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手探りで進む
閑話・墓から生まれた娘③
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ユーフェミアは一度たりとも泣かなかった。少なくともメリエの前で涙を見せることはなかった。
それは、メリエに気を遣っているわけでも、我慢しているわけではないと、メリエだけが知っていた。ましてや、薄情などと。
ユーフェミアが最後に見たのは、両親が商隊と共に村を去っていく姿。亡骸が帰ってこようと、周りが死んだと口にしても、ユーフェミアは「死」を理解できなかったのだ。
供養を含めたはじめの一ヶ月、ユーフェミアは悲嘆にくれる祖母を手伝って、秋の祭祀の準備を行い、料理を作り、お祈りをした。メリエがようやく立ち直ったのは――立ち直らざるをえなくなったのは、ユーフェミアがお祈りの最中に「村に父さんと母さんを帰してください」と言っていたのを聞いた時だ。気性が苛烈なメリエは、思い切り舌を噛んで果てたいと思った。
しばらくすると、ユーフェミアは徐々にわかり始めてきた。両親は二度とこの村に帰ってこないと。ユーフェミアはお祈りをぱたりとやめた。
そのさらにしばらく後、村人の陰口でも聞いたのだろうか。「父さんと母さんは死んだの?」と、今さらのことを、泣き腫らした目とちぐはぐに、淡々と問いかけてきた。
「あたしが殺したの?」
「……なんだって?」
「みんな言ってた。家族が死んで泣きもしないのは、あたしが殺したからだって」
メリエが一番、死ぬほど後悔したのはこの時だ。悲嘆にくれる前に、この小さな孫娘を見てやるべきだったのだ。一人で泣かせて、一人で立ち上がらせてしまった。ユーフェミアは、これ以上メリエが何を言おうと抱きしめようと、また泣くようなことはなかった。淡々と、冷めた目で、ぼんやりと祭壇の上の女神像を眺めていた。
ユーフェミアを泣かせたのは村の子どもたちだった。ユーフェミアより幼い彼らは、無邪気に親の愚痴をそのまま口にしたのだろう。
どんなにロナウド一家が取り成そうと、愛そうとしても、村人たちは「忌み子」としてしか見ていなかった。
息子夫婦を亡くしたメリエを出迎えた村長は「それ見ろ」とばかりの目でいた。とうとう馬脚を現したか、と。
五年という積み重ねで緩みかけていた警戒心が、恐怖心が。夫婦の死により、最悪な形で小さな少女をなぶろうとしていた。
「ユゥ。私と暮らそう」
「わかった」
両親を亡くしてから神殿を仮住まいのようにしていたユーフェミアを正式に受け入れた。メリエはもう孫娘を神殿から出す気は全くなかった。
アレクが、村長以上にこの村の将来を考えていたことを、村人たちも薄々気づいていた。村長はメリエやアレクを座敷わらしかなにかと勘違いして、アレクの助言という名の指図に動くだけで、本人は頭を使ってこなかった。
村はこれから、見る間に衰退していくだろう。
神聖王国の南部では実りがますます豊かになっているという。『巫』の仕業ではないかと思っているメリエだが、村人にはわからない。身近に生け贄がいれば押し付けることしか考えない。
これ以上ユーフェミアを傷つけさせるわけにはいかなかった。
☆☆☆
とうとう商人は来なくなった。危機感を抱いてもそれだけだった村長はますます焦ったようだが、遅い。遅すぎる。アレクのしていた研究は、メリエとユーフェミアでちまちまとやっていたが、捗るわけがない。土地に適した作物など実らず、商人も来なくなったことで、情報も種も得られなくなった。村人は買い手を求めて、遠方へ出かけることが増えた。
ものの見事にアレクの懸念が当たるが、メリエは察していた。村人はこれもユーフェミアのせいにするだろうことを。
多くの人間が、「生」と「信仰」を逆に考えている。信仰のために生があるわけではない。生きるためのよすがに信仰というものがあるのだ。
村人の根底にも這いずるその意識は、メリエが時間をかけて解そうと思っても、そう簡単にはいかなかった。他ならぬユーフェミアという存在が、彼らの思考を凍らせている。
(ユゥはあんたらの都合のいい道具じゃない)
幸い、ユーフェミアは村人からの微妙な対応に、己の起源を勘づいてはいない。捨て子であったことなど忘れて、メリエをアレクの真似をして「ばあちゃん」と呼んで懐いている。
――何が「墓から生まれた娘」だ。
何が「忌み子」だ。
ミヨナさまから輪廻を外され、永遠に現世をさ迷う大罪人だって?
