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コケても歩く
不良学生②
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学園内では、校舎のみ制服の着用が義務付けられている。寮や図書館、講堂での服装の制限はなく、リエンとガルダの散歩は自然と校舎を避けるルートを取った。校舎を挟んで寮の反対側にある図書館は、針一本落ちる音でも聞き取れるだろう静寂の世界だった。あれだけの人が寮の周辺にいたのとは正反対に、ここは人の気配をほとんど感じなかった。上の階が吹き抜けになっていて、中央の大きな階段を登れるようになっていた。
構造は似ていたが、アルビオンの古びた書庫のような図書館とは雰囲気が違う。横長い窓が天井に近い部分に並び、入る光が白い壁や天井に反射して、灯を入れずとも大層明るい。壁際にいくつも並ぶ六人がけのテーブルや椅子は造りこそ質素だが、飴色に磨き上げられていて、使い込まれた様子が感じられた。書架には整然と本が納められていて、歯抜きはとても少ない。
(試験期間中くらいしか利用されてないってことかな。……というか始業式もまだだものね)
奥のカウンターでなにか作業をしていた司書らしき青年と目が合ったのでにこりと笑っておき、二階に登った。二階は窓が大きく、低い位置に取られていた。静寂を乱したくなくて、自然と靴音が密やかなものになる。並んで歩くガルダに至っては無音だ。物珍しげにきょろきょろとあちこちに視線をやっていたリエンは、閲覧席の利用者を初めて見つけた。一人、ぽつんと座っている。おや、と思ったのは、その人物が制服を着ていたためだ。背中が向いているので顔こそわからないが、男子学生である。ぺら、ぺら、と頁を捲る音がする。ペースが早いので、読書というより調べものかもしれない。脇にもいくつか本が積み重なっており、隣の椅子には外で羽織っていたのだろう濃い緑のローブがかけられていた。
リエンとガルダはそっと近づいてみた。
少年は二人に気づく様子もなく、ふと頬杖をついて、隣の窓から外を眺めはじめた。
「……編入生様々だなぁ……」
「なにが?」
「……っえ!?」
びくっと背中を上下させ、振り返ろうとして体勢を崩し、果てに椅子から転がり落ちかけた少年を支えたのはガルダだった。リエンは思わず無音で拍手した。
「相変わらず、すごい反射神経」
「……全く。あなたも無駄に気配を消さなくてもよかったじゃないですか。座れるか?」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
「気配消してたのはガルダもでしょ。突然声をかけてごめんね。大丈夫?」
平民出身学生のリオールは、その日、天使を見た。
少女か少年か、性別が一見ではわからなかった。可愛らしく整った顔立ちに、よく輝く緑色の瞳。金色の髪の煌めきといったら、図書館に差し込むわずかな光の元でも、太陽を跪けるように燦然と輝いている。服装も見たことがない作りをしていたので、これが天国の衣装なのかなと思った。表情にも年相応な幼さはなく、どこか超然として見え、図書館に馴染むことなくくっきりと浮き上がるような印象だった。
その隣に控え直したのは先ほどリオールを助けてくれた男だろう。こちらは天使を守護する騎士のようだった。ぴっしりした詰め襟を少しだけ緩め、だらしなく見えてもおかしくないのに、不思議と見映えがよく思える。無駄のない立ち居振舞いと腰の物々しい大剣のせいだろう。
唖然と立ち尽くしていたリオールは、「大丈夫?」ともう一度問われて、慌てて深々と腰を折った。
「だ、大丈夫です。助けていただいたにも関わらず礼を申し上げるのが遅くなってしまい……」
