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クルガ編
にじうに
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「だけど、まあ、この際だな」
成り行きでもいいかと思っていると、ウミもミルカもぽかんとしていた。
アルザが「やっぱりか」と湯呑みに笑いをこぼした。
「お前なぁ、時々妙に冴えてるからな。しっくり来ないってなんだよそれ」
「取ってつけたような感じだったんだよ。呼ぶに呼べないから思いつきで名乗った風な」
「占い師でも呪術師でもないってのに、よくまあ気づけるもんだよ」
「ってことはお前もあえて避けていたな?」
「うん、もちろん」
アルザをアルーとは呼べないのと同じように、ウミをウミとは呼べない。どうしても声として、言葉として形にできないし、したくなかった。
多分、ウミは氏族の証を持たないように、名前にも何らかの瑕疵がある。アルザだってウミを呼んだことがないのは、そういうことなのだろう。
「これは、クルガは悪くないな。仮の名じゃ縛りは緩くなるもんだ」
「おい、なにを縛るってんだ」
「初対面で名を呼び交わすのは一種の儀式だよ。器と印、完全に合わなくても、ほんの少しの均衡さえあれば互いの在り方が成立してしまう。軽々しく呼んでたら、どれだけずれても戻すことはできないと思うよ」
さっきまでの機嫌の悪さはどこへやら、アルザはひとしきりケラケラ笑っている。それを「アルー」と呼び止める声はへなへなに弱かった。
アルザは青ざめているミルカに、優しく微笑んだ。
「止めときな、ミルカ。クルガは嫁さんを嫁さんとして大事にしようとしてるんだ。行き過ぎた口出しは野暮ってもんだよ」
ウミはミルカと違う意味で顔色が悪い。別に嘘つきとか言いたいわけじゃないんだが、と頭を撫でた。ついでにミルカも撫でたのは、意外に深い溝で隔てられていたアルザの代わり。
「それもお前の名前の一つだとは思うから、二人とも、そんなに気に病むな。後からしっくり来るかもわからん。おれのわがままで、些細な問題だ」
「名前は普通、些細な問題じゃないなぁ」
「茶々入れるくらいなら黙っとけ」
「じゃあ黙っとくついでに」
アルザは立ち上がって、半開きの木窓へ近寄った。腕を外に伸ばし戻したとき、鳥が乗っていた。羽音もない忽然とした現れ方には覚えがある。
「知らせが来てる」
「緊急か?」
「いいや、氏族会議の予告だよ」
そういえばそんな時期か。アルザがカササギのような青い鳥を片手で翳すと、姿が煙のようにほどけて、鮮やかに青い袱紗包みの書状がぽとりと落ちた。アルザと違い、正真正銘の占い師だとこういう技を使える。毎年毎年、どこの氏族もよく凝るものだ。
「今年はどこだっけ?」
「ハシュラ族だ。遠いから早いうちに支度しとかないといけないな」
書状にはハシュラ族族長の筆跡で、挨拶から始まり氏族会議の日取りと場所が記されていた。ハシュラ族はレィミヤ族から見てほぼ真反対の位置にある。開会は秋のはじめ頃で、今は夏の入り口だが、行きに半月はゆうにかかると考えると、あまりのんびりもしていられない。
「今年はあんまり長く氏族を空けたくなかったん、だが……」
眉間にしわを作りながら読み進めて、結びの文までたどり着いたと思ったら、追伸があった。
「……無駄に早耳だ」
「なにが?」
「結婚おめでとうだと。おれたち二人にぴったりの祝いの品を用意しとくとさ」
暗にウミも連れてこいと言っている。好奇心旺盛かつ世話焼きなハシュラ族族長らしい文面だった。
ちらっとウミとミルカの様子を見た。都合よく話が逸れたので緊張は緩んでくれたようだ。ウミはアルザが持っている袱紗を見ているし、ミルカは書状の方を気にしていた。興味の対象がわかりやすくていい。
「クルガ兄、ハシュラ族って、族長は女の人だったよね」
「ああ。お前にはあそこの氏族を見せてやろうかって考えてたんだが……」
