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一旦立ち止まって振り返る
仮面舞踏会③
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ごめんなさい!更新の設定間違えてました!遅れましたが更新します!
ーーーーー
「……君は、誰彼構わずああいうことをするのか」
「ああいうこと?」
「……百合と、仮面に……接吻しただろう」
接吻て。ネフィルとファーストダンスを踊っていたリエンはきょとんと首をかしげた。
「あれ、ネフィルっていうか姉さまにしたようなものだよ。駄目なの?」
「……頭痛がしてきたぞ」
「何で?」
ネフィルが誰かと踊っているのをこうしてリエンが目にするのははじめてだが、なかなか上手だ。安定したリードのお陰でステップを踏むのも簡単で、こうして雑談までできていた。これもお母さまのために覚えたのかもしれなかった。
「従者にやらかしたことがあるのは聞いていたが、他にした人間はいないだろうな?」
「やらかしたって」
「それ以外にどう言えというんだ。それで、他には?」
「んーと、ヴィーにならした覚えがあるかな。あと孤児院の子どもたちとか……あ、ユゥにも。姉さまとは昔に散々やった。それがどうかしたの?」
けっこう範囲が広いぞ、とネフィルが顔をひきつらせた。しかもこの性別年齢の無節操感漂う回答。口づけの意味を本人すら理解していない可能性が高い。
「……少なくとも、だ。公衆の面前では控えるべきだ。君には婚約者や恋人の影もいないから、目撃されたときには一気に噂が広がってしまう」
「……ああ、そういう。でも、口づけくらいみんなしていない?私がしたのも唇じゃないしさ」
「君、自分が適齢期の女性だと忘れてないか」
「そんなことは……ない」
「目を逸らさず言ってくれ」
なるほど、だから踊っている最中もエドガーやセーラ、レーヴから物言いたげな視線が向けられているのか。仮面ごしなのにびしばし感じてしまったが、それだけのことを私はやってしまったらしい。
しかし、理解はしても、不服の意は消えなかった。
「姉さまとやってた愛情表現の一種だよ?みんなは違うの?」
「やるのは幼い子どものときだけだ。適齢期に入ると、いらぬ風聞なんかがあるからな、自然と自粛はするものだ。……君のそれは、まさか異世界の常識じゃないだろうな?ユーリ女伯爵が間違いを教えるとも思わない」
「あ、多分そうかも。姉さまもレイに散々されてたから。エルサとは、確かに一度もしたことがないし」
「とにかく自粛してくれ。無闇にしないこと。――特に異性には」
「人を痴女のように」
「そこまでは言ってない。ただ、それこそ君にとっていらない傷がつけられることになる。売られた喧嘩を買う前に、売られる隙を作らないようにするべきなんだ、君は」
私たちの心の健康のために、是非とも。
ぼそりと呟かれた切実な要望に、思わず噴き出した。「笑い事じゃない」とむすりと言われてごめんごめんと返す。
「まあ、でもネフィルなら身内だし言い訳できるでしょ」
「それでも、今回だけだ。というか今回だった時点ですでにまずいと思うがな。私にとっては楽になるかもしれないが」
「あ」
リエンは、この広間がお見合い会場であることを今さら思い出して、大きく瞬いた。
そのお見合いの雰囲気をあっけなく破壊したのは、恋した者の花を飾るネフィルでも敵陣真っ最中のヴィオレットでもない。自分こそがそれ目当てで参加してきた令嬢たちの目の前でやらかしたことに、ようやく気づいた。
「ほら、そういうところが抜けてると言うんだ……」と独り言のように呟くネフィルからとことん呆れた視線が降り注ぐが、さすがに目を合わせられなくて、ごまかし笑いをセーラたちへ向ける。
その時、ちょうど曲が終わったので、ネフィルに「頑張って」と適当に声をかけて、そそくさと壁際に向かっていった。
ちらりと視線だけ向けると、踊っている最中の会話風景も周囲からはかなり親密に見えたのだろう、新たにネフィルに踊りを申し込もうとする仮面の令嬢たちは尻込みしているようだった。申し訳ない。
避けられるのはリエンも同じだったようで、誰にも引き留められることなく壁に到達したリエンは、くるりと振り返って広間を望洋と眺めた。
そこに近寄ったのが、青紫の仮面をつけたヴィーだった。背後に近衛の隊服にシンプルな黒い仮面のティオリアを連れている。
ヴィーは、しばらく会わないうちに感情の整理がついたのか、小さい笑みを浮かべている。今回ばかりは呆れ笑いだったが。
「リィ。やりすぎだよ」
「うん、さっきネフィルにも叱られた」
「身内だからって、憚るところだからね。夜会の趣旨的に」
「ごもっともです」
リエンは弟にも頭を下げた。「素直だね」と意外そうに言われて「そこもネフィルにお説教された」と返す。ヴィーは何とも言えない顔でああ……と頷いていた。
「どこで見ていたの?踊らないの?」
「うん。エドガーさまには招待状を義理で用意してもらっただけだし、こうして壁際で大人しくしてるつもりだよ」
「義理じゃないわ」
そこだけは訂正するべきだったので、リエンは厳しく否定した。ヴィーも苦笑しているから、わかってはいるんだろう。また神経質に気を遣ってるのだろうが、しなくてもいい相手はそうしてもいいのだ。ああ、いじましい。目の前の弟の、整えられた髪型を崩さないように何度も何度も撫でる。しかし、かつてそれに喜んだ弟は、今は目を細めて耐えているだけだった。感情の整理ができたとしても、それは落ち着きを取り戻しただけだったのだろう。
寂しいが、反抗期は成長のばねとも言うし。嬉しくて微笑んでいると不審な顔をされた。失礼な。
「両殿下」
「おつくろぎのところ申し訳ありません」
二人分の声がして振り返ると、同じ背格好に同じ青の仮面をつけた二人の青年が立っていた。ヘリオスとセレネスだ。
