23 / 56
第一部
2-6
しおりを挟む
「ハヴィン」
ある長閑な昼間、訓練場での打ち合いの最中に声をかけられ、観戦していたローナはそのままアイザスに木陰に連れていかれた。
何だかんだで、あの誘拐事件からもう一月と半月が経とうとしていた。
「どうしたんですか、アイザスさま」
「あとで全員に周知させるが、お前には先に知らせておこうと思ってな」
アイザスはどこかためらうように視線を揺らがせ、やがてぽつりと告げた。
「……南方ケルシュで、ヘーゼルの旗が上がった」
「…………え?」
ローナは思考を停止させた。ケルシュも、ヘーゼルもわかる。ただ、その意味がわからなかった。
「……待って、ください。エーラのあと、消息がまた途絶えていたんじゃ……」
「王都の南に、やくざものや流れ者が多かっただろう。即位式のためだけかと思っていたんだが、今も流入は止まっていないのはお前も出動を繰り返しているから知っているだろ、ケルシュから逃げてきていたんだ」
先日の会議でおれも知った、とアイザスは苦い顔で頭をかいた。
「逃げてきた奴らは不法者が多い。関所を逃げ出すのは民間人には厳しいからな。……しかし、ハルジアの報告によると、ケルシュの都市機能自体、いつ破綻するかわからないそうだ。だいたいケルシュ内部でも情報が錯綜している。――わかるな、ハヴィン。お前に先に言うのは、ナジカちゃんのためだ。他に口外するな。余計な混乱を招くことは許さん」
「……はい」
ローナの喉はからからに干上がっていた。ナジカのトラウマの根源――しかも、ナジカはヘーゼルの魔の手から逃れた唯一の生存者だった。
「……城は、どう対処するんですか」
「…………それ、は」
なおさら、アイザスは言い淀み、呆然としたローナをちらりと見て、重々しくため息をついた。
「……まだもめている。相手はハルジアでさえもが形を掴めない、巨大かつ不透明な団体だ。決定的な戦力も足りなければ、大騒ぎで人員を動員するわけにはいかない。しばらくは様子見だろう」
「ナジカは」
「安心しろ。出頭要請なんて出させない。記録上は全滅だし、大した情報もないのは、以前にレイソル殿の作った報告書だけでも明らかだ。……ナジカちゃんの目の前にいたのが、頭領であってもな」
「――アイザスさま」
「異論はセフィアさまが先に潰すさ。万が一があったら、ナジカちゃんを連れてセレノクール家に逃げ込め。お前、あそこの公爵殿とも仲がいいんだろ」
「ナジカは、今、ようやく立ち直ってきたところなんです」
「ああ、知ってるよ。だからだ」
公私混同なんて百も承知、アイザスはそう嘯いた。
「あの子を守りきれなかったティリベルの責任を、あんなちっさな子に押し付けられるか。……大勢を取るか、一人を取るか、まだ猶予はある。だから、お前はちゃんと――」
「ナジカを傷つけるくらいなら、おれが出ます」
「――おい!それは!」
ローナの決意を秘めた瞳に、アイザスは声を荒げた。ぎょっとするどころの話ではない。
「お前、何を言ってるのかわかってんのか!?」
「おれの『力』なら、充分にナジカの代わりになるでしょう」
「お前のそれもリスクがあるんだろうが!だいたいクラウス殿にも止められている!」
ローナは、なぜあの穏和な伯父がこうも聞く先々で危険人物のように言われるのか、よくわかっていない。この際に聞いてみると、アイザスは頭を抱えた。風船の空気が抜けるような脱力の仕方に、ローナの方が驚いた。
「……お前、身の周りのことを見逃しすぎだろ。クラウス殿は先の大戦でも戦場を渡り歩いては小競り合いを鎮圧しまくった方だぞ。武力によらず、知恵だけで」
「そうなんですね」
「反応が軽い!!」
「話を戻しますけど、ナジカの代わり、というだけです。最後に抑えきれなくなったらおれを使ってください。それまでには伯父さんを説得します」
「……この阿呆が!打開策考えてやるよ!お前、危なっかしいんだよ本当に!」
「終わりがよければ、それでいいです」
「言っとくけど後始末はおれらがやるんだからな!?お前の能力も極秘事項なんだよ!一旦漏れたら……それどころか、利用価値があると見込まれたらもう庇えないんだぞ!」
さすがにそこまで考えていなかったローナは、ぱちぱちと目を瞬かせ、確かに、とぽそりと言った。先程までの怒りも消え失せ、ローナは自分の進退が気になり始めた。
「……おれのこれって、そんなに有用なんですかね?それに……」
セレノクール家が守るにしても、ローナはすでに公爵家当主に対して大恩を感じている。結局、最後には、ローナは自分の意志でもそうでなくても、『力』を使う未来が待っている気がした。
