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小話②
雪降らし、雪散らし④
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たった一人の対等なる友がいなくなったと知らされたナージャの嘆きようは相当なものだった。
リエン女王、ウルゼス王子を追い込む最中に矢を受け落馬。ヴィオレット王太子の采配で戦線を離脱し治療されるも、その後死亡――。
アルダとの和平条約締結と同時にシュバルツへもたらされた報。新たな国王は疑惑の解けていないヴィオレットで、即位式も簡素ながら正式に済んでおり、政争に絡む者共はともかく、民衆は十四歳という若きにして偉業を為した少年王を篤く支持しているとも。
父王から知らされたターシャは、妹に告げると同時に居候のネフィルにも伝えたが、ネフィルは「そうか」とだけ返して、しばらく何かを堪えるように目を閉じていた。
ナージャは堪えようもなく涙を流して悲嘆した。ターシャもそれに付き合って二日間エルツィ宮殿から一歩も出ずにいると、異母兄が続々とやって来て、それぞれなりの慰めをかけたり同じに悲しんだりと、宮殿の主が使い物にならずとも、相変わらずエルツィは緩衝地帯の機能を果たしていた。
そんな風に異母兄弟間の対立はエルツィでは表面化しにくいが、かといって全く火花を散らしていない訳ではない。
(大きな重石が消えてしまった)
終戦まで、ジヴェルナがシュバルツとフリーセアに背中をつつかれなかったのは、リエンの功績だ。特にシュバルツではザクセン王と公の場でやり合ったリエンの立ち回りが強く印象を残していたので、後はネフィル一人で取り回せたのだ。それが消えた今、激しく揺れ始めているのを、ネフィルは宮殿にいながらにして察知していた。
ネフィルは居候で、個人で動かせる戦力はイオンたった一人。それも側を離れているので、詳細な情報は王子たちに頼るしかない。それだけではなく、ヴィオレットが王に立ったこの機会をそれぞれの派閥がどう捉えるのか、慎重に見定め、釘を打つべき場所を穿つ必要がある。
今のネフィルは、成人したての若造ではなかった。
唯一と思い込んでいたものが、そうではなかったのだと、もう知っている。
逃げてはいけない。逃げたくはない。
姪には置いていかれたが、ネフィルは必ず甥より先に死ななくてはならない。それも立派な墓を建ててもらわなくては、墓参りの甲斐もない。
「姫、王へ謁見を願いたい旨、伝えていただけるだろうか」
別に王子たちを頼ってもよかったが、あえて嘆き悲しむ姪の友人に容赦しないのはアルビオンの性のせいだろう。若い頃の自分は棚に上げて単刀直入に切り込んだネフィルだったが、ナージャがそれで我を取り戻したのだから幸いではあった。
ナージャとて、少し冷静になりさえすれば己の役割をよくよく理解できる。戦争は、異母兄の一人として損ないたくないナージャにとって、内戦と同等の危険を孕む。王子派閥の手柄争いの場になるからだ。それでなくても恩人の国で、友の国だ。
そしてザクセン王は、この期間、あえて何ら方針を示さず沈黙している。
その理由など何度目ともなればわかりきっている。王子たちだけではなく、ナージャも試されていた。
ナージャは王子たちをも差し置いて、直接に王に連絡を取り付ける許可を得ている。
涙を拭い、化粧でよろい、勇ましく拳を握り込んで、父王の元へネフィルを連れていった。
その日の夜、ナージャは最近にしては珍しく夢を見た。己の知らない歴史を観客として傍観するだけの夢。
どうしてこんな日に、とうんざりできるくらいには気持ちを立て直せていたナージャは仕事のためにと周囲を見渡した。脆そうな土壁や石の柱がずらりと並んでおり、人の話し声がすれば獣の匂いや鳴き声もある、賑々しい場所。時代も地理も見当がつかない。ナージャのこれまでの知識とは全く違う趣を感じて、西方か、と思う。
(……だけど……)
なんでか心がざわめいている。見覚えのあるような気がする景色。懐かしさを無意識に見出だそうとするように指の先で柱をなぞると、表面に浮いた粉が白く残り、目を見開いた。夢のものはナージャには不干渉だったはずだ。人にしろ、物にしろ。
