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第一部
閑話︰人外生物の会合
しおりを挟む月と星がそろそろ輝き始める落陽の頃だった。
何日も前、苛烈で凄惨な舞台となった小高い山の頂上に、シェリアは立っていた。
一度己の登った山をぐるりと見渡し、多くの遺体が処理をされた見えない痕跡を見つけて眉をしかめる。当分この山は入山規制が敷かれているが、そのうちに草木も枯れそうなほど、濃密な『死』の気配がある。
これをやった人間も、殺されたたくさんの人間も。ずいぶんと恨みを溜め込んだものだ。
「……目覚めたあんたは、どうなのかしらね」
「ええー?それはひっどいぜ。ただ寝てただけだっての。起こされた側だぜ、おれ」
入山規制など無視してここまで入り込んでいたシェリアの周囲には、誰もいない……はずだった。
ふわりと、まるで空から舞い降りたように、十歳ほどの全裸の少年が姿を現す。金色の混じった銀灰色の髪に、ルチルの瞳。シェリアと同じように全体的に色素が薄いが、映し出す感情は大きく異なる。シェリアは微かな諦感と無気力を滲ませていた。目の前に降り立った少年はすぐにそれに気づいて、下からあっけらかんと笑いかけた。
「お前は、おれが寝てるうちにずいぶんと面倒なことばっかりやってたらしいな。さては王に仕えるのを止めなかったな?もう何百年目だ?」
「……もうやっていないわ。それよりなんなの、その姿。ずいぶんと中途半端ね」
「ああ、だって叩き起こされた側だもん。まだ覚醒が充分じゃないってことだ」
少年はようやく己が裸であることに気づいたのか、虚空から成人男性が着るような服一式と、長いマフラーを取り出す。妖艶な美女の見た目であるシェリアの前で恥ずかしげもなく着替え、大きく余る袖口は頑張って捲り上げていた。こうしてますます見た目の幼さが助長され、一見ただの無垢な子どものようだが、鋭い人間は、そのルチルの瞳に、子どもにはあり得ない老獪さと知識の厚みを見つけるだろう。
シェリアもその点では同じだ。二十代前半の美貌に滲む知性の色は魅力を通り越して気味悪ささえ感じさせる。
事実、二人の見た目は、そのまま生きてきた年月を表すものではない。
「軽く目覚めたついでにざっと翔んでみたけど、何百年経っても人間は愚かだな。ずいぶんと血生臭いことをするもんだ。百人近くここで贄にされてるし」
少年は自分の体をくまなく見下ろし、少し辟易したような顔をした。人間の血の匂いが体に染み付いていて、非常に不快だ。
みそぎをしなきゃな、とため息をついた。慣れない幼体だし完全な覚醒もまだなので勝手が悪い。
この山にこっそりと描かれていた術式は、長い眠りから目覚める少年を確実に捕らえる罠だった。つまり身の程知らずにも少年を利用しようという輩がいるということだ。
しかし、現実には少年は捕らえられなかった。覚醒の直前で術式が不完全になったからだ。
「術式の端っこ消したの、お前?」
「違うわ。夥しい血を振り撒いた人間はサレンディアでもないけど、勘が類い稀にずば抜けていたようね。」
「へえ。そりゃあまた運がいい。そんなら、せっかく三百年ぶりくらいに目が覚めたんだし、しばらく起きとくかな……。そういや、もう一人は?あいつも起きてるの?」
「レーデは百年くらい前からずっと起きてたわ。以降は寝る気配はないわね」
「へえ」
少年は意外な回答に大きな目を見張った。レーデは――シェリアも少年も同じだが――それなりに人間嫌いだったはずだが、変わるようなことでも起きたらしい。
「なら遊びに行こうかな」
「……数百年ぶりに、三人ともが覚醒したわけね。クレア、あんたを狙った奴のように、サレンディアの他にも厄介な人間がいるわ。ヘマしてたら笑えないわよ」
「気が向いたら潰すさ」
シェリアは、これほど信用ならない言葉はないぞ、と半目になった。この少年はよくも悪くも気が長いのだ。気が向くのが百年先でもおかしくなかった。
気づけば日暮れ、清明な月明かりが宵を呼ぼうとしており、暗闇に立つ二人は、常人には見えない燐光を身にまとっていた。
しゃらん……と冥府の鈴の鳴る音で、彼らは新たな客人の存在を認識した。
クレアが振り返った先に、幼い兄妹がいた。クレアの見た目と同じ年頃のこの兄妹もまた、青い燐光を放っていた。
シェリアとクレアは、虚空に深い水と白檀の匂いを嗅いだ。
――黄泉の扉の番人の降臨だ。
「あ、起きたんですね」
夜よりも黒い癖っ毛の髪に藍より深い青の瞳、真っ黒な衣に色白の少年はその男女を認めてにっこりと微笑んだ。笑うと、子どもとは思えない威圧感は掻き消え、無邪気さだけが浮かび上がってくる。
クレアは応えてひらりと気軽に手を振った。
「久しぶりー。相変わらず胡散臭い笑顔してるな。三百年経ってもまだ現役なんだな」
「この躰はずいぶんと耐性があるみたいで。あと百年はこれでいいです」
「そっちのも?」
クレアが示した先には少年に抱きついて甘えている幼女がいた。にこにこと笑っているが、声を発しない。クレアに呼ばれたのに気づいたのか、人外の二人にも笑いかけた。
「むしろ、この器があるから長持ちしてるんですよね」
少年はいとおしげに幼女の金髪の髪を柔らかく撫でた。かつて氷の微笑が似合っていた番人は、見ないうちにずいぶんと器の記憶に影響されているらしい。クレアはちょっと呆れた。
