孤独な王女

文字の大きさ
上 下
181 / 288
足元を確認する

扉の向こう側

しおりを挟む
 静寂とは、音がなくなってから感じるものだ。
 はじめからなければ静けさなどわかるはずもない。

(……静かだ)

 ならば、今、目覚めた自分は、喧しい夢でも見ていたのだろう。そう、思っていたのだが。
 ぱかっと開ければいつもの暗闇があった。しかし、不意にどこかでゆらりと灯火が揺れ、影が踊った。近いのか遠いのか、よくわからない。この時間に、この廟に誰かが訪れるのは珍しい。

「なるほど、この仕掛けはこっちに繋がるのね。ふーん……結構入りくんでるけど、何年かけて作ったのかしら、これ。明らかに水路以外の役割前提じゃないのよ」

 ぼそぼそと聞こえてくる声が若い女――ともすれば少女のような声だったので、さすがに仰天した。何十年も前に巻き戻ったのかと思った。
 しかし、違う。昔にここを訪れた少女は高慢ちきで早口できゃんきゃんと姦しい声だったが、この声はしっとりと落ち着いた、思慮深さを窺わせるようなものだ。比べたら失礼というものだろう。

「……人の寝込みに、勝手に物を漁るのは泥棒と決まっているが」

 ぼそっと呟くと、少女の独り言がふっつりと止んだ。灯火が上に上がり、密やかな足音が近づく。闇より濃い影が滑らかな石の上を滑るように重なり、自分の臥所のへりにかかって折れ曲がる。
 起き上がると同時に、軽やかな声が降ってきた。

「あ、やっぱり、起きてた。――こんばんは。起こしたのならごめんなさい」
「…………ずいぶんと、若い盗人だな」

 思わず喉に言葉がつっかえたのは、その色彩に気づいたからだった。――黄金。そして、恐らく……碧玉。それ以前に、この容貌を見知っていた。
 大人でもどんな手段であっても一日はかかるほどの距離にいるはずの少女は、その動揺には気づかなかったようだった。いかにも屈託なく笑い飛ばした。

「やだなぁ、そんなことしないよ。不法侵入は謝るけど、それも偶然だし。今日のところは挨拶して帰ろうと思ってたの」
「……挨拶?」

 いや、それよりも。今日のところは?
 眉を寄せると、その少女はまじまじとこちらを見つめてきて、「似てるね」と呟いた。

「年齢からして……女王陛下のきょうだい?でも、いくら戸籍にはないからって、恨み骨髄のネフィルたちが見逃すはずがないよね……。あれ、でもそれはキーランも同じ?」

 なんだか、今、ウェズの裏社会に身を置くスリエランドの私生児の名前が聞こえた気がした。ますます眉間が狭くなった。

「その者は幼少からバルト・サリエの庇護にあり無関係だと疑いようもない」
「あ、そうか、それでキーランに手を出したらバルトさんが怒るのね。それは国として困るものね」

 少女は片手に燭を持ったまま器用に手を打った。無駄に燐火が散り、髪や瞳がきらきらと輝く。それは、文字通りの闇の中で暮らす自分にはとても眩しく、腹立たしく映った。

「挨拶はどうした、王女」
「わかってるならする必要もない気がするけど」
「……どうやら、実物は聞きしに勝る難物のようだな」
「そんなに意外?でも残念、これが私。どれ程のことをあなたが聞いていたかは知らないけど、悔やまなくていいよ。サームとか、セルゲイもね、皆漏れなくびっくり仰天だから」
「自分で言う奴があるか」
「自己理解は自己改革の礎よ」
「開き直っているだけだろうが」