双子じゃないと公言しているくせに、そっくり同じことをしては相手を混乱させるのが楽しいらしい。初対面で二人を見分けたら二人分驚かれたあと、エドガーに教えてもらったことだ。素直なイオンと違い、かなり趣味の悪い兄たちである。
「王子殿下、もっと王都でのお話を伺いたいのですが、私の他にも、彼らにお聞かせできませんか」
「王女殿下、お病気とは伺っておりますが、もしよければ私とも踊っていただけないでしょうか」
ヴィーと顔を見合せ、苦笑ぎみに頷きあった。ここまで自分達に好都合のお誘いが、この領にいて持ちかけられるとは、二人とも予想していなかったのだった。
ヘリオスと踊ったあとは、セレネスとも踊った。そのころになると、ネフィルの周囲にも人だかりが戻ってきていた。身分の順序や家柄を気にしないのが仮面舞踏会の醍醐味だと教わったが、なるほどその通りのようだ。男性女性様々が集まり、ネフィルとともに立つアルブス夫妻の姿も埋もれてしまっている。前当主夫妻は既に退場しているらしい。
しかし、微妙な空気が落ち着いたのはリエンの方も同じだったらしい。何人かにダンスを申し込まれ、数人とは踊ったものの、他はなるべく丁寧に断った。社交疲れの建前はきちんと効果を発揮していて、しつこく食い下がる人もいない。しかし「深窓の令嬢」らしい態度でここまで多くの人と接したことはまだ少ないので、面倒なのは面倒だった。
ヴィーに関しては近づいてくる人間もおらず、常にヘリオスかセレネスのどちらかが側についていた。それこそ壁の花を満喫しているようだ。ここは弟にとって敵陣なのだと、忘れたわけでもない事実を見せつけられて辟易する。
(ここまで百八十度変わるとなぁ)
あの頃のヴィーの気持ちがわかるようだった。リエンは建国記念式典以外では姿を見せなかったが、それでもあんな空気を味わい尽くしたのだ。
全く、子ども相手に大人げない真似をする人間の多いこと。それこそ、中心に据えた感情に素直なアルビオン一族ならではか……いや、アルブス家の人間だけは、その中でもかなりの変わり種だ。父子ともに如才なく立ち回っている。そうしてちらりとまたネフィルたちの方を流し見た時だった。
ふと、少し嫌なことに気づいた。仮面舞踏会ではどこまでが無礼講なのかよく掴めないが、ネフィルにできている人だかりのうちのほとんどがエドガーの方を向いている。いきなり最高位の人間に声をかけるのは失礼だと考えているとしても、エドガーに片寄りすぎている気がする。
やはり、ヴィーだけではなく、ネフィルも故郷では立場が怪しいのかもしれなかった。一族が嫌うヴィーを保護する動きをしたからだと、はじめからわかっていたのだが。
『エドガー。あなたは、ネフィルの味方?』
招待状を頼んで貰った日のことが思い出されて、ふいと視線を逸らし、広間全体を見渡すように頭を巡らせた。
実は、ひそかに人を探しているのだった。ここに招待されているのかすら定かではなかったが、それでも。邂逅は奇跡の確率だろうとも思っている。ただし、会えたのと会えなかったのでは、リエンの予想が大きく変わってしまうのだ。
ある時、リエンさま、とずっと空気のように控えていたガルダに声をかけられ、振り返ったときには、その人物が目の前にいた。
「はじめまして、美しい姫君。私と踊っていただけないでしょうか」
玲瓏に響く誘い文句と、優美な物腰。セーラたちより年下だろうが、口許に刻まれた皺は深い。髪は金、羽根があしらわれた柔らかな仮面の向こうから緑の双眸が覗く。
アルビオン一族の特徴は多くの人間に表れているので、この色彩が珍しいというわけでもない。実際にこの夜会は似たような色彩で溢れている。
それでも、だ。リエンは見つけた、と思った。本当に参加していたことも、こうして接触されたことも驚きだが、すぐに落ち着きを取り戻した。
こんな状況でも働く自分の目と直感にほとんど苦笑いしながら、差し出された手を取った。
『……殿下は、一体何を懸念していらっしゃるのでしょうか』
『同じだよ。あなたと』
人の波が引き、エドガーは嫌がるネフィルを無理やりダンスに送り出した。お相手はエドガーが息子たちと厳選した、一族の中でも中位の年若い娘だ。他にも二十代とやや年増だったり、未亡人まで取り揃えている。何が好みなのかはエドガーですらわからないので、とりあえずその全員と踊ってもらうつもりだった。
テーブルに寄ると、妻が差し出したワインを、礼を言いつつ受け取って口をつけ、小さく息をつく。
エドガーがネフィルに故郷への帰還を願ったのは、見合い目的だった伯父夫婦とは少し違う理由からだった。そこをいち早く察したのが姫殿下。視線だけで探すと、ちょうど誰かと踊っているところだった。
これまで義務感だけで出席させられていたらしい建国記念式典を除けば、初の社交の場に現れたことになるのだが、その理由が叔父のためでしかないところにあの方の性格が思いやられるようだった。
(口調が他人行儀じゃなくなったのは、あれで信頼してくれたからかな)
社交とはお見合いだけの場所ではない。エドガーはそう思っていたが、殿下はさらに柔軟だった。お見合いも都合のひとつ。とにかくネフィルに味方が作れれば、何でもよいのだ。嫁でも友人でも利害のみの関係でも部下であっても。
とにかく、何かあったときにネフィルの味方になれれば。
ぼんやり眺めていると、踊っているネフィルが視界を横切っていった。いつでもどこでもダンス中でも遊び心を忘れない手のかかる従妹に振り回された従弟は、かなりのダンスの名手だ。知る人ぞ知る類いの。
『質問を変えます。あなたさまは、ネフィルについて何を知っているんですか』
その問いは笑って流され、反対に、鋭い声で尋ねられた。
『ねぇ、あなたはネフィルの味方?何がなんでも、ネフィルが拒んだとしても、――裏切られたとしても。あなたは絶対に裏切らない?』
息を飲んだのは確かだった。しかし、真摯に見上げてくるそのリーナにそっくりの瞳を見ていれば、自然と笑みが沸いてくるというものだった。一族が守れなかった姫。なのにそれを尋ねるのは彼女とは、なんという皮肉か。
