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クルガ編
じうし
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我に返って壁に突進した。
「……ちょっと待っとけ!」
何枚も壁を抜けて当てずっぽうに走る。そう経たずに六人家族の贅沢な食事風景に出くわした。膳の上に小鉢二つ、椀二つ、皿一つ。皿の料理を引っ掴――めない。
「できないのかよ!」
小鉢も椀も駄目。膳まるごと蹴り上げようとしたら見事に空振った。触れないならここに用はない。料理をもらい受けがてら顔面におれが手ずから食わせてやろうと思ったのに。舌打ちを残して今度は匂いを頼りに厨房へ駆け込んだ。もう火が落ちているが、だだっ広い家の管理に雇われた者用のメシが取り分けられていた。
「……できないのかよ!」
これも全滅だ。仕方なく少女のところに戻ろうとして、考えを巡らせて振り返った。風の感触は、何もしなくてもはじめからあった。隅の巨大な水瓶に飛びついて手を突っ込む。すぐに引き抜いてぴぴっと払った。
「できるのかよ!!」
ただし掬う道具を触れない。過去最高に頭を働かせた。なんで水とこの水菓子(手に持ったまま爆走していた)だけは別なのか。同じ食い物でも、触れなかった違いは何だ。
――これをどうぞ。
おれは本来ここにいない人間だ。だから見えないし触れない。幽霊みたいなもので、幽霊ってのは墓前に供え物をして成仏を……供え物なのか、これ。
いや、でも、間違いではない。幽霊じゃなかったらとっくにあいつら皆殺しだ。それができなくても、おれは、少しは役に立てたらし……単なる慰めだったそういえば。
余計なこと考えるのはやめよう。戻らないと、置き去りにされた少女はきっと驚いているだろう。
「……驚いてるのか?」
戻ったら、おれが突っ込んで消えていった壁を、少女がべしべし叩いていた。あいにく、まともじゃないのはおれだけで、壁は開けゴマでも開かんぞ。大体おれ開けたんじゃなくて通り抜けたんだし。
納屋の中のガラクタを一つ一つ見て回った。物をどかせないので、幽霊らしく体まるごと突っ込んであちこち覗き見た。しばらくして、縁は割れ欠け、内部も亀裂が走っているものの、辛うじて用を為せる物を発見した。
少女の意識を引いて誘導し、身振り手振りでおれに取って渡すように頼むと、少女は壁とそれとおれを交互に見ながらそっと動いた。だからもう壁は諦めろ。
「……やっぱり供え物になるのかこれ」
手に載った器を見る。自分で頼んどいてなんだが、おれ、まだ生きてるぞ。
*
家の裏手に、人の手で作った川が流れているのは知っていた。集落の外れにレィミヤ族の暮らす山々から流れ落ちた大河があり、そこから幾筋も水の路を引いているのだ。埃を被った器を何度も洗って水を汲んで、納屋に戻って少女の汚れを拭って、目に見える傷の全部に軟膏を塗って、包帯をした。……やってみたらできたというか、まともにこれの仕組みを考えようとすると頭がこんがらがりそうだ。逆お供え物ってなんだよ。
帯に括り付けていた薬袋はぺしゃんこになった。
おれの上衣の柔らかい部分を裂いてぐるぐる巻かれた少女は、ただきょとんとしていた。生まれてこの方、手当されたことがないというように、不思議そうに包帯をちょんちょん触っている。結び目を弄くろうとするのは止めた。
小刀を手の上でくるりと回した。これを、少女に渡して返してもらえば、薬や包帯のように、実体を持てるようになるんだろう。――今からでも皆殺しにできるということ。少女の憂いを、苦痛を、恐怖を、この手で断ち切ることができる。
だけど、ともう片手で、ずっと放置していた水菓子を持った。細々働いている間に、煮え立っていた腹の底はだんだんと静かになっていった。
果実を投げて、小刀を一閃する。パカンと二つに割れて落ちてきたのを受け止め、片方を、目を丸くする少女に差し出した。
