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間章
もみじの宝箱・上ノ四
しおりを挟むはったと口を押さえたのはリーシャンではなくグランセス王子だった。壁に上体を向けてぷるぷる震えている。
そろそろ呆れる気分になってきたリーシャンを、ガツンと床を叩く杖の音が引き戻した。
「小娘が、どこまでも分を知らぬか!」
腰が曲がってリーシャンと同じくらいの背丈ながら、立ち姿からして堂々として、その表情が怒り満面ともなればかなりの迫力だった。だが、もう撤回するつもりはなくなった。
「弁えるべき礼節を取らぬ方に、こちらだけが礼を尽くしたところで無為であるように思ったまでですが。先に申し上げた通り、私が、あなたとお話しすることは特にはございません」
あなたごときと。
そんな、八歳の子どもの軽蔑を織り込んだ言葉さえ許せないらしいが、それなら、はじめから最低限態度を取り繕っていればよかったのだ。ご立派な肩書きを持っているだけを理由に軽率に振る舞うなら、なおさら敬う価値を感じない。
両親が必要以上に警戒していたのは、この人のこの態度を知っていたからだろうか。
(政治を語るならまずこの人、という話だったけど)
王子の触れ込みがリーシャンを誘い出すために色を付けたものだったら父も母も少しは否定したはず。それはなかったし、実際城住みの栄誉に預かっているらしいし。だが、それでもこの程度か。
こういう薄っぺらい威圧が政治?
もう帰りたいなあと視界の端でぷるぷる揺れる黒髪の毛先に思いを馳せたが、そういえばと少し身を乗り出して、グランセス王子が寄りかかるというかもはや縋り付いているソファの向こうを見た。ちなみにこの間も老人が荒ぶっている。
とろける熾火のような瞳と目が合った。
「こんな無恥厚顔な小娘が、ルーアン公爵家の次期当主だとは!長く王国を守り続けたルーアン家もお前のために地に名を伏すのだ!」
なんだ、リーシャンの立場を知っていたのか。振り返ってまじまじとグラリオを見つめると、荒い鼻息が返ってきた。
「わざわざ一族門下に血族、王家にまで格を求めて開いた仰々しいパーティーでやることが一人娘の披露だけと来たら、それしかなかろうて」
「いえ、まあ、驚きましたけど……」
肩書きにふさわしいだけの察しのよさはあるらしいが、この人が未熟と断じたグランセス王子とて簡単に見抜いたので驚きは僅少だ。というかむしろ、その上でこんなに言いたい放題だったということに驚いた。
「……私が気に入らないのは、そういう?」
「女に生まれたならば慎ましく家のうちにこもっておればよい。分不相応な身分を求めるなど余計なことは考えずにな」
「直系の私が一族の上の立つことになにか問題でもありますか」
「それを理解できぬことを問題と知れ。直系だからなんだ。神聖な政の場に女が混ざって何をすると?無知の出しゃばりなど手に負えぬわ」
初めてこの人とまともに会話が成立している気がする。そんなことを頭の片隅で考えた。
ふと押し黙ったリーシャンに、口がよく回るご老人は「政治と女の役割」について居丈高に滔々と講釈を垂れている。
いわく女は男より思考が軟く情が脆く、そのくせ弁だけが立つが、それも感情的であり、論理を知らない。それでなくても全ての面で能力が劣るものである。体力がなく、力は弱く、流されやすい。
しかし女は一つだけ、男にはできないことをしてのける。それが子を産むことである。
往々にして、男たちの領分に足を突っ込もうとする女たちはろくな結果を招き寄せない。それよりは、壁を築き、その内部で、守ってくれる男の血を継ぐ子を産み育てることこそ女の最大にして唯一の役目である。
そこまで、世の中の常識を詳らかに語っていましたという顔だったご老人は、いきなり杖の先でリーシャンをびしっと指した。
「わかったか小娘。いくら直系なんだりといえ、お前の出る幕でないと。血の濃さなど男女の順序に劣るわ。直系の血を守りたければお前は一族を盛り立てる婿を迎え、男児を産めばよいだけだ」
