見つけないといけないんじゃ」
「ええ。ゲオルグさまやアロイスさまより先に、お迎えします。……ターシャならここにまっすぐ来るはずです」
「双子のお兄さん?」
「はい。私と同じくらい、顔を知ってる人は少ないですから」
つまり城勤めの者の目の前を堂々と素通りできる。ナージャの城への帰還も一瞬のことで、ターシャとそれなりに似通っているナージャの容貌を覚えられるほどに目を留めた人物さえまだほとんどいないはず。それに、召し使いの真似ならターシャも母を間近に見て育ってきたので、大得意なのだ。
そう言った折も折、ゼンの戸惑ったような声がナージャとリエンを呼んだ。ゼンとゼンの部下が、部屋から少し離れたところで壁のように立ち、ガルダは来訪者に見られないように、取り次ぎに出たリエンにこそっと「王女殿下とそっくりな顔の侍女が現れたんですが」と教えてくれた。
侍女、ということは、つまり。
リエンはひきつった笑みを浮かべた。
「さすがに侍従の方がよかったんじゃないかしら……」
リエンの側に寄って聞いていたナージャは呆れたように頬に手を当てている。
「でも、ここまで来れたってことは変装はうまくいってるはずよね。――ターシャ、待ってたわ」
ゼンたちはナージャの声に包囲網を解いたが、そこから風のように飛び出した影をガルダがすんでで捕まえた。リエンがナージャを庇うように前に出て構えていると、その侍女とばちりと目が合った。
侍女は眉を寄せた。きれいに整った顔立ちに強く輝く緑の瞳。見覚えはある。しかし、どこで見たのだったか……。ふとリエンがゆっくり首を傾げると、頭に巻かれた布からこぼれた髪の数本がさらりと光り、侍女ははっと瞬きをした。
「……あんたは……」
「ナージャ殿下、この人すごくよく似合ってるわ」
「本当?」
リエンの背後からひょっこり顔を出した己の片割れに、その侍女は今度こそぽっかんと口を開けた。
「……まさか、本当に、帰ってきてたのか」
「ええ。ただいま、ターシャ」
ナージャはこの城に帰ってきて初めてそう挨拶をして、長い間離れ離れだった己の半身をぎゅっと抱きしめた。
こんなに頻度が多くていいのかしら、とちょっと疑問に思いつつ、目の前の光景を俯瞰する。夢の登場人物がいかに心をくすぐろうとも動じてはいけないと、一回目の時点で痛いほどナージャは思い知っていた。
見ているものは過去で、ナージャが生まれる前のこと。取り返しのつかない真実しかそこにはない。
(今回は二百五十年前か……)
周囲の建築様式や装飾品、会話の内容から時代を推定し、登場人物の名前も確認する。知らない名前の時もあったが、それよりは歴史に偉人として名を残した者の方が、登場頻度は高かった。歴史好きが無駄にならないのでなによりだ。
この夢を現実にどれだけ生かせるかは、ひとえにナージャの才覚に依る。
中には史実にない出来事もある。思いもよらぬ人と親しかったり、憎み合っていたり。それでも過去は過去だと思えば、この能力の意味はない。
必死に学ばなくてはならなかった。過去から今へ繋がる時代を、ナージャの思い描く未来へ向けて進めていくために。
「ナージャ殿下、ちゃんと眠れてないの?」
ふあ、とこぼれたあくびを手で隠したら、リエンからそんな声をかけられた。現在昼前だ。ぱちん、と頬を叩いて目を完全に覚まさせる。ナージャは自分が過去視の「巫」だと、リエンたちに明かしていなかった。きっと、この力に目覚めていなかったら言っていたかもしれないけれど。
伝えたところで、リエンが目の色を変えるとは到底思わない。それでも知らない方がお互いにとって負担がなくていい。
「ちょっと、緊張してるみたいです」
「今のうちに寝ておく?」
「……いいえ、やめておきます」
「そう?」
「私はそこまで神経が太くないのです。リィは……確かに緊張しなさそうですね」
「ちょっと、勝手に納得しないでよ」
傭兵のリィと名乗ってこの場にいるリエンだが、平素の態度を崩すつもりもなくナージャと気軽に会話していた。ナージャが畏まられた瞬間に震え上がって抵抗したのが理由のひとつである。周囲にいる侍女からとんでもないものを見る顔つきで凝視されても、リエンは相変わらず平然としたものだ。ナージャに勧められたので椅子にも座ったし、お茶だって飲んだ。護衛とは考えられないほど図々しい。
よくよくリエンを見れば女と気づくものもいただろう。そういう者は特にリエンを珍獣のように見ているのだ。隣に座るガルダは苦笑するだけで、こちらの方はまだ弁えたような素振りである。ちなみに、誰もがガルダをジヴェルナ一の剣士だとは思っていない。
ナージャしかリエンたちの素性を知るものはいない。これから会う人が気づくのか気づかないのか、気づいたときはどう反応するのか……ナージャとしては少しわくわくしてしまう。緊張なんてほとんど感じない。
「陛下にお会いするのが楽しみなんて、初めてです」
目にもの見せてやる、とその茶色の瞳は煌めいていた。
☆☆☆
