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第二章 砂の原
四
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シヅキは、自分を疑わなかった。周囲の人々の感情を敏感に受け止めつつも、クランのために怒ることしかしなかった。
(むかつく)
なんだかわからないが、クランは嫌われているようだ。いや、嫌うどころではないような気はする。まだ人生経験が浅いシヅキは、「憎悪」をはっきりと言い定めることができなかった。
しかし、理不尽な感情なのは、わかる。クランは口下手だけれど、無愛想だけれど、きれいで優しい女の子だ。賢くて、文字も読める。薬草の知識はとてもあって、罠を張る狩りもできる。それだけじゃなく、シヅキにいつも優しい。滅多に怒らないし、悪いことをしたら叱っても、後で強く言いすぎたか、とくよくよと悩むのだ。
クランは明るい性格ではなかった。どこかに傷を持っているのも知っている。時折、胸元をたぐって羽飾りを抱きしめ、遠くを見る。それが北の方角を向いているような気がするのは、シヅキの錯覚ではないかもしれない。
帰りたくても、出ていきたくても、クランはここにいるしかないのだ。そうさせたのが周囲の人間たちなら、シヅキは許せる気がしなかった。
「……仕方ない部分も、あるのよ」
クランはそう言って寂しく笑っているけれど。諦めきれないくせに、なんてことをなんて顔で言うのだろう。
クランとの日々は楽しい。全部を忘れて怖かった気持ちは、特殊な送り人との生活で、薄れていくようだった。新鮮すぎて毎日が学びになる。クランも聞いたら分かりやすく教えてくれるし、「シヅキ」として生きることに喜びすら感じ始めていた。
忘れた、ということは、かつては自分には別の名前があったのだろう。別の場所で、農民として暮らしていたのだろう。
でも、シヅキは忘れてしまった。クランに出会ってしまった。
そこに意味を見いだしても、バチは当たらないだろうか。
幼いシヅキの甘えをクランは受け止めてくれて、夜はひとつの部屋に布団を二つ並べて、一緒に寝てくれる。早めに寝ろと毎晩追い込まれるシヅキの額に、クランは手を当てて、柔らかくなにかの歌を歌ってくれる。
心地よかった。
居場所を与えてくれたクランに、シヅキは幼いなりに報いたかった。
(人って、死ぬと恐怖感が薄れるのかしら)
いっそ研究でもできそうだと、クランは思った。目の前で子どもと獣がじゃれついていれば、誰でもクランと同じことを思うだろう。獣もシヅキと触れ合える例外だったらしいのは喜ばしいが、そうぽんぽんと投げないでもらいたい。
「すげえすげえ。もう一回やって!」
相手は、かつてトルカに酷く懐いていた幼獣だ。三年たって凛々しく成長を果たし、子どもも生んでいた。立派な若奥様である。シヅキの服の襟首を噛んではぽいっと投げて、背中に着地させている。幼い獣たちもシヅキを羨ましそうに見ているので、母親は大変そうだった。
だがそれ以上に、楽しんでいるようだった。全員だ。
(……よかったって、言えばいいのかな……)
森の獣たちは、三年前からよりいっそう人間に対して警戒心を増していた。シヅキはそんな彼らに受け入れられている。……既に死んでいるからか。
シヅキを受け入れて既に何日と経過しているが、甘えっぷりにはますます磨きがかかっていたところだった。
クランが家の外へ出ると必ずあとをついてくるのだ。どこへ行くのか、一緒に行きたい置いていくなと。
こちらは仕事で人家におりてやることがあるのだ。さすがにシヅキに構う余裕はないし、クランはもう山からシヅキを出そうという気はなかった。死んでいることにまだ気づかれていないが、人の輪にいれば必ずどこかで綻びが生まれるだろう。だいたい、クランについていこうとするのも、寂しいだけなのだとわかっていた。
