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伝説
第三話 刺客……黒
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男は敵陣なのに見事に立ち回り、傷ひとつなく娘を屋外へ連れ出し、用意していた馬に乗せ、さっさと王都から脱出した。娘は必死にもがいていたが、内通者と勘違いされて、国軍の客たちに斬り殺されていった一座の人々の驚愕と恐怖の混じった死に顔と断末魔の叫びが、忘れられなかった。
「おれが憎い?」
もはや声が出ず、娘はひたすらに泣いた。胸が痛かった。容赦なく捕まれ、引っ張られた腕よりも、ずっと胸の奥が痛くて痛くてたまらなかった。頭痛もした。吐き気もした。
けれど何よりも死にたかった。
男のせいで娘によくしてくれた人たちが死んでいく。なのに、娘はやっぱり男を愛していた。……愛していたのだ。
憎い、と呟くと、娘を囲うように腕を回して馬を走らせていた男が、すっと目を細めた。嬉しそうだった。
月光が赤い色を照らしていた。
後ろから追ってくる馬蹄の響きが聞こえる。娘はもうどうでもよくなった。死に物狂いで男を追いかけたのに、男の方は悠然と娘を待っていたのだ。そして、娘の大事な宝物を踏みにじる。
憎い、と何度も呟く。けれど、と心のなかで叫ぶ声がある。
憎い。
もう私から何も奪わないで。
憎い。
誰も殺さないで。
憎い。
私を愛さないで。
憎いの。
……さっさと私を殺して。
でも、あなたは生きて。
「嫌だ。おれはあなたより先に死ぬ」
男は迷わず森へ突っ込んだ。
「さだめの巫女姫。おれの婚約者。愛しい人。どうか、おれを赦さないで」
まるで焔のように焼けつく声。向かい合うように座らされていたから、娘は男の顔がよく見えていた。でも身動きがとれない。その顔が近づいてきて、赤い光が視界一杯に広がる。
烙印のような口づけは、火傷しそうなほど冷えきっていた。
離れた唇が、音もなく動く。娘がぼんやりそれを見ていると、ふいに腰を掴まれ、投げ捨てられた。とっさに衝撃を和らげるために宙返りと受け身をとって木々の間に転がるけれど、男を乗せた馬はもう暗闇を走り去っていた。
男はまた娘を置いていったのだと、立ち上がって一瞬あとに気づいた。けれど、もう娘は迷子ではない。向かう先も、やることも、決まっていた。
木の枝に引っかかれたのか、右手から、たらりと血が流れる。娘はそれをぺろりと舐めた。
幾度血を見ても澱むことがない金の瞳の娘は、追いかけてくる軍馬の一つに音もなく忍び寄り、馬上の軍人を暗闇に引きずり込んだ。永遠に明けることなき闇へ。
『――どうか、おれを止めて。おれを殺してくれ。そして、生きてくれ』
ええわかったわ、と娘は返事をした。
*
五年で多くの周辺民族を巻き込んで大きくなった、一つの部族。長の姪を聖女として国に捧げたためにここまで成長できたのだ、という見解は、今回の部族の英雄の襲来で全て覆った。
長は権力の前に弱すぎた男だった。
長の息子は父を見限り、部族を若者からひっそりとまとめあげ、血の滲むような努力を重ね、人々を飲み込んでゆく濁流と化す。暗愚の父を隠れ蓑にし、実権を握っていたのは息子。王国が見誤ったと悟ったときには、喉元にまで刃が迫っていた。しかし、ここで諦めては王族の沽券に関わる。
娘は王族の数人と顔見知りなので、顔を見なくとも、その感情が手に取るようにわかっていた。特に若い王子とは友だちのように親しかった。
戦うのなら、私を使って、と娘は言った。
娘は再び王都に入り、聖職者の特権だった神殿の地下図書館――今や娘しか知らない場所――で知った通りの経路を辿って、城の中枢に潜り込んでいた。娘は軍人に囲まれたが、威圧される前に威圧した。かつて故郷で狼とにらみ合いっこしたこともある娘は、怒らせたら誰にも止められない。