「腐ってるのはとやかく言いたいとこなんだが……お前、腹下したことないんだしな。栄養だけでも摂れるなら、まあ、目を瞑る」
おれの分の中身を齧る。産地のラルトィ族はどうか知らないが、レィミヤ族ではみんなガキの時分に、無駄な挑戦心を持ち余して腐った実を食べることが、必ず流行る。腹を下さなかったやつが優勝。もれなくみんなごろごろのたうって勝負は流れ、大人たちから拳骨と仕置きを食らうまでが一通り。
勝負に使う実をあえて腐らせるために、一つだけずっと隠し持っていたとバレた時の母と伯母の怒りようは忘れられない。伯父と父が後でこっそり慰めてくれた。どうも過去に同じことをやらかしたようであった。
「……あんまっ!」
懐かしくほろ苦い思い出があっても甘いものは甘かった。腐ってるはずなのに果汁も果肉も瑞々しい。分厚い皮と身の間の白い薄皮からじわじわ迫りくるエグみも主張を忘れない。舌どころか頭まで痺れそうだ。なんとかこらえつつ、少女の分を食え食えと促すと、少女はかぷっと、嬉しそうに食いついた。そして実にうまそうにもぐもぐしている。おいしいですか、とその目が言っていた。思わず笑った。
「ああ、うまいな」
伝わったのか、少女がふんわりと目尻を下げた。
また一口囓った。夢なので、腹を下す心配をしないでいいのがありがたい。二人でもくもくと食い続けたあと、少女が眠たげだったので寝ることにした。
この納屋に布団が存在しないのはわかっていた。以前は布団を貸して別々で寝たが、今回は上着を貸して、添い寝する。もちろん邪な気持ちはなく、かといって同情や憐憫とも多分違う。
少女は眠る前にぱちりと瞬きをした。己の世界の扉を閉じてゆくように。……いいや、開けるように、か。一切のためらいなく意識を切り落とし、たやすく全身から力が抜ける様子を間近で見守った。
衣を脱ぐように、肉体を邪魔だと置き去りにして、魂だけでどこかへ出かけたようだった。ただの一人きり、異界を散歩にゆくように。
「……今のおれは幽霊だからな」
どうせならそこまでついていきたかったので、目を閉じた。
火皿から火が風もないのにふっと消えて、世界は暗闇に変わった。
「……ちょっと待っとけ!」
何枚も壁を抜けて当てずっぽうに走る。そう経たずに六人家族の贅沢な食事風景に出くわした。膳の上に小鉢二つ、椀二つ、皿一つ。皿の料理を引っ掴――めない。
「できないのかよ!」
小鉢も椀も駄目。膳まるごと蹴り上げようとしたら見事に空振った。触れないならここに用はない。料理をもらい受けがてら顔面におれが手ずから食わせてやろうと思ったのに。舌打ちを残して今度は匂いを頼りに厨房へ駆け込んだ。もう火が落ちているが、だだっ広い家の管理に雇われた者用のメシが取り分けられていた。
「……できないのかよ!」
これも全滅だ。仕方なく少女のところに戻ろうとして、考えを巡らせて振り返った。風の感触は、何もしなくてもはじめからあった。隅の巨大な水瓶に飛びついて手を突っ込む。すぐに引き抜いてぴぴっと払った。
「できるのかよ!!」
ただし掬う道具を触れない。過去最高に頭を働かせた。なんで水とこの水菓子(手に持ったまま爆走していた)だけは別なのか。同じ食い物でも、触れなかった違いは何だ。
――これをどうぞ。
おれは本来ここにいない人間だ。だから見えないし触れない。幽霊みたいなもので、幽霊ってのは墓前に供え物をして成仏を……供え物なのか、これ。
いや、でも、間違いではない。幽霊じゃなかったらとっくにあいつら皆殺しだ。それができなくても、おれは、少しは役に立てたらし……単なる慰めだったそういえば。
余計なこと考えるのはやめよう。戻らないと、置き去りにされた少女はきっと驚いているだろう。
「……驚いてるのか?」
戻ったら、おれが突っ込んで消えていった壁を、少女がべしべし叩いていた。あいにく、まともじゃないのはおれだけで、壁は開けゴマでも開かんぞ。大体おれ開けたんじゃなくて通り抜けたんだし。
納屋の中のガラクタを一つ一つ見て回った。物をどかせないので、幽霊らしく体まるごと突っ込んであちこち覗き見た。しばらくして、縁は割れ欠け、内部も亀裂が走っているものの、辛うじて用を為せる物を発見した。