驚きを追い越して恐怖が迫ってきて、ナージャは逃げ場を探すように視線を巡らせ、後ずさった。
目の前の事実に手も足も出せない残酷な現実を顔面にぶつけられたのが、ナージャの視た一番はじめの夢だ。その後も次々と血腥くおどろおどろしい夢ばかりをよく視る。夢に入ったとたん眼前に繰り広げられる場面に平和的なものなんてそうそうない。いくら心構えをしようと、時々は目の前で死にかける誰かを助けようとしてしまったし、誰かが惨殺される光景には悲鳴を上げた。
だが、ナージャは視ることができるくせに、どこまでもただの観客でしかありえなかった。触れない。伸ばした手は届かない。いっそ気が狂いそうだったが、反対に、完全に狂わずにいられたのはこの不可侵なる透明な壁のせいだとどこかで理解していた。
それが、もしかしたらこの夢は違うのかもしれない。心を守る壁が機能していない今、どんな光景を見せられるのか。それを無事に見届けられる自信なんて欠片もない。
背後から足音と共に近づいてくる人の話し声がして、ナージャは蒼白になった。白い汚れのついた手を胸に握りしめて柱の裏に回る。靴がコツコツと音を鳴らし、止まることなく通りすぎていくと、全身から強ばりが抜けた。床にへたりこむ背中は柱に凭れている。……やっぱり触れるのは間違いなかった。それでも、一度危機を脱したお陰で落ち着きがほんのすこし戻ってきた。
(……夢の中って感覚は、いつもと同じだわ)
大きく息を吐くと、ぴしゃんと頬を打って立ち上がった。夢の価値はナージャの判断一つで有益にも無益にもなる。それが一番肝心なこと。
どんな異変があれどこれが夢ならば、ナージャが変えられるものなんてどこにもない。それに……最近思うようになってきたが、ここで変わってしまったら、「今」に続かない。ナージャが足掻いてもがいて目指す未来が、手の届かない場所で塗り替えられてしまう。そんな気がしてくるのだ。
それを思えば、いつも限られた場面を「視せられている」のとは違うこの状況は、ナージャにとっては光景を選べるということ――いつもよりもまだましというものだった。そうと決めたら、ナージャは歩き回ることにした。まずは地理の情報がほしい。
(……さっぱりわからないわ。シュバルツじゃない気がするけど……)
白っぽい柱は粉をふき、壁は染みやひび、でこぼこもある。石工技術が拙い印象だ。高い天井には木の板が無造作に置かれているように隙間があちこちあって、光が幾条もこぼれ落ちる床は踏み固めた地面そのままだ。落ちる影が黒というより青いのは昼間だからだろう。外に出たらなにかわかるかもしれないが、やたらと広い空間が続いていて困った。
そこにまた人が通りすぎていく。今度のナージャは、堂々とその場に突っ立ってみた。簡素な貫頭衣、靴は木靴、手首や首にあしらわれた飾りはぼやけた青色で、歩くたびにしゃらしゃらと音を立てる。どこかを目指すような淀みない歩調でひたりと己の道を見つめる青年は、傍らのナージャに気づいた様子がなかった。
ナージャがその人の後をついていったのは、彼こそ夢における重要人物だと見定めたからだ。現実でも夢でも人を見る目を養ってばかりなので、ただ者ではないものの纏う共通の雰囲気を覚えている。
背中を追いかけながら、首を捻った。後ろ姿も全くもって見覚えがないのに、既視感というか、懐かしさというか……慕わしさのようなものが込み上げてくる。それはレオン義兄上に感じるものと似ていた。そう、いわゆる兄の風格というべき……。
(この人も、誰かのお兄さまなのかしら)
ちらちらと周囲の景色や人影を確認しながら歩いていくと、やがて柱が途切れ、燦々と光の降り注ぐ緑溢れる庭が目の前に現れた。小鳥の囀ずり、葉擦れの音、水の流れていく音……。これまでの殺風景とは真反対に鮮やかで美しい景色がいきなり現れて、ナージャはしばし陶然としていた。
我に返ったのは、追いかけた青年が『ここにいたか』と声を上げて、庭へと足を踏み出したからだ。
『このままだとここが森になるな』
『それもそれで楽しそうだけど、無理だわ』
女性の声がして、青年の視線の先を探せばその姿は簡単に見つけられた。木々と草花の合間を縫うように流れる小川に手のひらを浸していた娘が、青年に視線を向けて微笑んだ。