「驚かせた私たちが悪かったんだから、いいよ」
「いえ!そんなことは……!」
「いいってば。ほら、座って座って」
「……はあ」
天使があまりにも気軽に手を振ったので、リオールは拍子抜けした顔で見つめてしまった。天使はやはり天使なのかもしれない。
「それでさ、盗み聞きしちゃって悪いけど、なにが『編入生様々』なの?」
リオールはまた真っ青になった。
「あ、そ、それ、は、その」
「この辺りっていつもは騒がしいの?」
「え?いえっ、そんなことはないです!」
「じゃあなに?」
「な、なんでもないです」
「ふうん?」
天使がきらっと目を光らせ、リオールはますます顔色を失っていった。しかし、天使の宝石のように美しい瞳は、怒りも苛立ちも含んでいなかった。リオールからすっと逸れて、開きっぱなしの教材に視線が注がれる。
「勉強熱心だね。何年生?官僚科だよね?」
「あ、今年官僚科第五学年に進学しました」
「じゃあ私の後輩になるわけだ。五年生ってどんな勉強するの?それ、見せてもらってもいい?」
「あ、はい……」
天使は天使じゃないのか。同じ学生だと知った衝撃で思考がぶっ飛び、言われるがままに参考書を差し出した。元々、予習用に本棚から持ち出して読んでいたのだ。王族の編入の話を聞いて気がそぞろになっていて、全く進捗はなかったが。
天使は大きめの本を抱えるように持ち、さっそくぺらぺらと頁を捲っていた。長い睫毛が伏せられ強烈な緑の意志が隠されると、雰囲気の神秘性が増した。まるで聖画のような神々しさすら放っている。
(……こんな先輩がいらっしゃったのか……知らなかったな……)
……いや、でも、こんな存在感を持っていて無名?
天使はただページを捲るだけではなく、目はしっかりと文字を追い、時々なにか呟いていた。ふと耳を澄ますと、「懐かしいなこれ」「ああ、この理論、エルサが笑顔でぶったぎってたなぁ。まだ差し替えられてないんだ」「……うわあ。建国史ってここまで美化されてるんだ。この本絶対に偏ってる」……。
あ、この方、やっぱりただ者じゃない。リオールは無言で頷いた。
まさか蔵書の批判までは予想していなかった。というかエルサって…………他人のそら似だよな、まさかな?
「はい、これありがとう」
「い、いえ、お役に立てたなら何よりです」
「勉強の邪魔して悪かったね。頑張ってね」
「そんな、邪魔だなんて」
ノートを破ってきたり筆記用具を壊してきたり、教材をびりびりに裂いたりした訳じゃない。きちんとリオールが開いていた頁を開き直して本を返却してくれた天使は、それらと比較するべくもない。思わず笑みがこぼれた。
「あ、そうだ。名前、聞いてもいい?私はリエン」
そして次の瞬間、また地獄に叩き落とされた。
天使がまさかリオールと同い年の王女で編入生だとか、そんな、馬鹿な。
腰が抜けて、へなへなと床に座り込んだ。
「あれっ?どうしたの?」
「……いや、リエンさま、なんでそんなに驚くんですか。この者の反応は正常ですよ」
天使の守護騎士――もといあの王女の専属護衛として有名な王国最強の男は、リオールの肩をぽんぽんと叩いた。立て、というのではなく、慰めるようなしみじみとした叩き方だった。がくがくと震えながら騎士を振り返ると、本当だ、というように頷かれた。本当に王女だった。継承権第二位の妖精姫だった。
死んだ。これはもう死んだ。騎士の瞳の奥に処刑台の影を見た。
「気づいてるのかと思ってたのよ」と言いつつ、王女が目の前で膝をついたので、リオールは慌てて平伏した。ガンッと、額を床に打ち付けた音がした。
「ちょっと、今すごい音したよ。大丈夫?」
「だっ、だい、大丈夫、です!」
「いや、なんで床にずりずりおでこを擦ってるの!?顔上げて!」
「これまで、大変、失礼をいたしました……!!リエン王女殿下とは気づかず……!」