白い炎が燃えていた。見るものの肌を焼き焦がしていくような峻烈な眼差しだった。
軍人の後ろに居並ぶ王族たちの中に、少年の姿を見つける。軍装。一番若いのに、なぜ死に急ぐの。
国王、と娘は凛とした声で呼びかけた。
あなたの息子の初陣は、私が守ろう。だから私に彼を殺させてくれ。
聖女の頃を知っていた人間はみな、別人のような娘を見下ろす。血に汚れ、埃に汚れ、汚い身なり。銀の髪すらくすんでいる。
しかし、紛れもなく、ちっぽけな部族から取り上げた運命の巫女姫だった。
羽をもがれ、地に落とされた姫のがらんどうな姿しか知らなかった者共は、ひたすらに目を見張っていた。
娘は己のさだめを知る顔で、そんな彼らを傲然と睨み上げる。へりくだる気配もなく、対等に、むしろ上から見下すような。口調も整えない。それでも若き娘の偉容に気圧され、誰も口を挟めないまま、娘は王子の参謀に任命された。
五年会わなくても、男は全く変わらない。ならば娘でも男の行動は読める。すらすらと作戦を幾通りも立てていく娘に、友だちだったはずの王子は奇妙なものを見る顔でいた。周囲の配下もだ。恐ろしく美しく、恐ろしく賢く、恐ろしく苛烈。
作戦計画中、王国の損耗を気にしても娘自身への保身が抜けていたのも気味が悪かった。
役職と出身と性別に惑わされた輩が、娘が休んでいる部屋へ突入すれば容赦なく返り討ちにした。血まみれの聖女はまさしく鬼のように怖がられた。
内通者じゃないのかと疑うものは絶えなかったが、娘は特に否定することもなかった。私に従って生きるか、私に逆らって死ぬか、どちらがいい。そう傲慢に問いかけられても、誰も憤激できなかった。姫というより女王のような風格は、国王すらも圧倒した。
これでは男を見事に殺しても、どのみち禍根となる。そう官僚たちが恐怖し、画策したが、娘はこれも黙殺した。国が男の首級を確認できたときには、娘もこの世を旅立っている。死ぬ順番は守るが、それ以外で娘は男の言うことを聞く気はなかった。
そして準備を整えたあと。娘は早速、自らが先陣を切る奇襲作戦を決行することにした。
「おれが憎い?」
もはや声が出ず、娘はひたすらに泣いた。胸が痛かった。容赦なく捕まれ、引っ張られた腕よりも、ずっと胸の奥が痛くて痛くてたまらなかった。頭痛もした。吐き気もした。
けれど何よりも死にたかった。
男のせいで娘によくしてくれた人たちが死んでいく。なのに、娘はやっぱり男を愛していた。……愛していたのだ。
憎い、と呟くと、娘を囲うように腕を回して馬を走らせていた男が、すっと目を細めた。嬉しそうだった。
月光が赤い色を照らしていた。
後ろから追ってくる馬蹄の響きが聞こえる。娘はもうどうでもよくなった。死に物狂いで男を追いかけたのに、男の方は悠然と娘を待っていたのだ。そして、娘の大事な宝物を踏みにじる。
憎い、と何度も呟く。けれど、と心のなかで叫ぶ声がある。
憎い。
もう私から何も奪わないで。
憎い。
誰も殺さないで。
憎い。
私を愛さないで。
憎いの。
……さっさと私を殺して。
でも、あなたは生きて。
「嫌だ。おれはあなたより先に死ぬ」
男は迷わず森へ突っ込んだ。
「さだめの巫女姫。おれの婚約者。愛しい人。どうか、おれを赦さないで」
まるで焔のように焼けつく声。向かい合うように座らされていたから、娘は男の顔がよく見えていた。でも身動きがとれない。その顔が近づいてきて、赤い光が視界一杯に広がる。
烙印のような口づけは、火傷しそうなほど冷えきっていた。
離れた唇が、音もなく動く。娘がぼんやりそれを見ていると、ふいに腰を掴まれ、投げ捨てられた。とっさに衝撃を和らげるために宙返りと受け身をとって木々の間に転がるけれど、男を乗せた馬はもう暗闇を走り去っていた。