杖の先に居竦むように突っ立つリーシャンの背後でなにやら動揺したような気配がしたが、グラリオはまだ言葉を続けていた。なんとなくリーシャンはその先の言葉を知っているような気がして、それを確かめるように黙って続きを待った。
「その間すら他家の血に屈服するのが恥ならば、お前の後先を見ない自儘を呑ませた父親に言えばよい。そうだ、お前の言うことならば聞くだろうよ。真に一族の未来を憂えるならば、男児を産めぬ母は処分し、新たな嫁を迎えよとな」
脳裏で細かな雨が降っている音がする。いくつもの波紋を打つさざ波、淡く差し込む細い光。
母が父の膝に突っ伏して泣いている。父が大きな背を精一杯丸めて母に覆いかぶさるように全身で慰めている。
リーシャンの入り込む隙間はないほどぴったり重なり合って、それでもそこにいくつもの穴空きがあったのを、リーシャンは知っていた。
その喪失を埋めることはどうやってもできないと、知っていた。
だって、リーシャンも、二人と同じ穴空きを抱えているのだから。
「――その女の胎から産まれた分際で、ずいぶんなことをおっしゃいますこと」
背後で爆発しかけていた気配が一気にしぼんだことに、リーシャンは気づかなかった。自分の声があまりにも強く、吐き捨てるというよりもさらに鋭利な棘と猛毒を孕んでいたことにすら。
その棘が刺さったことにも興味はなかった。グラリオが声を失った間隙を埋めるようにリーシャンの声が響いた。
「生命を体の中で創る奇跡を当然のように使い捨てにできるのは神殿の尊ぶ神くらいのものでしょうね。あなたは人でしょう?当然、母の子として生を受けたのでしょう。それで、女性は男児さえ産めばよいということでしたが」
向けられた杖の先が揺れているのを見ながらリーシャンは一歩、踏み出した。怒鳴ってはいけないという理性だけは一応残っていた。遠慮なくずかずか踏み込んで、間を遮るテーブルの前で止まって、一呼吸した。
「一方で、男性は女性に恃まなくては何一つ後世に継承させられないというわけですね」
ここで嫣然と嘲笑を浮かべるには、まだリーシャンは幼く未熟だった。
「処分」という言葉に込められた意味を察して、いっそ血の気を引かせ、総毛立つほどの憤りをぎりぎり抑えてなお。
振り上げた刃を振り下ろす以外に使い方を見つけられない。
「耳を汚すばかりの妄言を並べ立てて我が公爵家の道行きを案じてくださるのはありがたいことですが、余計なお世話だとあえて申し上げましょう。いずれこの身で父の判断の正しさを証してご覧にいれます」
リーシャンは瞳だけでグラリオを串刺しにし、やっと追いついてきた感情のまま、酷薄に微笑んだ。
「……それまで、このお城にいられたらいいですね」
この男は、何をしてでも引きずり落としてやる。
公爵家の直系長姫による処刑宣告はやはり正しく伝わったらしい。後ろ盾と言えば王家の保証がついているだけなのにやたら態度が大きいグラリオがそれに怯むとは思っていなかったが、案の定、赤を通り越してどす黒くなった顔でテーブルごしに杖を振り上げた。
リーシャンは身を竦ませるどころか口元を綻ばせた。殴ってくるなら話が早く済む。傷の一つくらいでこの男を葬り去れるなら、一昔前まで騎士として名を馳せたルーアン公爵家にふさわしい戦果だ。
「そこまで」
グラリオが渾身の勢いで振り下ろした杖を途中でぱしりと受け止め、するっと引っこ抜いていったのは、グランセス王子だった。
「リーシャン・ルーアン嬢、下がりなさい。オーヴァン」
「はい」
グランセス王子とは反対側から音もなくオーヴァンがグラリオの横に立ち、老体を押さえ込んだ。同じくして、リーシャンの背後、出入り口側から駆けつけた侍女がリーシャンの両肩を抱くように引き寄せ、副隊長がテーブルとリーシャンの間に体を割り込ませた。
ぱちりと瞬いたリーシャンに、副隊長がちらりと咎める目を向けてきた。これは、わざと当たりに行こうとしたのがバレている。リーシャンを抱き込むようにしてぐいぐいと壁際に避難させる侍女が気づいた様子はないようだが。