 なんだか漫才をしているような気分になってきた。観客皆無の漫才のどこに需要があるのか知らないが。……ふと、少女の瞳が灯火のせいではなく閃いた。

「改めまして、私はリエン。あなたのことはなんて呼べばいいの?」
「……なぜ?」
「予想つけてても別人かもしれないし。それで返事しなかったら面倒だもの」

 子どもっぽい言い分だが、騙されるわけがなかった。自分が何者か当たりをつけていること。今日ここにいることも、狙ったゆえかもしれなかった。

「……『賢者』と」
「当たり」

 少女はにっこりと笑った。溌剌な表情。しかしそれだけではない含み。
 全く一族も馬鹿なものだ。自分が策を与えたこともあったが、表面に惑わされ墓穴に落ち地獄へ意気揚々と大行進を遂げるとは。

「じゃ、賢者さん。またね」

 そういえばこの少女は一体どこから入り込んだのか。胡乱げな目で後ろ姿を追うと、まさか自分も長い間気づかなかった隠し扉の出現に唖然とした。
 少女はそんな驚きに全く気づかず、歩みを止めず、隠し扉の向こうへ消えていった。












 リエンはこっそり帰途につくと、浴室で埃を洗い流し、短い睡眠を取った。
 冬の夜は短い。寝不足は構わないが、それをガルダとユゥに勘づかれてはいけない。ひとまず今日の夜はしっかり寝て、明日の夜にまた隠し通路を探検しよう。

(……まさか、探してた賢者さんとばったり会うことになるとは思ってなかったわ)

 そろそろ離宮での暮らしも落ち着いてきたし、前から目をつけていた隠し通路の調査をしようと思い立ったのが始まりだった。出鼻は空き巣事件で挫かれたが、むしろますます隠し通路の行く先を知る必要性が出てきた。よくない場所に繋がるならその道は封鎖しておきたかったし、利用者の有無も調査対象だ。
 賢者の所に出たのは偶然だ。たまたま選んだ枝道の先に仕掛けがあるから解いたら、不思議な匂いのする広い地下室が広がっていたのだ。まあ、広いと言っても、見事に台無しだったが。
 山積みの本、本、本。冷たい壁にはタペストリーの代わりに地勢図や星図、姿絵、暗号その他がびっしりと貼り付けられていて、中には地下水路の広がりを描いた古い絵図もあった。その奥に、埋もれるように横たわる年齢不詳の人物。灯火の下でもわかる、輝くような大理石の肌に、けぶるような長いまつげ、薄く滑らかな唇。眠り姫のようだと思ったくらい、性別を越えた美しさを持った人。リエンがそう思ったのは、弟に次ぎ二回目だ。どれもこれも男であることがいっそ笑える。
 それに、あの顔……。

(……隠されたのか、隠したのか。どっちかしらね)

 外宮にはそこまで詳しくないが、図書館、禁書区間、後宮はほとんど網羅しているリエンも、つい二年ほど前にやっとその存在を知ることかできた。それでも所在が知れず、探そうにも手が足りず城の外に出ることもできなかった。彼はとてもリエンを疑っていたようだが、本当にこの邂逅は偶然で、棚ぼたである。
 本人は賢者、と言っていたが、あれは物凄く嫌そうな顔だったな、と思い返す。それだけは意外だった。

 ……というか、そんなに嫌なら別の名前を告げればよかっただろうに。










☆☆☆









 空き巣のあった日からイライラしたりしょげたりしていたユゥは、臨時書記官としてリエンの親書を城に配達しに行った日からは少々落ち着きを取り戻しはじめていたが、リエンが敷地内にいれた離宮警備隊の一部の顔ぶれが変わっているのに気づいて、ずとんとまた一気に落ち込んだ。
 ユゥを守るためだけにリエンが彼らを内に入れたわけではなく、ついでに敵を「誘った」のだとわかったのだろう。誘いに応える前にその連中は引っ捕らえられて城の牢に入ってしまったが。怪しい、というだけで、確たる証拠もなしに人の自由を奪える権力に、リエン自身が驚いた。思わず笑った。

