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クルガ編
じうしち
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ぼんやりと目が覚めて、明るい室内に気づいて飛び起きた。
寝過ごした、というか、寝落ちた。背筋から血の気が引く感覚のまま横を見て、ゆっくりと上下している布団の塊を見つけて、遅れてドコドコ鳴り出した心音を片手で握り潰した。
ウミが一人で散歩に行ったのか、それともおれと同じように自然に寝られたのか、どっちかは知らないが、今目の前にいる。黙って消えてはいない。
深く息を吐くと、思ったより吐息が震えていてげんなりした。
人が目の前からいなくなるのはきつい。それでも、懸念だけでこんなに焦ったって、視野が狭くなるだけでとことん無駄だ。
常に沈着とあれ。冷酷であってはいいが、激することはよくない。伯父の教え通りにするにはまだまだ厳しそうだ。
動揺が落ち着いてから、ウミに近寄った。相変わらず死んだように眠っている。散らばっている髪の毛先を梳いていると、はらりと白い物が間からこぼれ出た。花びらだ。家の裏手に植わっている花橘を、その花びらが眠たげに細い月のさやかな明かりにぼんやり浮かび上がる様を思い出した。一昨日の夜、ウミを抱えて眺めたものだ。
(……出てから、帰ってきたのか)
ほんのり笑って花びらをつまみ上げて、開け放していた窓から漏れ出る朝日に透かした。
*
おれとミルカが忙しかったように、夏が来てからのアルザもまた、医師として大変な忙しさに見舞われた。
雪が残るほどの寒さから急に訪れた夏に、暑気あたりでへばった子どもが多く、半ば子守りと化していたのだ。それもやっと半月を過ぎて、体が季節に慣れてきた。しかし今度は慣れてきた頃に無茶をする連中が運び込まれたり、毎日大小なりとも怪我人が多いので、常に薬研をゴロゴロする羽目になっている。
元のアルザの暮らしていた家――両親とネラと過ごしていたものではなく、占い師の職と一緒にクルガが与えたもの――を大きく開いて、家丸ごと診療所にしている。位置的におれの家より都合がいいし、雨漏りがあっても雨が降らなければまあ差し支えはない。
虫除けの独特の香草が焚かれ、りぃんと澄んだ鈴の音が風に乗って鳴り響く。その遠くにざわりざわりと、山の木々の青葉擦れる音がした。「アルーの診療所」は怪我がなくても不思議と居座りたくなる家で、みんななんとなく休憩に立ち寄っていく。
「爺さん婆さんが元気なのはよかったよ。さすが長く自分の体と付き合ってきた奴らは、きちんと限界がわかってる」
「そうか」
おれも今日は日向ぼっこの一員に片足突っ込んでいるが、もちろん仕事である。最近、日中は出来得る限りの遠出に精を出していて、氏族の中に目を配れなくなっていた。その分、ミルカや他の者にも話を聞いて様子を把握するようにしていて、診療所を訪ねて医師の見地から報告を聞くのもその一環だ。昨夜ウミの下手くそな隠密行動に気づけなかったので、今日は遠出しないと決めた。代わりに集落の見回りに出ている。
タンカ爺さんは「真面目な族長だ」とこぼしていたが、族長が仕事を真面目にこなすのはそんなに珍しいか。
「まあ時々ぎっくり腰とか来たりするけど。張り切りすぎて」
「駄目だろそれ」
「あはは」
医師見習いでアルザの使いにあちこち出向いているネラが、おれに茶を出して下がっていった。窓も戸も開け放たれた開放的な部屋にはおれとアルザしかいない。あとは錫の風鈴と数々の薬草と薬研などの道具、古びた書物。呪具云々はおれの家の納屋にまだ置いている。
「それで?」
アルザの声音が変わった。ネラがなるべく冷ましてくれたのか、ぬるい茶を口にしようとして、止めた。おちゃらけが一切ない目がおれを見ている。
「嫁さんはどうなの?」
「急になんだ?」
「ずーっと籠の鳥のまま、自分の部屋に閉じ込めて満足?嫁さんの境遇は勝手に推測してるだけだけど、まあ、同情はするよね。それだけで丸ごと受け入れるのはお前のいいところで、悪い癖だ。いつまで羽休めさせてるの?いっそ飛び方すら忘れてしまえば、籠が空にならずに済むと思ってる?時が来たら手前勝手にぽんって放り出すくせに、お前、残酷なことするよな。支援物資なんかを持参金代わりにして嫁さんを追い出したラルトィ族とおんなじくらい」