あのときと同じ答えを、胸の中に呟いた。言われずとも遥か昔から決意していたことで、領主を継いだのもその一貫だった。
情に篤く、一途。それでいて全てを受け入れる度量を持つ天性の守りの性。
彼は、今は亡いとある老婆に、修羅のなりそこないと笑われた男である。一度失ってしまってからその言葉の意味に気づけた情けない男でもあるが。
しかし、今度こそ。
もう二度と、何も喪うつもりはなかった。
(あのときは殿下たちも、って言おうと思って言えなかったからなぁ……。とりあえず行動で示すけど)
自分の情けなさに苦笑した。不思議そうな顔で見つめてくるナキアに言えば尻を蹴っ飛ばされそうなので、黙ったままにしておこうと、ワインを一口口に含んだ。
☆☆☆
ある程度必要な交流も終え、アルビオン領内の縮図を精密に思い描けたところで、リエンはふうと肩を落とした。じわじわと、頭痛のような、そこまで酷くないような違和感が思考力を蝕みはじめている。
ふらりとバルコニーに足を向ける王女を止める者は誰もいない。ネフィルの味方について、ヴィーと同様に一朝一夕でうまく行くものではないと理解してもいる。今日は、ここまでだ。
いくつかあるうちのバルコニーのどれにも、人はいなかった。
楽団の音楽が、外に出るとくぐもって響いてくる。目を閉じると、晩秋の冷たい風が頬に当たり、ざやざやと葉擦れの音が耳を撫でていくのを鮮明に感じた。その背後になにも言わずとも黙ってつき従う男の存在だけ、振り返って目で確かめないと、気配を掴めないのだった。
「……ガルダ、私に言いたいことがあったら言うんじゃなかった?」
質問自体か質問の中身があまりに予想外だったのか、ガルダがびくりと硬直した。くすりと笑おうとして口角がひきつった感覚がしたのでごまかした。
「ないなら、別にいいけど」
この領に来る前から様子がおかしいのをわかっていて、放置してきた。何もないわけがない。しかも先ほど、迂闊にも、姉さまについてこの人の目の前でネフィルと話してしまった。
じっと見つめていると、逆光の中しどろもどろだったガルダが、やがてごくりと唾を飲み込んだ。
「……ナ、ナヅミという人物について、今、ずっと考えていて」
「ふーん、そう。姉さまがどうかしたの?」
「ど、どうしたって」
おあいにくさまだ。ネフィルにうっかり漏らしただけで優しさサービスは終わってる。助け船は出さない。
言葉を必死に探そうとしている姿から目を逸らし、また闇へ目を向ける。さすが天下に轟く公爵家、庭園は夜でも目で楽しめるようになっているようで、光を反射する山茶花の花や南天の実が鮮やかに闇を彩っていた。奥に生っているのは蜜柑だろうか……酸っぱいのが後宮にあったけれど、ここのはどうなんだろう。ああ、姉さまの作った蜂蜜漬け、食べたいなぁ……。
「なぜナヅミという人について、おれに話したくないんですか」
思わず振り返ったリエンの瞳は、しゅんと項垂れている従者を大きく映し込んだ。
「……素晴らしく直球だね」
「すみません。やっぱり、あなたを傷つけずに尋ねる方法なんてわかりません……」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「気にしてください。あれだけ様子がおかしかったのに」
「そうだった?」
「そうです」
ここぞとばかりに強い口調で言われて、目を瞬かせた。
じゃあつまり、リエンに気を遣いまくった結果、こんな挙動不審になっていたというのか。
それは、なんというか……。
「面倒な」
「おれ泣きますよ?既に涙目ですからね?あとちょっとで号泣しますよ??」
「あ、声に出てた?」
「ばっちり。しかも吐き捨ててましたよね今」
否定できずに、ずっと前から寄ってしまっていた眉間のしわを解いた。仮面がなければ揉んでいたところだ。ぎこちなく苦笑して、また夜景を眺める。
「……姉さまに関しては、知られると色々不都合が多いのよ」
「もういない、のにですか?」
「そう」
それを言えば、はじめからいないのと変わりない。まずいのは私の存在そのものなのだから。
――戦争の手段について知られてはいけない。この世のものではない知識を披露するわけにはいかない。
はじめから、姉さまの持つ知識なんて欲しがったことはないのに。私は姉さま自身にいてほしかったのに。
「どんな不都合ですか?」
「そこが肝心なのに教えるわけないでしょうが」
「……おれが黙っておくから、というのは通じないんですね」
「そういうこと」
「…………」
「だから、私はこの間教えた以上のことを言うつもりはないわ」
再び沈黙。再び夜の庭園を見渡してみたが、今度はあまり集中できなかった。背後に立つ男が次に何を言うのか、何をやらかすのか警戒してしまう。そして案の定と言うべきか。
「二、三日、お側を離れることをお許しください」
思わずまた振り返ると、ガルダは剣の柄を握る己の左手をじいっと見つめていた。ばつが悪そうな顔をしている。
なんとなく半目になった。
(……ああうん、なるほどそーいうこと)
「別に。休暇ならもっと多くとってもいいよ」
「いえ、そこまでお側を離れるわけにもいかないでしょう。目を離したらどうなるか……」
「別に?そんな建前ぐだぐだつけなくても、ちゃんと言ってくれれば退職金も弾むよ?」
ガルダは、あれ、違うぞ、会話が噛み合わないなと主を見る。そこで、まるっきり突き放すどころか、蔑みすら滲む目を向けられてぎょっとした。
「え、ちょ、ちょっとリエンさま?何か勘違いしてません?二、三日でいいんですよ?」
「ふーん?」
ことりと、とっても可愛く首を傾げられて、あ、これ全く信じてないやつだ、とガルダは気づいた。
慌てて己の発言を振り返って、冷や汗が増した。
(……ま、まさか、おれが従者をやめる口実だと思われている……!?)
恐ろしい予感だが、この主ならあり得る。ナヅミという人物について打ち明けられないから、まさか、おれがそれだけでこの方に愛想を尽かしたとか。だからなんでそう極端なんだって……!