はじめはさすがに怯えていたが、獣に想像以上に懐いているこの調子なら、安心できる。
「ごめんね。よろしくね」
すぐ後ろにいた、若獣の母の鼻を撫でる。すりすりと頬を寄せられて、くすぐったくて笑った。久々にじゃれつかれた気がする。
(……ああ、なんだか、最近はよく笑ってる気がする……)
獣は好きだが、三年前から心の奥に冷えきった石が転がっていた。けれど、無邪気に遊んでいるシヅキを見ると、気にせずにいられた。
かつてのクランの姿は、トルカからは、こんな風に見えていたのかもしれない……。切なくて、懐かしくて、クランは顔を拭った。
「シヅキ、迎えに来るまで好きなだけ遊んでて。じゃあ行ってくるね」
「あ、クラン!おれも行きたい!」
「駄目。これから仕事なの」
駆け寄ろうとしたシヅキの襟首がまた咥えられ、ぽーんと投げられる。獣の背に収まった少年の不安げな顔を見ていると、えも言えぬ思いが込み上げてくる。この少年だけが、クランを必要としてくれている。送り人ではないクランを。
これから仕事に行って針のむしろになることを思えば、クランだって、少しは揺らいでしまう。
(けれど、私は送り人だ。生まれた時から)
切り離せるものではない。だから、クランは行くのだ。
「……帰ってくる?」
「もちろんよ」
ああ、捨てられると思っているのか。クランはならばと、首飾りを外して、シヅキに預けた。しゃらんと色石が澄んだ音を奏でるそれを、シヅキは目を丸くして受け取った。これがクランにとってどれだけ大切なものか、彼なりに理解していたのだ。
「あなたを捨てたりしない証明よ。迎えに来るまで持っていて。いいわね?」
「……いいの?これ」
「だから、終わったら返してもらうの。ね、いい子にしてたらお土産も考えるわよ」
シヅキは、一度叱れば同じ失敗は繰り返さなかった。あまりに賢すぎるのでクランも日常がそこまで苦ではなくなっていた。お礼は必要だ。
シヅキは、しぶしぶ納得したように「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
行き先は、クランの足で歩いて数刻ほどしたところにある小さな村だった。梅雨にさしかかる手前、空気はじとりと不快さをまとっていた。そこに加えて、クランを見つけた端から村人たちが挙動不審になるので、ますます不快指数は上がっていく。
(……いつになっても、慣れないんだよなぁ)
シヅキの天真爛漫さを思えば、クランの生きる世界は永遠の曇天だった。重く、暗く、息苦しい。
クランが犯した罪はある。しかし、弾劾するべきは村人たちではない。ましてや、身内が死んでもクランが現れるそれだけでまともな悔やみを述べられない人間たちなので、心は凍えきっていた。
トルカのような人間がどれだけ特殊であったことか、今さら身に沁みて思うのだ。シヅキがクランに懐くのは、何も知らないからであって、トルカのように全てを理解した上ではない。
胸元を手繰ろうとして、冷たい感覚に気づく。シヅキに羽飾りを託していたのだった。今手元に転がるのは、それとは別に首につけていたもの。送り人の証の、黒い小さな笛だった。サンナから受け継いだものだ。
(……早く、済ませて帰ろう)
クランが道を歩くと、人々は目をつけられないようにと、さっさと家の中に引きこもる。もしくは畑に逃げ出す。そこまで恐怖が馴染んでいない子どもなどは、親がまるで人さらいから守るようにどこかへ連れていく。三年前の秋から見慣れた光景だった。
『烏だ』
そう言われたのはいつだったか。子どものくせに酷く嫌らしい笑みを浮かべた、小さな男の子だった。
人を謗り、嘲ることを知っている子どもだった。そして、クランにならば堂々と、人前でやっても許されることを理解する意地の悪さをも持っていた。無邪気さを装っているのでかなりたちが悪い。
『みんなが言ってたよ。やい、烏』
空気が凍りつき、周囲の大人たちは驚愕と恐怖で体を硬直させていた。
『知ってるぞ。お前は人間じゃないんだ。化け物め。この村に近づくな。死んだ人間を食べるやつなんか、呪われてしまえ!人が死ねば寄ってきて金をたかるなんて、最低最悪だ』
クランは目の前が真っ赤になるどころか、一周回って頭が冷えきっていた。少年から目を逸らして、ちらりと周囲を見やる。そこに浮かぶ肯定の色、誰も子どもを止めようとせず、目が合えば逸らそうとする。唯一向き合った子どもは、嗜虐心も旺盛に、クランの反応を待っていた。
……ここまで、人間とは愚かだったのか。
いや、はじめから知っていたはずだった。ここに母がいなくて、良かったかもしれない。体調が既に悪くなっていた頃だったから。父が生きていれば、この子どもを殴り飛ばしただろうか。クランに化け物と言い放った呪術師と同じように。
『……な、なんだよ』
子どもはたじろいだように、半歩足を引いた。
『おれを獣に食わせるのか!?』
『誰がそんな無駄なことをすると思うの。あなたって、馬鹿なのね』
……クランは、笑うことを選んだ。優雅に、艶やかに。悪意をすべて飲み込んだ、まだまだ小さな少女のものとは思えない、毒々しい笑みだった。
息を飲んで、初めてその子どもはクランの威容に自分が怖じ気づいていることに気づいた。 きっと睨み返そうとしたが、クランが両手を伸ばすと、すぐに虚勢が崩れた。
クランの手が、するりとその細い首に絡まった。指先に触れる脈に知らず冷笑を浮かべる。
『……そうね、私はあなたたちが言う、烏なのかもね。知ってるのよ?みんながそう言っていたことを、ちゃんと』
――烏の姫。死者に群がるどころか生者すら遅い肉を食い散らかし、魂を奪い、腐肉を漁る。そこまでしても、嫌らしく光り物をねだる。浅ましく、おぞましい化け物。人を人とも思わぬ残酷な。
『ねえ』
クランの手の中で、子どもの息づかいが早くなるのを感じる。首を絞めているわけではないのに、その顔色は蒼白だった。目は凝然とクランの冷えきった美貌を見つめ、涙も恐怖のあまり引っ込んでいるらしい。
……ここで怖じ気づくならば、はじめから絡まなければよかったのに。
『死者への敬意も示さないあなたたちの方が、よっぽど私には理解できないのよ。魂送りの意味を理解できない、しようともしない。人を貶めることしか考えない。……よっぽどつまらない人生ね』
なぜ送り人がここまで泥にまみれなければならない。貶められるべきは、呪われるべきは、いったい誰だ。
どうして、私たちはこんなに傷つきながらも、この人たちに寄り添わなくてはならないのだろう。
『ねえ、どうして人が亡くなるのに哀悼も素直にできない人間に、「化け物」と言われなくちゃいけないの?』
『……っこの!』
子どもが逆に顔を真っ赤に染めた。侮辱するのは好きでも、されるのは嫌いらしい。知ったことではないが。子どもは手を振り払い、叫んだ。
『黙れ!!死体に群がる卑しい害鳥風情が!!』
村に、そんな絶叫が響き渡る。
(……本当に救いようがない)
本当にたちが悪いのは、自覚していないことだ。常に自分たちが正しいと信じている。味方のいないクランを悪だと決めつけ、いたぶる。クランを人とも思っていないからこそ、クランになら何をしてもいいと思い込んでいる。
笑うしか、ない。
『悲しんでるところにお前が来たんだろうが!呼んでもないのに!どうせお前が魂食っちゃったんだろ!?じいちゃんを返せ!』
『……呆れた。ほんとうに、理解してないのね』
くすくす笑いもやむほど、呆れてしまう。知らなくてもいい最低最悪な悪態なら平気で口に出せるくらい聞き知っているくせに、一番肝心な、送り人の存在意義すら、親から教えられてないらしい。罪の所在は子どもだけでないのは知っていたが、ここまで愚かな人間ばかりだと、クランのどす黒い気持ちも、怒りも、悲しみも、全てが虚しくなった。
伝わらない。届かない。一番届いてほしい人たちのもとへ、死者の悔苦も幸福の所在も、悲しみも喜びも、全て――天に還れず、遺してきた思いの全てを。