色々突っ込みどころのある言葉が続いて、眉をしかめた。アルザは全部わかってる風に微笑んだ。切りつけるような笑みだった。
「お前がほっぽってるからさ。ミルカみたいに様子を見に行ったわけ。暑くなったし、閉じこもってる嫁さんの体調も考えて」
「どこか悪かったのか」
「いんや、お前がちゃんと水も醤も用意してたから異状なし。栄養足りないのは前からだけど、体力はあるようだし、そうそうバテたりしないよ」
「……それで、なにを話した」
「クルガが前族長の甥っ子とは思わなかったみたいで、その辺り」
氏族は一つで大きな血族だが、族長は自らの直系に継がせるのが基本だ。前族長の伯父が二年前に死んだとき、本当はその一人娘ミルカが族長になるはずだった。性別問わず長子相続なので、幼くてもおれの父が補佐すれば運営はなんとかなる、はずだった。
だが伯父と一緒におれの父も死んだので、おれが一時的に族長の席に座ることになった。
そういえばウミにぽろりと漏らした。ミルカが族長になったら、と。……レィミヤ族の事情を知らなかったことに今さら驚きはないが、なんでおれに訊かずアルザに。
「お前には訊けないからだよ」
「……まだなにも言ってないぞ」
「そりゃあ、嫁さんからしてみりゃ驚きだろうよ。自分の夫が族長というには微妙な立場だって考えたらね」
「夫もなにも、契りは交わしてないし、あいつもそう思ってないだろう」
「お前の、そこだよね。馬鹿とも呼べないところ」
「なんだと?」
アルザが珍しく怒っているのだけはわかった。しかもウミのためにおれを責めている口ぶり。だけど地味に偏屈な性格である上、以前にウミが半年後に出ていくと教えた時は、ふうんとしか言わなかったはずだ。変わったのか、隠していたのか。
――君を連れてくのが最善だった。君のためにね。
そういえば、あの時は事態に流されていたが、アルザにしてはずいぶん柔らかい当たりだった気がする。
もう罵倒への抗議も忘れてしまい、ぽかんと呟いた。
「アルザ、お前、あいつに惚れてるみたいだぞ」
「だったらどうする?」
アルザは挑戦的におれを見返し、冷たく笑った。
寝過ごした、というか、寝落ちた。背筋から血の気が引く感覚のまま横を見て、ゆっくりと上下している布団の塊を見つけて、遅れてドコドコ鳴り出した心音を片手で握り潰した。
ウミが一人で散歩に行ったのか、それともおれと同じように自然に寝られたのか、どっちかは知らないが、今目の前にいる。黙って消えてはいない。
深く息を吐くと、思ったより吐息が震えていてげんなりした。
人が目の前からいなくなるのはきつい。それでも、懸念だけでこんなに焦ったって、視野が狭くなるだけでとことん無駄だ。
常に沈着とあれ。冷酷であってはいいが、激することはよくない。伯父の教え通りにするにはまだまだ厳しそうだ。
動揺が落ち着いてから、ウミに近寄った。相変わらず死んだように眠っている。散らばっている髪の毛先を梳いていると、はらりと白い物が間からこぼれ出た。花びらだ。家の裏手に植わっている花橘を、その花びらが眠たげに細い月のさやかな明かりにぼんやり浮かび上がる様を思い出した。一昨日の夜、ウミを抱えて眺めたものだ。
(……出てから、帰ってきたのか)
ほんのり笑って花びらをつまみ上げて、開け放していた窓から漏れ出る朝日に透かした。
*
おれとミルカが忙しかったように、夏が来てからのアルザもまた、医師として大変な忙しさに見舞われた。
雪が残るほどの寒さから急に訪れた夏に、暑気あたりでへばった子どもが多く、半ば子守りと化していたのだ。それもやっと半月を過ぎて、体が季節に慣れてきた。しかし今度は慣れてきた頃に無茶をする連中が運び込まれたり、毎日大小なりとも怪我人が多いので、常に薬研をゴロゴロする羽目になっている。
元のアルザの暮らしていた家――両親とネラと過ごしていたものではなく、占い師の職と一緒にクルガが与えたもの――を大きく開いて、家丸ごと診療所にしている。位置的におれの家より都合がいいし、雨漏りがあっても雨が降らなければまあ差し支えはない。