リエンたちは順調に旅路を進んでいき、王都にも、検問の兵士たちの怠慢のお陰でナージャは素顔のまま偽名を使っただけで通過できた。大人しい外見に騙されて本質を見ようともしない甘さは万国共通なのだと証明したようなものだ。今やシュバルツでは、ジヴェルナを味方につけたナージャは時の人となっているはずなのに、この体たらく。これまでナージャの顔を誰も覚えようとしていなかったのだ。リエンは呆れ、ガルダは気まずげだった。
三人はそのまま城へまっすぐ向かうつもりだったが、途中でリエンの顔を知る者に見つかり、予定変更した。
かつてジヴェルナでリエンを誘拐してくれた、ゼン・ガレットの部下の一人だった。
なぜここに、と叫んで剣を抜こうとした彼に「久しぶり!」と大げさに振る舞いつつ駆け寄る。抱き着くように見せかけ喉に拳を突き込み、ぐえっと情けない声を上げたところで、首に腕を絡めてきゅっと締め上げた。傍目には知人との感動の再会にしか見えなかったことだろう。
もちろん当の男は、年頃の美少女の抱擁にときめきなど感じる暇すらなかった。
「こんな小娘に衆人の前で落とされたくなかったら大人しくしてね」
なんて耳元で脅されているのである。
リエンはそうして、その男を使ってゼンを呼び出した。
元より自分がジヴェルナの王女だと打ち明けるつもりもなければ、ゼンを密偵と明かす気もない。ただ、リエン王女の私兵である「赤毛の悪魔」がシュバルツに、それも見た目歳の近い少女を連れて王都にいる、ということを男に見せつけたのだ。この男は絶対にゼンに報告するはずだ。旧交を温めるという建前で日暮れに会う約束を取り付け解放すれば、素直に(少なくとも殺気の失せた状態で)立ち去っていった。あの様子なら、しっかり伝令のつとめを果たしてくれることだろう。元々ゼンの忠犬のような振る舞いをしていたのを、きちんと覚えている。言いつけを破ったときにしろ、ゼンの害になるからこそリエンとレナを殺そうとしたのだ。
ゼンは待ち合わせ場所に、昼間に出会った男を連れた二人だけで現れた。ナージャには彼のことを知り合いの傭兵だと話し、ゼンたち(特に部下)に向けては自身を「リエン王女のおつかいを仰せつかった身」と告げた。
もちろん、ゼンはリエンの少し後ろに控える少女の正体を、すでに察していた。
「……あんたぁ、相変わらずぶっとんだ真似しやがる……」
とんでもない頭痛を覚えたような顔を両手で覆い、さめざめと泣く真似をしている。
「それは王女さまに言ってよ」
「言えるかよ!」
「じゃあ諦めて」
リエンはけろりと言い返し、ナージャを隣に立たせた。
「ちょっとお願い聞いてくれる?」
「言っとくが今のおれは第一王子の陣営だぞ」
「だろうとは思ってたよ」
「寝返りの提案かよ」
「違うよ。ただ、この方を、お城に連れていってくれるだけでいい」
あなたはちゃんとそうしてくれるでしょう、とリエンの目が語っていた。ゼン本人から、ゼンの傭兵としての振る舞いを聞いているのだ。彼の背後に控える部下は、交渉ごとだと察したとたん、気配を極限まで消している。ナージャの素性を問いただすことも、リエンの無茶振りに不満の声を上げることもない。ゼンの部下たちは、雇い主や王子に忠誠を捧げているのではない。彼らはシュバルツの未来のためという前提の元、ゼンを信頼して従っているのだ。
(よくもまあ、こんな人たちばかりを集められたよね。これもゼンの資質かな)
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「城に連れてって、それで?」
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「……本当か?この機に乗じて暗殺でもしかけるつもりじゃねえだろうな」
「そんな面倒なこと、しないよ」
国取りを面倒ごとと言い切られてしまえば、こちらこそ呆れ笑いを浮かべるしかない。ゼンは肩を竦めてリエンの後ろに佇む騎士をちらっと見たが、こちらも同じ。どっちも野心がなさすぎてからかい甲斐もない。
「それで?あなたたちにとって見ても悪いことじゃないと思うけど?まだ第二王子は見つかってないんでしょ。そこにこの方を連れてお城に現れた――となれば、あなたたちのお手柄にもなる」
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ここからは自分の出番だとよくわかっていた。
「私は、この国をジヴェルナの属国にするつもりも、内乱で疲弊させるつもりもありません。――この国の臣たるあなたに命じます。この私、シュバルツ第六王女アナスタシアを、陛下の元まで案内しなさい」
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ゼンはジヴェルナの臣であると同時に、戦乱を避けようとするくらいにはシュバルツの臣でもあった。
「御意」
ナージャが城へ帰還したとなれば、蜂の巣をつついた騒ぎがますます大きくなるのも当然のことだった。
当然、第一王子派にとっては面白くない。ましてや城へ迎え入れたのが派閥に下ったはずの傭兵部隊ともなればなおさらだ。しかし裏切りだ寝返りだと言われてもゼンは全く堪えなかった。ザクセン王の近侍に取り次ぎ、王を待つまでに宛がわれた部屋の警護にもついた。権力者におもねることのないゼンたちだからこそ、王の遣いが訪れるまで何人たりとも面会を許すことはなかった。ナージャが王との面談に出ていけばお留守番である。