「滞在先がわかったなら、残りの給料送金するから、手紙出してね」
「いっいやいやいやいやだから待って下さいって!!そういう意味じゃなくてですね!?」
「じゃあどんな意味?」
「あのナオとかいう少年たちに聞きたいことを聞きに行くだけです!!」
「――ナオたちに?」
きょとんと緑の大きな目が見開かれた。とりあえず止まってくれて助かった、とほっとしながら、ガルダは息切れを整え額の汗を拭った。
下手な剣稽古よりもよっぽど心と体の健康に悪い。あと寿命。絶対縮んだ。
「どうして?」
「おれなりに、ナヅミという人物に折り合いをつけたいんです。彼ら――特にナオという少年は、あなたと似たような投擲術を持ってましたね?あなたは、ナヅミという人物に教えてもらったんでしょう。共通点はどこかにあるはずだ。……それに、最後に訊ねてましたよね」
ずっとガルダの意識にひっかかっていた。不思議な問いかけと、不安と期待が入り雑じってゆらゆらと揺れていた声。迷子のような表情もまた、滅多に見られるものではなく。
「知らないって言ってたじゃないの、あの人たち」
「それならそれでいいんです。言ったでしょう、折り合いをつけたいって。結局何も得られなくても、何もしないよりましです。とにかくあなたの傍にはちゃんと帰ってきますからね」
「……ほんとにいいの?」
「…………」
ガルダは諸々で声を失って、夜空を仰いだ。雲が少なく新月でもあるので、いくつもの星が燦然と煌めいていて、美しい。しかし、ガルダの視界は再び滲んだ涙でぼやけている。この状況を楽しむ余裕は皆無だ。
仮面越しに目頭を押さえ、思わずぼやいた。
「……おれ、よく耐えれるよなこれ……」
「やっぱり、私も行こうかな」
ざわりと強めの風が吹いたのと同時にリエンは呟いた。さっきまで空を眺めていたガルダも居直していたが、相変わらず剣の柄から手は離れていない。……いつからその態勢だったかリエンは覚えていない。しかし、とある気配にはもう気づいた。
「この辺りにサームの部下さんたちは全くいないんだね」
「そうですね。アルビオン公のご父君とともに、広間に二人を残して消え去っています」
仮面の内側で苦い顔になったのが自分でもわかった。まだ会場内にはネフィルがいるというのに。
守るに値しないと、そういう意味にしか聞こえない。
「……なら、ここまで辿り着けたのはそう驚くことでもないのかな」
庭へ顔を出すようにして立ってみた。その隣にすっとガルダが並ぶ。さも当然のような顔をしているのがなんとなくおかしかった。さっきまで泣いてたくせに。
「領主軍ってそう精強でもないのかな」
「いえ、恐らく役割分担ができているだけかと。侵入者の対処は慣れていないと難しいですからね」
「それって、問題じゃないの?」
「彼に関しては、才能が『影』よりなので。あなたもですけどね……」
「含みがあるね?」
「含んでますからね。――今捕らえれば、後日にお側を離れる手間が省けますが、どうします?」
「捕まえたら牢屋行きでしょう。ここじゃ私が好き勝手にできないし。話せることが話せなくなるからダメ」
というわけで、と。リエンは小さく呟き、ドレスのポケットに無造作に手を突っ込んだ。固く冷たい手触りを掌に馴染ませ、振り返りながらそれをとある一点へ向けて投じた。
一瞬後、斜め上から小さな悲鳴が聞こえた。掠めるつもりが当たってしまったらしい。余った石を掌にぽんぽんと弾ませながら、口角に力を入れてにやりと笑った。
「元馬泥棒さん、そういうわけで、話があるなら後日、そっちに向かうから、その時でね。ついでに、盗み聞きはやめておいた方がいいよ」
しばらくためらうような間が空いたが、いずれ気配がふっつりと消えた。ガルダが剣を離したのを確認して石をしまう。
「ですが、リエンさまも向かわれるとして、どうやってです?」
「帰りもヴィーとは別行動だし、行程を早めれば滞在時間は多く取れるでしょう」
ふと名前を呼ばれた気がしていると、エドガーを引き連れたナキアがバルコニーに顔を出していた。不審者の気配に気づいていたのか、やや警戒気味だ。ちょうどいい。
「ナキア、帰るとき少し行程を変えたいんだけど、いいよね?」
「殿下……先ほどのは、お知り合いですか?」
「うん、ちょっとね。それ関連で寄り道する用事ができたから。その間あなたたちにも自由時間を当てる」
「それはけっこうです。ですが、必ずそちらの従者をお忘れなきようにお願いしますね」
「……その返答で、みんなが私をどう思ってるかがよくわかったわ……」
まあ、好きなようにやっている自覚はあるので強くは言わないが。
「安全ならば私たちは戻りますが、殿下はまだしばらくは外に?」
「うん」
「お体にお気をつけください。必要ならばガウンや温かい飲み物などを用意いたしますが……」
「ありがとう。でも、大丈夫。ちょっとね、頭を冷やしたいから」
唐突すぎる言葉に、聞いていた三人の視線が一斉にリエンに集まった。
そこでは、微笑を浮かべていたはずのリエンが、息を切らしながらふらりと足をよろけさせていた。
前触れのない異様な様子にガルダがとっさに腕を掴んだが、ほとんど助けにならず、膝から力が抜けて崩れ落ちた。
見ていた三人から咄嗟に悲鳴のような声が漏れた。
「――リエンさま!?」
「大……丈夫、ちょっと、目眩がね……」
「やはり体調がまだ戻っていないのでは……」
「いや……そんなことはないよ、エドガー。人は呼ばなくていい。たまにあることだから」
「たまにって……」
エドガーがナキアとガルダを見比べるが、この二人も姫のこんな姿は初めて見るものだった。いや、ガルダは一度だけなら――サームとやり合った時にも、こんな様子ではあったのは、覚えている。恐怖混じりの、極度の緊張状態。
座り込むリエンに、ガルダが顔を近づけた。「社交疲れ」はどこまでも建前のはずだったのだ。
「『なに』が、原因ですか」
「……さあね」
息を整えるように深呼吸しながら、目を閉じて開いてもまだ狭い視界にうんざりする。血の気が頭から落ちきっている感覚がとても気持ち悪い。
……多分、今気づいた「これ」は、私の弱点だ。
滅びた世界で、無力にも守られていたあの頃。狭い隙間から、見ていたこと……。
(トラウマ第二弾……いや、姉さまの記憶が先ならこっちが一番目かな)
しかし、こんなところでへばっていてはいけない。エドガーたちには仕事があるんだから。
「……落ち着いたら、部屋に退散するけど、いい?」
「構いません。むしろ今からでも……」
「や、吐きそうだから」
三人がまたぎょっとした空気が伝わってきて、苦笑したくなった。失敗したけど。
……本当に、今一歩でも動けば、今以上の醜態を晒してあまりある自信しかない。