アイザスがなんとも変な顔をしているうちに、ローナはうん、と頷いた。
「でも、おれも官吏です。おれが望んでやることなら、いいでしょう」
「……お前、それ、丸投げって言うんだぞ」
「本当に考えなしで申し訳ないです。でも、駄目なんです」
ナジカはようやく前を向き始めたのだ。止めていた時を回して、ゆっくりと。――今失敗すれば、ナジカは今度こそ闇に落ちて溶けていってしまうだろう、そんな予感があった。
「……わかった。とにかく、今の話はおれの胸に留めておく。万が一の逃げ道に使われたらたまらんからな。お前もそのつもりでいろ。いいな」
「ありがとうございます」
ローナはアルザスが提示する最大限の便宜に、深々と頭を下げるしかなかった。
やりたいことと、やらなくてはいけないことが多すぎる。
今のローナには誰も守れない。だからといって、周りがその代わりに守ってくれるわけではないのだ。物理的にも、政治的にも。
手始めは、この部署にいるからには必要な能力を身に付けることから。それから、父の死にまつわるあれこれを明らかにすること。
恩情で生き長らえている状態から脱却するために、確固たる地位が必要だった。
ローナは、急いで強くなるべきだった。
ある長閑な昼間、訓練場での打ち合いの最中に声をかけられ、観戦していたローナはそのままアイザスに木陰に連れていかれた。
何だかんだで、あの誘拐事件からもう一月と半月が経とうとしていた。
「どうしたんですか、アイザスさま」
「あとで全員に周知させるが、お前には先に知らせておこうと思ってな」
アイザスはどこかためらうように視線を揺らがせ、やがてぽつりと告げた。
「……南方ケルシュで、ヘーゼルの旗が上がった」
「…………え?」
ローナは思考を停止させた。ケルシュも、ヘーゼルもわかる。ただ、その意味がわからなかった。
「……待って、ください。エーラのあと、消息がまた途絶えていたんじゃ……」
「王都の南に、やくざものや流れ者が多かっただろう。即位式のためだけかと思っていたんだが、今も流入は止まっていないのはお前も出動を繰り返しているから知っているだろ、ケルシュから逃げてきていたんだ」
先日の会議でおれも知った、とアイザスは苦い顔で頭をかいた。
「逃げてきた奴らは不法者が多い。関所を逃げ出すのは民間人には厳しいからな。……しかし、ハルジアの報告によると、ケルシュの都市機能自体、いつ破綻するかわからないそうだ。だいたいケルシュ内部でも情報が錯綜している。――わかるな、ハヴィン。お前に先に言うのは、ナジカちゃんのためだ。他に口外するな。余計な混乱を招くことは許さん」
「……はい」
ローナの喉はからからに干上がっていた。ナジカのトラウマの根源――しかも、ナジカはヘーゼルの魔の手から逃れた唯一の生存者だった。
「……城は、どう対処するんですか」
「…………それ、は」
なおさら、アイザスは言い淀み、呆然としたローナをちらりと見て、重々しくため息をついた。
「……まだもめている。相手はハルジアでさえもが形を掴めない、巨大かつ不透明な団体だ。決定的な戦力も足りなければ、大騒ぎで人員を動員するわけにはいかない。しばらくは様子見だろう」
「ナジカは」
「安心しろ。出頭要請なんて出させない。記録上は全滅だし、大した情報もないのは、以前にレイソル殿の作った報告書だけでも明らかだ。……ナジカちゃんの目の前にいたのが、頭領であってもな」
「――アイザスさま」
「異論はセフィアさまが先に潰すさ。万が一があったら、ナジカちゃんを連れてセレノクール家に逃げ込め。お前、あそこの公爵殿とも仲がいいんだろ」
「ナジカは、今、ようやく立ち直ってきたところなんです」
「ああ、知ってるよ。だからだ」
公私混同なんて百も承知、アイザスはそう嘯いた。
「あの子を守りきれなかったティリベルの責任を、あんなちっさな子に押し付けられるか。……大勢を取るか、一人を取るか、まだ猶予はある。だから、お前はちゃんと――」
「ナジカを傷つけるくらいなら、おれが出ます」
「――おい!それは!」
ローナの決意を秘めた瞳に、アイザスは声を荒げた。ぎょっとするどころの話ではない。
「お前、何を言ってるのかわかってんのか!?」
「おれの『力』なら、充分にナジカの代わりになるでしょう」
「お前のそれもリスクがあるんだろうが!だいたいクラウス殿にも止められている!」
ローナは、なぜあの穏和な伯父がこうも聞く先々で危険人物のように言われるのか、よくわかっていない。この際に聞いてみると、アイザスは頭を抱えた。風船の空気が抜けるような脱力の仕方に、ローナの方が驚いた。