「気づいてなかったらそれはそれでいいから!ガルダ、後ろから起こして!」
「……なんの修羅場ですか、これ」
こつり、と存在を主張するような靴音と共に、新しい声がリオールの耳に届いた。盛大に呆れ果てた声だ。
「あれ、イオンだ」
「お久しぶりです、王女サマ。騎士サマも」
「ああ」
イオン・アルブスまでとか。リオールは土下座したまま本当に意識を飛ばしかけたが、後ろから強引に引き起こされて、ばちりとまた緑の瞳と向かい合ってしまった。それどころか。
「ん、まず、血は出てないわね」
「リエンさま、だからそんな気安く人の顔を触らない!呼吸止まってるでしょうが!」
「触診してただけでなんで呼吸止まるの?こぶはまだできてないね。でも冷やした方がいいよね」
「王女サマー、ワタシが替わるんで。騎士サマ、隔離隔離」
両脇を掴まれ騎士にずるずると引きずられている図はまさに連行されている光景にしか見えない。イオンはリエンと少年の間にするりと割り込み、リオールの顔を長い前髪の奥から一瞥した。
「痛い?」
「えっ、と……」
「まあ、痛みを感じてる場合じゃないよな。一応ちゃんと立ててるけど、歩ける?」
「……はい、多分……」
「そう。まあ、デコぶつけただけならそんな心配もいらないか。後で腫れた時用に、これ、軟膏」
「お前、それ、今どこから出した?」
「あはは。秘密ですー」
差し出された小さな金属製の入れ物を、リオールは呆然として受け取った。
「王女サマ、これで、用は終わりました?」
リエンは物言いたげな顔をしていたが、イオンやガルダの眼力(イオンに関しては直接目が合った訳ではないが)に、仕方なしに口をつぐんだまま頷いた。
「お二人とも、探しましたよ」
図書館を出て近くの雑木林の入り口にある巨木のところまで離れてから、イオンはそんなことを言った。相変わらず呆れっぱなしなのはその声でわかる。
「イオン、ここの学生だったんだ」
対するリエンはそう言った。イオンの格好は先程の少年と同じだった。つまり制服姿。胸元のタイが少し緩んで喉仏が見えているのだけが違いだ。品が損なわれない程度に着崩されているのはいいのだが、旅装しかこれまで目にしなかっただけに、リエンには新鮮な光景だった。こうして見ると、イオンも年相応の子どもに見える。
リエンだけではなくガルダからも見つめられていることに気づいたイオンは、気まずそうに身じろぎしつつもへらりと笑った。
「はい、まあ。一応名前だけは前から置いてありましたよ。進級試験だけ受けて、それ以外で学園には来ませんでしたけど。主さまを怒らないでくださいよー。ここも少し前までルシェルの派閥が食い込んで危なかったんで、こそこそするしかなかったんです。知られるリスクは減らしとくべきだったんですよ」
「……絶対、言うの忘れてたとか、言う機会を逃したとか、そんな理由が一番だと思う」
主君に忠実かつ賢明なイオンはぎこちなく笑い、長い前髪の向こうで視線を明後日の方向に向けてやり過ごした。
「まあ、いいけど。イオン、どこの学科?」
「官僚科ですよ。両殿下と同じです」
「そこの最終学年?」
「ハイ」
「……いつから?」
「第一学年からです」
「…………なんて名前で?」
「実名です。アルブスの三男と。隠すなと主さまの仰せでしたので」
「…………」
「…………」
リエンとガルダの思いは共通した。ルシェル派、いくらなんでも脇が甘すぎる。八年間全く気づかないとか、あり得るのか。
……あり得たから、リエンも意外に簡単にルシェルを潰せたのだが。そもそも王城に入り込むことすら簡単だったとネフィルも昔に言っていた。理解しがたい間抜けさだ。
「まあ、仕方ない部分もありますけどね。ワタシ不登校児でしたんで。単位は試験さえ通れば問題ないですし、成績上位者は名前が貼り出されますけど、ワタシずっと底辺ギリギリさ迷ってますから試験で目立つこともありませんし」