少女の意識を引いて誘導し、身振り手振りでおれに取って渡すように頼むと、少女は壁とそれとおれを交互に見ながらそっと動いた。だからもう壁は諦めろ。
「……やっぱり供え物になるのかこれ」
手に載った器を見る。自分で頼んどいてなんだが、おれ、まだ生きてるぞ。
*
家の裏手に、人の手で作った川が流れているのは知っていた。集落の外れにレィミヤ族の暮らす山々から流れ落ちた大河があり、そこから幾筋も水の路を引いているのだ。埃を被った器を何度も洗って水を汲んで、納屋に戻って少女の汚れを拭って、目に見える傷の全部に軟膏を塗って、包帯をした。……やってみたらできたというか、まともにこれの仕組みを考えようとすると頭がこんがらがりそうだ。逆お供え物ってなんだよ。
帯に括り付けていた薬袋はぺしゃんこになった。
おれの上衣の柔らかい部分を裂いてぐるぐる巻かれた少女は、ただきょとんとしていた。生まれてこの方、手当されたことがないというように、不思議そうに包帯をちょんちょん触っている。結び目を弄くろうとするのは止めた。
小刀を手の上でくるりと回した。これを、少女に渡して返してもらえば、薬や包帯のように、実体を持てるようになるんだろう。――今からでも皆殺しにできるということ。少女の憂いを、苦痛を、恐怖を、この手で断ち切ることができる。
だけど、ともう片手で、ずっと放置していた水菓子を持った。細々働いている間に、煮え立っていた腹の底はだんだんと静かになっていった。
果実を投げて、小刀を一閃する。パカンと二つに割れて落ちてきたのを受け止め、片方を、目を丸くする少女に差し出した。
「腐ってるのはとやかく言いたいとこなんだが……お前、腹下したことないんだしな。栄養だけでも摂れるなら、まあ、目を瞑る」
おれの分の中身を齧る。産地のラルトィ族はどうか知らないが、レィミヤ族ではみんなガキの時分に、無駄な挑戦心を持ち余して腐った実を食べることが、必ず流行る。腹を下さなかったやつが優勝。もれなくみんなごろごろのたうって勝負は流れ、大人たちから拳骨と仕置きを食らうまでが一通り。
勝負に使う実をあえて腐らせるために、一つだけずっと隠し持っていたとバレた時の母と伯母の怒りようは忘れられない。伯父と父が後でこっそり慰めてくれた。どうも過去に同じことをやらかしたようであった。
「……あんまっ!」
懐かしくほろ苦い思い出があっても甘いものは甘かった。腐ってるはずなのに果汁も果肉も瑞々しい。分厚い皮と身の間の白い薄皮からじわじわ迫りくるエグみも主張を忘れない。舌どころか頭まで痺れそうだ。なんとかこらえつつ、少女の分を食え食えと促すと、少女はかぷっと、嬉しそうに食いついた。そして実にうまそうにもぐもぐしている。おいしいですか、とその目が言っていた。思わず笑った。
「ああ、うまいな」
伝わったのか、少女がふんわりと目尻を下げた。
また一口囓った。夢なので、腹を下す心配をしないでいいのがありがたい。二人でもくもくと食い続けたあと、少女が眠たげだったので寝ることにした。
この納屋に布団が存在しないのはわかっていた。以前は布団を貸して別々で寝たが、今回は上着を貸して、添い寝する。もちろん邪な気持ちはなく、かといって同情や憐憫とも多分違う。
少女は眠る前にぱちりと瞬きをした。己の世界の扉を閉じてゆくように。……いいや、開けるように、か。一切のためらいなく意識を切り落とし、たやすく全身から力が抜ける様子を間近で見守った。
衣を脱ぐように、肉体を邪魔だと置き去りにして、魂だけでどこかへ出かけたようだった。ただの一人きり、異界を散歩にゆくように。
「……今のおれは幽霊だからな」
どうせならそこまでついていきたかったので、目を閉じた。
火皿から火が風もないのにふっと消えて、世界は暗闇に変わった。
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