族長はどこも基本的には長子継承といえど、女族長はほとんどいない。女が族長となっても、その婿が実権を握ることが多いからだ。
その点、ハシュラ族の族長は婿を取っても権力を譲渡せず維持している珍しい例だったので、ミルカの手本の一つとして交流させる機会を伺っていた。しかし、今年は無理だ。春が冬に食われた影響は秋になっても残ったままだろう。混乱している氏族に族長も族長補佐も長期的に不在なのは避けたい。ミルカも心得たように頷いた。
「残念だけど、行けないね」
「なんなら今年は欠席してもいいとは思う」
「示しがつかないから駄目じゃない?」
「だよな……」
レィミヤ族は大した影響力はないが、それでもラルトィ族の傘下であると示すことが、会議でのおれの仕事だった。特にこの間、明確な借りを作ってしまったし、なにやらウミもラルトィ族周辺に不穏があると言っていた。ここで駒の役目を果たさずにいればレィミヤ族の名誉と存続に関わるかもしれない。欠席は不可能だ。
だけど行きたくないんだよなあ。
「せっかくなら嫁さん連れてったら?」
「……え?」
ウミは会議の話には我関せずで、アルザから袱紗を受け取ってまじまじと見つめていたが、きょとんと顔を上げた。
「お前、氏族も嫁さんも置いてくのが心配なんだろ。だったら連れてける方連れてくと心配は半減するよ」
「……そう簡単に減るもんか。むしろ増えるぞ」
「手の届くとこにいれば、一人くらいなんとかするのがお前だろ。やきもきするよりましじゃない?」
簡単に言うな、と顔をしかめた。この間見た夢は鮮明に覚えている。ほぼ全氏族の族長が一堂に会する氏族会議には、当然、幼い少女を散々にいたぶった男も出席する。その息子もだ。会議そのものは同伴者の立ち入りはほぼ禁止だが、数日同じ集落にいて、会わずに済ませる方が難しい。
それならウミをこの氏族に置いておく方がましだが、それはつまり、往復の旅を含め一ヶ月以上、ウミから目を離すということで。
アルザを間男と信じきっているミルカが尋ねた。
「それじゃあアルーも行くの?」
「おれは行かないよ。せっかく新婚水入らずの旅行なのに、野暮の極みだろ」
「なおさらいいの?」
「いいの」
新婚旅行の言葉にウミがさっと顔を赤らめたのを、おれもアルザもミルカも見ていた。アルザはほら、と眉を上げ、ミルカは素早く切り替えてにやにや笑い、ウミはものすごい勢いであらぬ方向に首を背けた。
「……ほーう。我が妻よ。こっち向け」
ウミの肩がびくっと跳ねた。嫁はいいのに妻は駄目らしい。……「我が」の部分か。
緩みかけた口元を引き締めた。笑う前に、一つ、確かめなくてはならなかった。
「これ以上からかわないから、こっち向け。お前、会いたくない奴に会うかもしれなくても、行きたいか」
「……」
「ウミちゃん……?」
微動だにしない様子に心配になったミルカがそっと背中を撫でていると、ウミは意を決したようにおれを振り返った。
「会わないように、引きこもっててもいいですか」
「……お前……」
行く行かないが、会いたい会いたくないになっている。
つまり、行きたい気持ちはあると。
なんとか真面目な表情を保っていたが、アルザが吹き出したのに釣られて決壊した。
「クルガ、良かったね。嫁さん、クルガのこと大好きみたいだよ」
「ここまで熱烈だと夫冥利に尽きるな」
ウミの方から離れがたいと言われるとは、思っていなかった。しかも旅先でまで引きこもるつもりか。嬉しさにおかしさが加乗して、笑いの波が引きを知らない。
「引きこもるのに旅行に行くの?」
それって旅行なのというミルカの純粋な問いで、やっとウミは自分の発言の真意に気づき、また真っ赤になった。
アルザは床を転げ回るように笑っている。おれも笑いながらウミの頭を撫でた。お互いの間に膳がなかったら抱き上げていたと思う。
この分なら、名前を呼べる日が来るのは、かなり早そうだった。
ーーー
クルガ編はこれで完結です。
次のウミ編ではクルガ編を補完しつつ、氏族議会の様子もお送りします。
