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第一部
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その日は、昨日までの調子の悪さが嘘のように、清々しく晴れた空と心であった。
計画にはもってこいの日だ。
真紅の腰までの長髪を、普段はしない三つ編みにまとめる。三日前に体調を崩す前にとくすねてきたシャツとベストと半ズボンを取り出したのは、侍女たちに触れることを禁じている宝箱から。今は遠方にいる義兄から昔もらったもので、重用している。……まあ、いたずらへの隠しものをするとは想定していなかっただろうが。
しかし仕方がないのである。何せ身分的に、私生活は無に等しい。王位継承権が剥奪されているのだから最低限の生活保障だけで構わないのだが、最近王と王妃が代替わりするのに合わせて女官たちが総代わりし、新たな王妃と仲のよい、生真面目な女性が女官長になってしまった。
それからはもう監視とまごう仕事っぷりである。お前の気性に合わないなと義兄に苦笑される病弱体質だから、ありがたいときはありがたいのだが。
ただ、今の時間は侍女たちは部屋にいない。つまり、これから王女にあるまじき格好をしても、見咎める者はいないのだ。
「ふんふん」
昂る気持ちのまま着替える。最初はなんだこれと着なれない服を相手に四苦八苦したが、一度わかるとあとはするするとできた。
全身を映す姿見の前でくるりと一回転し、にやりと微笑んでみせた。完璧だ。
最後に護身用の短剣を腰に吊り下げ、意気揚々と部屋を飛び出した――。
「………………」
「…………」
扉を開いた格好で硬直した。笑顔が気味悪くひきつっているのは自覚しているが、それ以上に動揺が激しく、一瞬頭が真っ白になった。
「……ラ、ランファ」
女性にしては身長に見込みがある王女に比べ、その男は遥かに背が高かった。烏のように漆黒のくせっ毛の髪に、その奥に光る深い藍色の瞳。色白の整った風貌は男女問わず羨望と憧憬を集める。実際、どんなに普段無表情であっても、「氷の貴公子」と呼ばれるほど、人を惹き付けて止まない魅力があるのだった。
しかしその美貌も今ばかりは翳っていた。形のいい細い眉はわずかに眉間に寄り、目の下には若干の隈も見てとれる。肌の色も悪かった。
「……どうしたんだ。お前、即位式の準備で忙しいはずじゃ」
目の前に立つ男、ランファロード・セフィアは、第一王女たるミアーシャ・ルーン・リズランスの従者であり、ティリベル副長官でもあった。一ヶ月後に控える義兄の即位式に向けて、てんやわらわのはずだ。何しろもう一人の副長官は今度王妃になるので既に退職し、一切の業務を行うことはできない。ただでさえ仕事範囲が広く普段から過労気味であるのに、今はどれだけの睡眠時間を確保できているのだろうか。
気まずく戸惑う主人を見下ろし、ランファロードは物憂げなため息ひとつをこぼし、頭を押さえた。
「……近衛のベート殿から泣きつかれたのでまさかと思って来たのですが……。当たりでしたか」
「な、なんのことだ?」
「とぼけるのはよしてください。その服、ベート殿のものですね?代わりにクロゼットに高価なドレスと宝石が入っていたと言って、号泣してましたよ」
号泣……。同い年の近衛を思い出して、うっと詰まった。くすねてきた相手である。
リンダめ、ばらしたなと思いはしたが、そこまでのことか?
「何で泣いたんだ?」
「あなた、置き手紙に『服はもらう。ドレスは是非もらってくれ。交換だ』とか書いていたらしいですね?あれの値打ちがそれの十倍するのですが」
「そうなのか?」
「……市場価値もわからないのに、一体どこへ行かれるのでしょうね?」
話を戻されて、ミアーシャの顔がまた青ざめた。ランファロードはわずかに皮肉な微笑を浮かべて一歩詰め寄った。
「二日前から高熱で倒れ、昨日の昼にようやく治まりましたが、医師からは絶対安静を言いつけられましたよね?だいたい、今は即位式に合わせて王都に流入してくる人間が多いんです。ならず者も当然。……よもや、城から出られるとは言いませんよね?」
「な、なんのことだ?」
上ずった声をあげてすぐに失敗を悟った。
ポーカーフェイスな従者はそれはもう迫力たっぷりに微笑んでいた。
「……くそぅ。ランファめ……」
「姫さまが悪いですよ。ただでさえ今はお忙しいのに」
ぶすくれていると、先程ランファロードに呼ばれた女官長が苦笑しつつ昼食を運んできた。本来なら女官長の仕事ではないが、ミアーシャもランファロードも信頼するに足る奇特な女性であるのでよくこうして駆り出され、また彼女本人も管理職に似合わぬフットワークの軽さで対応しており、いい関係を築けているとは思う。
何より一番は、ランファロードの美貌に負けず職務を忠実にこなす女性だということだ。ミアーシャの知る限り、そんなことができるのはもう一人、近衛の同い年の少女、リンダ・ベートだけである。
「お召しかえもしましょうね。ベートさまに返しませんと。お昼のあとは何をなさりますか?」
「…………」
ミアーシャは沈黙で返した。こうなったからには、ランファも私の監視を女官長に任せているのだろう。迂闊に寝室を飛び出したところで、控えの間には侍女たちがいるはずだ。まさに八方塞がりである。
(……いや、抜け道はあるか)
「姫さま?」
「何でもない。食べ終わるまでに考えておく」
意外にしぶといミアーシャは、内心で立てた計画に頭を巡らせるのであった。
やはり体調がまだ悪い、昼寝しておくと寝室から侍女たちを追い出し、ミアーシャがやったことといえば、端を簡素だが造りのしっかりした寝台の足に結んだシーツを窓の外へ放り投げることだった。先ほど着替えさせられたリンダの服は、手ずから返したいからと寝台の傍に置かせていた。さくさく着替えて、髪も結い直す。
高位貴族のいわゆるお嬢さまな侍女たちは、よもや続きの部屋を通らずに寝室から逃げ出すことなど想定もしていなかったろう。
――そうして、城からの脱走計画は成功してしまうのだった。
計画にはもってこいの日だ。
真紅の腰までの長髪を、普段はしない三つ編みにまとめる。三日前に体調を崩す前にとくすねてきたシャツとベストと半ズボンを取り出したのは、侍女たちに触れることを禁じている宝箱から。今は遠方にいる義兄から昔もらったもので、重用している。……まあ、いたずらへの隠しものをするとは想定していなかっただろうが。
しかし仕方がないのである。何せ身分的に、私生活は無に等しい。王位継承権が剥奪されているのだから最低限の生活保障だけで構わないのだが、最近王と王妃が代替わりするのに合わせて女官たちが総代わりし、新たな王妃と仲のよい、生真面目な女性が女官長になってしまった。
それからはもう監視とまごう仕事っぷりである。お前の気性に合わないなと義兄に苦笑される病弱体質だから、ありがたいときはありがたいのだが。
ただ、今の時間は侍女たちは部屋にいない。つまり、これから王女にあるまじき格好をしても、見咎める者はいないのだ。
「ふんふん」
昂る気持ちのまま着替える。最初はなんだこれと着なれない服を相手に四苦八苦したが、一度わかるとあとはするするとできた。
全身を映す姿見の前でくるりと一回転し、にやりと微笑んでみせた。完璧だ。
最後に護身用の短剣を腰に吊り下げ、意気揚々と部屋を飛び出した――。
「………………」
「…………」
扉を開いた格好で硬直した。笑顔が気味悪くひきつっているのは自覚しているが、それ以上に動揺が激しく、一瞬頭が真っ白になった。
「……ラ、ランファ」
女性にしては身長に見込みがある王女に比べ、その男は遥かに背が高かった。烏のように漆黒のくせっ毛の髪に、その奥に光る深い藍色の瞳。色白の整った風貌は男女問わず羨望と憧憬を集める。実際、どんなに普段無表情であっても、「氷の貴公子」と呼ばれるほど、人を惹き付けて止まない魅力があるのだった。
しかしその美貌も今ばかりは翳っていた。形のいい細い眉はわずかに眉間に寄り、目の下には若干の隈も見てとれる。肌の色も悪かった。
「……どうしたんだ。お前、即位式の準備で忙しいはずじゃ」
目の前に立つ男、ランファロード・セフィアは、第一王女たるミアーシャ・ルーン・リズランスの従者であり、ティリベル副長官でもあった。一ヶ月後に控える義兄の即位式に向けて、てんやわらわのはずだ。何しろもう一人の副長官は今度王妃になるので既に退職し、一切の業務を行うことはできない。ただでさえ仕事範囲が広く普段から過労気味であるのに、今はどれだけの睡眠時間を確保できているのだろうか。
気まずく戸惑う主人を見下ろし、ランファロードは物憂げなため息ひとつをこぼし、頭を押さえた。
「……近衛のベート殿から泣きつかれたのでまさかと思って来たのですが……。当たりでしたか」
「な、なんのことだ?」
「とぼけるのはよしてください。その服、ベート殿のものですね?代わりにクロゼットに高価なドレスと宝石が入っていたと言って、号泣してましたよ」
号泣……。同い年の近衛を思い出して、うっと詰まった。くすねてきた相手である。
リンダめ、ばらしたなと思いはしたが、そこまでのことか?
「何で泣いたんだ?」
「あなた、置き手紙に『服はもらう。ドレスは是非もらってくれ。交換だ』とか書いていたらしいですね?あれの値打ちがそれの十倍するのですが」
「そうなのか?」
「……市場価値もわからないのに、一体どこへ行かれるのでしょうね?」
話を戻されて、ミアーシャの顔がまた青ざめた。ランファロードはわずかに皮肉な微笑を浮かべて一歩詰め寄った。
「二日前から高熱で倒れ、昨日の昼にようやく治まりましたが、医師からは絶対安静を言いつけられましたよね?だいたい、今は即位式に合わせて王都に流入してくる人間が多いんです。ならず者も当然。……よもや、城から出られるとは言いませんよね?」
「な、なんのことだ?」
上ずった声をあげてすぐに失敗を悟った。
ポーカーフェイスな従者はそれはもう迫力たっぷりに微笑んでいた。
「……くそぅ。ランファめ……」
「姫さまが悪いですよ。ただでさえ今はお忙しいのに」
ぶすくれていると、先程ランファロードに呼ばれた女官長が苦笑しつつ昼食を運んできた。本来なら女官長の仕事ではないが、ミアーシャもランファロードも信頼するに足る奇特な女性であるのでよくこうして駆り出され、また彼女本人も管理職に似合わぬフットワークの軽さで対応しており、いい関係を築けているとは思う。
何より一番は、ランファロードの美貌に負けず職務を忠実にこなす女性だということだ。ミアーシャの知る限り、そんなことができるのはもう一人、近衛の同い年の少女、リンダ・ベートだけである。
「お召しかえもしましょうね。ベートさまに返しませんと。お昼のあとは何をなさりますか?」
「…………」
ミアーシャは沈黙で返した。こうなったからには、ランファも私の監視を女官長に任せているのだろう。迂闊に寝室を飛び出したところで、控えの間には侍女たちがいるはずだ。まさに八方塞がりである。
(……いや、抜け道はあるか)
「姫さま?」
「何でもない。食べ終わるまでに考えておく」
意外にしぶといミアーシャは、内心で立てた計画に頭を巡らせるのであった。
やはり体調がまだ悪い、昼寝しておくと寝室から侍女たちを追い出し、ミアーシャがやったことといえば、端を簡素だが造りのしっかりした寝台の足に結んだシーツを窓の外へ放り投げることだった。先ほど着替えさせられたリンダの服は、手ずから返したいからと寝台の傍に置かせていた。さくさく着替えて、髪も結い直す。
高位貴族のいわゆるお嬢さまな侍女たちは、よもや続きの部屋を通らずに寝室から逃げ出すことなど想定もしていなかったろう。
――そうして、城からの脱走計画は成功してしまうのだった。
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