騙し騙しにも限界があるのだと、気づけただけ収穫だろうか。本当なら王さま以外には見せたくない醜態なのに。
「お二方、おれたちはここで失礼します」
「は?」
「……ガルダ……?」
「正面から出なくとも気づかれないでしょうから」
一瞬後、体を抱え上げられるのと同時に、とっ、と軽い足取りで跳んだガルダが、バルコニーの手摺を踏んだ。全身に触れる他人の体に、不意に沸き上がった悪寒が体を突き動かしたが、ガルダの方が早かった。
たんっと軽い足音とともに、髪やドレスの裾がふわりと浮いた。
だがそれだけで、予想したような浮遊感はなく、ただ温もりに包まれていた。自分を害することがないと、なぜか確信できた温かさだった。落ちた衝撃も感じさせず二階分の高さをバルコニーから飛び降りたガルダは、足を止めることなく、一歩ごとの衝撃を腕の中の人に与えることもせず、屋敷の内部に入っても走る速度で回廊を歩ききった。
ガルダがリエンの部屋の扉やその寝室の扉を蹴破らなかったのは、リエンが両腕をガルダの首に回し、片手を空けさせてくれたからだ。
「リエンさま、つきました」
「……うん……」
「あの……」
「……うん、着替えるからちょっと、そこで待ってて」
足を床に下ろされても首にしがみついていたリエンは、しぶしぶとガルダを解放した。ガルダは赤くなった顔がばれないうちに退散するつもりだったのに、暗に部屋に残れと言われてぴしりと固まった。
もちろん余裕のないリエンは気づかない。ふらりふらりとクローゼットへ向かい、大きな扉を開いた。
「……えっ、ここで!?」
「……ちょっと暖炉に火を入れてて」
「いやでもあの」
「わかったよ、見えないように着替えればいいんでしょ……」
ガルダの戸惑いが頂点まで登り詰めたが、結局はその気だるげな様子に、目を離すのは逆に危険なのだと自分を無理やり納得させた。
それを横目に、リエンは髪をほどいて仮面を外した。暗いのは相変わらずでも、解放感がすさまじく、ほう、と大きな息が漏れた。もうこのままでもいいかも……。そんな視界にふと光が入ったのは、ガルダが言われた通りに暖炉の火を起こしたからだろう。ますます気分がほどけていき、ドレスを脱ぐ気力も出てきた。
クローゼットの扉を衝立代わりにしてドレスを脱ぐと、ゆったりしたワンピースを頭から被った。髪紐も取り出して、髪をリィの時のように、しかしとても雑にまとめ上げる。ユゥの故郷でもらった髪紐に暗示を意識して。
(……大丈夫。私は「ここ」にいる)
息を吸って、吐いて。
嘔吐感は消えたが、続く目眩のせいで思考が働かない。脳みそか地面が揺れているようだ。もちろん本当に揺れるなら脳みそなんだろうけど。靴もまだ履きっぱなしだったのを思い出すと、靴下ごと豪快に脱ぎ捨て、扉から裸足のままひょこりと顔を出した。
「ガルダ、お湯沸かしてて」
「は、はい」
ガルダは、仮面や剣を外して一見寛いでいるように見えるのに、背筋を伸ばしてクローゼットに背中を向けていた。妙にかしこまっているその様子がおかしかったので、くすりと、今度は自然に微笑んだ。そんな気力すら、今ようやく戻ってきたところだった。
裸足で部屋を横断して、洗面所で化粧を落として戻ってくると、部屋はいくらか暖かくなっていた。投げ捨てた仮面とドレスが視界に入ったが、もう限界。ガルダを暖炉の前の一人がけのソファに呼び、座らせた。
「あ、あの……?」
「いいから」
寝台から毛布を剥ぎ取って体に巻き付けながら、リエンはそこに合流した。
ためらいなく座っているガルダの膝の上に乗り上げ、体をうずくまらせた。王さまのよりも触感が固いが、馬車の座席よりも温もりは充分に感じられる。そんな人間枕がぎょっと身を固くしたのを、すでに微睡みながら感じた。
「リエンさま!さすがにこれは!」
「うるさい……私が眠るまででいいから我慢して……」
「いやでもですね……!」
「茶葉がそこら辺にあるから、紅茶でも何でも飲んでいいからさ……」
「サービスの方向が徹底的に違う!!」
「……んー」
人が寝ようとしているのに、うるさい。
ぐりっとみぞおちを肘で押すと、とたんに口をつぐんでくれたようで何よりだ。
しばらくして、背中に手が添えられた。もう一つの手が髪をすいている動作はぎこちなかったが、慰めるような撫で方が心地よい。
自然に、とろとろと瞼が落ちていった。
耳の奥に響く濁った悲鳴と罵声と打擲の音が、暖炉の薪の爆ぜる音の向こうに遠ざかっていく。
(……大丈夫。大丈夫……)
大丈夫。ここはあの最低な世界じゃない。怯えなくていい。誰も私を傷つけない。休んでも大丈夫……。
心の奥で言い聞かせながら、意識をふつりと手放した。
ーーーーー
「……君は、誰彼構わずああいうことをするのか」
「ああいうこと?」
「……百合と、仮面に……接吻しただろう」
接吻て。ネフィルとファーストダンスを踊っていたリエンはきょとんと首をかしげた。
「あれ、ネフィルっていうか姉さまにしたようなものだよ。駄目なの?」
「……頭痛がしてきたぞ」
「何で?」
ネフィルが誰かと踊っているのをこうしてリエンが目にするのははじめてだが、なかなか上手だ。安定したリードのお陰でステップを踏むのも簡単で、こうして雑談までできていた。これもお母さまのために覚えたのかもしれなかった。
「従者にやらかしたことがあるのは聞いていたが、他にした人間はいないだろうな?」
「やらかしたって」
「それ以外にどう言えというんだ。それで、他には?」
「んーと、ヴィーにならした覚えがあるかな。あと孤児院の子どもたちとか……あ、ユゥにも。姉さまとは昔に散々やった。それがどうかしたの?」
けっこう範囲が広いぞ、とネフィルが顔をひきつらせた。しかもこの性別年齢の無節操感漂う回答。口づけの意味を本人すら理解していない可能性が高い。
「……少なくとも、だ。公衆の面前では控えるべきだ。君には婚約者や恋人の影もいないから、目撃されたときには一気に噂が広がってしまう」
「……ああ、そういう。でも、口づけくらいみんなしていない?私がしたのも唇じゃないしさ」
「君、自分が適齢期の女性だと忘れてないか」
「そんなことは……ない」
「目を逸らさず言ってくれ」
なるほど、だから踊っている最中もエドガーやセーラ、レーヴから物言いたげな視線が向けられているのか。仮面ごしなのにびしばし感じてしまったが、それだけのことを私はやってしまったらしい。
しかし、理解はしても、不服の意は消えなかった。
「姉さまとやってた愛情表現の一種だよ?みんなは違うの?」
「やるのは幼い子どものときだけだ。適齢期に入ると、いらぬ風聞なんかがあるからな、自然と自粛はするものだ。……君のそれは、まさか異世界の常識じゃないだろうな?ユーリ女伯爵が間違いを教えるとも思わない」