 これが、王女、という立場の持つ力――これまで誰も、リエンに認めようとしなかったもの。

 面白くて笑ったのか、単に自嘲したのか。はたまた過去の誰かを嗤ったのか、リエン自身もよくわからなかった。
 ただ、その日は一日中、ガルダに引っ付いていた。ガルダもあの原因不明な怒りはどこかで昇華したらしく、殺気も怒気も感じない。とりあえずガルダの傍をうろちょろすると、苦笑して許してくれ、昼寝には膝を貸してくれた。頭と背中を撫でて、「お疲れですか」と、温かく、リエンへの情が滲む声をかけてくれた。いつものように。
 それだけで気持ちのどこかが綻ぶ。なんでか、とても泣きそうになって、熱くなる瞼を無理矢理閉じて。
 つかの間の休眠から覚めたら、リエンの調子はすっかり戻っていた。

 それでも、ガルダを夜道のお供にはしなかった。

「……まさか本当に来るとはな」

 今日の賢者は起きて、部屋に灯をともしてなにか読み物をしていた。隠し扉からひょっこり現れたリエンを見て、頬杖をついてげんなりと言う。
 別におとないを待っていたわけではないだろう。むしろ来ないでくれという念がこもっていた。リエンの知ったところではないが。

「こんばんは。あなたの邪魔はしないからそこの本借りていい?」

 今度こそ賢者は鳩が豆鉄砲を食らった顔をした。くるっぽー。

「………………は?」
「こないだざっと見てたんだけど、城の禁書区間にもない書物がたくさんあるし。借りてっちゃ駄目ならここで読ませて」

 呆然とする賢者の脇を通り、山の一つの前に立つと、とりあえずというようにてっぺんの一冊を手に持った。その本の表題を見て我に返った賢者は、これが「とりあえず」な行動ではないと察した。手当たり次第ではなく、と思って「抜き取った」。

 この少女の本質が垣間見えた気がしてますます嫌になった。賢者と名乗った自分に知りたいことを聞こうとしないところもそうだ。それこそ山ほどあるだろうに。
 例えば空き巣を指示した根本の人間。例えばこの自分の本名。例えばこの場所の所在地。
 ……例えば、クロリエ・ルシェルの幼少期。
 問われないなら答える義理もない。だから、賢者は久しぶりに相手の要望への返事をした。質問への解答ではなくて。

「王女の部屋の外にさえ出さなければ、別に構わん」
「ありがとう。じゃあ帰るね。賢者さんも早く寝たら?」
「人の時間も考えずに来たあげくにそれを言うか」
「仕方ないじゃない、この時間しか空いてないんだもの。――またね、おやすみ」

 長居せずあっさり帰っていった少女の背中を見て、賢者はやっぱり断ればよかったと思った。どうしてもまた会わねばならなくなった。もういっそ、次に来たときには寝ておこうか。いや、勝手に出入りされて物の位置が変わるだけでもイラッとする気がする。
 最近めっきり減った相談者とは違う種類のおとない人なので、こちらの調子が狂わされているようだ。

(……そういえば、相談でなく訪ねてくる者は、これで二人目か)

 聞きたい。知りたい。負かしたい。貶めたい。自分が誰よりも上だと思い知らせたい。
 賢者が相手にする人間はそんな連中ばかりだったので、先程の少女がとても珍妙な生き物に思えてきた。いや元から珍妙だったか。
「覚醒」するとこんなにキテレツになるという史実はないし、次代に希望が持てなくなるので、彼女が特殊なのだろうと思うことにした。



 その後。

 ……なんの解決にもなってないな!?