「それはわざと?それとも実力?」
イオンは突然しゃがみこんだ。吹き出しかけたのを堪えるためだ。丸まった背中がぷるぷると震えていた。
「ズバリといきますねぇ。どっちだと思います?」
はーっと、笑いの発作が止まってイオンが前髪を掻き上げる。二人の兄とは似つかぬ青い瞳がリエンを見上げたが、すぐにまた落ちてくる前髪に隠れてしまう。
リエンはイオンの質問に答えなかった。「髪切らないの?」と逆に問い返してきたリエンに、イオンはふっつりと笑みを消した。視線が見えないのに、その目がまっすぐにリエンを向いていることだけはわかる。
「どうしてです?」
「何となく。よくそれで普通に歩けるよね」
「慣れです」
「覆面もしていたしな」
「それなら今さらね」
「そうですね」
「で、前髪、どうにもしないの?切らなくてもいいから後ろに持っていったり、ピンで留めたりもしないの?」
イオンは立ち上がると、遠い目をしつつ、ふう、と切なげに息を吐いた。
「いやー、顔覚えられたら困るので」
「これから目立つから無意味だと思うけど。あなた、ネフィルから新しいお仕事もらったから、今ここにいるんじゃないの?例えば――これからの学園の出来事をネフィルに報告するとか」
「……相変わらずの察しのよさで何よりです。でも前髪くらいいーじゃないですか、誰も困らないし」
「見てて鬱陶しいのよ。ガルダは?」
「まあ、確かに」
「ひどー」
「笑うな」
ひとしきりケラケラと笑うイオンに、最終的に肩を竦めたリエンだった。こちらから強要することでもなし。
「それで、探したって、私の部屋まで行ったの?男子禁制って聞いたけど」
「ハイ、まあ、窓からこっそりです。あなたの侍女に聞いて、当たりを着けてみたらばっちしでしたよ。リオール・ベルメアを土下座させてたのにはびっくりでしたけど」
「私のじゃないし、土下座も私がさせたわけじゃないわ。リオールって言うのね、あの子」
「学園内じゃ結構な有名人ですよ。平民出身で、第四学年を首席で修了したんで。あの子って言いますけど、あなたと同い年ですよ」
「そうなんだ。優秀なんだね。それで、探しにきた理由は?」
「事前情報をと。不登校のワタシでも知ってる範囲でお伝えしておこうと思った次第です」
「ふーん……じゃああなたは、『編入生様々』の意味もわかる?」
「なんですかそれ」
「リオールが呟いてた」
「……あーハイ」
あっさり理解を示したイオンを見上げ、リエンはむっと眉間にしわを寄せた。
イオンがそういう態度だということは、その報告を受けているはずの上層部は、学園に何らかの問題があることを把握しているに違いない。
そこに編入生を放り込む意味をあらかじめわかっていて、学園に入れさせたのだとしたら……。
(癪に障るわ)
リエンをタダで利用しようと思っているわけではないだろう。そこは長年釘を刺してきたところだ。だから、イオンがわざわざこうしてリエンの目の前にいる。
それならば、遠慮なく好き勝手に動いてやろう。
「話が長くなるなら、ここから離れようか。イオンの部屋は?」
「え、男子寮に来るんですか?」
「リエンさま、他の場所はないんですか」
「ついでに男子寮の様子も知りたいから。それともそっちも人が集ってる?」
「たか……。いえ、全然ですけど」
「ならよし。お邪魔させてもらうわ」
「……うわーい……」
一応男子寮も女子禁制なのだが、イオンがそれを今のリエンに言えるわけがない。ぱっと見でこれを女と認識できる人間はいないだろう。しかもアルビオンの色彩の少年が、学園と無関係だとしても、同族であるアルブスの三男の部屋に出入りすることになんら問題はない。