「あ、多分そうかも。姉さまもレイに散々されてたから。エルサとは、確かに一度もしたことがないし」
「とにかく自粛してくれ。無闇にしないこと。――特に異性には」
「人を痴女のように」
「そこまでは言ってない。ただ、それこそ君にとっていらない傷がつけられることになる。売られた喧嘩を買う前に、売られる隙を作らないようにするべきなんだ、君は」
私たちの心の健康のために、是非とも。
ぼそりと呟かれた切実な要望に、思わず噴き出した。「笑い事じゃない」とむすりと言われてごめんごめんと返す。
「まあ、でもネフィルなら身内だし言い訳できるでしょ」
「それでも、今回だけだ。というか今回だった時点ですでにまずいと思うがな。私にとっては楽になるかもしれないが」
「あ」
リエンは、この広間がお見合い会場であることを今さら思い出して、大きく瞬いた。
そのお見合いの雰囲気をあっけなく破壊したのは、恋した者の花を飾るネフィルでも敵陣真っ最中のヴィオレットでもない。自分こそがそれ目当てで参加してきた令嬢たちの目の前でやらかしたことに、ようやく気づいた。
「ほら、そういうところが抜けてると言うんだ……」と独り言のように呟くネフィルからとことん呆れた視線が降り注ぐが、さすがに目を合わせられなくて、ごまかし笑いをセーラたちへ向ける。
その時、ちょうど曲が終わったので、ネフィルに「頑張って」と適当に声をかけて、そそくさと壁際に向かっていった。
ちらりと視線だけ向けると、踊っている最中の会話風景も周囲からはかなり親密に見えたのだろう、新たにネフィルに踊りを申し込もうとする仮面の令嬢たちは尻込みしているようだった。申し訳ない。
避けられるのはリエンも同じだったようで、誰にも引き留められることなく壁に到達したリエンは、くるりと振り返って広間を望洋と眺めた。
そこに近寄ったのが、青紫の仮面をつけたヴィーだった。背後に近衛の隊服にシンプルな黒い仮面のティオリアを連れている。
ヴィーは、しばらく会わないうちに感情の整理がついたのか、小さい笑みを浮かべている。今回ばかりは呆れ笑いだったが。
「リィ。やりすぎだよ」
「うん、さっきネフィルにも叱られた」
「身内だからって、憚るところだからね。夜会の趣旨的に」
「ごもっともです」
リエンは弟にも頭を下げた。「素直だね」と意外そうに言われて「そこもネフィルにお説教された」と返す。ヴィーは何とも言えない顔でああ……と頷いていた。
「どこで見ていたの?踊らないの?」
「うん。エドガーさまには招待状を義理で用意してもらっただけだし、こうして壁際で大人しくしてるつもりだよ」
「義理じゃないわ」
そこだけは訂正するべきだったので、リエンは厳しく否定した。ヴィーも苦笑しているから、わかってはいるんだろう。また神経質に気を遣ってるのだろうが、しなくてもいい相手はそうしてもいいのだ。ああ、いじましい。目の前の弟の、整えられた髪型を崩さないように何度も何度も撫でる。しかし、かつてそれに喜んだ弟は、今は目を細めて耐えているだけだった。感情の整理ができたとしても、それは落ち着きを取り戻しただけだったのだろう。
寂しいが、反抗期は成長のばねとも言うし。嬉しくて微笑んでいると不審な顔をされた。失礼な。
「両殿下」
「おつくろぎのところ申し訳ありません」
二人分の声がして振り返ると、同じ背格好に同じ青の仮面をつけた二人の青年が立っていた。ヘリオスとセレネスだ。
双子じゃないと公言しているくせに、そっくり同じことをしては相手を混乱させるのが楽しいらしい。初対面で二人を見分けたら二人分驚かれたあと、エドガーに教えてもらったことだ。素直なイオンと違い、かなり趣味の悪い兄たちである。
「王子殿下、もっと王都でのお話を伺いたいのですが、私の他にも、彼らにお聞かせできませんか」
「王女殿下、お病気とは伺っておりますが、もしよければ私とも踊っていただけないでしょうか」
ヴィーと顔を見合せ、苦笑ぎみに頷きあった。ここまで自分達に好都合のお誘いが、この領にいて持ちかけられるとは、二人とも予想していなかったのだった。
ヘリオスと踊ったあとは、セレネスとも踊った。そのころになると、ネフィルの周囲にも人だかりが戻ってきていた。身分の順序や家柄を気にしないのが仮面舞踏会の醍醐味だと教わったが、なるほどその通りのようだ。男性女性様々が集まり、ネフィルとともに立つアルブス夫妻の姿も埋もれてしまっている。前当主夫妻は既に退場しているらしい。
しかし、微妙な空気が落ち着いたのはリエンの方も同じだったらしい。何人かにダンスを申し込まれ、数人とは踊ったものの、他はなるべく丁寧に断った。社交疲れの建前はきちんと効果を発揮していて、しつこく食い下がる人もいない。しかし「深窓の令嬢」らしい態度でここまで多くの人と接したことはまだ少ないので、面倒なのは面倒だった。
ヴィーに関しては近づいてくる人間もおらず、常にヘリオスかセレネスのどちらかが側についていた。それこそ壁の花を満喫しているようだ。ここは弟にとって敵陣なのだと、忘れたわけでもない事実を見せつけられて辟易する。
(ここまで百八十度変わるとなぁ)
あの頃のヴィーの気持ちがわかるようだった。リエンは建国記念式典以外では姿を見せなかったが、それでもあんな空気を味わい尽くしたのだ。
全く、子ども相手に大人げない真似をする人間の多いこと。それこそ、中心に据えた感情に素直なアルビオン一族ならではか……いや、アルブス家の人間だけは、その中でもかなりの変わり種だ。父子ともに如才なく立ち回っている。そうしてちらりとまたネフィルたちの方を流し見た時だった。
ふと、少し嫌なことに気づいた。仮面舞踏会ではどこまでが無礼講なのかよく掴めないが、ネフィルにできている人だかりのうちのほとんどがエドガーの方を向いている。いきなり最高位の人間に声をかけるのは失礼だと考えているとしても、エドガーに片寄りすぎている気がする。
やはり、ヴィーだけではなく、ネフィルも故郷では立場が怪しいのかもしれなかった。一族が嫌うヴィーを保護する動きをしたからだと、はじめからわかっていたのだが。
『エドガー。あなたは、ネフィルの味方?』
招待状を頼んで貰った日のことが思い出されて、ふいと視線を逸らし、広間全体を見渡すように頭を巡らせた。
実は、ひそかに人を探しているのだった。ここに招待されているのかすら定かではなかったが、それでも。邂逅は奇跡の確率だろうとも思っている。ただし、会えたのと会えなかったのでは、リエンの予想が大きく変わってしまうのだ。
ある時、リエンさま、とずっと空気のように控えていたガルダに声をかけられ、振り返ったときには、その人物が目の前にいた。
「はじめまして、美しい姫君。私と踊っていただけないでしょうか」