『あなたでも不可能なのか、ミヨナ』
ナージャの息が止まった。
浮世離れした美貌の娘だった。からかうように言われて『残念だけど』と華奢な肩を竦めていたが、人間臭い仕草が雰囲気に似合っていない。水から引き抜いた手から雫を滴らせながら立ち上がった娘はその時、なにかに気づいたように青年の後ろへ視線を流した。
ぱちりと、はっきりとナージャと目が合った。
「――ああ、そうなのね」
薔薇色の唇から漏れた声が、透き通るようにナージャの耳を刺した。
膜を隔てたような声ではなく、直にナージャを震わす現実。
極彩に滲む瞳は色を定めることなく次々に変化していく。まるでナージャの内心のように渦を巻いて。
娘と話していた青年が訝しげに娘の視線の先を追い、ナージャのいるところで見止めたのに、こちらは目が合わなかった。この青年はナージャを見えていないのだ。夢ならばそれが当然だった。ここは決まりきった過去の中で、ナージャは異物で、単なる観客で……異端はナージャを見つけたこの娘だった。
『今度は何を見つけた、ミヨナ?』
「とても大切なものよ」
ナージャから目を離さず、神の娘は告げた。
ナージャはまた後ずさった。恐怖で早鐘を打つ胸を押さえたが、それと同時に慕わしさが湧いてきた。
この人なんて知らない。知るわけがない。なのに、なぜ「会いたかった」と言いたくなるのだろう。
「わたしも会いたかったわ、ユーフェミア。あなたとスハルトと、テミリスがはじめにわたしの『眼』を奪ってくれたから、わたしは一生分だけ、人になれたのよ。――そう、呪いになってしまったのね。人には過ぎたる毒だって……わかっていたのに。何度も巡ってしまったのね……」
あなたのせいじゃないと、ナージャではない誰かがナージャの口をつこうとする。とっさに口を抑えたら、代わりにとでもいうように涙が溢れ出た。
もはや、胸を激しく鳴らす鼓動は恐怖ではなく歓喜だった。
(『会いたかった。やっと会えた』)
私は間違いだったとは思わない。何回も死んでしまっても。時には心を壊してしまっても。
あなたにまた会えたから。
私たちの女神。
「……ありがとう」
いつの間に目の前にいた娘から抱きしめられる。背は娘の方が高かった。そのままつむじに口付けを受け、「長く待たせてごめんね」と呟きが降った。
抱擁を解かれると、温かくて柔らかい手がナージャの涙に濡れる両頬をそっと挟んで、また目を見交わした。
「アナスタシア、あなたはあなたの時にお戻りなさい。あなたは過去を紡ぎ、未来を織る者。人の許せる時の果てまで、もうとっくに明けている。……そのいつかの未来に、あなたの友も目を覚ます」
あやふやな言葉なのに、なぜかするんと理解できた。ナージャは「巫」に定められた寿命を越えられること。リエンが本当は死んでいないこと。
瞳で問いかけると、娘はそうよ、と笑って認めた。清廉な微笑は超越者ゆえの傲慢を孕んでいたが、やっと雰囲気にしっくりと合った気がする。
ナージャの中にいた始まりの者は、いまや娘の掌の上で陽光に輝いていた。
懐かしさも愛しさも全てその光の内。涙はとうに止まっていた。
「『過去視』の祖の名は、ユーフェミアというのね」
ナージャが自らの意志で声を発すると、娘は驚いたように瞬いて、破顔した。
「ええ、そうよ。わたしの愛しい友の名を伝えてくれるのは、本当に嬉しいわ」
「あなたのためじゃない。私の起源の話だからよ」
「わかっているわ」
ナージャは夢の終わりを察した。置いてきた体に意識が引き寄せられていく。瞬くたびに景色が霞んでいく。眼前の娘の姿さえもただの過去の一風景に戻っている。
もうこちらを気にせず、青年に振り返った娘の背中に、ナージャは風のいたずらのようにこっそり囁いた。
「……力を授けてくれて、感謝しているわ。さようなら、女神ミヨナ」
そんなわけで、ナージャはずっと待っていた。
リエンの葬儀については参列を強く希望したが、結局禁じられ、ターシャのみが向かうことになった。ネフィルも、冬が深まるにつれ体調を崩しやすくなったので移動は厳しいと医者に止められ、ナージャと同じく留守番だった。