ガルダも最後まで主人の決定を覆すことはできなかった。主人の頭の中にあるのは、年頃の異性の住まいへの好奇心ではなく、純粋に学園にまつわる情報を少しでも多く効率よく得たいという欲求のみである。
「……王女サマをお招きできるなんて光栄です……」
最終的に、かろうじてこれだけ皮肉ったイオンだった。
構造は似ていたが、アルビオンの古びた書庫のような図書館とは雰囲気が違う。横長い窓が天井に近い部分に並び、入る光が白い壁や天井に反射して、灯を入れずとも大層明るい。壁際にいくつも並ぶ六人がけのテーブルや椅子は造りこそ質素だが、飴色に磨き上げられていて、使い込まれた様子が感じられた。書架には整然と本が納められていて、歯抜きはとても少ない。
(試験期間中くらいしか利用されてないってことかな。……というか始業式もまだだものね)
奥のカウンターでなにか作業をしていた司書らしき青年と目が合ったのでにこりと笑っておき、二階に登った。二階は窓が大きく、低い位置に取られていた。静寂を乱したくなくて、自然と靴音が密やかなものになる。並んで歩くガルダに至っては無音だ。物珍しげにきょろきょろとあちこちに視線をやっていたリエンは、閲覧席の利用者を初めて見つけた。一人、ぽつんと座っている。おや、と思ったのは、その人物が制服を着ていたためだ。背中が向いているので顔こそわからないが、男子学生である。ぺら、ぺら、と頁を捲る音がする。ペースが早いので、読書というより調べものかもしれない。脇にもいくつか本が積み重なっており、隣の椅子には外で羽織っていたのだろう濃い緑のローブがかけられていた。
リエンとガルダはそっと近づいてみた。
少年は二人に気づく様子もなく、ふと頬杖をついて、隣の窓から外を眺めはじめた。
「……編入生様々だなぁ……」
「なにが?」
「……っえ!?」
びくっと背中を上下させ、振り返ろうとして体勢を崩し、果てに椅子から転がり落ちかけた少年を支えたのはガルダだった。リエンは思わず無音で拍手した。
「相変わらず、すごい反射神経」
「……全く。あなたも無駄に気配を消さなくてもよかったじゃないですか。座れるか?」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
「気配消してたのはガルダもでしょ。突然声をかけてごめんね。大丈夫?」
平民出身学生のリオールは、その日、天使を見た。
少女か少年か、性別が一見ではわからなかった。可愛らしく整った顔立ちに、よく輝く緑色の瞳。金色の髪の煌めきといったら、図書館に差し込むわずかな光の元でも、太陽を跪けるように燦然と輝いている。服装も見たことがない作りをしていたので、これが天国の衣装なのかなと思った。表情にも年相応な幼さはなく、どこか超然として見え、図書館に馴染むことなくくっきりと浮き上がるような印象だった。
その隣に控え直したのは先ほどリオールを助けてくれた男だろう。こちらは天使を守護する騎士のようだった。ぴっしりした詰め襟を少しだけ緩め、だらしなく見えてもおかしくないのに、不思議と見映えがよく思える。無駄のない立ち居振舞いと腰の物々しい大剣のせいだろう。
唖然と立ち尽くしていたリオールは、「大丈夫?」ともう一度問われて、慌てて深々と腰を折った。
「だ、大丈夫です。助けていただいたにも関わらず礼を申し上げるのが遅くなってしまい……」
「驚かせた私たちが悪かったんだから、いいよ」
「いえ!そんなことは……!」
「いいってば。ほら、座って座って」
「……はあ」
天使があまりにも気軽に手を振ったので、リオールは拍子抜けした顔で見つめてしまった。天使はやはり天使なのかもしれない。
「それでさ、盗み聞きしちゃって悪いけど、なにが『編入生様々』なの?」
リオールはまた真っ青になった。
「あ、そ、それ、は、その」