玲瓏に響く誘い文句と、優美な物腰。セーラたちより年下だろうが、口許に刻まれた皺は深い。髪は金、羽根があしらわれた柔らかな仮面の向こうから緑の双眸が覗く。
アルビオン一族の特徴は多くの人間に表れているので、この色彩が珍しいというわけでもない。実際にこの夜会は似たような色彩で溢れている。
それでも、だ。リエンは見つけた、と思った。本当に参加していたことも、こうして接触されたことも驚きだが、すぐに落ち着きを取り戻した。
こんな状況でも働く自分の目と直感にほとんど苦笑いしながら、差し出された手を取った。
『……殿下は、一体何を懸念していらっしゃるのでしょうか』
『同じだよ。あなたと』
人の波が引き、エドガーは嫌がるネフィルを無理やりダンスに送り出した。お相手はエドガーが息子たちと厳選した、一族の中でも中位の年若い娘だ。他にも二十代とやや年増だったり、未亡人まで取り揃えている。何が好みなのかはエドガーですらわからないので、とりあえずその全員と踊ってもらうつもりだった。
テーブルに寄ると、妻が差し出したワインを、礼を言いつつ受け取って口をつけ、小さく息をつく。
エドガーがネフィルに故郷への帰還を願ったのは、見合い目的だった伯父夫婦とは少し違う理由からだった。そこをいち早く察したのが姫殿下。視線だけで探すと、ちょうど誰かと踊っているところだった。
これまで義務感だけで出席させられていたらしい建国記念式典を除けば、初の社交の場に現れたことになるのだが、その理由が叔父のためでしかないところにあの方の性格が思いやられるようだった。
(口調が他人行儀じゃなくなったのは、あれで信頼してくれたからかな)
社交とはお見合いだけの場所ではない。エドガーはそう思っていたが、殿下はさらに柔軟だった。お見合いも都合のひとつ。とにかくネフィルに味方が作れれば、何でもよいのだ。嫁でも友人でも利害のみの関係でも部下であっても。
とにかく、何かあったときにネフィルの味方になれれば。
ぼんやり眺めていると、踊っているネフィルが視界を横切っていった。いつでもどこでもダンス中でも遊び心を忘れない手のかかる従妹に振り回された従弟は、かなりのダンスの名手だ。知る人ぞ知る類いの。
『質問を変えます。あなたさまは、ネフィルについて何を知っているんですか』
その問いは笑って流され、反対に、鋭い声で尋ねられた。
『ねぇ、あなたはネフィルの味方?何がなんでも、ネフィルが拒んだとしても、――裏切られたとしても。あなたは絶対に裏切らない?』
息を飲んだのは確かだった。しかし、真摯に見上げてくるそのリーナにそっくりの瞳を見ていれば、自然と笑みが沸いてくるというものだった。一族が守れなかった姫。なのにそれを尋ねるのは彼女とは、なんという皮肉か。
あのときと同じ答えを、胸の中に呟いた。言われずとも遥か昔から決意していたことで、領主を継いだのもその一貫だった。
情に篤く、一途。それでいて全てを受け入れる度量を持つ天性の守りの性。
彼は、今は亡いとある老婆に、修羅のなりそこないと笑われた男である。一度失ってしまってからその言葉の意味に気づけた情けない男でもあるが。
しかし、今度こそ。
もう二度と、何も喪うつもりはなかった。
(あのときは殿下たちも、って言おうと思って言えなかったからなぁ……。とりあえず行動で示すけど)
自分の情けなさに苦笑した。不思議そうな顔で見つめてくるナキアに言えば尻を蹴っ飛ばされそうなので、黙ったままにしておこうと、ワインを一口口に含んだ。
☆☆☆
ある程度必要な交流も終え、アルビオン領内の縮図を精密に思い描けたところで、リエンはふうと肩を落とした。じわじわと、頭痛のような、そこまで酷くないような違和感が思考力を蝕みはじめている。
ふらりとバルコニーに足を向ける王女を止める者は誰もいない。ネフィルの味方について、ヴィーと同様に一朝一夕でうまく行くものではないと理解してもいる。今日は、ここまでだ。
いくつかあるうちのバルコニーのどれにも、人はいなかった。
楽団の音楽が、外に出るとくぐもって響いてくる。目を閉じると、晩秋の冷たい風が頬に当たり、ざやざやと葉擦れの音が耳を撫でていくのを鮮明に感じた。その背後になにも言わずとも黙ってつき従う男の存在だけ、振り返って目で確かめないと、気配を掴めないのだった。
「……ガルダ、私に言いたいことがあったら言うんじゃなかった?」
質問自体か質問の中身があまりに予想外だったのか、ガルダがびくりと硬直した。くすりと笑おうとして口角がひきつった感覚がしたのでごまかした。
「ないなら、別にいいけど」
この領に来る前から様子がおかしいのをわかっていて、放置してきた。何もないわけがない。しかも先ほど、迂闊にも、姉さまについてこの人の目の前でネフィルと話してしまった。
じっと見つめていると、逆光の中しどろもどろだったガルダが、やがてごくりと唾を飲み込んだ。
「……ナ、ナヅミという人物について、今、ずっと考えていて」
「ふーん、そう。姉さまがどうかしたの?」
「ど、どうしたって」
おあいにくさまだ。ネフィルにうっかり漏らしただけで優しさサービスは終わってる。助け船は出さない。
言葉を必死に探そうとしている姿から目を逸らし、また闇へ目を向ける。さすが天下に轟く公爵家、庭園は夜でも目で楽しめるようになっているようで、光を反射する山茶花の花や南天の実が鮮やかに闇を彩っていた。奥に生っているのは蜜柑だろうか……酸っぱいのが後宮にあったけれど、ここのはどうなんだろう。ああ、姉さまの作った蜂蜜漬け、食べたいなぁ……。
「なぜナヅミという人について、おれに話したくないんですか」
思わず振り返ったリエンの瞳は、しゅんと項垂れている従者を大きく映し込んだ。
「……素晴らしく直球だね」
「すみません。やっぱり、あなたを傷つけずに尋ねる方法なんてわかりません……」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「気にしてください。あれだけ様子がおかしかったのに」
「そうだった?」
「そうです」
ここぞとばかりに強い口調で言われて、目を瞬かせた。
じゃあつまり、リエンに気を遣いまくった結果、こんな挙動不審になっていたというのか。
それは、なんというか……。
「面倒な」
「おれ泣きますよ?既に涙目ですからね?あとちょっとで号泣しますよ??」
「あ、声に出てた?」
「ばっちり。しかも吐き捨ててましたよね今」
否定できずに、ずっと前から寄ってしまっていた眉間のしわを解いた。仮面がなければ揉んでいたところだ。ぎこちなく苦笑して、また夜景を眺める。
「……姉さまに関しては、知られると色々不都合が多いのよ」
「もういない、のにですか?」