葬儀を終えて年を越え、リエンの誕生日辺りにヴィオレットの名前でターシャへ荷物が届き、中を見れば、ターシャがかつてリエンに貸したコートだった。遺品を整理していて見つけたのだと手紙に書いてあり、リエンはまだ眠っているのだとわかった。
またこの時期に本来はナージャの婿を確定させなければならなかったが、ミヨナの夢のもたらした婚姻条件の差異のため候補全員が見直され、数人削られるに留まった。
夏のはじめ、リエンの侍女ユーフェとイオンが連れだってエルツィを訪ねてきて、ネフィルへ結婚の報告をしているのを横で聞いていた。
夏の終わりにはヴィオレットの戴冠式が華々しく行われたそうだ。
冬間近、ヴィオレットが王子時代に持ってきた政策が本格的に進められるようになると、またぞろ国内の派閥の不穏な動きが見えたので、数人ハリセンでしばき飛ばして異母兄たちを戦々恐々とさせた。
新年の宴席で、五番目の異母兄フォルカーが港湾を有するフリーセア北部の貴族家に婿入りすることを自ら宣言し、これによって第三派閥が解体された。
そして夏の盛り。
ハリセンの音が、晴天の元、高らかに響き渡った。
ハリセンの猛威をはじめて目にしたユーフェとイオンが棒立ちになり、ネフィルは車椅子に座ったまま遠い目をし、ウォルは数歩分飛び退き、それとは反対に飛び出しかけたレイをガルダが捕獲した。
「なんか、前より格段に威力も音も増してるんだけど、どれだけお仕置きしてきたの?」
リエン――もとい、アクイラは苦笑も通り越した微妙な顔で、勢いよく打たれた頭を擦った。
だが、もちろんナージャは聞いていない。用なしになったハリセンはぽいっと後ろに放り(ターシャが掴み取った)、自由になった両手でむぎゅっと友を抱きしめた。
「遅いんですよ……!」
ナージャは待っていたのだ。ずっとずっと、待ち続けていたのだ。
「待ちくたびれて、ずっと練習ばっかりしてたんですからね!」
最近ではハリセン王女という異名が囁かれてるナージャの言うことなので、最終的に、ターシャも遠い目をする一員に加わった。
リエン女王、ウルゼス王子を追い込む最中に矢を受け落馬。ヴィオレット王太子の采配で戦線を離脱し治療されるも、その後死亡――。
アルダとの和平条約締結と同時にシュバルツへもたらされた報。新たな国王は疑惑の解けていないヴィオレットで、即位式も簡素ながら正式に済んでおり、政争に絡む者共はともかく、民衆は十四歳という若きにして偉業を為した少年王を篤く支持しているとも。
父王から知らされたターシャは、妹に告げると同時に居候のネフィルにも伝えたが、ネフィルは「そうか」とだけ返して、しばらく何かを堪えるように目を閉じていた。
ナージャは堪えようもなく涙を流して悲嘆した。ターシャもそれに付き合って二日間エルツィ宮殿から一歩も出ずにいると、異母兄が続々とやって来て、それぞれなりの慰めをかけたり同じに悲しんだりと、宮殿の主が使い物にならずとも、相変わらずエルツィは緩衝地帯の機能を果たしていた。
そんな風に異母兄弟間の対立はエルツィでは表面化しにくいが、かといって全く火花を散らしていない訳ではない。
(大きな重石が消えてしまった)
終戦まで、ジヴェルナがシュバルツとフリーセアに背中をつつかれなかったのは、リエンの功績だ。特にシュバルツではザクセン王と公の場でやり合ったリエンの立ち回りが強く印象を残していたので、後はネフィル一人で取り回せたのだ。それが消えた今、激しく揺れ始めているのを、ネフィルは宮殿にいながらにして察知していた。
ネフィルは居候で、個人で動かせる戦力はイオンたった一人。それも側を離れているので、詳細な情報は王子たちに頼るしかない。それだけではなく、ヴィオレットが王に立ったこの機会をそれぞれの派閥がどう捉えるのか、慎重に見定め、釘を打つべき場所を穿つ必要がある。
今のネフィルは、成人したての若造ではなかった。
唯一と思い込んでいたものが、そうではなかったのだと、もう知っている。
逃げてはいけない。逃げたくはない。
姪には置いていかれたが、ネフィルは必ず甥より先に死ななくてはならない。それも立派な墓を建ててもらわなくては、墓参りの甲斐もない。
「姫、王へ謁見を願いたい旨、伝えていただけるだろうか」
別に王子たちを頼ってもよかったが、あえて嘆き悲しむ姪の友人に容赦しないのはアルビオンの性のせいだろう。若い頃の自分は棚に上げて単刀直入に切り込んだネフィルだったが、ナージャがそれで我を取り戻したのだから幸いではあった。
ナージャとて、少し冷静になりさえすれば己の役割をよくよく理解できる。戦争は、異母兄の一人として損ないたくないナージャにとって、内戦と同等の危険を孕む。王子派閥の手柄争いの場になるからだ。それでなくても恩人の国で、友の国だ。
そしてザクセン王は、この期間、あえて何ら方針を示さず沈黙している。
その理由など何度目ともなればわかりきっている。王子たちだけではなく、ナージャも試されていた。
ナージャは王子たちをも差し置いて、直接に王に連絡を取り付ける許可を得ている。
涙を拭い、化粧でよろい、勇ましく拳を握り込んで、父王の元へネフィルを連れていった。
その日の夜、ナージャは最近にしては珍しく夢を見た。己の知らない歴史を観客として傍観するだけの夢。
どうしてこんな日に、とうんざりできるくらいには気持ちを立て直せていたナージャは仕事のためにと周囲を見渡した。脆そうな土壁や石の柱がずらりと並んでおり、人の話し声がすれば獣の匂いや鳴き声もある、賑々しい場所。時代も地理も見当がつかない。ナージャのこれまでの知識とは全く違う趣を感じて、西方か、と思う。
(……だけど……)
なんでか心がざわめいている。見覚えのあるような気がする景色。懐かしさを無意識に見出だそうとするように指の先で柱をなぞると、表面に浮いた粉が白く残り、目を見開いた。夢のものはナージャには不干渉だったはずだ。人にしろ、物にしろ。
驚きを追い越して恐怖が迫ってきて、ナージャは逃げ場を探すように視線を巡らせ、後ずさった。
目の前の事実に手も足も出せない残酷な現実を顔面にぶつけられたのが、ナージャの視た一番はじめの夢だ。その後も次々と血腥くおどろおどろしい夢ばかりをよく視る。夢に入ったとたん眼前に繰り広げられる場面に平和的なものなんてそうそうない。いくら心構えをしようと、時々は目の前で死にかける誰かを助けようとしてしまったし、誰かが惨殺される光景には悲鳴を上げた。
だが、ナージャは視ることができるくせに、どこまでもただの観客でしかありえなかった。触れない。伸ばした手は届かない。いっそ気が狂いそうだったが、反対に、完全に狂わずにいられたのはこの不可侵なる透明な壁のせいだとどこかで理解していた。
それが、もしかしたらこの夢は違うのかもしれない。心を守る壁が機能していない今、どんな光景を見せられるのか。それを無事に見届けられる自信なんて欠片もない。
背後から足音と共に近づいてくる人の話し声がして、ナージャは蒼白になった。白い汚れのついた手を胸に握りしめて柱の裏に回る。靴がコツコツと音を鳴らし、止まることなく通りすぎていくと、全身から強ばりが抜けた。床にへたりこむ背中は柱に凭れている。……やっぱり触れるのは間違いなかった。それでも、一度危機を脱したお陰で落ち着きがほんのすこし戻ってきた。
(……夢の中って感覚は、いつもと同じだわ)
大きく息を吐くと、ぴしゃんと頬を打って立ち上がった。夢の価値はナージャの判断一つで有益にも無益にもなる。それが一番肝心なこと。
どんな異変があれどこれが夢ならば、ナージャが変えられるものなんてどこにもない。それに……最近思うようになってきたが、ここで変わってしまったら、「今」に続かない。ナージャが足掻いてもがいて目指す未来が、手の届かない場所で塗り替えられてしまう。そんな気がしてくるのだ。
それを思えば、いつも限られた場面を「視せられている」のとは違うこの状況は、ナージャにとっては光景を選べるということ――いつもよりもまだましというものだった。そうと決めたら、ナージャは歩き回ることにした。まずは地理の情報がほしい。
(……さっぱりわからないわ。シュバルツじゃない気がするけど……)
白っぽい柱は粉をふき、壁は染みやひび、でこぼこもある。石工技術が拙い印象だ。高い天井には木の板が無造作に置かれているように隙間があちこちあって、光が幾条もこぼれ落ちる床は踏み固めた地面そのままだ。落ちる影が黒というより青いのは昼間だからだろう。外に出たらなにかわかるかもしれないが、やたらと広い空間が続いていて困った。
そこにまた人が通りすぎていく。今度のナージャは、堂々とその場に突っ立ってみた。簡素な貫頭衣、靴は木靴、手首や首にあしらわれた飾りはぼやけた青色で、歩くたびにしゃらしゃらと音を立てる。どこかを目指すような淀みない歩調でひたりと己の道を見つめる青年は、傍らのナージャに気づいた様子がなかった。
ナージャがその人の後をついていったのは、彼こそ夢における重要人物だと見定めたからだ。現実でも夢でも人を見る目を養ってばかりなので、ただ者ではないものの纏う共通の雰囲気を覚えている。
背中を追いかけながら、首を捻った。後ろ姿も全くもって見覚えがないのに、既視感というか、懐かしさというか……慕わしさのようなものが込み上げてくる。それはレオン義兄上に感じるものと似ていた。そう、いわゆる兄の風格というべき……。
(この人も、誰かのお兄さまなのかしら)
ちらちらと周囲の景色や人影を確認しながら歩いていくと、やがて柱が途切れ、燦々と光の降り注ぐ緑溢れる庭が目の前に現れた。小鳥の囀ずり、葉擦れの音、水の流れていく音……。これまでの殺風景とは真反対に鮮やかで美しい景色がいきなり現れて、ナージャはしばし陶然としていた。
我に返ったのは、追いかけた青年が『ここにいたか』と声を上げて、庭へと足を踏み出したからだ。
『このままだとここが森になるな』
『それもそれで楽しそうだけど、無理だわ』
女性の声がして、青年の視線の先を探せばその姿は簡単に見つけられた。木々と草花の合間を縫うように流れる小川に手のひらを浸していた娘が、青年に視線を向けて微笑んだ。
『あなたでも不可能なのか、ミヨナ』
ナージャの息が止まった。
浮世離れした美貌の娘だった。からかうように言われて『残念だけど』と華奢な肩を竦めていたが、人間臭い仕草が雰囲気に似合っていない。水から引き抜いた手から雫を滴らせながら立ち上がった娘はその時、なにかに気づいたように青年の後ろへ視線を流した。
ぱちりと、はっきりとナージャと目が合った。
「――ああ、そうなのね」
薔薇色の唇から漏れた声が、透き通るようにナージャの耳を刺した。
膜を隔てたような声ではなく、直にナージャを震わす現実。
極彩に滲む瞳は色を定めることなく次々に変化していく。まるでナージャの内心のように渦を巻いて。
娘と話していた青年が訝しげに娘の視線の先を追い、ナージャのいるところで見止めたのに、こちらは目が合わなかった。この青年はナージャを見えていないのだ。夢ならばそれが当然だった。ここは決まりきった過去の中で、ナージャは異物で、単なる観客で……異端はナージャを見つけたこの娘だった。
『今度は何を見つけた、ミヨナ?』
「とても大切なものよ」
ナージャから目を離さず、神の娘は告げた。
ナージャはまた後ずさった。恐怖で早鐘を打つ胸を押さえたが、それと同時に慕わしさが湧いてきた。
この人なんて知らない。知るわけがない。なのに、なぜ「会いたかった」と言いたくなるのだろう。
「わたしも会いたかったわ、ユーフェミア。あなたとスハルトと、テミリスがはじめにわたしの『眼』を奪ってくれたから、わたしは一生分だけ、人になれたのよ。――そう、呪いになってしまったのね。人には過ぎたる毒だって……わかっていたのに。何度も巡ってしまったのね……」
あなたのせいじゃないと、ナージャではない誰かがナージャの口をつこうとする。とっさに口を抑えたら、代わりにとでもいうように涙が溢れ出た。
もはや、胸を激しく鳴らす鼓動は恐怖ではなく歓喜だった。
(『会いたかった。やっと会えた』)
私は間違いだったとは思わない。何回も死んでしまっても。時には心を壊してしまっても。
あなたにまた会えたから。
私たちの女神。
「……ありがとう」
いつの間に目の前にいた娘から抱きしめられる。背は娘の方が高かった。そのままつむじに口付けを受け、「長く待たせてごめんね」と呟きが降った。
抱擁を解かれると、温かくて柔らかい手がナージャの涙に濡れる両頬をそっと挟んで、また目を見交わした。