死者の罪咎を背負った、生まれるべきではなかった子?
生きた厄災?
お前たちがそう仕立て上げているだけだろうが。
異端だと、まともに触れようともしなかったのはどこのどいつだ。メリエより村でお前たちと接する時間が多かったのに、なぜユーフェミアはメリエを選んだのだ。
遠巻きに見て平凡な様子にほっとし、狭苦しい常識からわずかに離れただけで、なぜユーフェミアが否定されなくてはならない。なぜお前たちの自分勝手な理屈で、ユーフェミアが貶められなくてはならない。
毎朝、ミヨナさまに問いかけるように、己にも自問自答を繰り返した。祈りの時間は増えた。ユーフェミアは、その逆だった。仕方がないと思いながらも、メリエはユーフェミアにだけはミヨナ教の本質を知ってほしかった。
このところ、悪い風が吹く。
メリエは孫にだけは知られないように、薬草を煎じて飲んでいた。
冬の夜中、毎年通りに狼が鳴いている。ユーフェミアが泣きそうな顔で部屋を訪れ、寝台に勝手に潜り込んだ。二人分の体温で、すぐに暖かくなる。メリエはこの温もりが嫌いではなかった。
このまま世界が滅んだら、メリエは笑顔でミヨナさまに礼を言うだろう。メリエとユーフェミア、たった二人きりの家族。いずれユーフェミアより先に死んでしまうだろう。永遠があればほしかった。これ以上、可愛い孫娘を傷つけたくなかった。
死んだあとが不安になったときだったから、都合がよかったのだ。王都で時間を共有したことがある旧友と、手紙の来訪。
突如訪れ、息子夫婦の墓前に手を合わせ、ユーフェミアを連れ出す提案をしてきた。人生最大の間違いは、この時感傷に流されて、それを了承してしまったことだ。
都合が、あまりにもよすぎた。どうも友人は、都を訪れたアレクからユーフェミアのことを聞いていたらしい。メリエの目は鈍っていた。ユーフェミアを一人残して死ぬか、見ていないところで死ぬか、どっちがいいかと聞かれたら、メリエは後者を選んだ。
ユーフェミアを、この終わりゆく村で死なせたくなかったのだ。
……まさか、その旧友が、僧兵の指揮官に出世していたとは考えもしなかった。
旧友は他に若い神官を連れてきていた。それにユーフェミアを託し、友人は村に残った。
友人は、村を廃することを村長に勧めた。彼は相変わらず凍結している思考力で諾々と頷き、あっさり移住が始まる。……メリエが違和感を感じた時には、すでに移住先の村の受け入れ体制が整っていた。
「……どういうことだい、ジュール。ずいぶんと準備がいいじゃないか」
「あんたも耄碌したね、大法神官長メリエ。辺鄙な場所で、政争から離れてたせいかい?ここまで腑抜けていたとは思わなかったよ」
「――腑抜けていなかったら、ユゥを連れ出さなかったわけかい」
……ああ、本当に耄碌したよ。手放すんじゃなかった。私は最後まで間違い続ける。
にいっと嗤った元友人ジュールは、そんなメリエの顔を覗き込んだ。
「ずいぶんと長生きしているから、上も不安がったのさ。お陰で私がここまで出向くことになった」
「あんたも変わんないだろう」
「私は生涯現役さ。あんたみたいなへまはしない」
確かに背筋はぴっと伸びて、手足も存分に動くようだ。こっちは寝台から起き上がれないほどだってのに。……この女が来てから、この女が看病を願い出てメリエのために料理をするようになってから、メリエの体調は一気に階段を転げ落ちている。
つまりはそういうことだ。
「ユゥは神官にゃ向かないよ」
「知っているさ、そんなこと。あんたにべったり甘えていたねぇ。ほんとに拾った子かい?遠慮の欠片もなかったね」
「……覚えていないのさ」
「ふうん?まあ、墓から生まれたガキなんざ、こっちにも不吉が移るってね。一報が届いたよ?」
「……なんだって?」
夕方のことである。もう春のど真ん中、窓から見える空は美しい黄昏色だった。ジュールは逆光の中、芝居めいた仕草で大袈裟に僧衣から一葉の紙を取り出した。
メリエの中で、嫌な予感がぶわりと沸き立った。
「かわいそうにねぇ。たった一人残った家族だったのに。可愛い可愛い孫だったんだろう?――あんたのせいで」
ひらりと紙がメリエの手元に舞い落ちる。見たくない。なのに、見てしまった。読んでしまった。
――ユーフェミア・ロナウド。アルダとの国境ガウスの谷に転落、消息不明。谷川は雪解けで増水しており、生存は絶望的……。
「最後の家族も死んじゃったねぇ?」
ジュールはけたけたと嗤っていた。放心したメリエを見て、面白いとでも言うように。
――そう、ジュールはこの顔が見たかったのだ。一条の光すら届かない絶望のどん底を這いずるような、この顔。ようやく念願叶った。僻地送りでも、意地を張って平然とした顔を取り繕っていたものを、ようやく。
「私ゃ、昔からあんたが気に食わなかった。ミヨナさまに捧げる思いを――あの方の元へ魂を送ってやっているのに、野蛮だのなんだのと貶めた。よっぽどこの手で苦しめてやりたかった。追い出されて清々したと思ったら、まだ生きてやがったものなぁ。しかも出ていったはずの息子が厚かましく王都へ門を叩いた」
「――まさか」
アレクとカタリナは、王都を出てから、帰途で、大雨で増水した川に流され運悪く死んでしまった。……運でもなんでもなく、仕組まれていたとしたら?突き落とされればひとたまりもないだろう。……つい先日、ユーフェミアを谷底に突き落としたように。
「――ああ、いい顔だ」
ジュールは絶望に染まった憎い友人の顔を恍惚として眺めた。頬を染めた姿はまるで恋する乙女のように若々しかった。
「改めて名乗り直そう。私はジュール・リングス。『神の代理人』さ」
『神の代理人』――死刑執行人。女神ミヨナの代わりに天罰を下す者。神聖王国において最もおぞましく最も敬虔なミヨナ教信者。
狂信者の集まり、僧兵の事実上第一位。
「……まさか、あんたが」
「あんたの前じゃ黙っていただけさね。当時の私の仕事は内部監査だったからねぇ。信用しきってくれてたから、あんたを引き摺り落とすのは楽だったよ。お陰で大出世さ」
ジュールは本当にメリエのこの顔を見るためだけにこの辺鄙な場所まで訪れたのだ。メリエの上司は国王と宰相のみ。だからこそジュールはここまで徹底的に追い込むことができて、あんまり嬉しいので今死んでもいいとすら思った。大満足だ。
メリエ・ロナウドは、昔から身内に甘い女だった。栄華を極めた女の末路が、旧友と信じていた者に裏切られ、家族を全て失い、廃村で孤独に息を引き取るなど……なんともかわいそうで愉快なものではないか。
しかも、実はまだ生きている孫娘を死んだと思っているのも、ジュールの心を沸き立たせる。まんまと騙されたな。
あんたに代わって、私が使い捨ててやるよ。あんたが泣き所になっていて、実に動かしやすい駒だ。それに……ああ、愉快だ。これほど愉快なことはない。
――あんたの孫娘は、あんたが死んでるのに、生きてると勘違いして踊り狂うのだ。
ジュールは心の中でその様を想像してうっとりしながら、目の前で死にそうなほどうちひしがれる元友人を見下ろした。
永遠に後悔すればいい。ミヨナさまを否定したあんたにゃお似合いの死に方じゃないか。ミヨナさまは、懐に戻った魂を罰することはない。だから『神の代理人』が存在しているのさ。ようやく身に沁みただろう?死ぬ前に後悔できてよかったじゃないか。
ジュールは毒蛇のように、するりと手をその細い首に絡めた。喘鳴が手指に伝わり、ますます恍惚と表情が緩む。何もかもを喪い、そのなけなしの命の灯火すら、この手の中。ジュールが僧兵になって一番欲しかったものが、この掌に載っている……。
ジュールはこれまでで一番綺麗に微笑んだ。
「さあ、お眠りよ。私が看取ってやるからさ。安心してミヨナさまの御元へ行くがいいよ……」
☆☆☆
「ユゥ。終わった?」
「――はい」
ユーフェは墓前から立ち上がった。墓掃除を終え、別れの挨拶をしていたところだった。
相変わらず記憶喪失なのは変わらないが、時折水底から気泡が昇るように、小さな愛しさと切なさが込み上げることがある。その感情が、ユーフェが確かに誰かを愛した証である気がした。
怖くないわけじゃない。不安じゃないわけがない。けれど。
『――ユゥ。ユーフェ』
リエンという、王女さまらしくない王女さまが名付けてくれたとき、びっくりした。誰かの掠れた、けれど愛しい声と同じように呼びかけてくれたから。あたしが忘れてるのに、あの方は、見えない暗闇からあたしの大切なものを拾ってくれている。
(……たぶん、忘れるほど辛いってことなんだろうけどね。あの方がいるから、あたしも頑張るよ)
壊れた欠片を拾い集める。いつ、全部拾って修復できるかわからない。けれど、あたしの主人だというあの方は、急かしたり捨てたりしない。あたしに時間を与えてくれた。
ユーフェが腕に巻いている綺麗な色がおりまざった紐は、この墓の主が餞別にくれたものらしい。うっすら記憶が残っている。柔らかい手つきで髪を整えて、括ってくれた。
その隣に、ユーフェミア・ロナウドという、記憶のない過去の自分が眠っている。
「行こう」
たぶん、もうここに帰ることはない。記憶が戻っても、ユーフェは墓地を故郷と呼ぶことはできない。ここは死んだ者のための安らぎの場所。誰も荒らすことができない聖域。――誰かがそう仕立て上げた。
瞑目して、喉から込み上げる苦いものを飲み込んだ。
「……はい」
ユーフェは、最後に墓地全体に一礼して背を向け、もう振り返らなかった。
それは、メリエに気を遣っているわけでも、我慢しているわけではないと、メリエだけが知っていた。ましてや、薄情などと。
ユーフェミアが最後に見たのは、両親が商隊と共に村を去っていく姿。亡骸が帰ってこようと、周りが死んだと口にしても、ユーフェミアは「死」を理解できなかったのだ。
供養を含めたはじめの一ヶ月、ユーフェミアは悲嘆にくれる祖母を手伝って、秋の祭祀の準備を行い、料理を作り、お祈りをした。メリエがようやく立ち直ったのは――立ち直らざるをえなくなったのは、ユーフェミアがお祈りの最中に「村に父さんと母さんを帰してください」と言っていたのを聞いた時だ。気性が苛烈なメリエは、思い切り舌を噛んで果てたいと思った。
しばらくすると、ユーフェミアは徐々にわかり始めてきた。両親は二度とこの村に帰ってこないと。ユーフェミアはお祈りをぱたりとやめた。
そのさらにしばらく後、村人の陰口でも聞いたのだろうか。「父さんと母さんは死んだの?」と、今さらのことを、泣き腫らした目とちぐはぐに、淡々と問いかけてきた。
「あたしが殺したの?」
「……なんだって?」
「みんな言ってた。家族が死んで泣きもしないのは、あたしが殺したからだって」
メリエが一番、死ぬほど後悔したのはこの時だ。悲嘆にくれる前に、この小さな孫娘を見てやるべきだったのだ。一人で泣かせて、一人で立ち上がらせてしまった。ユーフェミアは、これ以上メリエが何を言おうと抱きしめようと、また泣くようなことはなかった。淡々と、冷めた目で、ぼんやりと祭壇の上の女神像を眺めていた。
ユーフェミアを泣かせたのは村の子どもたちだった。ユーフェミアより幼い彼らは、無邪気に親の愚痴をそのまま口にしたのだろう。
どんなにロナウド一家が取り成そうと、愛そうとしても、村人たちは「忌み子」としてしか見ていなかった。
息子夫婦を亡くしたメリエを出迎えた村長は「それ見ろ」とばかりの目でいた。とうとう馬脚を現したか、と。
五年という積み重ねで緩みかけていた警戒心が、恐怖心が。夫婦の死により、最悪な形で小さな少女をなぶろうとしていた。
「ユゥ。私と暮らそう」
「わかった」
両親を亡くしてから神殿を仮住まいのようにしていたユーフェミアを正式に受け入れた。メリエはもう孫娘を神殿から出す気は全くなかった。
アレクが、村長以上にこの村の将来を考えていたことを、村人たちも薄々気づいていた。村長はメリエやアレクを座敷わらしかなにかと勘違いして、アレクの助言という名の指図に動くだけで、本人は頭を使ってこなかった。
村はこれから、見る間に衰退していくだろう。
神聖王国の南部では実りがますます豊かになっているという。『巫』の仕業ではないかと思っているメリエだが、村人にはわからない。身近に生け贄がいれば押し付けることしか考えない。
これ以上ユーフェミアを傷つけさせるわけにはいかなかった。
☆☆☆
とうとう商人は来なくなった。危機感を抱いてもそれだけだった村長はますます焦ったようだが、遅い。遅すぎる。アレクのしていた研究は、メリエとユーフェミアでちまちまとやっていたが、捗るわけがない。土地に適した作物など実らず、商人も来なくなったことで、情報も種も得られなくなった。村人は買い手を求めて、遠方へ出かけることが増えた。
ものの見事にアレクの懸念が当たるが、メリエは察していた。村人はこれもユーフェミアのせいにするだろうことを。
多くの人間が、「生」と「信仰」を逆に考えている。信仰のために生があるわけではない。生きるためのよすがに信仰というものがあるのだ。
村人の根底にも這いずるその意識は、メリエが時間をかけて解そうと思っても、そう簡単にはいかなかった。他ならぬユーフェミアという存在が、彼らの思考を凍らせている。
(ユゥはあんたらの都合のいい道具じゃない)
幸い、ユーフェミアは村人からの微妙な対応に、己の起源を勘づいてはいない。捨て子であったことなど忘れて、メリエをアレクの真似をして「ばあちゃん」と呼んで懐いている。
――何が「墓から生まれた娘」だ。
何が「忌み子」だ。
ミヨナさまから輪廻を外され、永遠に現世をさ迷う大罪人だって?
死者の罪咎を背負った、生まれるべきではなかった子?
生きた厄災?
お前たちがそう仕立て上げているだけだろうが。
異端だと、まともに触れようともしなかったのはどこのどいつだ。メリエより村でお前たちと接する時間が多かったのに、なぜユーフェミアはメリエを選んだのだ。
遠巻きに見て平凡な様子にほっとし、狭苦しい常識からわずかに離れただけで、なぜユーフェミアが否定されなくてはならない。なぜお前たちの自分勝手な理屈で、ユーフェミアが貶められなくてはならない。
毎朝、ミヨナさまに問いかけるように、己にも自問自答を繰り返した。祈りの時間は増えた。ユーフェミアは、その逆だった。仕方がないと思いながらも、メリエはユーフェミアにだけはミヨナ教の本質を知ってほしかった。
このところ、悪い風が吹く。
メリエは孫にだけは知られないように、薬草を煎じて飲んでいた。
冬の夜中、毎年通りに狼が鳴いている。ユーフェミアが泣きそうな顔で部屋を訪れ、寝台に勝手に潜り込んだ。二人分の体温で、すぐに暖かくなる。メリエはこの温もりが嫌いではなかった。
このまま世界が滅んだら、メリエは笑顔でミヨナさまに礼を言うだろう。メリエとユーフェミア、たった二人きりの家族。いずれユーフェミアより先に死んでしまうだろう。永遠があればほしかった。これ以上、可愛い孫娘を傷つけたくなかった。
死んだあとが不安になったときだったから、都合がよかったのだ。王都で時間を共有したことがある旧友と、手紙の来訪。
突如訪れ、息子夫婦の墓前に手を合わせ、ユーフェミアを連れ出す提案をしてきた。人生最大の間違いは、この時感傷に流されて、それを了承してしまったことだ。
都合が、あまりにもよすぎた。どうも友人は、都を訪れたアレクからユーフェミアのことを聞いていたらしい。メリエの目は鈍っていた。ユーフェミアを一人残して死ぬか、見ていないところで死ぬか、どっちがいいかと聞かれたら、メリエは後者を選んだ。
ユーフェミアを、この終わりゆく村で死なせたくなかったのだ。
……まさか、その旧友が、僧兵の指揮官に出世していたとは考えもしなかった。
旧友は他に若い神官を連れてきていた。それにユーフェミアを託し、友人は村に残った。
友人は、村を廃することを村長に勧めた。彼は相変わらず凍結している思考力で諾々と頷き、あっさり移住が始まる。……メリエが違和感を感じた時には、すでに移住先の村の受け入れ体制が整っていた。
「……どういうことだい、ジュール。ずいぶんと準備がいいじゃないか」
「あんたも耄碌したね、大法神官長メリエ。辺鄙な場所で、政争から離れてたせいかい?ここまで腑抜けていたとは思わなかったよ」
「――腑抜けていなかったら、ユゥを連れ出さなかったわけかい」
……ああ、本当に耄碌したよ。手放すんじゃなかった。私は最後まで間違い続ける。
にいっと嗤った元友人ジュールは、そんなメリエの顔を覗き込んだ。
「ずいぶんと長生きしているから、上も不安がったのさ。お陰で私がここまで出向くことになった」
「あんたも変わんないだろう」
「私は生涯現役さ。あんたみたいなへまはしない」
確かに背筋はぴっと伸びて、手足も存分に動くようだ。こっちは寝台から起き上がれないほどだってのに。……この女が来てから、この女が看病を願い出てメリエのために料理をするようになってから、メリエの体調は一気に階段を転げ落ちている。
つまりはそういうことだ。
「ユゥは神官にゃ向かないよ」
「知っているさ、そんなこと。あんたにべったり甘えていたねぇ。ほんとに拾った子かい?遠慮の欠片もなかったね」
「……覚えていないのさ」
「ふうん?まあ、墓から生まれたガキなんざ、こっちにも不吉が移るってね。一報が届いたよ?」
「……なんだって?」
夕方のことである。もう春のど真ん中、窓から見える空は美しい黄昏色だった。ジュールは逆光の中、芝居めいた仕草で大袈裟に僧衣から一葉の紙を取り出した。
メリエの中で、嫌な予感がぶわりと沸き立った。
「かわいそうにねぇ。たった一人残った家族だったのに。可愛い可愛い孫だったんだろう?――あんたのせいで」
ひらりと紙がメリエの手元に舞い落ちる。見たくない。なのに、見てしまった。読んでしまった。
――ユーフェミア・ロナウド。アルダとの国境ガウスの谷に転落、消息不明。谷川は雪解けで増水しており、生存は絶望的……。
「最後の家族も死んじゃったねぇ?」
ジュールはけたけたと嗤っていた。放心したメリエを見て、面白いとでも言うように。
――そう、ジュールはこの顔が見たかったのだ。一条の光すら届かない絶望のどん底を這いずるような、この顔。ようやく念願叶った。僻地送りでも、意地を張って平然とした顔を取り繕っていたものを、ようやく。
「私ゃ、昔からあんたが気に食わなかった。ミヨナさまに捧げる思いを――あの方の元へ魂を送ってやっているのに、野蛮だのなんだのと貶めた。よっぽどこの手で苦しめてやりたかった。追い出されて清々したと思ったら、まだ生きてやがったものなぁ。しかも出ていったはずの息子が厚かましく王都へ門を叩いた」
「――まさか」
アレクとカタリナは、王都を出てから、帰途で、大雨で増水した川に流され運悪く死んでしまった。……運でもなんでもなく、仕組まれていたとしたら?突き落とされればひとたまりもないだろう。……つい先日、ユーフェミアを谷底に突き落としたように。
「――ああ、いい顔だ」
ジュールは絶望に染まった憎い友人の顔を恍惚として眺めた。頬を染めた姿はまるで恋する乙女のように若々しかった。
「改めて名乗り直そう。私はジュール・リングス。『神の代理人』さ」
『神の代理人』――死刑執行人。女神ミヨナの代わりに天罰を下す者。神聖王国において最もおぞましく最も敬虔なミヨナ教信者。
狂信者の集まり、僧兵の事実上第一位。
「……まさか、あんたが」
「あんたの前じゃ黙っていただけさね。当時の私の仕事は内部監査だったからねぇ。信用しきってくれてたから、あんたを引き摺り落とすのは楽だったよ。お陰で大出世さ」
ジュールは本当にメリエのこの顔を見るためだけにこの辺鄙な場所まで訪れたのだ。メリエの上司は国王と宰相のみ。だからこそジュールはここまで徹底的に追い込むことができて、あんまり嬉しいので今死んでもいいとすら思った。大満足だ。
メリエ・ロナウドは、昔から身内に甘い女だった。栄華を極めた女の末路が、旧友と信じていた者に裏切られ、家族を全て失い、廃村で孤独に息を引き取るなど……なんともかわいそうで愉快なものではないか。
