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第一部
5−1
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「夕立」の一族とも称される、サレンディアを統べたる麗しき姫君に仕えるフィリスの朝は早い。
山の際に朝日の光芒のひと差しも届かない内から起き出して身支度を整えると、黒漆の水盆を持って外廊に出る。欄干の切れた裾から石の段差を降りて庭を進み、清浄の泉から水盆へ水を汲み取る。
地上では夏の盛りだが、遥か遠く山奥にあるこの地は年中雪に閉ざされている。それでも一族の住まう集落は始祖の護りが色濃く、吹雪くことは滅多にない。穏やかに降り積もった雪はゆっくりと地の下へ溶け流れ、清水となって泉に湧き出す。ほとりほとりと、フィリスの運ぶ水盆に雪が降って溶け混じる。
この地の不思議は守護だけではない。雪が降るのに木々が青く葉を繁らせ、暦の通りに花を咲かせ果実を実らせる。鳥は飛ぶし獣もいる。虫だって秋になればりんりんと鳴く。決まって朔日には雪が止み、一族は星読みに精を出す。
さらに、姫君の住まう本殿にもなれば複雑に入り組んだ術が仕掛けてあるらしい。フィリスはサレンディアの一族ではなく、「外」から拾われてきた身なので細かいことは全然わからない。はじめは驚いて戸惑ってと大変だったが、もう人生の半分以上をこの本殿で暮らしている。灯りもなしに荷物を持って夜を歩けるほどに慣れきっていた。
水盆に水を並々と汲み、こぼさぬようにすり足気味に欄干まで戻る。さすがに段差で足を引っかけるのが怖いので、外廊に水盆を置き、ゆっくりと段差を登る。振り返って水盆をまた持ち上げようとして、フィリスは固まった。
「おはよう」
夜の闇を切り出したように、小さな人影が庭に立っていた。銀の髪に同じくらい色の薄い瞳をゆるりと細めて、フィリスに微笑みかけている。マフラーを巻いているわりに薄手のシャツをまとっているだけで、腰に上着らしき分厚い布を巻き付けているのは暖を取るためとは到底思えない。しかし凍えているようにも見えない。滑らかな頬に血色がほんのりと乗っている。
フィリスは顔色を失くして後ずさった。
今はまだ闇の濃い時間だ。自分の指すらろくに見えないのに、少年の身なりをつぶさに把握できているのが異常だった。それに、柔和な表情のご本家クラウスを見慣れている身からすれば、この微笑みはひどく寒々としていた。
「ずいぶんときれいな髪の色をしてる。雪の白だ」
少年は怖気づくフィリスを見つめてそう言った。
「目はサンザシの赤。顔立ちも懐かしい。ここに還り着くとはな」
「……な、何者ですか」
「おれ?」
少年はまたにこりと笑って、すたすたと近づいてきた。フィリスは蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くしてそれを見守るしかできなかった。フィリスの髪と目の色はそのまま残酷な過去につながる。十数年経ってなお、その傷はかさぶた程度にしか癒えていなかった。
少年は段差の手前で立ち止まって、欄干の上のフィリスをまじまじと見上げた。
「おれはクレア。お前の名前は?」
「……フィリス、です」
「ふうん」
どうしても見た目相応の年齢には見えない少年が、すいっと欄干に手をかけた。とたんにばちりと音がして、弾かれたように手が離れる。
「おお、護りはまだまだ現役か。仕方ないな。フィリス、手を出せ」
本殿の守護に拒まれた得体のしれない生き物の言うことを素直に聞けるわけがない。むしろますます逃げ腰になっていると、少年は肩を竦めてなにかを放る仕草をした。かつん、と外廊に転がっていく音の方向をこわごわと窺うが、暗くてよくわからない。
「落とし物。それじゃあな」
はっとして振り返ったが、遅かった。少年は忽然と消え失せていた。
その後、やっと恐怖を飲み干したフィリスは手探りで落とし物なるものを拾い、懐に仕舞って水盆を持って主の元へ向かった。侵入者の報告する相手も同じなので都合がいい。途中で、フィリスと同じように「外」からの拾われっ子のリリアと行き合った。このおかっぱ頭の不機嫌顔な少年とは十ほど歳が離れているが、フィリスの同僚と言ってもいい。フィリスの主が呼んでいるというので、結界を通じて少年のことはもう把握しているのだろう。リリアが灯篭を持っていたので、それを頼りに早足で姫の居室まで向かった。