「この辺りっていつもは騒がしいの?」
「え?いえっ、そんなことはないです!」
「じゃあなに?」
「な、なんでもないです」
「ふうん?」
天使がきらっと目を光らせ、リオールはますます顔色を失っていった。しかし、天使の宝石のように美しい瞳は、怒りも苛立ちも含んでいなかった。リオールからすっと逸れて、開きっぱなしの教材に視線が注がれる。
「勉強熱心だね。何年生?官僚科だよね?」
「あ、今年官僚科第五学年に進学しました」
「じゃあ私の後輩になるわけだ。五年生ってどんな勉強するの?それ、見せてもらってもいい?」
「あ、はい……」
天使は天使じゃないのか。同じ学生だと知った衝撃で思考がぶっ飛び、言われるがままに参考書を差し出した。元々、予習用に本棚から持ち出して読んでいたのだ。王族の編入の話を聞いて気がそぞろになっていて、全く進捗はなかったが。
天使は大きめの本を抱えるように持ち、さっそくぺらぺらと頁を捲っていた。長い睫毛が伏せられ強烈な緑の意志が隠されると、雰囲気の神秘性が増した。まるで聖画のような神々しさすら放っている。
(……こんな先輩がいらっしゃったのか……知らなかったな……)
……いや、でも、こんな存在感を持っていて無名?
天使はただページを捲るだけではなく、目はしっかりと文字を追い、時々なにか呟いていた。ふと耳を澄ますと、「懐かしいなこれ」「ああ、この理論、エルサが笑顔でぶったぎってたなぁ。まだ差し替えられてないんだ」「……うわあ。建国史ってここまで美化されてるんだ。この本絶対に偏ってる」……。
あ、この方、やっぱりただ者じゃない。リオールは無言で頷いた。
まさか蔵書の批判までは予想していなかった。というかエルサって…………他人のそら似だよな、まさかな?
「はい、これありがとう」
「い、いえ、お役に立てたなら何よりです」
「勉強の邪魔して悪かったね。頑張ってね」
「そんな、邪魔だなんて」
ノートを破ってきたり筆記用具を壊してきたり、教材をびりびりに裂いたりした訳じゃない。きちんとリオールが開いていた頁を開き直して本を返却してくれた天使は、それらと比較するべくもない。思わず笑みがこぼれた。
「あ、そうだ。名前、聞いてもいい?私はリエン」
そして次の瞬間、また地獄に叩き落とされた。
天使がまさかリオールと同い年の王女で編入生だとか、そんな、馬鹿な。
腰が抜けて、へなへなと床に座り込んだ。
「あれっ?どうしたの?」
「……いや、リエンさま、なんでそんなに驚くんですか。この者の反応は正常ですよ」
天使の守護騎士――もといあの王女の専属護衛として有名な王国最強の男は、リオールの肩をぽんぽんと叩いた。立て、というのではなく、慰めるようなしみじみとした叩き方だった。がくがくと震えながら騎士を振り返ると、本当だ、というように頷かれた。本当に王女だった。継承権第二位の妖精姫だった。
死んだ。これはもう死んだ。騎士の瞳の奥に処刑台の影を見た。
「気づいてるのかと思ってたのよ」と言いつつ、王女が目の前で膝をついたので、リオールは慌てて平伏した。ガンッと、額を床に打ち付けた音がした。
「ちょっと、今すごい音したよ。大丈夫?」
「だっ、だい、大丈夫、です!」
「いや、なんで床にずりずりおでこを擦ってるの!?顔上げて!」
「これまで、大変、失礼をいたしました……!!リエン王女殿下とは気づかず……!」
「気づいてなかったらそれはそれでいいから!ガルダ、後ろから起こして!」
「……なんの修羅場ですか、これ」
こつり、と存在を主張するような靴音と共に、新しい声がリオールの耳に届いた。盛大に呆れ果てた声だ。
「あれ、イオンだ」
「お久しぶりです、王女サマ。騎士サマも」
「ああ」