「アナスタシア、あなたはあなたの時にお戻りなさい。あなたは過去を紡ぎ、未来を織る者。人の許せる時の果てまで、もうとっくに明けている。……そのいつかの未来に、あなたの友も目を覚ます」
あやふやな言葉なのに、なぜかするんと理解できた。ナージャは「巫」に定められた寿命を越えられること。リエンが本当は死んでいないこと。
瞳で問いかけると、娘はそうよ、と笑って認めた。清廉な微笑は超越者ゆえの傲慢を孕んでいたが、やっと雰囲気にしっくりと合った気がする。
ナージャの中にいた始まりの者は、いまや娘の掌の上で陽光に輝いていた。
懐かしさも愛しさも全てその光の内。涙はとうに止まっていた。
「『過去視』の祖の名は、ユーフェミアというのね」
ナージャが自らの意志で声を発すると、娘は驚いたように瞬いて、破顔した。
「ええ、そうよ。わたしの愛しい友の名を伝えてくれるのは、本当に嬉しいわ」
「あなたのためじゃない。私の起源の話だからよ」
「わかっているわ」
ナージャは夢の終わりを察した。置いてきた体に意識が引き寄せられていく。瞬くたびに景色が霞んでいく。眼前の娘の姿さえもただの過去の一風景に戻っている。
もうこちらを気にせず、青年に振り返った娘の背中に、ナージャは風のいたずらのようにこっそり囁いた。
「……力を授けてくれて、感謝しているわ。さようなら、女神ミヨナ」
そんなわけで、ナージャはずっと待っていた。
リエンの葬儀については参列を強く希望したが、結局禁じられ、ターシャのみが向かうことになった。ネフィルも、冬が深まるにつれ体調を崩しやすくなったので移動は厳しいと医者に止められ、ナージャと同じく留守番だった。
葬儀を終えて年を越え、リエンの誕生日辺りにヴィオレットの名前でターシャへ荷物が届き、中を見れば、ターシャがかつてリエンに貸したコートだった。遺品を整理していて見つけたのだと手紙に書いてあり、リエンはまだ眠っているのだとわかった。
またこの時期に本来はナージャの婿を確定させなければならなかったが、ミヨナの夢のもたらした婚姻条件の差異のため候補全員が見直され、数人削られるに留まった。
夏のはじめ、リエンの侍女ユーフェとイオンが連れだってエルツィを訪ねてきて、ネフィルへ結婚の報告をしているのを横で聞いていた。
夏の終わりにはヴィオレットの戴冠式が華々しく行われたそうだ。
冬間近、ヴィオレットが王子時代に持ってきた政策が本格的に進められるようになると、またぞろ国内の派閥の不穏な動きが見えたので、数人ハリセンでしばき飛ばして異母兄たちを戦々恐々とさせた。
新年の宴席で、五番目の異母兄フォルカーが港湾を有するフリーセア北部の貴族家に婿入りすることを自ら宣言し、これによって第三派閥が解体された。
そして夏の盛り。
ハリセンの音が、晴天の元、高らかに響き渡った。
ハリセンの猛威をはじめて目にしたユーフェとイオンが棒立ちになり、ネフィルは車椅子に座ったまま遠い目をし、ウォルは数歩分飛び退き、それとは反対に飛び出しかけたレイをガルダが捕獲した。
「なんか、前より格段に威力も音も増してるんだけど、どれだけお仕置きしてきたの?」
リエン――もとい、アクイラは苦笑も通り越した微妙な顔で、勢いよく打たれた頭を擦った。
だが、もちろんナージャは聞いていない。用なしになったハリセンはぽいっと後ろに放り(ターシャが掴み取った)、自由になった両手でむぎゅっと友を抱きしめた。
「遅いんですよ……!」
ナージャは待っていたのだ。ずっとずっと、待ち続けていたのだ。
「待ちくたびれて、ずっと練習ばっかりしてたんですからね!」
最近ではハリセン王女という異名が囁かれてるナージャの言うことなので、最終的に、ターシャも遠い目をする一員に加わった。
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アルファポリス恋愛ランキング入りしました!
読んでくれた皆様ありがとうございます。
連載希望のコメントをいただきましたので、
連載に向け準備中です。
*他サイトでも公開中
なろう日間総合ランキング2位に入りました!
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