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往復切符

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 ヒルダが横抱きで部屋から連れ出されていくのを尻目に確認したジュストは、諸々の指図を終えたあと、城の兵士に付き添われて屋敷を出た。
 門の手前に馬車が二台、暗がりに潜むように待機していた。城の騎士団の使う護送用の馬車で、簡素な造りだ。

「ニールセン、くれぐれも客人を丁重に扱えよ」
「承知しています。後ほど隊長が城に向かわれますので、それまでお待ち下さいね」

 これから、ニールセン以下、バルメルク家の騎士たちは家へ戻り、ジュストは「身内の些細な行き違い」のために城の人員を動かしてしまった弁明と感謝を伝えるために、城へ行く。
 屋敷内で災難に見舞われたアズロ男爵には、親しくなったばかりのよしみでバルメルク家を安全な宿として提供し、世話のためにその従僕や使用人数名(人数未定)も受け入れるよう、騎士に屋敷への言付けを頼んだ。
 危機一髪でジュストたちを救った通りすがりの少年の方は、状況確認などのために城行きだが、こちらはジュストとは別便で後から向かうだろう。
 ランタンの灯りで濃く長く落ちる影を捌くように、ジュストは二台のうちの一台へ、迷わず歩み寄った。開かれた出入り口のところに少年のあとに部屋に真っ先に駆けつけた青年が上着のないまま佇んでおり、ジュストを見て頭を下げた。ちなみに「落星」と思しき二人の方は、実にあっさり姿を消している。

「お前はセシル殿の従者かなにかだろう。お前も乗れ」
「ご配慮、ありがとうございます。馬をお借りしてきましたので、誰かに預けてから乗らせていただきます」

 青年に迷いも遠慮もないのは、己が楽をしたいためというより、先に馬車に乗っている、上着の借り主のためだろう。青年はまた一礼して屋敷の方へ行き、兵士長に声をかけて、すぐに戻ってきた。ジュストはそれを馬車に乗り込まず、馬車のタラップにも足をかけず、その場で見守っていた。後頭部に視線が当てられているのは、武人ではないが、なんとなく気づいていた。

「……ジュストさま、別の馬車の方がいいと思います。血の匂いが酷いので」
「今さら気にならん。淑女を気遣えという小言なら、身内ということで多少は大目に見てもらおう。義兄なのだから少しは目こぼししてくれ」

 青年に先を譲られ乗り込むと、座席の奥に腰かけていたヒルダが「そうですね」と苦笑した。明らかに、広範囲にべったりと赤黒く汚れているジュストの衣裳を見ての返事だ。今さらも今さらという話なのだ。
 身内から義兄と言葉を重ねたことにはなにも反応がないのは、この際ジュストも飲み込んでおくことにした。先程のことは忘れたことにして流しているだけなのか、単純になにも気づいていないのか。……このしらっとした顔を見るに後者のような気がするが、考えたら負けだ。

 三人が乗り込んだのを確認した外の兵士が扉を閉め、そう待たずに馬車が動き始めた。ジュストは腕を組んで口を閉じ、ヒルダは眉を下げてあちこちの血の汚れを眺め、従者の青年はこの中で自ずと口を開く権限はなく、当然のように黙っている。いや、公爵家嫡男であるジュスト以外に最初の発言権がないのだ。身内という言葉すらヒルダにはなにも響いていないのではないかと、ジュストは疲れたため息をついた。

「ヒルディア嬢、君は私を待たず先に戻っていると思ったのだが」
「お話しできる時間がこれから取れそうにないので、移動の間だけでもと思っています。まず……先ほどはお見苦しいところをお見せしました」
「どの辺りを指して言っている?」
「この血を浴びたのと、ジュストさまにも汚れを付けてしまった辺りです」

 ジュストは目を細めた。ヒルダの手柄を横取りした少年に便乗したのは、まだその力は秘しておくべきだと直感したからだが、この言い方だと、本人もそれを受け入れているらしい。それに、今すぐにでも故郷に殴り込みにと暴れたことまで謝罪した。どう折り合いをつけたのか、知りたいようないややっぱり全然知りたくない。しかしここで訊かねば知らないままだ。これから話す機会が取れないとは、なんとも不穏な未来を想像させる。