 就寝中の賢者は、そんな無情な真実に気づいて跳ね起きた。







☆☆☆







  年越しまであとちょっと、という頃になると、ガルダもユゥも掃除道具を手に慌ただしく離宮内をうろつき回るようになった。窓や鍋をいつも以上にピカピカに磨き、煙突と竈の煤を丹念に落とし、廊下の汚れを隅から隅まで洗い流し、絨毯やソファ、クッションその他も大洗濯。庭の草をむしり、厩舎をひっくり返すように片付け、馬車の整備点検も念入りに行う。リエンの部屋以外の全てが真新しく生まれ変わっていく様子には、呆れるよりひたすら感心した。しかも二人とも、通常業務を行いつつの片手間である。
 ちなみに、リエンは最初から最後まで、一つも手伝わなかった。理由はいくつかある。賢者のところに出入りするので最近寝不足気味で、昼寝をしてバランスを取っていること。賢者から借りた本を読んで頭を使いまくって疲れていること。
 中でも、面倒くさがる一番の理由は以下の通りだ。

「別に、引っ越してきたときに掃除したから、そこまでしなくていいと思うけどなぁ」

 この呟きを耳に拾ったガルダもユーフェも、そっくり同じことをした。ぴたりを動きを止め、主人を見、数秒のちにお互いの顔を見合わせた。
 この方は、何気なく言ったならまだしも、なぜ心底不思議そうに首をかしげているのか。

(嫌な予感がします)
(おれもだ)

 目配せし合った末、ジヴェルナ一般庶民代表として、自薦一票他薦一票計二票満場一致でガルダが選ばれた。彼は「エヘン」と滅多にしない咳払いをし、「つかぬことをおうかがいしますが」と慣れない前置きをつけた。

「リエンさま。これまで、年越しはどのようにお過ごしに?」
「どのようにって?」
「……後宮でなにか、催し物みたいな……」
「そんなのあるの?へえ、知らなかったわ。どこもかしこも静かだったから」

 埒が明かない。今度こそガルダは腹を括った。

「新年が明けるのは、我が国では慶事になりますが――リエンさまは、その日、特別な……普段と違ったことはありましたか?」
「皆が皆、女王陛下とヴィーのところに行ってたわね。あの日だけは部屋の回りに誰もいないから、とても気楽に過ごせたわ」

 たったひとりの年越し。いつも無駄話、暇潰し、嫌がらせの三拍子で廊下を使用人がうろちょろして音が絶えないのが、リエンのよく知る後宮だった。だから、どんなに忙しい時でも、その希少な静寂さがリエンの足を後宮の己の部屋へ引き留めた。
 リエンにとって特別大事な日は自分の誕生日。生まれた日を自分で祝う日。でも、その日も悪巧みや勉強はやめなかった。
 真実なにもせず、頭を空っぽにして、後宮のいつにない静けさをじっくりと味わう……それは、新年のわずかな間だけ。
 ちなみに、本当に誰一人として仕事をしないので、食事も当然やって来ない。静寂は気に入っていたが飢え死にはごめんなので、年末にかけて非常食をこっそり準備して、当日やその数日あとまで貧しく干物を齧っていた。
 数日後、小さなヴィーがリエンを探して冬の庭をさ迷っていたところでたまたま出会い、「明けましておめでとう」という挨拶があることを知った。ベリオルとネフィルは、勉強会こそやっていたが新年前後の二ヶ月はそれぞれの仕事で忙しくて、久々に会っても挨拶はなかった。多分二人とも普通に忙殺されていた。ついでにリエンも忘れていた。興味が欠片もなかったので。

(っていうのも今更な気がするんだけど……?)

 リエンは目の前で崩れ落ちた二人を見て、そう思った。これまで後宮でリエンがどんな扱いを受けてきたか知らないわけではなかっただろうに、どこにそんな衝撃を受けたのか。

「っていうことがあったんだけど」
「なぜおれにそれを言う」

 賢者は思いもよらず荒っぽい一人称だった。リエンはそれをなんとなく新鮮に思いつつ、「あなたも私と同じでしょ?」と答えた。

「誰もお祝いしないなら大事に思えるわけがないよね。二人ともその点で私と意見が一致しなくて。それから妙に張り切ってて、ますます新年ってものを遠く感じてしまうのよ」
「…………」