「カンナさま、おはようございます。フィリスただいま参りました」
リリアはフィリスが跪いている間に部屋の内部を回って灯篭の火を火燭に移していった。闇の払われた室内の最も奥に、サレンディアの姫長カンナが坐していた。肘置きに身を委ねる隣に水盆を掛ける台があって、低いテーブルがあり、紙が隅に束ねられていた。
座っているその背中から床にまで広がる長い髪は、夜の色をした河のよう。結い上げはしないが、頭上を一廻りする不思議な光沢の輪にはいくつも歩揺が下げられている。若い娘のような鮮やかに赤い唇はにこりとも笑まず、フィリスに命じた。
「そなたの会った者の仔細を話しなさい」
「はい」
仔細と言っても、ほんの僅かな時間の邂逅だった。リリアがフィリスの代わりに水盆を取り替えている間に話し終わるまで、カンナの表情は静謐そのものだったが、落とし物と寄越されたものを懐から出して見せたときに、ぴくりと形のよい眉が動いた。
「それをこちらに」
カンナの差し伸べた手まで遠いので、近寄って丁寧にその手の上に載せると、カンナは石をつまんで近くの火にかざした。石に通った紐がだらりと垂れ下がっている。
フィリスもここでまじまじと落とし物を見たのだが、とてもシンプルな形の首飾りだった。雫のような形の石は紫色。リリアも気になるのか、じっとそれを見つめていた。
「魔除けと引魔の二重がけの術式か。相変わらず繊細と大胆が並立している」
気だるげに肘置きにまた体を預け、片手で石をもてあそぶカンナは、なにかを考えているようだった。ここで思考を妨げてまで話しかける勇気はフィリスにはない。リリアにはあった。
「姫長。術式ということは、それはサレンディアの?」
「リギア。クラウスの亡き妹のものだ」
クラウスの名に、フィリスもリリアも動揺した。二人の命の恩人であり、今なお慕う人である。その妹君……話だけは聞いたことがあった。クラウス本人からでなくても、サレンディアから任務以外で「外」へ出ていく者はかなり珍しいらしく、変わり者の兄妹だと一族の噂にちらほら出てくることがある。とくにクラウスの妹君は、カンナの後継者とも目されていたほど優秀だったとか……。
「ここで修養を積んだあの娘自身にこれは必要ない。『外』で生まれた己が子のために作ったのだろう」
「子ども?リギアさまにお子がいたのですか」
「それしかない。一族の特に異能持ちならば、素養しかない子どもに『外』の空気は猛毒だ。長じるにつれ耐性はついてゆくが、それまでの守りは必須だ。……これを神が持っていたか」
「か、神?」
あの不気味な少年が神。フィリスが座ったまま飛び跳ねると、カンナの視線が向いた。慌てて居住まいを正すが、視線は逸れてくれない。実年齢的にはクラウスと同年代なのに瑞々しい美貌を誇る主なだけに、見つめるだけでも謎の圧力がある。追い詰められて半泣きになりかける頃に、カンナはそっと首を振った。
「数百年ぶりに目覚めた挨拶のようなものだ。我ら一族へ向けてな。あえてそなたへ声をかけたのは好奇心だけだろうが」
おもむろに伸びた手が水盆の上を撫ぜる。同時に、これまで身じろぎしても揺れるだけで音のしなかった飾りの歩揺が、りぃんと鈴のように鳴った。
水盆の「奥」になにを見たのか、カンナは嘆息を一つこぼした。
「……馬鹿者が。一度の失敗で懲りなんだか」
「結界に拒まれるのに神なんですか」
そろそろフィリスはリリアに尊敬の念すら抱きそうだ。カンナが不機嫌になったのはわかるだろうに、気になることはまっすぐ問いかける。
カンナはつまらなそうにリリアを流し見た。
「拒まれても、あれはその気にさえなればたやすく本殿ごと打ち壊す。そなたの思う神とはかたちが違う」
「そんな!ここを壊すなんて……」
思わずフィリスは声を上げてしまった。「外」に行き場をなくしたフィリスにとって、カンナのいるこの本殿が家で、唯一無二の故郷だった。リリアにとってもそれは同じで、さすがに顔色を悪くしている。
「だから言っただろう。『挨拶』だと。落とし物を届けるついでの気まぐれだ。壊す程度のものでもないとも言っているわけだが」