イオン・アルブスまでとか。リオールは土下座したまま本当に意識を飛ばしかけたが、後ろから強引に引き起こされて、ばちりとまた緑の瞳と向かい合ってしまった。それどころか。
「ん、まず、血は出てないわね」
「リエンさま、だからそんな気安く人の顔を触らない!呼吸止まってるでしょうが!」
「触診してただけでなんで呼吸止まるの?こぶはまだできてないね。でも冷やした方がいいよね」
「王女サマー、ワタシが替わるんで。騎士サマ、隔離隔離」
両脇を掴まれ騎士にずるずると引きずられている図はまさに連行されている光景にしか見えない。イオンはリエンと少年の間にするりと割り込み、リオールの顔を長い前髪の奥から一瞥した。
「痛い?」
「えっ、と……」
「まあ、痛みを感じてる場合じゃないよな。一応ちゃんと立ててるけど、歩ける?」
「……はい、多分……」
「そう。まあ、デコぶつけただけならそんな心配もいらないか。後で腫れた時用に、これ、軟膏」
「お前、それ、今どこから出した?」
「あはは。秘密ですー」
差し出された小さな金属製の入れ物を、リオールは呆然として受け取った。
「王女サマ、これで、用は終わりました?」
リエンは物言いたげな顔をしていたが、イオンやガルダの眼力(イオンに関しては直接目が合った訳ではないが)に、仕方なしに口をつぐんだまま頷いた。
「お二人とも、探しましたよ」
図書館を出て近くの雑木林の入り口にある巨木のところまで離れてから、イオンはそんなことを言った。相変わらず呆れっぱなしなのはその声でわかる。
「イオン、ここの学生だったんだ」
対するリエンはそう言った。イオンの格好は先程の少年と同じだった。つまり制服姿。胸元のタイが少し緩んで喉仏が見えているのだけが違いだ。品が損なわれない程度に着崩されているのはいいのだが、旅装しかこれまで目にしなかっただけに、リエンには新鮮な光景だった。こうして見ると、イオンも年相応の子どもに見える。
リエンだけではなくガルダからも見つめられていることに気づいたイオンは、気まずそうに身じろぎしつつもへらりと笑った。
「はい、まあ。一応名前だけは前から置いてありましたよ。進級試験だけ受けて、それ以外で学園には来ませんでしたけど。主さまを怒らないでくださいよー。ここも少し前までルシェルの派閥が食い込んで危なかったんで、こそこそするしかなかったんです。知られるリスクは減らしとくべきだったんですよ」
「……絶対、言うの忘れてたとか、言う機会を逃したとか、そんな理由が一番だと思う」
主君に忠実かつ賢明なイオンはぎこちなく笑い、長い前髪の向こうで視線を明後日の方向に向けてやり過ごした。
「まあ、いいけど。イオン、どこの学科?」
「官僚科ですよ。両殿下と同じです」
「そこの最終学年?」
「ハイ」
「……いつから?」
「第一学年からです」
「…………なんて名前で?」
「実名です。アルブスの三男と。隠すなと主さまの仰せでしたので」
「…………」
「…………」
リエンとガルダの思いは共通した。ルシェル派、いくらなんでも脇が甘すぎる。八年間全く気づかないとか、あり得るのか。
……あり得たから、リエンも意外に簡単にルシェルを潰せたのだが。そもそも王城に入り込むことすら簡単だったとネフィルも昔に言っていた。理解しがたい間抜けさだ。
「まあ、仕方ない部分もありますけどね。ワタシ不登校児でしたんで。単位は試験さえ通れば問題ないですし、成績上位者は名前が貼り出されますけど、ワタシずっと底辺ギリギリさ迷ってますから試験で目立つこともありませんし」
「それはわざと?それとも実力?」
イオンは突然しゃがみこんだ。吹き出しかけたのを堪えるためだ。丸まった背中がぷるぷると震えていた。
「ズバリといきますねぇ。どっちだと思います?」
はーっと、笑いの発作が止まってイオンが前髪を掻き上げる。二人の兄とは似つかぬ青い瞳がリエンを見上げたが、すぐにまた落ちてくる前髪に隠れてしまう。