成り行きでもいいかと思っていると、ウミもミルカもぽかんとしていた。
アルザが「やっぱりか」と湯呑みに笑いをこぼした。
「お前なぁ、時々妙に冴えてるからな。しっくり来ないってなんだよそれ」
「取ってつけたような感じだったんだよ。呼ぶに呼べないから思いつきで名乗った風な」
「占い師でも呪術師でもないってのに、よくまあ気づけるもんだよ」
「ってことはお前もあえて避けていたな?」
「うん、もちろん」
アルザをアルーとは呼べないのと同じように、ウミをウミとは呼べない。どうしても声として、言葉として形にできないし、したくなかった。
多分、ウミは氏族の証を持たないように、名前にも何らかの瑕疵がある。アルザだってウミを呼んだことがないのは、そういうことなのだろう。
「これは、クルガは悪くないな。仮の名じゃ縛りは緩くなるもんだ」
「おい、なにを縛るってんだ」
「初対面で名を呼び交わすのは一種の儀式だよ。器と印、完全に合わなくても、ほんの少しの均衡さえあれば互いの在り方が成立してしまう。軽々しく呼んでたら、どれだけずれても戻すことはできないと思うよ」
さっきまでの機嫌の悪さはどこへやら、アルザはひとしきりケラケラ笑っている。それを「アルー」と呼び止める声はへなへなに弱かった。
アルザは青ざめているミルカに、優しく微笑んだ。
「止めときな、ミルカ。クルガは嫁さんを嫁さんとして大事にしようとしてるんだ。行き過ぎた口出しは野暮ってもんだよ」
ウミはミルカと違う意味で顔色が悪い。別に嘘つきとか言いたいわけじゃないんだが、と頭を撫でた。ついでにミルカも撫でたのは、意外に深い溝で隔てられていたアルザの代わり。
「それもお前の名前の一つだとは思うから、二人とも、そんなに気に病むな。後からしっくり来るかもわからん。おれのわがままで、些細な問題だ」
「名前は普通、些細な問題じゃないなぁ」
「茶々入れるくらいなら黙っとけ」
「じゃあ黙っとくついでに」
アルザは立ち上がって、半開きの木窓へ近寄った。腕を外に伸ばし戻したとき、鳥が乗っていた。羽音もない忽然とした現れ方には覚えがある。
「知らせが来てる」
「緊急か?」
「いいや、氏族会議の予告だよ」
そういえばそんな時期か。アルザがカササギのような青い鳥を片手で翳すと、姿が煙のようにほどけて、鮮やかに青い袱紗包みの書状がぽとりと落ちた。アルザと違い、正真正銘の占い師だとこういう技を使える。毎年毎年、どこの氏族もよく凝るものだ。
「今年はどこだっけ?」
「ハシュラ族だ。遠いから早いうちに支度しとかないといけないな」
書状にはハシュラ族族長の筆跡で、挨拶から始まり氏族会議の日取りと場所が記されていた。ハシュラ族はレィミヤ族から見てほぼ真反対の位置にある。開会は秋のはじめ頃で、今は夏の入り口だが、行きに半月はゆうにかかると考えると、あまりのんびりもしていられない。
「今年はあんまり長く氏族を空けたくなかったん、だが……」
眉間にしわを作りながら読み進めて、結びの文までたどり着いたと思ったら、追伸があった。
「……無駄に早耳だ」
「なにが?」
「結婚おめでとうだと。おれたち二人にぴったりの祝いの品を用意しとくとさ」
暗にウミも連れてこいと言っている。好奇心旺盛かつ世話焼きなハシュラ族族長らしい文面だった。
ちらっとウミとミルカの様子を見た。都合よく話が逸れたので緊張は緩んでくれたようだ。ウミはアルザが持っている袱紗を見ているし、ミルカは書状の方を気にしていた。興味の対象がわかりやすくていい。
「クルガ兄、ハシュラ族って、族長は女の人だったよね」
「ああ。お前にはあそこの氏族を見せてやろうかって考えてたんだが……」
族長はどこも基本的には長子継承といえど、女族長はほとんどいない。女が族長となっても、その婿が実権を握ることが多いからだ。
その点、ハシュラ族の族長は婿を取っても権力を譲渡せず維持している珍しい例だったので、ミルカの手本の一つとして交流させる機会を伺っていた。しかし、今年は無理だ。春が冬に食われた影響は秋になっても残ったままだろう。混乱している氏族に族長も族長補佐も長期的に不在なのは避けたい。ミルカも心得たように頷いた。
「残念だけど、行けないね」
「なんなら今年は欠席してもいいとは思う」
「示しがつかないから駄目じゃない?」
「だよな……」
レィミヤ族は大した影響力はないが、それでもラルトィ族の傘下であると示すことが、会議でのおれの仕事だった。特にこの間、明確な借りを作ってしまったし、なにやらウミもラルトィ族周辺に不穏があると言っていた。ここで駒の役目を果たさずにいればレィミヤ族の名誉と存続に関わるかもしれない。欠席は不可能だ。
だけど行きたくないんだよなあ。
「せっかくなら嫁さん連れてったら?」
「……え?」
ウミは会議の話には我関せずで、アルザから袱紗を受け取ってまじまじと見つめていたが、きょとんと顔を上げた。
「お前、氏族も嫁さんも置いてくのが心配なんだろ。だったら連れてける方連れてくと心配は半減するよ」
「……そう簡単に減るもんか。むしろ増えるぞ」
「手の届くとこにいれば、一人くらいなんとかするのがお前だろ。やきもきするよりましじゃない?」
簡単に言うな、と顔をしかめた。この間見た夢は鮮明に覚えている。ほぼ全氏族の族長が一堂に会する氏族会議には、当然、幼い少女を散々にいたぶった男も出席する。その息子もだ。会議そのものは同伴者の立ち入りはほぼ禁止だが、数日同じ集落にいて、会わずに済ませる方が難しい。
それならウミをこの氏族に置いておく方がましだが、それはつまり、往復の旅を含め一ヶ月以上、ウミから目を離すということで。
アルザを間男と信じきっているミルカが尋ねた。
「それじゃあアルーも行くの?」
「おれは行かないよ。せっかく新婚水入らずの旅行なのに、野暮の極みだろ」
「なおさらいいの?」
「いいの」
新婚旅行の言葉にウミがさっと顔を赤らめたのを、おれもアルザもミルカも見ていた。アルザはほら、と眉を上げ、ミルカは素早く切り替えてにやにや笑い、ウミはものすごい勢いであらぬ方向に首を背けた。
「……ほーう。我が妻よ。こっち向け」
ウミの肩がびくっと跳ねた。嫁はいいのに妻は駄目らしい。……「我が」の部分か。
緩みかけた口元を引き締めた。笑う前に、一つ、確かめなくてはならなかった。
「これ以上からかわないから、こっち向け。お前、会いたくない奴に会うかもしれなくても、行きたいか」
「……」
「ウミちゃん……?」
微動だにしない様子に心配になったミルカがそっと背中を撫でていると、ウミは意を決したようにおれを振り返った。
「会わないように、引きこもっててもいいですか」
「……お前……」
行く行かないが、会いたい会いたくないになっている。
つまり、行きたい気持ちはあると。
なんとか真面目な表情を保っていたが、アルザが吹き出したのに釣られて決壊した。
「クルガ、良かったね。嫁さん、クルガのこと大好きみたいだよ」
「ここまで熱烈だと夫冥利に尽きるな」
ウミの方から離れがたいと言われるとは、思っていなかった。しかも旅先でまで引きこもるつもりか。嬉しさにおかしさが加乗して、笑いの波が引きを知らない。
「引きこもるのに旅行に行くの?」
それって旅行なのというミルカの純粋な問いで、やっとウミは自分の発言の真意に気づき、また真っ赤になった。
アルザは床を転げ回るように笑っている。おれも笑いながらウミの頭を撫でた。お互いの間に膳がなかったら抱き上げていたと思う。
この分なら、名前を呼べる日が来るのは、かなり早そうだった。
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クルガ編はこれで完結です。
次のウミ編ではクルガ編を補完しつつ、氏族議会の様子もお送りします。
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