虫除けの独特の香草が焚かれ、りぃんと澄んだ鈴の音が風に乗って鳴り響く。その遠くにざわりざわりと、山の木々の青葉擦れる音がした。「アルーの診療所」は怪我がなくても不思議と居座りたくなる家で、みんななんとなく休憩に立ち寄っていく。
「爺さん婆さんが元気なのはよかったよ。さすが長く自分の体と付き合ってきた奴らは、きちんと限界がわかってる」
「そうか」
おれも今日は日向ぼっこの一員に片足突っ込んでいるが、もちろん仕事である。最近、日中は出来得る限りの遠出に精を出していて、氏族の中に目を配れなくなっていた。その分、ミルカや他の者にも話を聞いて様子を把握するようにしていて、診療所を訪ねて医師の見地から報告を聞くのもその一環だ。昨夜ウミの下手くそな隠密行動に気づけなかったので、今日は遠出しないと決めた。代わりに集落の見回りに出ている。
タンカ爺さんは「真面目な族長だ」とこぼしていたが、族長が仕事を真面目にこなすのはそんなに珍しいか。
「まあ時々ぎっくり腰とか来たりするけど。張り切りすぎて」
「駄目だろそれ」
「あはは」
医師見習いでアルザの使いにあちこち出向いているネラが、おれに茶を出して下がっていった。窓も戸も開け放たれた開放的な部屋にはおれとアルザしかいない。あとは錫の風鈴と数々の薬草と薬研などの道具、古びた書物。呪具云々はおれの家の納屋にまだ置いている。
「それで?」
アルザの声音が変わった。ネラがなるべく冷ましてくれたのか、ぬるい茶を口にしようとして、止めた。おちゃらけが一切ない目がおれを見ている。
「嫁さんはどうなの?」
「急になんだ?」
「ずーっと籠の鳥のまま、自分の部屋に閉じ込めて満足?嫁さんの境遇は勝手に推測してるだけだけど、まあ、同情はするよね。それだけで丸ごと受け入れるのはお前のいいところで、悪い癖だ。いつまで羽休めさせてるの?いっそ飛び方すら忘れてしまえば、籠が空にならずに済むと思ってる?時が来たら手前勝手にぽんって放り出すくせに、お前、残酷なことするよな。支援物資なんかを持参金代わりにして嫁さんを追い出したラルトィ族とおんなじくらい」
色々突っ込みどころのある言葉が続いて、眉をしかめた。アルザは全部わかってる風に微笑んだ。切りつけるような笑みだった。
「お前がほっぽってるからさ。ミルカみたいに様子を見に行ったわけ。暑くなったし、閉じこもってる嫁さんの体調も考えて」
「どこか悪かったのか」
「いんや、お前がちゃんと水も醤も用意してたから異状なし。栄養足りないのは前からだけど、体力はあるようだし、そうそうバテたりしないよ」
「……それで、なにを話した」
「クルガが前族長の甥っ子とは思わなかったみたいで、その辺り」
氏族は一つで大きな血族だが、族長は自らの直系に継がせるのが基本だ。前族長の伯父が二年前に死んだとき、本当はその一人娘ミルカが族長になるはずだった。性別問わず長子相続なので、幼くてもおれの父が補佐すれば運営はなんとかなる、はずだった。
だが伯父と一緒におれの父も死んだので、おれが一時的に族長の席に座ることになった。
そういえばウミにぽろりと漏らした。ミルカが族長になったら、と。……レィミヤ族の事情を知らなかったことに今さら驚きはないが、なんでおれに訊かずアルザに。
「お前には訊けないからだよ」
「……まだなにも言ってないぞ」
「そりゃあ、嫁さんからしてみりゃ驚きだろうよ。自分の夫が族長というには微妙な立場だって考えたらね」
「夫もなにも、契りは交わしてないし、あいつもそう思ってないだろう」
「お前の、そこだよね。馬鹿とも呼べないところ」
「なんだと?」
アルザが珍しく怒っているのだけはわかった。しかもウミのためにおれを責めている口ぶり。だけど地味に偏屈な性格である上、以前にウミが半年後に出ていくと教えた時は、ふうんとしか言わなかったはずだ。変わったのか、隠していたのか。
――君を連れてくのが最善だった。君のためにね。
そういえば、あの時は事態に流されていたが、アルザにしてはずいぶん柔らかい当たりだった気がする。
もう罵倒への抗議も忘れてしまい、ぽかんと呟いた。
「アルザ、お前、あいつに惚れてるみたいだぞ」
「だったらどうする?」
アルザは挑戦的におれを見返し、冷たく笑った。
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