それはそうと、人の壁があってもずいぶんな罵詈雑言が聞こえてくる。騎士に押さえつけられているのに元気なご老人だ。聞くに耐えない騒音に顔をしかめつつ、狭い視界をうろついたリーシャンの目が幼い王子を見つけた。混乱してあっちこっちと頭を巡らせている。ティフィ、と侍女の名を呼びながら落ち着かせるように腕を叩いた。寝かせられたソファから動いていないし、相手はきっちり拘束されているので被害が及ぶとは思えないが、病弱な見た目もあって不安に思ってしまう。
「アイザック王子殿下にもこちらに」
名前が聞こえたのか、アイザック王子と目が合った。ティフィの空けた隙間から腕を出してそっと手招くと、王子は恐る恐るソファを降りて、テーブルの向こう側をちらちら振り返りながら寄ってきた。
「殿下、お加減は大丈夫ですか」
「……うん」
所在なさげにリーシャンの傍で立ち止まった王子は、あれだけ兄王子に噛みついていたのが嘘のように大人しい。痩せた顔付きに大きな瞳が不釣り合いで、その目でいっぱいにリーシャンを見ていた。物言いたげだったが、部屋の奥から飛んできた冷や水のような声に口をつぐんだ。
「私の客人に、私の目の前で手を上げようとしたから、取り押さえたんだよ。その意味がいまだにわからない?そろそろ黙ってみたらどうかな。ここには幼い子どもがいるんだ。耳が汚れる」
グラリオの声が今度はグランセス王子を糾弾するが、それも五秒と絶たずにうめき声とともに止んだ。「オーヴァン、力みすぎ」「申し訳ありません」というやり取りだけ聞けば暢気なようだが、それきりグラリオの声がないことを思えば、意識を失っているようだ。
ひょっこり顔を出したグランセス王子が、並び立つリーシャンとアイザック王子を見つけておやと眉を上げたが、すぐに貼り付けたような、それでいて大変自然な微笑みに変わった。
「すまないね、リーシャン・ルーアン嬢。ずいぶん驚かせただろう。外に出ようか。アイザックもだ」
リーシャンが無言で見返すと、グランセス王子はちらりと苦笑した。片手に持った杖を近くの壁に立てかけると、手を払ってすたすた歩み寄ってくる。アイザック王子が後退っているがそれには見向きもせず、跳ぶようにリーシャンの側に戻ってきた副隊長とティフィが壁のように立ち塞がると、その直前で立ち止まった。
「まずは君に謝罪を。止めるのが遅くなり申し訳ない。……ずっと騙されるものかって顔してるけど、私は君の味方だよ」
胸に手を添えリーシャンの前に膝を折っての真摯な姿勢は多分本当。だけど、それだけのはずがない。
もっと前に止められたのに、グラリオに母の侮辱を言わせたのはこの人だ。それにそもそもの最初から甘い対応だった。
まさか四阿でのあの恐怖の引っかけと同じように、リーシャンを試そうとしたのか。穿った考えに到達したリーシャンの目に怒りが再燃した。そんなふざけた遊びのために、母の存在をすり潰したと。
「……細かい話は後にしたい。けど、てこでも動きそうにないね、君」
「その方は、どうされるおつもりでしょう」
「ひとまずこことは違う部屋に近衛騎士付きで軟禁、明日には陛下から沙汰が下る。今回は落とし所も決まっている。権威は全て剥奪し、末端の研究棟に箱詰めが妥当だよ」
リーシャンはさすがに不意を打たれて、王子の言葉をゆっくりと咀嚼するように瞬いた。
この場からリーシャンを追い出して全部うやむやにするつもりかと思っていたが、違うようだ。
「さあ、そろそろ出なさい。君には改めて謝罪が必要だし、公爵にもご息女を招いての失態なので、詫びなければいけない」
背筋を伸ばして扉を指す王子の顔を見上げた。
決まっている、と言っていた。だしにされたのは、母ではなくてリーシャンだったようだ。
グラリオを排除したいのはリーシャンだけではなかったどころか、順番からすればどうやらグランセス王子が先である。
……怒りの根っこをすっぱり切り取られたところは妙に気に入らないが、手を引けという理屈は納得できる。
「君の帰宅には同道させてもらうよ」
念押しされて、リーシャンは渋々ながら頷いた。
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