「で、ですけど、カンナさまでも無理なのですか?」
異能のことはてんでわからないフィリスだが、カンナがサレンディアの異能持ちの中でも一番に優れているのは知っている。そもそもそれが当主の条件だ。さらには、異能持ちが年々減っていく中でありながら、歴代でも屈指の実力を持つとも言われている。なによりカンナはサレンディアを思っている。簡単に神なる不審な少年に屈するとは思えなかった。
従者の無二の信頼を受けたカンナは、はじめて微笑んだ。
嫣然でありながら酷薄な笑みだった。
「……さあ。そのときにならねばわかるまいよ」
その頃、ローナはぼんやりと暗い天井を見上げていた。
暗いならまだ朝ではない。ということだけ意識にあって、二度寝を決め込もうと寝返りを打った。
とたんに襲いかかってきた吐き気と頭痛、それから体中の訴える痛みに、やっと我に返った。
(ど、どこだ、ここ)
寝ているはずなのに脳みそが引っ掻き回されるような感覚は、最近よく覚えがある。単純に力の使いすぎだ。
だが一体、なんでそんなことになったのか。手足の痛みもなんだろう。きっちり手当されているようなごわつく感じが、一度気になるとなかなか逸らせない。
「ローナ、起きたかい」
耳鳴りのせいで誰の声かもわからなかったが、ローナはなんとなくで察した。
「お……」
そして今度は喉の痛みに悶絶した。
「ああ、やっぱり喉も痛めていたね。無理に喋らないで。起き上がれるかな?」
クラウスがそっと肩を叩くので、腕で体を支えて枕から頭を持ち上げたが、血の気がざあっと引いて突っ伏した。
「……むり……」
枕に顔をつけている分まだましで、首飾りはどこかと自分の胸元を探り、サイドボードにも手を伸ばしたが、クラウスが止めた。
「首飾りはないよ。君の着ていた服のポケットも探したけど見つからなかった。というか服があちこち裂けたり焦げたりしていたから、もしかしてその穴から落としてしまったんじゃないかな」
バレたらルアが怒るし服に穴を空けた覚えはないけど、と思って、やっと記憶が繋がった。仮面舞踏会に出ていたのだ。トーサと一緒に脱出して、ナジカに諸共押し倒されてからの記憶がないので、その辺りで気絶したのだろう。
(服は……囲いから出るとき無茶したし、火の中走ったし、そりゃそうか)
首飾りを最後にどうこうしたのはいつだったか。会場の階段の側で外して、それからだ。ローナはいっそう血の気の引いた顔で、枕を頬で擦るようにクラウスの方を向いた。小さなランプに火が灯っている。クラウスはローナの視線の意味をわかっているように首を振った。
「多分落ちているとしたら屋敷の中だ。君が意識を失った時点で首飾りを付け直そうと探しても見つからなかった」
最悪だ。ローナは歯を食いしばって起き上がった。目眩も吐き気もちっとも治っていないが、それでも。確か屋敷は崩れはじめていた。今頃瓦礫の山になっているあの中から、小さな小さな首飾りを見つけられるのはローナだけだった。
(というか、丸ごと燃えてるんじゃ……)
「首飾りの石が燃える心配はいらない。リギアが作ったお守りだからね。今はまだ屋敷も燃え残っているだろうし、どのみち今すぐには行けないよ。明るくなってからにしなさい」
「……う……」
「はいこれ、薬を溶かしているので、飲んでまた一眠りしなさい。次に起きた時には、もう少し体調がましになっているだろうから」
コップを押し付けられて、ローナは渋々飲んだ。とろりとした甘いような苦いような液体が、傷だらけの喉に滲みる。飲んだあとに清涼感があって、少しだけ頭痛が止んだ。
「ん、ん……あ、ありがとう」
ましになった掠れ声に微笑み返したクラウスによって、ローナの手からコップが未練ごと抜き取られた。
「さあ、寝なさい。大丈夫。石は壊れないし、燃えない。君が見つけるまでちゃんとそこにあるから、少しだけ休憩するんだ」
ローナにとってあの首飾りは力の制御に必要なものであり、それよりもなによりも、母のくれた大事な形見だった。着けているのが常態で、ないとわかると物凄く落ち着かない気分になる。なにしろ燃えてるし。
それでも、今は動くことにすら最大限の根気がいる。クラウスの言う通りの休憩時間と思って、ローナはうつらうつらと夜明けを待った。
クラウスはローナが渋々瞑目するのを見守ったあと、細く弱く息を吐いた。