 賢者は黙ったまま自分の本の頁を捲った。こうしたリエンの愚痴は、何回目かの訪問で常のこととなっていた。……そう、愚痴。口を開いたと思ったら、相変わらず賢者を賢者たらしめるようなことには触れないまま。「賢者さん」と呼びかけてもその称号に対する敬意がないのはともかく、犬の名前を呼ぶような扱いはどうなのか。
 しかし、なお悪い部分がある。この王女は、賢者を犬だとは認識していない。賢者は結局、ぱたりと本を閉じた。賢者の臥所に遠慮も恥じらいもなく腰かける王女に面と向かう。

「疎外感を感じるなら、そう従者に言えばよい。おれに愚痴をこぼすより遥かに建設的だ」
「だって、それでガルダが落ち込むのは面倒だもん。私、慰めるの下手だし」
「おれに言ったところで変わらないだろうが」
「あなたはね、私の言うことを理解しても、共感はしても、落ち込むようなことだけは絶対にしないでしょ。かといって笑いもしないし、下手に慰めないし。建設的っていえば、私はあなたに話すだけで大分落ち着くから充分に役に立ってるよ」
「……人をなんだと」

 思わず言い返しながら、賢者は内心でどきりとしていた。初対面の時から思っていたが、王女は賢者のことを知っているのだろうか。「表」を漁ってもろくな情報は得られないはずだが……。

 ――あなたも私と「同じ」でしょ?

 暗くて静かな部屋の中。おとないさえなければ口を開かず、独り言も滅多にしない。喋るとしても必要最低限。誰も賢者の身元や性格を知らない。知ろうともしなかった。それでも、道具のような扱いを受けても賢者はここに居続けた。何十年も。
 薄暗い秘密。ここからいつでも出ていけるのに出ていかない。
 この王女も、唯一自ら望んだ相手にすら――いや、むしろ、その者だからこそ徹底的に黙っていることがある。賢者のこととか、それ以外も。賢者には想像もつかない秘密だってあるだろう。
 どうしても闇に留まる理由があるから、そうしているのだ。

「おあいこってことで、あなたも愚痴でもどーぞ」

 まだ三回目。わずかな時間しか過ごしていないのに王女の闇を察することができたのは、確かに共感しているからだ。王女の突拍子のない言動を、その裏にある思考回路を、その本質を、賢者は理解できていた。王女が身内に開け放つ心の奥の扉の、その向こう側に、賢者は裏口から入ってきたようなものなのだ。鍵を開けたのは紛れもなく王女だが。

「……そうか。なら言わせてもらうが。最近うるさい猫が入り込んできて迷惑している。おれも知らなかった隠し扉を簡単に開けて入ってきて、物を荒らしていくなど図々しいことこの上ない。しかも人が寝ろうとするところに、予告もしないときた。こんな非常識な生物を相手にまともに会話している自分の優しさを誉めちぎってやりたいところだ」
「あー、うん。甘えさせてもらってます。ありがとうございます」
「しかも用件はほぼ皆無。おれは司書じゃないしここは図書館でもない。猫でもわかるお悩み相談室を開催するいとまもなし。おれは聞き地蔵でもないのにあえて愚痴をこぼす。全くもってうざったらしい」
「……あなたも許してるからいいじゃない?」
「許可など建前、人の話をてんで聞くつもりがないのにか?」

 リエンはほの暗い闇の中、けざやかに微笑んだ。この間のユゥとは違う意味で、打てば響くような答え。

「――あなたも同じなくせに」

 反面、賢者は仏頂面になった。やはり、この王女は賢者の賢者たる理由を知っていた。それはおそらく、賢者と王女は同じ「目的」を持っているから。

「――それがおれの生き方だ」

 人が来れば開催するお悩み相談室で、賢者は問いに答えるだけが仕事だ。
 しかし、それだけで充分。問いに答えるようでいて、相手の行動を言葉巧みに誘導して。賢者は長年、そうしてこの国を弄んできた。
 リエンもまた、同じ。向かう先は決まっている。目的のために国をひっくり返すことになんの抵抗も感じない。時折痛みが走っても、それが止まる理由には絶対にならないところもそっくり。
 己の痛みですら止められないなら。誰が、何が、止まる理由になりうるのか。……少なくともわかっているのは、リエンも、賢者も、いまだその理由存在に出会ってはいないこと。

