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婚約

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「騒ぎになってしまったな。申し訳ない。つい気が急いた」

 狂騒の広間を出たレオンとカルロスは、そのまま控室の一つに入り込んだ。カルロスからすると本日二度目の「密談」だが、今度は本物の密談だ。
 使用人を捕まえて酒とつまみの支度を任せ、まるで己がこの部屋の主であるかのようにカルロスにソファの一つを勧めたレオンは、自らはテーブルを挟んだ対面に腰かけ、足を組んだ。剣は剣帯から外して傍らに立てかけている。使用人が用意を整えて退出したあと、レオンは扉が閉め切られたことを確認して、酒杯に手を伸ばした。

「さて、君はまだあちらの飲食には手を付けていなかったのではないか?詫びにもならないが、こちらを存分に食べ飲んでくれ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 ちなみにこの屋敷はアルハイド子爵家のものではない。今日の夜会の主催はとある伯爵家であって、レオンもカルロスも客の身分だ。ある意味あの求婚発言で夜会を台無しにしてしまったわけだが、レオンはそこは全く気にしていないようだった。謝ったのはあくまでもカルロスに向けて。
 確かに空腹だったので、カルロスはつまみのナッツとハムに手を付けた。
 レオンも遠慮なくカパカパと酒を開けている。淑女の作法ではない。騎士服、つまり男装している時点で求めることではないが。ちょっとした粗雑な動作も似合う、女子爵。酔っ払う概念もないように、すいすい酒を飲んでは継ぎ足しているところを見るに、酒には強いらしい。

(ますます色気がない……)

 男女の密室だというのに、なんだろうかこの空気は。
 お互いしばらく無言だったが、カルロスは腹を埋める作業に没頭して気まずさはごまかした。どんな話があるかわからないが、この部屋から出たあと、恋人と共に帰ることはできそうにない。周囲もそうだが、ディールフィーネが率先してカルロスを問い詰めてくるだろう。恋人だから、ではなく、熱烈なミーハー魂で。密室にするほどの話なので黙っているのが吉なのだが、居候のカルロスでは強く拒絶しきれない。となれば、逃げる他ない。なんなら今すぐにでも逃げたいところだが、それもとうに手遅れだ。
 宿の算段にまで思考が飛び始めたカルロスを、レオンの声が引き戻した。

「そろそろ、いいかな」

 酒やけしていない声。酔いで肌が上気することもない。呂律もしっかりしている。
 視線が交錯した。

「求婚についてだが、まず、私の話を聞いてほしい。君からの質問はその後だ。もちろん、君の諾否は最後。できれば今日中に答えがほしいところだが、まあ、無理は言わないさ」
「……そうですか」
「口調は砕けてもらって構わない。私は夫には、従属ではなく協力を望む」
「……協力とは、なんの」
「もちろん、円満な夫婦生活の」

 どこまでも真顔だったので、カルロスは冗談だと気づくまでにかなりの時間を要した。その間に、レオンは絶句したカルロスが了承したものと思って話し始めている。

「私は三年前にアルハイド子爵家の当主となった。父の子は兄と私だけだったからな。兄が出奔して生死不明な以上、私が継ぐことは必然だ。そこには問題がなかった。だが、直系が女の私しかいないことを親族は問題視した。ありがた迷惑な話だが、独自に兄の消息を徹底的に探し求めていたようだ。しかしついぞ見つかることがなく、三年。親族は手を変えてきた」

 ありがた迷惑というか、顔も知らぬ親族らだが彼らに同意せぬ者はいるのだろうかとカルロスは思った。
 針を持ち扇子を傾け、淑やかに微笑み、父や夫の庇護下で安全な暮らしをすることが、貴婦人にとって最良の生き方だ。それが、名前を男性名に変え、剣をとり、男たちの争いに飛び込む少女を思いやれば、その軛から解放させたいと思っても、なんら間違いではなかろう。……この騎士以外なら。
 月の騎士ともてはやされているこの女性をどれだけ見ても、悲惨な情感が全然湧かない不思議。

「これまではそれとなく仄めかすだけだったが、そろそろ直接的に言ってくるようになってな。婿を取れ、夫は親族が補佐をするので、私には直系の子を産む大役をと、そういう話だ。私とて後継のことは考えていたのだがな。二ヶ月前に足に矢傷を負ってからの勢いが酷いのなんの」
「自業自得だろう、それ」

 思わず言ったカルロスに、レオンの瞳がきらりと光った。笑っているようだ。カルロスは半ば開き直る気持ちで言葉を続けた。

「怪我は、回復したのか?」
「ああ。痕が残ったが、なんなく動く」
「叩くな」

 ささやかな笑顔でぽんぽんと叩いた右の腿が、その傷のありかだろうか。傷が残ることも痛みを負うことも、レオンには苦しみではないと、その表情が物語っていた。
 とはいえ怪我は怪我だ。しかもかすり傷とはわけが違う。親族の心配も少しは尤もだと思ったレオンは、早くに婿を取り後継者を産もうと決めたらしい。しかし、全てを從容と受け入れるわけではない。アルハイドの長はレオンである。親族にも、婿にも、レオンの持つ権力を委ねることは言語道断だと、きっぱり言った。