安堵の息だ。
クラウスは城では史官という役職に就いているが、同時に、医官たるに要する資格も持っていた。その資格をごり押ししてカイトにローナとトーサ、二人の治療を一任させてもらい、ルアとナジカも連れてセレノクール邸に引き上げてきたのだ。
焼け死ぬでなくても、煙を吸いすぎても人は死ぬ。そうクラウスは知っていた。二人ともあの場で気絶し、最悪そのまま永い眠りにつくかもしれないと危うんだのはルアとナジカには秘密だ。
結局呼吸はずっと一定だったし、トーサは数時間前、ローナは今さきほど目を覚まして、かなりはっきりと意識を保っていたのを確認できた。
(二人が出てきた時にはもう屋敷は崩れはじめていた……それだけ酷かったのに影響が軽微だったのは、ローナのお陰かな、やっぱり)
サレンディアの希少な異能持ち、裏社会では呪術師や術師とも呼ばれるクラウスの同族が、ろくでもない仕事に手を出したばかりか、昨夜なにをしでかしたのかは大方読めている。異能に耐性のある玄にも感知ができなかったのなら、火そのものは本物。ただそれをより大きくより熱く見せるために術式を組んだのだろう。
ローナはそのまやかしを無意識か意識的にか感じ取り、比較的安全な道を選んで脱出したのだ。倒壊に巻き込まれなかったのもそういうこと。
(修養を全然積んでいないのに素質だけで押し通すなんて。反動がひどいわけだ)
異能を持っていないクラウスでも、簡易の魔除けの結界なら道具さえあれば構築できる。幸い手元には、ローナにセナト経由で渡した小瓶と同じ中身のもう一つが残っていた。……確かにまやかしの火の対策にも使えるが、まさかそれだけで突進していくとは思っていなかった。水を被るとか、外から先に当たりをつけるとかあったろうに。
異能もそうだが、思いがけない猪突猛進っぷりも完全にリギアの遺伝だ。
(止めるのはレイソルの役目だった。……けれど、二人揃ったときは誰にも止められなかったなぁ)
ちらりとローナを見た。目を閉じてはいるが、寝るに寝れない様子なのがわかる。
「ローナ、後でしっかりルアに怒られるんだよ」
ぴくりと眉が動いたのに小さく笑い、術式の支度を手早く始めることにした。
クラウスもローナが出たあと、サレンディアに問い合わせをしなくてはならなかった。
ーーー
また中途半端なところで更新が止まってしまうかもしれませんが、切りの良いところまで間隔短くできるようがんばります……!
山の際に朝日の光芒のひと差しも届かない内から起き出して身支度を整えると、黒漆の水盆を持って外廊に出る。欄干の切れた裾から石の段差を降りて庭を進み、清浄の泉から水盆へ水を汲み取る。
地上では夏の盛りだが、遥か遠く山奥にあるこの地は年中雪に閉ざされている。それでも一族の住まう集落は始祖の護りが色濃く、吹雪くことは滅多にない。穏やかに降り積もった雪はゆっくりと地の下へ溶け流れ、清水となって泉に湧き出す。ほとりほとりと、フィリスの運ぶ水盆に雪が降って溶け混じる。
この地の不思議は守護だけではない。雪が降るのに木々が青く葉を繁らせ、暦の通りに花を咲かせ果実を実らせる。鳥は飛ぶし獣もいる。虫だって秋になればりんりんと鳴く。決まって朔日には雪が止み、一族は星読みに精を出す。
さらに、姫君の住まう本殿にもなれば複雑に入り組んだ術が仕掛けてあるらしい。フィリスはサレンディアの一族ではなく、「外」から拾われてきた身なので細かいことは全然わからない。はじめは驚いて戸惑ってと大変だったが、もう人生の半分以上をこの本殿で暮らしている。灯りもなしに荷物を持って夜を歩けるほどに慣れきっていた。
水盆に水を並々と汲み、こぼさぬようにすり足気味に欄干まで戻る。さすがに段差で足を引っかけるのが怖いので、外廊に水盆を置き、ゆっくりと段差を登る。振り返って水盆をまた持ち上げようとして、フィリスは固まった。
「おはよう」
夜の闇を切り出したように、小さな人影が庭に立っていた。銀の髪に同じくらい色の薄い瞳をゆるりと細めて、フィリスに微笑みかけている。マフラーを巻いているわりに薄手のシャツをまとっているだけで、腰に上着らしき分厚い布を巻き付けているのは暖を取るためとは到底思えない。しかし凍えているようにも見えない。滑らかな頬に血色がほんのりと乗っている。
フィリスは顔色を失くして後ずさった。
今はまだ闇の濃い時間だ。自分の指すらろくに見えないのに、少年の身なりをつぶさに把握できているのが異常だった。それに、柔和な表情のご本家クラウスを見慣れている身からすれば、この微笑みはひどく寒々としていた。
「ずいぶんときれいな髪の色をしてる。雪の白だ」
少年は怖気づくフィリスを見つめてそう言った。
「目はサンザシの赤。顔立ちも懐かしい。ここに還り着くとはな」
「……な、何者ですか」
「おれ?」
少年はまたにこりと笑って、すたすたと近づいてきた。フィリスは蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くしてそれを見守るしかできなかった。フィリスの髪と目の色はそのまま残酷な過去につながる。十数年経ってなお、その傷はかさぶた程度にしか癒えていなかった。
少年は段差の手前で立ち止まって、欄干の上のフィリスをまじまじと見上げた。
「おれはクレア。お前の名前は?」
「……フィリス、です」
「ふうん」
どうしても見た目相応の年齢には見えない少年が、すいっと欄干に手をかけた。とたんにばちりと音がして、弾かれたように手が離れる。
「おお、護りはまだまだ現役か。仕方ないな。フィリス、手を出せ」
本殿の守護に拒まれた得体のしれない生き物の言うことを素直に聞けるわけがない。むしろますます逃げ腰になっていると、少年は肩を竦めてなにかを放る仕草をした。かつん、と外廊に転がっていく音の方向をこわごわと窺うが、暗くてよくわからない。
「落とし物。それじゃあな」
はっとして振り返ったが、遅かった。少年は忽然と消え失せていた。
その後、やっと恐怖を飲み干したフィリスは手探りで落とし物なるものを拾い、懐に仕舞って水盆を持って主の元へ向かった。侵入者の報告する相手も同じなので都合がいい。途中で、フィリスと同じように「外」からの拾われっ子のリリアと行き合った。このおかっぱ頭の不機嫌顔な少年とは十ほど歳が離れているが、フィリスの同僚と言ってもいい。フィリスの主が呼んでいるというので、結界を通じて少年のことはもう把握しているのだろう。リリアが灯篭を持っていたので、それを頼りに早足で姫の居室まで向かった。
「カンナさま、おはようございます。フィリスただいま参りました」
リリアはフィリスが跪いている間に部屋の内部を回って灯篭の火を火燭に移していった。闇の払われた室内の最も奥に、サレンディアの姫長カンナが坐していた。肘置きに身を委ねる隣に水盆を掛ける台があって、低いテーブルがあり、紙が隅に束ねられていた。
座っているその背中から床にまで広がる長い髪は、夜の色をした河のよう。結い上げはしないが、頭上を一廻りする不思議な光沢の輪にはいくつも歩揺が下げられている。若い娘のような鮮やかに赤い唇はにこりとも笑まず、フィリスに命じた。
「そなたの会った者の仔細を話しなさい」
「はい」
仔細と言っても、ほんの僅かな時間の邂逅だった。リリアがフィリスの代わりに水盆を取り替えている間に話し終わるまで、カンナの表情は静謐そのものだったが、落とし物と寄越されたものを懐から出して見せたときに、ぴくりと形のよい眉が動いた。
「それをこちらに」
カンナの差し伸べた手まで遠いので、近寄って丁寧にその手の上に載せると、カンナは石をつまんで近くの火にかざした。石に通った紐がだらりと垂れ下がっている。
フィリスもここでまじまじと落とし物を見たのだが、とてもシンプルな形の首飾りだった。雫のような形の石は紫色。リリアも気になるのか、じっとそれを見つめていた。
「魔除けと引魔の二重がけの術式か。相変わらず繊細と大胆が並立している」
気だるげに肘置きにまた体を預け、片手で石をもてあそぶカンナは、なにかを考えているようだった。ここで思考を妨げてまで話しかける勇気はフィリスにはない。リリアにはあった。
「姫長。術式ということは、それはサレンディアの?」
「リギア。クラウスの亡き妹のものだ」
クラウスの名に、フィリスもリリアも動揺した。二人の命の恩人であり、今なお慕う人である。その妹君……話だけは聞いたことがあった。クラウス本人からでなくても、サレンディアから任務以外で「外」へ出ていく者はかなり珍しいらしく、変わり者の兄妹だと一族の噂にちらほら出てくることがある。とくにクラウスの妹君は、カンナの後継者とも目されていたほど優秀だったとか……。