実際にザクセン王と対面するのはナージャだけで、リエンとガルダはその直前まで、護衛として彼女についていった。ジヴェルナでリエンがガルダの側仕えを許しているように、現在リエンたちはナージャの私兵として城を歩くことを許されていた。権限の保障はザクセン王が配下を通じて与えたので、たとえ第一王子がつまみ出せと言っても、リエンとガルダが失点さえ犯さなければ好きに動けるのだった。
(これ、娘を思ってのことじゃないんだろうなー)
(でしょうね。むしろ面白がってるんじゃないですか、この状況を)
(だよね。ナージャ殿下がここで孤立してちゃ、元の木阿弥だもの。無干渉のはずだったけど、変化を楽しむためならちょっとは茶々を入れる魂胆なんだね)
王と面談するナージャを応接間の外で待つリエンたちは、ひそひそと会話をする余裕があった。ナージャがどんな話をしているのかは知らないが、声を荒げている気配もないし、比較的淡々と進んでいるのだろう。
ザクセン王は、リエンたちによる護衛をナージャに認めたくせに、人払いは敷かなかったらしい。お陰で野次馬が集まりつつあったが、そう時間もかからずナージャが退出した。顔色が悪いようだったが、すぐに笑顔を取り繕って、リエンたちに「戻りましょう」と告げた。
「……どうしたの?」
「……少し、疲れました」
「そう。寝る?」
本当に何にも聞かないんだからなあ、とナージャは苦笑した。
「そうします。そのあと、少しお時間頂けますか?」
「じゃあ夕方頃に一度起こすよ」
「ありがとうございます」
そうして三人はゼンたちの待つ部屋へ引き揚げたあと、後宮のナージャ個人の部屋に行くことになった。おそらく新年の騒動の時だろう、荒らされまくっていたが、ごみを部屋のすみに掃けて空気を入れ換えればそれなりに休める空間にはなった。
「これだと、義兄上さまやターシャの部屋も片付けをしないといけませんね」
「そっちはもっと根気のいる作業になりそうね」
「お手伝いしてくれますか?」
「うん、いいよ」
こうしてナージャはひと月ぶりくらいに自分の寝台に横たわったのだった。ガルダやゼンたちには部屋の外で警備に働いてもらい、リエンだけナージャの部屋に残り、掃除で時間を潰した。
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「……どこにいるのかわかったの?」
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「自分たちでお城に来るってこと?それ、ナージャ殿下が先に見つけないといけないんじゃ」
「ええ。ゲオルグさまやアロイスさまより先に、お迎えします。……ターシャならここにまっすぐ来るはずです」
「双子のお兄さん?」
「はい。私と同じくらい、顔を知ってる人は少ないですから」
つまり城勤めの者の目の前を堂々と素通りできる。ナージャの城への帰還も一瞬のことで、ターシャとそれなりに似通っているナージャの容貌を覚えられるほどに目を留めた人物さえまだほとんどいないはず。それに、召し使いの真似ならターシャも母を間近に見て育ってきたので、大得意なのだ。
そう言った折も折、ゼンの戸惑ったような声がナージャとリエンを呼んだ。ゼンとゼンの部下が、部屋から少し離れたところで壁のように立ち、ガルダは来訪者に見られないように、取り次ぎに出たリエンにこそっと「王女殿下とそっくりな顔の侍女が現れたんですが」と教えてくれた。
侍女、ということは、つまり。
リエンはひきつった笑みを浮かべた。
「さすがに侍従の方がよかったんじゃないかしら……」
リエンの側に寄って聞いていたナージャは呆れたように頬に手を当てている。
「でも、ここまで来れたってことは変装はうまくいってるはずよね。――ターシャ、待ってたわ」
ゼンたちはナージャの声に包囲網を解いたが、そこから風のように飛び出した影をガルダがすんでで捕まえた。リエンがナージャを庇うように前に出て構えていると、その侍女とばちりと目が合った。
侍女は眉を寄せた。きれいに整った顔立ちに強く輝く緑の瞳。見覚えはある。しかし、どこで見たのだったか……。ふとリエンがゆっくり首を傾げると、頭に巻かれた布からこぼれた髪の数本がさらりと光り、侍女ははっと瞬きをした。
「……あんたは……」
「ナージャ殿下、この人すごくよく似合ってるわ」
「本当?」
リエンの背後からひょっこり顔を出した己の片割れに、その侍女は今度こそぽっかんと口を開けた。
「……まさか、本当に、帰ってきてたのか」
「ええ。ただいま、ターシャ」
ナージャはこの城に帰ってきて初めてそう挨拶をして、長い間離れ離れだった己の半身をぎゅっと抱きしめた。
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2021/07/04 カクヨム様にも投稿しました。
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