男はまた娘を置いていったのだと、立ち上がって一瞬あとに気づいた。けれど、もう娘は迷子ではない。向かう先も、やることも、決まっていた。
木の枝に引っかかれたのか、右手から、たらりと血が流れる。娘はそれをぺろりと舐めた。
幾度血を見ても澱むことがない金の瞳の娘は、追いかけてくる軍馬の一つに音もなく忍び寄り、馬上の軍人を暗闇に引きずり込んだ。永遠に明けることなき闇へ。
『――どうか、おれを止めて。おれを殺してくれ。そして、生きてくれ』
ええわかったわ、と娘は返事をした。
*
五年で多くの周辺民族を巻き込んで大きくなった、一つの部族。長の姪を聖女として国に捧げたためにここまで成長できたのだ、という見解は、今回の部族の英雄の襲来で全て覆った。
長は権力の前に弱すぎた男だった。
長の息子は父を見限り、部族を若者からひっそりとまとめあげ、血の滲むような努力を重ね、人々を飲み込んでゆく濁流と化す。暗愚の父を隠れ蓑にし、実権を握っていたのは息子。王国が見誤ったと悟ったときには、喉元にまで刃が迫っていた。しかし、ここで諦めては王族の沽券に関わる。
娘は王族の数人と顔見知りなので、顔を見なくとも、その感情が手に取るようにわかっていた。特に若い王子とは友だちのように親しかった。
戦うのなら、私を使って、と娘は言った。
娘は再び王都に入り、聖職者の特権だった神殿の地下図書館――今や娘しか知らない場所――で知った通りの経路を辿って、城の中枢に潜り込んでいた。娘は軍人に囲まれたが、威圧される前に威圧した。かつて故郷で狼とにらみ合いっこしたこともある娘は、怒らせたら誰にも止められない。
白い炎が燃えていた。見るものの肌を焼き焦がしていくような峻烈な眼差しだった。
軍人の後ろに居並ぶ王族たちの中に、少年の姿を見つける。軍装。一番若いのに、なぜ死に急ぐの。
国王、と娘は凛とした声で呼びかけた。
あなたの息子の初陣は、私が守ろう。だから私に彼を殺させてくれ。
聖女の頃を知っていた人間はみな、別人のような娘を見下ろす。血に汚れ、埃に汚れ、汚い身なり。銀の髪すらくすんでいる。
しかし、紛れもなく、ちっぽけな部族から取り上げた運命の巫女姫だった。
羽をもがれ、地に落とされた姫のがらんどうな姿しか知らなかった者共は、ひたすらに目を見張っていた。
娘は己のさだめを知る顔で、そんな彼らを傲然と睨み上げる。へりくだる気配もなく、対等に、むしろ上から見下すような。口調も整えない。それでも若き娘の偉容に気圧され、誰も口を挟めないまま、娘は王子の参謀に任命された。
五年会わなくても、男は全く変わらない。ならば娘でも男の行動は読める。すらすらと作戦を幾通りも立てていく娘に、友だちだったはずの王子は奇妙なものを見る顔でいた。周囲の配下もだ。恐ろしく美しく、恐ろしく賢く、恐ろしく苛烈。
作戦計画中、王国の損耗を気にしても娘自身への保身が抜けていたのも気味が悪かった。
役職と出身と性別に惑わされた輩が、娘が休んでいる部屋へ突入すれば容赦なく返り討ちにした。血まみれの聖女はまさしく鬼のように怖がられた。
内通者じゃないのかと疑うものは絶えなかったが、娘は特に否定することもなかった。私に従って生きるか、私に逆らって死ぬか、どちらがいい。そう傲慢に問いかけられても、誰も憤激できなかった。姫というより女王のような風格は、国王すらも圧倒した。
これでは男を見事に殺しても、どのみち禍根となる。そう官僚たちが恐怖し、画策したが、娘はこれも黙殺した。国が男の首級を確認できたときには、娘もこの世を旅立っている。死ぬ順番は守るが、それ以外で娘は男の言うことを聞く気はなかった。
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