『死んでしまえ!お前なんか……死んでしまえ!!』
この時から、もう、クランの幸福は、過去にしか残ってはいない。
(むかつく)
なんだかわからないが、クランは嫌われているようだ。いや、嫌うどころではないような気はする。まだ人生経験が浅いシヅキは、「憎悪」をはっきりと言い定めることができなかった。
しかし、理不尽な感情なのは、わかる。クランは口下手だけれど、無愛想だけれど、きれいで優しい女の子だ。賢くて、文字も読める。薬草の知識はとてもあって、罠を張る狩りもできる。それだけじゃなく、シヅキにいつも優しい。滅多に怒らないし、悪いことをしたら叱っても、後で強く言いすぎたか、とくよくよと悩むのだ。
クランは明るい性格ではなかった。どこかに傷を持っているのも知っている。時折、胸元をたぐって羽飾りを抱きしめ、遠くを見る。それが北の方角を向いているような気がするのは、シヅキの錯覚ではないかもしれない。
帰りたくても、出ていきたくても、クランはここにいるしかないのだ。そうさせたのが周囲の人間たちなら、シヅキは許せる気がしなかった。
「……仕方ない部分も、あるのよ」
クランはそう言って寂しく笑っているけれど。諦めきれないくせに、なんてことをなんて顔で言うのだろう。
クランとの日々は楽しい。全部を忘れて怖かった気持ちは、特殊な送り人との生活で、薄れていくようだった。新鮮すぎて毎日が学びになる。クランも聞いたら分かりやすく教えてくれるし、「シヅキ」として生きることに喜びすら感じ始めていた。
忘れた、ということは、かつては自分には別の名前があったのだろう。別の場所で、農民として暮らしていたのだろう。
でも、シヅキは忘れてしまった。クランに出会ってしまった。
そこに意味を見いだしても、バチは当たらないだろうか。
幼いシヅキの甘えをクランは受け止めてくれて、夜はひとつの部屋に布団を二つ並べて、一緒に寝てくれる。早めに寝ろと毎晩追い込まれるシヅキの額に、クランは手を当てて、柔らかくなにかの歌を歌ってくれる。
心地よかった。
居場所を与えてくれたクランに、シヅキは幼いなりに報いたかった。
(人って、死ぬと恐怖感が薄れるのかしら)
いっそ研究でもできそうだと、クランは思った。目の前で子どもと獣がじゃれついていれば、誰でもクランと同じことを思うだろう。獣もシヅキと触れ合える例外だったらしいのは喜ばしいが、そうぽんぽんと投げないでもらいたい。
「すげえすげえ。もう一回やって!」
相手は、かつてトルカに酷く懐いていた幼獣だ。三年たって凛々しく成長を果たし、子どもも生んでいた。立派な若奥様である。シヅキの服の襟首を噛んではぽいっと投げて、背中に着地させている。幼い獣たちもシヅキを羨ましそうに見ているので、母親は大変そうだった。
だがそれ以上に、楽しんでいるようだった。全員だ。
(……よかったって、言えばいいのかな……)
森の獣たちは、三年前からよりいっそう人間に対して警戒心を増していた。シヅキはそんな彼らに受け入れられている。……既に死んでいるからか。
シヅキを受け入れて既に何日と経過しているが、甘えっぷりにはますます磨きがかかっていたところだった。
クランが家の外へ出ると必ずあとをついてくるのだ。どこへ行くのか、一緒に行きたい置いていくなと。
こちらは仕事で人家におりてやることがあるのだ。さすがにシヅキに構う余裕はないし、クランはもう山からシヅキを出そうという気はなかった。死んでいることにまだ気づかれていないが、人の輪にいれば必ずどこかで綻びが生まれるだろう。だいたい、クランについていこうとするのも、寂しいだけなのだとわかっていた。
はじめはさすがに怯えていたが、獣に想像以上に懐いているこの調子なら、安心できる。
「ごめんね。よろしくね」
すぐ後ろにいた、若獣の母の鼻を撫でる。すりすりと頬を寄せられて、くすぐったくて笑った。久々にじゃれつかれた気がする。