「私が夫に求めることは、第一に種馬になること。その後も、親族を黙らせるために私の隣にいてくれれば、言うことはないな」

 一応はレオンの要望通り、最後まで事情を聞いたカルロスは、全身で息を吐き出しながら、片手で顔を覆った。

「あんた、おれにそれをしろって?」
「別に大したことではないと思うがな。君は権力にも財にもさほど興味がないだろう」
「初対面の男に、お飾りの夫になってくれってのは乱暴な話じゃないか?」
「飾りもなにも、夫は夫だろう?結婚すれば、私には君の暮らしを尊重する義務がある。まさか、これまで恋人の住まいを転々としておきながら、今さら女に養われるのが嫌というわけでもあるまい」
「なにもするなと言っておいて、尊重か?」
「家政はさせないし、社交場では多少の不便はかけるかもしれない。だが、私生活は別だ。私は君に快適な衣食住を保障しよう。家臣は私と同等に君を遇する。住処は私の屋敷になるが、そこでは好きに過ごして構わない。遊びに出かけるもよしだ。今の君の暮らしから変わることと言えば、君の名前にアルハイドが加わることくらいだ」

 片手どころか、突き抜けて膝にでものめり込みそうなくらい、カルロスは脱力した。
 ここまで傲慢で強引なことを言い放ったくせに、レオンは律儀に、背を丸めたカルロスの反論を待つように、沈黙を作っている。カルロスは呻くように尋ねた。

「……あんたから見て、おれはそこまで無害か?」
「無害?」

 レオンがきょとんと目を瞬かせる姿に、カルロスは初めて可愛げを見出した。だが回答はこれっぽっちも可愛くなかった。

「ああ、もしかして、女の言いなりになるのは嫌だとかいう男の矜持か?中身のない見栄など無意味だぞ。私はこの条件に譲歩する気はないのだから、害無害はそもそも存在しえない」

 片手の中でクッと息が漏れた。両頬を鷲掴むようにして表情を改めようとするが、一度笑みに崩れてしまったら、戻しようがなくなった。腹と背が震える。カルロスは笑いの波が収まるまで、一人悶え続けた。
 レオンはカルロスの態度に我関せずで、悠々と酒を飲み足して時間を潰している。ペースが早いこともあり、酒瓶がほぼ底をついているが、これでもちっとも酔っていないらしい。

「……落ち着いたか?」
「ああ。待たせてすまない。あんたの前で言うのも何だが、おれのために誂えたような縁談だと思ってな。けっしてあんたを馬鹿にしたわけじゃない」
「笑うとは意外だった。怒鳴るかもとは思ったんだが」
「怒らせる気だったのかよ」
「怒っても仕方がない話だという認識は持っている」
「意外に殊勝だな、あんた」

 カルロスは伸びをするようにソファに勢いよく背中を預け、今度は隠さずに笑った。多くの女性が色めき立つ笑みでもレオンにはやはり無効らしく、顔色一つ変えない。カルロスは立ってソファから離れると、胸に手を当て、頭を下げた。

「カルロス・ドゥオールは、貴殿の求婚をお受けいたします」
「よろしく頼む。結婚式は数ヶ月先になる。婚約の公表もあるが、それより先に、こちらに署名を頼む。先ほど取り上げた条件について書いてある」
「用意がいい」

 あいにくこの場所に筆記具の類いはないので、レオンの胸から差し出された書状はカルロスの胸に収まった。後で書いて送るならばどこそこへ連絡を、とレオンが言い差したのを止める。

「婚約が成立したわけで、早速頼みがあるんだが」
「聞こう」
「今晩からおれをそっちに住まわせてくれないか?」
「恋人はいいのか?今日も一緒に来ていただろう。私が遊んでいいと言ったのだから、今さら気にする必要はない」
「安静な睡眠が必要なんだ。あんたの求婚だけできっと夜通し問い詰められる。婚約したなんて言ったら、ますます酷いことになる」
「男女が過ごす夜だろう?そういうときの手練手管というのがあるのではないのか?」
「おれは今日は健全な休みがほしいんだよ……昨日一昨日も私用で徹夜だった」
「それならばなおさらだろう。そのままなしくずしの別れなど私は許さないぞ。私が恨まれるではないか。どうしても睡眠がほしいなら明日の昼頃まで待て。迎えを寄越してやる」
「まじかよあんた……」

 けっこう切実な願いに色々酷い答えを返され、カルロスは口角を引きつらせた。特に迎えのくだり。
 そんなカルロスの、月のように麗しい婚約者は、にっこりと――迫力満点な笑顔で言った。

「私は、恋人を満足させられないような甲斐性なしと婚約した覚えはないんだ」
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