「ここで修養を積んだあの娘自身にこれは必要ない。『外』で生まれた己が子のために作ったのだろう」
「子ども?リギアさまにお子がいたのですか」
「それしかない。一族の特に異能持ちならば、素養しかない子どもに『外』の空気は猛毒だ。長じるにつれ耐性はついてゆくが、それまでの守りは必須だ。……これを神が持っていたか」
「か、神?」
あの不気味な少年が神。フィリスが座ったまま飛び跳ねると、カンナの視線が向いた。慌てて居住まいを正すが、視線は逸れてくれない。実年齢的にはクラウスと同年代なのに瑞々しい美貌を誇る主なだけに、見つめるだけでも謎の圧力がある。追い詰められて半泣きになりかける頃に、カンナはそっと首を振った。
「数百年ぶりに目覚めた挨拶のようなものだ。我ら一族へ向けてな。あえてそなたへ声をかけたのは好奇心だけだろうが」
おもむろに伸びた手が水盆の上を撫ぜる。同時に、これまで身じろぎしても揺れるだけで音のしなかった飾りの歩揺が、りぃんと鈴のように鳴った。
水盆の「奥」になにを見たのか、カンナは嘆息を一つこぼした。
「……馬鹿者が。一度の失敗で懲りなんだか」
「結界に拒まれるのに神なんですか」
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カンナはつまらなそうにリリアを流し見た。
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思わずフィリスは声を上げてしまった。「外」に行き場をなくしたフィリスにとって、カンナのいるこの本殿が家で、唯一無二の故郷だった。リリアにとってもそれは同じで、さすがに顔色を悪くしている。
「だから言っただろう。『挨拶』だと。落とし物を届けるついでの気まぐれだ。壊す程度のものでもないとも言っているわけだが」
「で、ですけど、カンナさまでも無理なのですか?」
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従者の無二の信頼を受けたカンナは、はじめて微笑んだ。
嫣然でありながら酷薄な笑みだった。
「……さあ。そのときにならねばわかるまいよ」
その頃、ローナはぼんやりと暗い天井を見上げていた。
暗いならまだ朝ではない。ということだけ意識にあって、二度寝を決め込もうと寝返りを打った。
とたんに襲いかかってきた吐き気と頭痛、それから体中の訴える痛みに、やっと我に返った。
(ど、どこだ、ここ)
寝ているはずなのに脳みそが引っ掻き回されるような感覚は、最近よく覚えがある。単純に力の使いすぎだ。
だが一体、なんでそんなことになったのか。手足の痛みもなんだろう。きっちり手当されているようなごわつく感じが、一度気になるとなかなか逸らせない。
「ローナ、起きたかい」
耳鳴りのせいで誰の声かもわからなかったが、ローナはなんとなくで察した。
「お……」
そして今度は喉の痛みに悶絶した。
「ああ、やっぱり喉も痛めていたね。無理に喋らないで。起き上がれるかな?」
クラウスがそっと肩を叩くので、腕で体を支えて枕から頭を持ち上げたが、血の気がざあっと引いて突っ伏した。
「……むり……」
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「首飾りはないよ。君の着ていた服のポケットも探したけど見つからなかった。というか服があちこち裂けたり焦げたりしていたから、もしかしてその穴から落としてしまったんじゃないかな」
バレたらルアが怒るし服に穴を空けた覚えはないけど、と思って、やっと記憶が繋がった。仮面舞踏会に出ていたのだ。トーサと一緒に脱出して、ナジカに諸共押し倒されてからの記憶がないので、その辺りで気絶したのだろう。
(服は……囲いから出るとき無茶したし、火の中走ったし、そりゃそうか)
首飾りを最後にどうこうしたのはいつだったか。会場の階段の側で外して、それからだ。ローナはいっそう血の気の引いた顔で、枕を頬で擦るようにクラウスの方を向いた。小さなランプに火が灯っている。クラウスはローナの視線の意味をわかっているように首を振った。
「多分落ちているとしたら屋敷の中だ。君が意識を失った時点で首飾りを付け直そうと探しても見つからなかった」
最悪だ。ローナは歯を食いしばって起き上がった。目眩も吐き気もちっとも治っていないが、それでも。確か屋敷は崩れはじめていた。今頃瓦礫の山になっているあの中から、小さな小さな首飾りを見つけられるのはローナだけだった。
(というか、丸ごと燃えてるんじゃ……)
「首飾りの石が燃える心配はいらない。リギアが作ったお守りだからね。今はまだ屋敷も燃え残っているだろうし、どのみち今すぐには行けないよ。明るくなってからにしなさい」
「……う……」
「はいこれ、薬を溶かしているので、飲んでまた一眠りしなさい。次に起きた時には、もう少し体調がましになっているだろうから」
コップを押し付けられて、ローナは渋々飲んだ。とろりとした甘いような苦いような液体が、傷だらけの喉に滲みる。飲んだあとに清涼感があって、少しだけ頭痛が止んだ。
「ん、ん……あ、ありがとう」
ましになった掠れ声に微笑み返したクラウスによって、ローナの手からコップが未練ごと抜き取られた。
「さあ、寝なさい。大丈夫。石は壊れないし、燃えない。君が見つけるまでちゃんとそこにあるから、少しだけ休憩するんだ」
ローナにとってあの首飾りは力の制御に必要なものであり、それよりもなによりも、母のくれた大事な形見だった。着けているのが常態で、ないとわかると物凄く落ち着かない気分になる。なにしろ燃えてるし。
それでも、今は動くことにすら最大限の根気がいる。クラウスの言う通りの休憩時間と思って、ローナはうつらうつらと夜明けを待った。
クラウスはローナが渋々瞑目するのを見守ったあと、細く弱く息を吐いた。
安堵の息だ。
クラウスは城では史官という役職に就いているが、同時に、医官たるに要する資格も持っていた。その資格をごり押ししてカイトにローナとトーサ、二人の治療を一任させてもらい、ルアとナジカも連れてセレノクール邸に引き上げてきたのだ。
焼け死ぬでなくても、煙を吸いすぎても人は死ぬ。そうクラウスは知っていた。二人ともあの場で気絶し、最悪そのまま永い眠りにつくかもしれないと危うんだのはルアとナジカには秘密だ。
結局呼吸はずっと一定だったし、トーサは数時間前、ローナは今さきほど目を覚まして、かなりはっきりと意識を保っていたのを確認できた。
(二人が出てきた時にはもう屋敷は崩れはじめていた……それだけ酷かったのに影響が軽微だったのは、ローナのお陰かな、やっぱり)
サレンディアの希少な異能持ち、裏社会では呪術師や術師とも呼ばれるクラウスの同族が、ろくでもない仕事に手を出したばかりか、昨夜なにをしでかしたのかは大方読めている。異能に耐性のある玄にも感知ができなかったのなら、火そのものは本物。ただそれをより大きくより熱く見せるために術式を組んだのだろう。
ローナはそのまやかしを無意識か意識的にか感じ取り、比較的安全な道を選んで脱出したのだ。倒壊に巻き込まれなかったのもそういうこと。
(修養を全然積んでいないのに素質だけで押し通すなんて。反動がひどいわけだ)
異能を持っていないクラウスでも、簡易の魔除けの結界なら道具さえあれば構築できる。幸い手元には、ローナにセナト経由で渡した小瓶と同じ中身のもう一つが残っていた。……確かにまやかしの火の対策にも使えるが、まさかそれだけで突進していくとは思っていなかった。水を被るとか、外から先に当たりをつけるとかあったろうに。
異能もそうだが、思いがけない猪突猛進っぷりも完全にリギアの遺伝だ。
(止めるのはレイソルの役目だった。……けれど、二人揃ったときは誰にも止められなかったなぁ)
ちらりとローナを見た。目を閉じてはいるが、寝るに寝れない様子なのがわかる。
「ローナ、後でしっかりルアに怒られるんだよ」
ぴくりと眉が動いたのに小さく笑い、術式の支度を手早く始めることにした。
クラウスもローナが出たあと、サレンディアに問い合わせをしなくてはならなかった。
ーーー
また中途半端なところで更新が止まってしまうかもしれませんが、切りの良いところまで間隔短くできるようがんばります……!
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