(……ああ、なんだか、最近はよく笑ってる気がする……)
獣は好きだが、三年前から心の奥に冷えきった石が転がっていた。けれど、無邪気に遊んでいるシヅキを見ると、気にせずにいられた。
かつてのクランの姿は、トルカからは、こんな風に見えていたのかもしれない……。切なくて、懐かしくて、クランは顔を拭った。
「シヅキ、迎えに来るまで好きなだけ遊んでて。じゃあ行ってくるね」
「あ、クラン!おれも行きたい!」
「駄目。これから仕事なの」
駆け寄ろうとしたシヅキの襟首がまた咥えられ、ぽーんと投げられる。獣の背に収まった少年の不安げな顔を見ていると、えも言えぬ思いが込み上げてくる。この少年だけが、クランを必要としてくれている。送り人ではないクランを。
これから仕事に行って針のむしろになることを思えば、クランだって、少しは揺らいでしまう。
(けれど、私は送り人だ。生まれた時から)
切り離せるものではない。だから、クランは行くのだ。
「……帰ってくる?」
「もちろんよ」
ああ、捨てられると思っているのか。クランはならばと、首飾りを外して、シヅキに預けた。しゃらんと色石が澄んだ音を奏でるそれを、シヅキは目を丸くして受け取った。これがクランにとってどれだけ大切なものか、彼なりに理解していたのだ。
「あなたを捨てたりしない証明よ。迎えに来るまで持っていて。いいわね?」
「……いいの?これ」
「だから、終わったら返してもらうの。ね、いい子にしてたらお土産も考えるわよ」
シヅキは、一度叱れば同じ失敗は繰り返さなかった。あまりに賢すぎるのでクランも日常がそこまで苦ではなくなっていた。お礼は必要だ。
シヅキは、しぶしぶ納得したように「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
行き先は、クランの足で歩いて数刻ほどしたところにある小さな村だった。梅雨にさしかかる手前、空気はじとりと不快さをまとっていた。そこに加えて、クランを見つけた端から村人たちが挙動不審になるので、ますます不快指数は上がっていく。
(……いつになっても、慣れないんだよなぁ)
シヅキの天真爛漫さを思えば、クランの生きる世界は永遠の曇天だった。重く、暗く、息苦しい。
クランが犯した罪はある。しかし、弾劾するべきは村人たちではない。ましてや、身内が死んでもクランが現れるそれだけでまともな悔やみを述べられない人間たちなので、心は凍えきっていた。
トルカのような人間がどれだけ特殊であったことか、今さら身に沁みて思うのだ。シヅキがクランに懐くのは、何も知らないからであって、トルカのように全てを理解した上ではない。
胸元を手繰ろうとして、冷たい感覚に気づく。シヅキに羽飾りを託していたのだった。今手元に転がるのは、それとは別に首につけていたもの。送り人の証の、黒い小さな笛だった。サンナから受け継いだものだ。
(……早く、済ませて帰ろう)
クランが道を歩くと、人々は目をつけられないようにと、さっさと家の中に引きこもる。もしくは畑に逃げ出す。そこまで恐怖が馴染んでいない子どもなどは、親がまるで人さらいから守るようにどこかへ連れていく。三年前の秋から見慣れた光景だった。
『烏だ』
そう言われたのはいつだったか。子どものくせに酷く嫌らしい笑みを浮かべた、小さな男の子だった。
人を謗り、嘲ることを知っている子どもだった。そして、クランにならば堂々と、人前でやっても許されることを理解する意地の悪さをも持っていた。無邪気さを装っているのでかなりたちが悪い。
『みんなが言ってたよ。やい、烏』
空気が凍りつき、周囲の大人たちは驚愕と恐怖で体を硬直させていた。
『知ってるぞ。お前は人間じゃないんだ。化け物め。この村に近づくな。死んだ人間を食べるやつなんか、呪われてしまえ!人が死ねば寄ってきて金をたかるなんて、最低最悪だ』
クランは目の前が真っ赤になるどころか、一周回って頭が冷えきっていた。少年から目を逸らして、ちらりと周囲を見やる。そこに浮かぶ肯定の色、誰も子どもを止めようとせず、目が合えば逸らそうとする。唯一向き合った子どもは、嗜虐心も旺盛に、クランの反応を待っていた。
……ここまで、人間とは愚かだったのか。
いや、はじめから知っていたはずだった。ここに母がいなくて、良かったかもしれない。体調が既に悪くなっていた頃だったから。父が生きていれば、この子どもを殴り飛ばしただろうか。クランに化け物と言い放った呪術師と同じように。
『……な、なんだよ』
子どもはたじろいだように、半歩足を引いた。
『おれを獣に食わせるのか!?』
『誰がそんな無駄なことをすると思うの。あなたって、馬鹿なのね』
……クランは、笑うことを選んだ。優雅に、艶やかに。悪意をすべて飲み込んだ、まだまだ小さな少女のものとは思えない、毒々しい笑みだった。
息を飲んで、初めてその子どもはクランの威容に自分が怖じ気づいていることに気づいた。 きっと睨み返そうとしたが、クランが両手を伸ばすと、すぐに虚勢が崩れた。
クランの手が、するりとその細い首に絡まった。指先に触れる脈に知らず冷笑を浮かべる。
『……そうね、私はあなたたちが言う、烏なのかもね。知ってるのよ?みんながそう言っていたことを、ちゃんと』
――烏の姫。死者に群がるどころか生者すら遅い肉を食い散らかし、魂を奪い、腐肉を漁る。そこまでしても、嫌らしく光り物をねだる。浅ましく、おぞましい化け物。人を人とも思わぬ残酷な。
『ねえ』
クランの手の中で、子どもの息づかいが早くなるのを感じる。首を絞めているわけではないのに、その顔色は蒼白だった。目は凝然とクランの冷えきった美貌を見つめ、涙も恐怖のあまり引っ込んでいるらしい。
……ここで怖じ気づくならば、はじめから絡まなければよかったのに。
『死者への敬意も示さないあなたたちの方が、よっぽど私には理解できないのよ。魂送りの意味を理解できない、しようともしない。人を貶めることしか考えない。……よっぽどつまらない人生ね』
なぜ送り人がここまで泥にまみれなければならない。貶められるべきは、呪われるべきは、いったい誰だ。
どうして、私たちはこんなに傷つきながらも、この人たちに寄り添わなくてはならないのだろう。
『ねえ、どうして人が亡くなるのに哀悼も素直にできない人間に、「化け物」と言われなくちゃいけないの?』
『……っこの!』
子どもが逆に顔を真っ赤に染めた。侮辱するのは好きでも、されるのは嫌いらしい。知ったことではないが。子どもは手を振り払い、叫んだ。
『黙れ!!死体に群がる卑しい害鳥風情が!!』
村に、そんな絶叫が響き渡る。
(……本当に救いようがない)
本当にたちが悪いのは、自覚していないことだ。常に自分たちが正しいと信じている。味方のいないクランを悪だと決めつけ、いたぶる。クランを人とも思っていないからこそ、クランになら何をしてもいいと思い込んでいる。
笑うしか、ない。
『悲しんでるところにお前が来たんだろうが!呼んでもないのに!どうせお前が魂食っちゃったんだろ!?じいちゃんを返せ!』
『……呆れた。ほんとうに、理解してないのね』
くすくす笑いもやむほど、呆れてしまう。知らなくてもいい最低最悪な悪態なら平気で口に出せるくらい聞き知っているくせに、一番肝心な、送り人の存在意義すら、親から教えられてないらしい。罪の所在は子どもだけでないのは知っていたが、ここまで愚かな人間ばかりだと、クランのどす黒い気持ちも、怒りも、悲しみも、全てが虚しくなった。
伝わらない。届かない。一番届いてほしい人たちのもとへ、死者の悔苦も幸福の所在も、悲しみも喜びも、全て――天に還れず、遺してきた思いの全てを。
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