「どいつもこいつも人間に転んでんのか?シエリフはそれ容認してるのか」
「なんだか面白がってますよ。あの方は元々この躰がお気に入りで私に貸し与えたんですし」
「まだ食う気はないのか?そんなにあのおっさん、気長だっけ?」
「あなたには言われたくないと思いますよ……」
少年も呆れ笑いを浮かべた。口端を少しつり上げ、目を細めているそれすらも、穏やかな感情の表れだった。元の器だったとしても、乗り移っている方にしても、どちらにしてもあり得ない表情だ。前者であればクレアの記憶通りならばいつでも憎悪が渦巻いていたし、後者は常に人間を見下していた。
ましてやその唯一の主たる冥王シエリフが黙って食らう機会を待っているという。天変地異の前触れだ。
「……顔を見れば何て思ってるかだいたいわかりますけど……シエリフさまだって、気に入ったものは大切にする方なんですよ」
「おっさんのことだから、百年くらいで癇癪起こしてるかと思ったんだけどな」
「おっさん呼ばわりできるのもあなたくらいですよね」
最後に苦笑した少年は、幼女と手を繋いで山の頂上の――惨劇の中心地に向かった。シェリアもクレアも、わずかに足を動かして、冥王の遣い二人のために道を開けてやった。
黒髪の少年は軽く会釈をして通りすぎ、その座標に立つと、幼女と繋いでいるのと反対の手を、縦に振り上げた。
しゃらん、と見えない鈴の音が、再び響く。それだけで空気が切り替わった。病みそうなほど澱んだものを掃き清め、この地に染み込んだ怨念たちを昇華させるための儀式の始まりだった。
音に触発されて、いくつもの蛍火が中空に舞い上がった。
「お仕事お疲れさん」
「ほんとですよ。あなたが寝ていたうちに始まった戦争も終わって、ようやく一段落ついたと思ったらこの穢れ。人間という生物は本当にどうしようもないですね」
「全くもって同意。――じゃあな、おれはもう行くわ」
「おや。まだ不完全でしょう。危ないですよ」
「慢心はしてねえぞ。レーデのところに遊びに行くんだ」
ひらりと手を振ったクレアの姿は、瞬きのあとにはもう闇に消えていた。「遊びにって、レーデさんも困ると思いますけどねぇ」という苦笑混じりの声は、虚空に消えた。
さて、と少年がいくつもの光の泡を振り返ると、その奥に黄泉の門が顕現していた。闇に浮かび上がる漆黒の境界。既に大口を開けて待ち構えていた。
満足げに頷いて妹の手を離すと、妹は後ろに身を翻し、まだ残っていたシェリアに抱きついた。
シェリアは、珍しく驚きを満面に出して、幼女の体を受け止めた。
「あーあ。十五年前からあなたに懐いてるんですよねぇ、その子」
「…………邪魔よ。兄なら回収しなさい」
「言われなくても。――おいで、ネル。先にお仕事を済ませようね」
愛称を呼ばれた幼女はあっさり離れると満面の笑みで兄に抱きつきにいき、舞い踊る光に混じってくるくると回り始めた。
幼い巫女は無意識に全てを清めていった。袖を振った先の光がちかりちかりと明滅し、戯れるように浮き上がり、やがて黄泉の門に吸い込まれていく。幾度も幾度もそれが繰り返されていく。
少年はそれを見届けながら、足元の肉眼では捉えられない不完全な術式を無造作に足で踏みにじった。そこに大きな意味はない。ちらりと視線をやると、先程までいた女性も姿を消していた。今のうちに退散することにしたらしい。
口端に笑みが浮かんだ。神の僕の情愛深い笑みだった。
「十五年前に会った時よりも、人間臭くなってたなあ」
長い眠りから目覚めた少年が隣にいたから、その差はますます際立っていた。
『どいつもこいつも人間に転んでんのか?』――その言葉は、彼女にも当てはまることだ。
十五年前、番人の少年にそっくりな兄とネルにそっくりな弟を、まさか理を曲げてまで生かしているのだ。知ったクレアなら爆笑するか、ぽかんと呆気にとられるかだろう。レーデも百年前に理は曲げないまでも、一人の少女に祝福を与える異例を行った。
彼らは人間嫌いなのに、やはり人間を完全には見捨てられないのだ。
何だかんだで、クレアも同じ状況に陥ったとき、同じようなことをする気がする。それも、元人間だからこそと言えるだろう。
番人の兄妹は人間の器を使ってはいるが、その辺りが根本的に違う。人間には、彼らを捕らえられはしても、兄妹は捕まえられない。常識が違う。
それでもあの三人ならば、捕らえられたとしても簡単に術など破れるが。
「まあ、それでも人間臭いと躓く回数も増えるからなぁ」
人間の分際で、現人神の首に輪をかけて引きずろうという。番人の兄妹とは違う存在だが、同時に近しい存在でもある彼らを、少年は心配していた。実際に目覚めさせることはできたのだ。輪を逃れたのは運の結果に過ぎない。
この地に溢れる怨嗟を――その持ち主たちの集団を生け贄に、上部の組織がクレアを狙ったのだ。なりふり構わない狂った人間ならいつの時代にも現れるが、今回はひときわ性根が悪い。
本来なら抑えに回る『夕立』の一族も綻んでいる。サレンディアの術者にしか使えないこの術式が、ここに存在していることが明らかな証拠だ。
「仕事、これ以上増えないといいなぁ」
番人の少年は、苦労人の顔でやれやれと首を振ったのだった。
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