(王女だけはまだ余地があるがな)

 そろそろ帰るわ、と席を立った少女。どこにも行かない賢者と違って、どこへでも飛び立てる王女は、いつでも変わる可能性を持っている。

「明日、セルゲイが離宮に来るのよ。もし余裕があったら、明日の夜、これまでのお詫びの品持ってくるわ」
「いらな――…………。……そうだな。では受け取ろう。これとこれとこれを持ってきたら水に流してやる」
「遠慮なくなったわね」
「はじめからした覚えはないな。ちょうど補充の時期だったんだ」
「はいはい、使いっ走りしますよ。あ、この響き懐かしいな。あなたは知ってた?私が外宮でやってたこと」
「気づいていたが、知らなかった」
「そう」

 隠し扉の向こう側に、王女の姿が消えていった。闇の中、しかし光が届く場所へ。こうして境界を行ったり来たりしていたら、闇に佇むだけの賢者よりも、遥かに心に負担がかかるだろうに。

 万が一、王女が変わっても、賢者は変わらない。その時は、もう二度と、この隠し扉は開かれなくなるだろう。賢者の手か、王女の手によって。
 同類相手に手控えする気はさらさらない。自力で賢者の居場所を探り当てた二番目の子ども。もしそんな甘いことをすれば、賢者の目的が果たされることは永遠になくなるのだから。

(だから、それまでは)

 いつものように、策を弄し、罠を幾重にも張り、人を踊らせる。
 同時に隠し扉が開くのを、微睡みながら受け入れよう。ひとりだけの、この廟で。
しおりを挟む
感想 84

あなたにおすすめの小説

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?

おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました! 皆様ありがとうございます。 「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」 眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。 「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」 ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。 ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視 上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】お花畑ヒロインの義母でした〜連座はご勘弁!可愛い息子を連れて逃亡します〜+おまけSS

himahima
恋愛
夫が少女を連れ帰ってきた日、ここは前世で読んだweb小説の世界で、私はざまぁされるお花畑ヒロインの義母に転生したと気付く。 えっ?!遅くない!!せめてくそ旦那と結婚する10年前に思い出したかった…。 ざまぁされて取り潰される男爵家の泥舟に一緒に乗る気はありませんわ! アルファポリス恋愛ランキング入りしました! 読んでくれた皆様ありがとうございます。 連載希望のコメントをいただきましたので、 連載に向け準備中です。 *他サイトでも公開中 なろう日間総合ランキング2位に入りました!

誰も残らなかった物語

悠十
恋愛
 アリシアはこの国の王太子の婚約者である。  しかし、彼との間には愛は無く、将来この国を共に治める同士であった。  そんなある日、王太子は愛する人を見付けた。  アリシアはそれを支援するために奔走するが、上手くいかず、とうとう冤罪を掛けられた。 「嗚呼、可哀そうに……」  彼女の最後の呟きは、誰に向けてのものだったのか。  その呟きは、誰に聞かれる事も無く、断頭台の露へと消えた。

どうして私が我慢しなきゃいけないの?!~悪役令嬢のとりまきの母でした~

涼暮 月
恋愛
目を覚ますと別人になっていたわたし。なんだか冴えない異国の女の子ね。あれ、これってもしかして異世界転生?と思ったら、乙女ゲームの悪役令嬢のとりまきのうちの一人の母…かもしれないです。とりあえず婚約者が最悪なので、婚約回避のために頑張ります!

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

処理中です...