リエンはイオンの質問に答えなかった。「髪切らないの?」と逆に問い返してきたリエンに、イオンはふっつりと笑みを消した。視線が見えないのに、その目がまっすぐにリエンを向いていることだけはわかる。
「どうしてです?」
「何となく。よくそれで普通に歩けるよね」
「慣れです」
「覆面もしていたしな」
「それなら今さらね」
「そうですね」
「で、前髪、どうにもしないの?切らなくてもいいから後ろに持っていったり、ピンで留めたりもしないの?」
イオンは立ち上がると、遠い目をしつつ、ふう、と切なげに息を吐いた。
「いやー、顔覚えられたら困るので」
「これから目立つから無意味だと思うけど。あなた、ネフィルから新しいお仕事もらったから、今ここにいるんじゃないの?例えば――これからの学園の出来事をネフィルに報告するとか」
「……相変わらずの察しのよさで何よりです。でも前髪くらいいーじゃないですか、誰も困らないし」
「見てて鬱陶しいのよ。ガルダは?」
「まあ、確かに」
「ひどー」
「笑うな」
ひとしきりケラケラと笑うイオンに、最終的に肩を竦めたリエンだった。こちらから強要することでもなし。
「それで、探したって、私の部屋まで行ったの?男子禁制って聞いたけど」
「ハイ、まあ、窓からこっそりです。あなたの侍女に聞いて、当たりを着けてみたらばっちしでしたよ。リオール・ベルメアを土下座させてたのにはびっくりでしたけど」
「私のじゃないし、土下座も私がさせたわけじゃないわ。リオールって言うのね、あの子」
「学園内じゃ結構な有名人ですよ。平民出身で、第四学年を首席で修了したんで。あの子って言いますけど、あなたと同い年ですよ」
「そうなんだ。優秀なんだね。それで、探しにきた理由は?」
「事前情報をと。不登校のワタシでも知ってる範囲でお伝えしておこうと思った次第です」
「ふーん……じゃああなたは、『編入生様々』の意味もわかる?」
「なんですかそれ」
「リオールが呟いてた」
「……あーハイ」
あっさり理解を示したイオンを見上げ、リエンはむっと眉間にしわを寄せた。
イオンがそういう態度だということは、その報告を受けているはずの上層部は、学園に何らかの問題があることを把握しているに違いない。
そこに編入生を放り込む意味をあらかじめわかっていて、学園に入れさせたのだとしたら……。
(癪に障るわ)
リエンをタダで利用しようと思っているわけではないだろう。そこは長年釘を刺してきたところだ。だから、イオンがわざわざこうしてリエンの目の前にいる。
それならば、遠慮なく好き勝手に動いてやろう。
「話が長くなるなら、ここから離れようか。イオンの部屋は?」
「え、男子寮に来るんですか?」
「リエンさま、他の場所はないんですか」
「ついでに男子寮の様子も知りたいから。それともそっちも人が集ってる?」
「たか……。いえ、全然ですけど」
「ならよし。お邪魔させてもらうわ」
「……うわーい……」
一応男子寮も女子禁制なのだが、イオンがそれを今のリエンに言えるわけがない。ぱっと見でこれを女と認識できる人間はいないだろう。しかもアルビオンの色彩の少年が、学園と無関係だとしても、同族であるアルブスの三男の部屋に出入りすることになんら問題はない。
ガルダも最後まで主人の決定を覆すことはできなかった。主人の頭の中にあるのは、年頃の異性の住まいへの好奇心ではなく、純粋に学園にまつわる情報を少しでも多く効率よく得たいという欲求のみである。
「……王女サマをお招きできるなんて光栄です……」
最終的に、かろうじてこれだけ皮肉ったイオンだった。
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