しかも、実はまだ生きている孫娘を死んだと思っているのも、ジュールの心を沸き立たせる。まんまと騙されたな。
あんたに代わって、私が使い捨ててやるよ。あんたが泣き所になっていて、実に動かしやすい駒だ。それに……ああ、愉快だ。これほど愉快なことはない。
――あんたの孫娘は、あんたが死んでるのに、生きてると勘違いして踊り狂うのだ。
ジュールは心の中でその様を想像してうっとりしながら、目の前で死にそうなほどうちひしがれる元友人を見下ろした。
永遠に後悔すればいい。ミヨナさまを否定したあんたにゃお似合いの死に方じゃないか。ミヨナさまは、懐に戻った魂を罰することはない。だから『神の代理人』が存在しているのさ。ようやく身に沁みただろう?死ぬ前に後悔できてよかったじゃないか。
ジュールは毒蛇のように、するりと手をその細い首に絡めた。喘鳴が手指に伝わり、ますます恍惚と表情が緩む。何もかもを喪い、そのなけなしの命の灯火すら、この手の中。ジュールが僧兵になって一番欲しかったものが、この掌に載っている……。
ジュールはこれまでで一番綺麗に微笑んだ。
「さあ、お眠りよ。私が看取ってやるからさ。安心してミヨナさまの御元へ行くがいいよ……」
☆☆☆
「ユゥ。終わった?」
「――はい」
ユーフェは墓前から立ち上がった。墓掃除を終え、別れの挨拶をしていたところだった。
相変わらず記憶喪失なのは変わらないが、時折水底から気泡が昇るように、小さな愛しさと切なさが込み上げることがある。その感情が、ユーフェが確かに誰かを愛した証である気がした。
怖くないわけじゃない。不安じゃないわけがない。けれど。
『――ユゥ。ユーフェ』
リエンという、王女さまらしくない王女さまが名付けてくれたとき、びっくりした。誰かの掠れた、けれど愛しい声と同じように呼びかけてくれたから。あたしが忘れてるのに、あの方は、見えない暗闇からあたしの大切なものを拾ってくれている。
(……たぶん、忘れるほど辛いってことなんだろうけどね。あの方がいるから、あたしも頑張るよ)
壊れた欠片を拾い集める。いつ、全部拾って修復できるかわからない。けれど、あたしの主人だというあの方は、急かしたり捨てたりしない。あたしに時間を与えてくれた。
ユーフェが腕に巻いている綺麗な色がおりまざった紐は、この墓の主が餞別にくれたものらしい。うっすら記憶が残っている。柔らかい手つきで髪を整えて、括ってくれた。
その隣に、ユーフェミア・ロナウドという、記憶のない過去の自分が眠っている。
「行こう」
たぶん、もうここに帰ることはない。記憶が戻っても、ユーフェは墓地を故郷と呼ぶことはできない。ここは死んだ者のための安らぎの場所。誰も荒らすことができない聖域。――誰かがそう仕立て上げた。
瞑目して、喉から込み上げる苦いものを飲み込んだ。
「……はい」
ユーフェは、最後に墓地全体に一礼して背を向け、もう振り返らなかった。
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謝る女神さまの手によって『ユズキ』として転生することになったが、その直後またもや女神さまの手違いによって、『レベル9999』と職業『譲渡士』という謎の職業を付与されてしまう。
しかし、女神さまの世界の最大レベルは99。
勇者や魔王よりも強いレベルのまま転生することになったユズキの、使い切ることもできないレベルの使い道は仲間に譲渡することだった──!?
転生先で出会ったエルフと魔族の少女。スローライフを掲げるユズキだったが、二人と共に世界を回ることで国を巻き込む争いへと巻き込まれていく。
※9月16日
タイトル変更致しました。
前タイトルは『レベル9999は転生した世界で使い切れないので、仲間にあげることにしました』になります。
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