「そう」
それを言えば、はじめからいないのと変わりない。まずいのは私の存在そのものなのだから。
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はじめから、姉さまの持つ知識なんて欲しがったことはないのに。私は姉さま自身にいてほしかったのに。
「どんな不都合ですか?」
「そこが肝心なのに教えるわけないでしょうが」
「……おれが黙っておくから、というのは通じないんですね」
「そういうこと」
「…………」
「だから、私はこの間教えた以上のことを言うつもりはないわ」
再び沈黙。再び夜の庭園を見渡してみたが、今度はあまり集中できなかった。背後に立つ男が次に何を言うのか、何をやらかすのか警戒してしまう。そして案の定と言うべきか。
「二、三日、お側を離れることをお許しください」
思わずまた振り返ると、ガルダは剣の柄を握る己の左手をじいっと見つめていた。ばつが悪そうな顔をしている。
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(……ああうん、なるほどそーいうこと)
「別に。休暇ならもっと多くとってもいいよ」
「いえ、そこまでお側を離れるわけにもいかないでしょう。目を離したらどうなるか……」
「別に?そんな建前ぐだぐだつけなくても、ちゃんと言ってくれれば退職金も弾むよ?」
ガルダは、あれ、違うぞ、会話が噛み合わないなと主を見る。そこで、まるっきり突き放すどころか、蔑みすら滲む目を向けられてぎょっとした。
「え、ちょ、ちょっとリエンさま?何か勘違いしてません?二、三日でいいんですよ?」
「ふーん?」
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「…………」
ガルダは諸々で声を失って、夜空を仰いだ。雲が少なく新月でもあるので、いくつもの星が燦然と煌めいていて、美しい。しかし、ガルダの視界は再び滲んだ涙でぼやけている。この状況を楽しむ余裕は皆無だ。
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そこでは、微笑を浮かべていたはずのリエンが、息を切らしながらふらりと足をよろけさせていた。
前触れのない異様な様子にガルダがとっさに腕を掴んだが、ほとんど助けにならず、膝から力が抜けて崩れ落ちた。
見ていた三人から咄嗟に悲鳴のような声が漏れた。
「――リエンさま!?」
「大……丈夫、ちょっと、目眩がね……」
「やはり体調がまだ戻っていないのでは……」
「いや……そんなことはないよ、エドガー。人は呼ばなくていい。たまにあることだから」
「たまにって……」
エドガーがナキアとガルダを見比べるが、この二人も姫のこんな姿は初めて見るものだった。いや、ガルダは一度だけなら――サームとやり合った時にも、こんな様子ではあったのは、覚えている。恐怖混じりの、極度の緊張状態。
座り込むリエンに、ガルダが顔を近づけた。「社交疲れ」はどこまでも建前のはずだったのだ。
「『なに』が、原因ですか」
「……さあね」
息を整えるように深呼吸しながら、目を閉じて開いてもまだ狭い視界にうんざりする。血の気が頭から落ちきっている感覚がとても気持ち悪い。
……多分、今気づいた「これ」は、私の弱点だ。
滅びた世界で、無力にも守られていたあの頃。狭い隙間から、見ていたこと……。
(トラウマ第二弾……いや、姉さまの記憶が先ならこっちが一番目かな)
しかし、こんなところでへばっていてはいけない。エドガーたちには仕事があるんだから。
「……落ち着いたら、部屋に退散するけど、いい?」
「構いません。むしろ今からでも……」
「や、吐きそうだから」
三人がまたぎょっとした空気が伝わってきて、苦笑したくなった。失敗したけど。
……本当に、今一歩でも動けば、今以上の醜態を晒してあまりある自信しかない。
騙し騙しにも限界があるのだと、気づけただけ収穫だろうか。本当なら王さま以外には見せたくない醜態なのに。
「お二方、おれたちはここで失礼します」
「は?」
「……ガルダ……?」
「正面から出なくとも気づかれないでしょうから」
一瞬後、体を抱え上げられるのと同時に、とっ、と軽い足取りで跳んだガルダが、バルコニーの手摺を踏んだ。全身に触れる他人の体に、不意に沸き上がった悪寒が体を突き動かしたが、ガルダの方が早かった。
たんっと軽い足音とともに、髪やドレスの裾がふわりと浮いた。
だがそれだけで、予想したような浮遊感はなく、ただ温もりに包まれていた。自分を害することがないと、なぜか確信できた温かさだった。落ちた衝撃も感じさせず二階分の高さをバルコニーから飛び降りたガルダは、足を止めることなく、一歩ごとの衝撃を腕の中の人に与えることもせず、屋敷の内部に入っても走る速度で回廊を歩ききった。
ガルダがリエンの部屋の扉やその寝室の扉を蹴破らなかったのは、リエンが両腕をガルダの首に回し、片手を空けさせてくれたからだ。
「リエンさま、つきました」
「……うん……」
「あの……」
「……うん、着替えるからちょっと、そこで待ってて」
足を床に下ろされても首にしがみついていたリエンは、しぶしぶとガルダを解放した。ガルダは赤くなった顔がばれないうちに退散するつもりだったのに、暗に部屋に残れと言われてぴしりと固まった。
もちろん余裕のないリエンは気づかない。ふらりふらりとクローゼットへ向かい、大きな扉を開いた。
「……えっ、ここで!?」
「……ちょっと暖炉に火を入れてて」
「いやでもあの」
「わかったよ、見えないように着替えればいいんでしょ……」
ガルダの戸惑いが頂点まで登り詰めたが、結局はその気だるげな様子に、目を離すのは逆に危険なのだと自分を無理やり納得させた。
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(……大丈夫。私は「ここ」にいる)
息を吸って、吐いて。
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「は、はい」
ガルダは、仮面や剣を外して一見寛いでいるように見えるのに、背筋を伸ばしてクローゼットに背中を向けていた。妙にかしこまっているその様子がおかしかったので、くすりと、今度は自然に微笑んだ。そんな気力すら、今ようやく戻ってきたところだった。
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「いいから」
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