「……お前、身の周りのことを見逃しすぎだろ。クラウス殿は先の大戦でも戦場を渡り歩いては小競り合いを鎮圧しまくった方だぞ。武力によらず、知恵だけで」
「そうなんですね」
「反応が軽い!!」
「話を戻しますけど、ナジカの代わり、というだけです。最後に抑えきれなくなったらおれを使ってください。それまでには伯父さんを説得します」
「……この阿呆が!打開策考えてやるよ!お前、危なっかしいんだよ本当に!」
「終わりがよければ、それでいいです」
「言っとくけど後始末はおれらがやるんだからな!?お前の能力も極秘事項なんだよ!一旦漏れたら……それどころか、利用価値があると見込まれたらもう庇えないんだぞ!」
さすがにそこまで考えていなかったローナは、ぱちぱちと目を瞬かせ、確かに、とぽそりと言った。先程までの怒りも消え失せ、ローナは自分の進退が気になり始めた。
「……おれのこれって、そんなに有用なんですかね?それに……」
セレノクール家が守るにしても、ローナはすでに公爵家当主に対して大恩を感じている。結局、最後には、ローナは自分の意志でもそうでなくても、『力』を使う未来が待っている気がした。
アイザスがなんとも変な顔をしているうちに、ローナはうん、と頷いた。
「でも、おれも官吏です。おれが望んでやることなら、いいでしょう」
「……お前、それ、丸投げって言うんだぞ」
「本当に考えなしで申し訳ないです。でも、駄目なんです」
ナジカはようやく前を向き始めたのだ。止めていた時を回して、ゆっくりと。――今失敗すれば、ナジカは今度こそ闇に落ちて溶けていってしまうだろう、そんな予感があった。
「……わかった。とにかく、今の話はおれの胸に留めておく。万が一の逃げ道に使われたらたまらんからな。お前もそのつもりでいろ。いいな」
「ありがとうございます」
ローナはアルザスが提示する最大限の便宜に、深々と頭を下げるしかなかった。
やりたいことと、やらなくてはいけないことが多すぎる。
今のローナには誰も守れない。だからといって、周りがその代わりに守ってくれるわけではないのだ。物理的にも、政治的にも。
手始めは、この部署にいるからには必要な能力を身に付けることから。それから、父の死にまつわるあれこれを明らかにすること。
恩情で生き長らえている状態から脱却するために、確固たる地位が必要だった。
ローナは、急いで強くなるべきだった。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
幼い公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~
朱色の谷
ファンタジー
公爵家の末娘として生まれた6歳のティアナ
お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。
お父様やお兄様は私に関心がないみたい。愛されたいと願い、愛想よく振る舞っていたが一向に興味を示してくれない…
そんな中、夢の中の本を読むと、、、
異世界転移に夢と希望はあるのだろうか?
雪詠
ファンタジー
大学受験に失敗し引きこもりになった男、石動健一は異世界に迷い込んでしまった。
特殊な力も無く、言葉も分からない彼は、怪物や未知の病に見舞われ何度も死にかけるが、そんな中吸血鬼の王を名乗る者と出会い、とある取引を持ちかけられる。
その内容は、安全と力を与えられる代わりに彼に絶対服従することだった!
吸血鬼の王、王の娘、宿敵、獣人のメイド、様々な者たちと関わる彼は、夢と希望に満ち溢れた異世界ライフを手にすることが出来るのだろうか?
※こちらの作品は他サイト様でも連載しております。
人生の全てを捨てた王太子妃
八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。
傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。
だけど本当は・・・
受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
とある元令嬢の選択
こうじ
ファンタジー
アメリアは1年前まで公爵令嬢であり王太子の婚約者だった。しかし、ある日を境に一変した。今の彼女は小さな村で暮らすただの平民だ。そして、それは彼女が自ら下した選択であり結果だった。彼女は言う『今が1番幸せ』だ、と。何故貴族としての幸せよりも平民としての暮らしを決断したのか。そこには彼女しかわからない悩みがあった……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる