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第一部
4-2
しおりを挟む着なれないタキシードの襟を擦り、ローナはひたすら渋面で鏡を見た。
ずいぶんとひどい顔だったものの、とにもかくにも用意はできたので、早速荷物を持って部屋を出た。
「おや、立派な姿だね」
廊下で珍しく通りすがったクラウス伯父(この人は基本部屋か食堂しか行き来しない)に、なんとか苦笑いを返した。
「どんな人でも見映えがよくなるからね、こういうの」
「そんなことは、もったいないから言わない方がいいよ。シュカ君の実家もずいぶんと気合いを入れたみたいじゃないか。その装飾品も、似合ってるよ」
「ああ……」
持ち手に宝石がつけられているステッキを見下ろして、やっぱり、とため息をついた。
「いつ傷がつくか怖いんだよなぁ……。弁償の時が今から思いやられるよ」
「早い早い。それにしても、髪は整えないのかい」
「整えたつもりだけど」
「早速落ちてるよ」
「うげ。……あー、もう。めんどいなぁ」
「今日はルース君の家なんだろう?まだ気楽じゃないか」
「比較的ってだけだよ。もう……」
ローナのこんな風にうだうだした姿も珍しいものだった。優柔不断な男なので、これまで迷ったことがないと言えば嘘になるが、ナジカの前では、ローナはできるだけ余裕ぶろうと思っていたので、人前でその素振りをすることを避けていたのだ。
それが、今、伯父の肩にすがってあーだのうーだの言っている。取り繕えないほどのストレスを感じているのだった。
クラウスは仕方ないねえ、とローナの背中を軽く叩いてやった。
「頑張りなさい、これも経験だ」
「頑張る……」
逃げられないと、わかっているからこそ管を巻いている面もあるのだった。そして、逃げることだけはしないからこそ、クラウスもローナの甘えを許していた。
ラスマリア伯爵邸のパーティー会場は、豪華の一言に尽きた。贅を凝らしたわけではない。しかし、全ての調度が品よくまとまり、会場の雰囲気を明るく照らしていたのだ。
それにも増して、招待客が華々しい人々ばかりだった。人の顔を覚えるのが苦手のローナでも新聞でよくその絵を見るような、と言えばいいだろうか。新聞にしょっちゅう顔が載るような有名人が犇めいているのである。
ローナは気後れして全力で気配を消していたが、そうしなくても変わらなかったかもしれない。シュカの家から借りた礼服は、仕立てがいいものの落ち着いたデザインと色で、周囲と比べるとよりいっそう地味に見える。胸に差すスカーフはこれから続く他の夜会で色を変えるが、他は使い回しの予定である。
「あー、これ、いつ挨拶に行けばいいんだ……?」
雰囲気に気圧されてついつい壁際に寄ってしまう。どうしよう。本当にどうしよう。学園の礼儀作法の講義の記憶が薄すぎる。とりあえずやらなくてはいけないことを必死に脳裏にリストアップしていると、こつん、とことさら近くで足音が漏れた。
「君が、ローナ・ハヴィン?」
「……へ?」
「ぼくはネイシャ・セフィア。君の上司のランファロード兄さんの、弟」
「……え!?」
思わず飛び上がったローナだった。身構えないだけましといった緊張具合をネイシャが気にした素振りはなく、むしろその斜め後ろの青年の方が訝しげな顔をしていた。
「は、はじめまして。ローナ・ハヴィンと申します。兄君には普段からお世話になってます……」
「噂だけなら知ってるよ。兄さんから教えてもらってた訳じゃないけど……その様子だと、噂はあくまで噂だったみたいだね」
「う、うわさ」
「来たとたんにこーんな端っこに寄っちゃって。顔繋ぎに絶好の機会なのにまごまごしっぱなし。うん。このくらい度胸がない方が兄さんの精神衛生に支障をきたさないよね。よかったよかった」
独り言というにはあまりにもくそみそに言われたローナが目を白黒しているうちに、ネイシャは満足げな顔をして踵を返したのだった。あっさりと人混みにまぎれてその姿が見えなくなる。顔立ちは似ていてもランファロードの長身は受け継がなかったらしい。
「あー……悪い、あいつ、超ブラコンなんだよ」
ネイシャの従者のように立っていた青年が、頭を掻きつつ弁明するように話しかけた。ローナが視線を合わせると、思い出したように右手を差し伸べる。気負いのない、いたって当たり前のような仕草だった。
「悪い、挨拶がまだだった。おれはユイス。ユイス・ランバート。一応ネイシャの同僚」
握手を交わしたローナは、なんだかほっとしてしまった。これぞ普通の挨拶という感じが物凄くする。普通ってこんなに素晴らしいんだな知らなかった。思わずはにかんで名乗りを返した。
「ローナ・ハヴィンと申します。同僚、とは……」
「工科機関の中堅ってところかな。あいつは兄貴に似て頭がいいんだ。おれはそのおこぼれをもらってるようなもんだよ。なんでか気に入られてんだよなぁ……。うん、だから、まあ、おま……君……うーん名前で呼んでいい?」
「あ、はい」
「ローナもさ、大変だと思うけど、いつか慣れるから。おれの場合ネイシャだけど、そっちの二人が気にしてないならそれでいいかって気楽に構えといたらいいよ」
「あ……ありがとうございます」
励ましてくれている、とわかったローナは心がほんわりした。招待状が贈られてようやく、己の立ち位置のまずさを思い知ったばかりだったのだ。
噂も、城で耳を澄ませていればいくつか飛び込んできた。ローナと天上の二人の間柄を訝しむそれは、時に変な尾ひれをつけて人々の間を泳いでいた。ここまで来ると、むしろ今まで気づかなかった自分の能天気さをどうにかしたくなっていた。
シュカもよく新しい尾ひれを発見したら逐一教えてくれるので、日々戦々恐々と過ごしていたところに、この優しいお言葉である。
「勝手に同類判定して悪いけど、まあ愚痴ぐらいは聞くからさ。なんかあったらラードに来てみて」
「ありがとうございます……」
この人に会えただけで、今日はこの夜会に来たかいがあったというものだ。ローナは拝まんばかりにユイスの去っていく後ろ姿を見送った。
「やっと会うことができた。君がローナ・ハヴィン君だね」
「息子からよくお話を聞きますよ」
ユイスと離れしばらくした後、ルースを見つけるより先に見つけられ、「なぜこんな壁際にいる」だの「挨拶もまだ?何をしていたんだお前は」だのと辛辣に言われつつルースの両親の元まで案内され、やっと主催者とご対面となった訳だが、なぜかラスマリア伯爵夫妻はやたらと好意的だった。
周りに集まる人々の好奇の視線は間違いなくローナに向けられていたが、夫妻はここで噂のことを持ち出す愚は犯さなかった。高級官僚を輩出するラスマリア家がローナを呼びつけた意味を探ろうとする空気をものともせず、しっかりとローナに握手をした伯爵である。
元々、噂のために招待状を贈ったわけではない。便乗したことは否めないが、目的はズバリ。
「息子の偏屈な性格に長く付き合ってくれてありがとうね」
「父上、どういう意味でしょうか?」
「ルースは粘着質でしょう?学生の頃からたくさん迷惑をかけてきたんじゃないかしらって、ずっと気になっていたのよ」
「母上まで!?」
こちらもまたくそみそである。思わず声を上げるルースの味方をしたのは、なんとローナであった。
「ご子息はとても勤勉で真面目で、尊敬しても足りないくらいです」
ルースはぴたりと動きを止めた。
「口は悪いですけど、とても優しい性格ですし。気配りだってちゃんとして。何度かおれもそれに助けられてきました」
伯爵夫人はとっさに扇で口元を覆った。
「こんなしがない身分のおれですが、これからもご子息と親しくしていってもいいでしょうか……?」
伯爵は何度も首を縦に振った。その度に光るものが散っている。
ローナはがっしりと伯爵に肩を掴まれ、とっさに膝を折りかけた。それほど唐突で、強い力だったのだ。そしてがばりと抱擁を受けた。
「こちらから頼むべきことだ……!ありがとうローナ君!これからも息子をよろしく頼むよ!いやあ、なんて素晴らしい友が息子にあったものだ!ルース!大事にするんだぞ!」
「ええ!ええ!うちの愚息をここまで理解してくれるなんて……!感謝してもしたりないわ……!ルースもほら!返事しなさい!」
味方どころかとんだ伏兵だったと、水を向けられたルースは必死でそっぽを向いていた。人垣の中でやることではない。その耳が赤く染まっており、観衆は驚愕する気配だった。
この衆人環視の中、ラスマリア伯爵家に受け入れられ、嫡男の友人と公認されたわけだ。つまり、ローナの後ろ楯が一つ増えたことになる。ポンコツなローナにはそんな意図はなかったし、伯爵夫妻もまさしく勢いに乗っただけなのだが。それを理解しているのはルースだけだが、彼にとっては今さらなことだ。ローナの背後関係などあっても、それをどうこうする気は端からないし、変な風に働きかけられて揺らぐ伯爵家ではない。
両親にばしばしと背中を叩かれて急かされたルースは、渋々ローナの方に向き直った。結構痛かった。特に扇が。
「……まあ、お前はのろまだし、嫡子だというのにいかにも頼りないからな。仕方ないから付き合いを続けてやる」
「ルース!なんてことを!」
「あなたって子は!」
照れ隠しにしても傲慢すぎる発言に夫妻が青ざめるが、ローナ本人はいつも通りだと笑って流していた。
「うん。ありがとう」
この話を後から聞き付けたシュカが、ルースを指差しながら抱腹絶倒して呼吸困難にすらなるのだが、この時平静さを失っていたルースはそれに思い至らず、またもローナの笑顔から顔を背けていたのだった。
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