「どこでなにをするつもりか知らんが、今度こそ正式に求婚してやろうか?」
「どうしてそう捨て身なんですか……」
「どのように手を打つにせよ、君がわざわざ出向く必要はあるまい。君は我が家の身内。我が家が君の望みを果たす」

 隣の青年がぎょっとしているが、この際無視だ。一度は有耶無耶になったが、今度こそ真剣に言い含めておこうと若干身を乗り出すと、ヒルダもすうっと表情を改めた。水が引くように呆れや苦い笑いが消えてゆくさまは、なぜかしら目を惹いた。
 それは敵意との交換ではない。激情の一切が窺えない、ただしんしんとした静謐へ変貌していく。ジュストの背筋がぞくりと震えた。

「必要はないのかもしれません。ですが、そもそもこれは、あたしのやり残してきたことです。けじめをつけさせてください」

 自分自身ヒルディア・スートライトを殺すことがか、と言おうとした喉が乾いて張りついている。

「スートライトの問題は、スートライトで解決します。他家の手出しは無用」

 ジュストが今目にしているのは、幻の未来だ。あるはずがなく、来るはずもない未来。ヒルディア・スートライトという名の、一大家門を束ねる女宗主。
 誇りと覚悟と憤怒が失わせた笑みは今もまだ戻っていない。薄皮一枚作った笑顔を簡単に剥いでしまえるほどに、今のヒルダは「平凡な娘」から程遠かった。

「スートライトの問題というなら、君の兄が最もふさわしいと思うが?」
「だから、これから兄上に会いに行くんです」
「……そうして全てを果たして、どこへいくつもりだ?」

 結局、ジュストが気にしているのはその点だ。故郷へけじめをつけに行くのはいい。この覚悟と兄の助力があるなら、きっと成し遂げるだろう。
 だがその後は?
 どこへなりとも連れて行けと言った恐らく他国出身の少年は城に留め置かれるが、ヒルダはそれに頼らずとも、どこにでも行けるし、どこでもやっていける技倆がある。意志さえあれば。
 ヒルダとして王都でのうのうと過ごすことができず、ヒルディア・スートライトが終焉を迎えた後。抜け殻になった娘は一体「何者」になるのか。そもそもなりたいのか。

「……あたし、衣裳のお披露目ってやったことがなかったんです」

 厳かな表情が、くしゃりとあっけなく崩れた。

「最低限というか、必要なものは全部揃えてくれましたけど、兄上とアデルにみんなかかりきりで、三人並んで褒められたってあたし個人へはおざなりな言葉しかなくて。もちろん二人は褒めてくれたんですけどね。この衣裳……汚しちゃったんですけど、時間がないのにきれいに仕立て直してくれて、お屋敷で一度、着てみせたでしょう?」

 三日ほど前のことだ。一部の侍女が結託してヒルダを「リハーサル」だとかなんとか言って今日の夜会並みに着飾らせ、騙し討ちのように父やルフマン、ハルトを呼んで、出来栄えを披露したのだ。ジュストもその隣に並べとばかりに堅苦しい格好をすることになったが、まあ当然のごとくジュストはおまけだった。
 企んだ者たちは自分たちの仕事の達成感を得たいだけではなく、ヒルダの晴れ姿を見たがる旦那さまの意向を慮ったのである。忠臣の鑑だなと呆れたが、ルフマンは頬を染めて大喜びだし、ハルトも垂れ目を潤ませながら何度も頷き、肝心の父に至っては、長く生きて身につけた知識と語彙を使い尽くす勢いでヒルダを褒め称えていた。
 照れた様子ではあったが、はにかむこともなく貴婦人の微笑みで全てを受け取っていたヒルダにさすがだと思ったものだが、内心は違ったらしい。

「あたしの将来は、昔に二つに割って、兄上とアデルに全部あげてしまいました。一旦は取り返しましたけど」

 ヒルダは胸に手を当てて瞼を下ろし、再びジュストを見た。情けない顔のままで。

「この際、全部使い尽くしてきます。もちろんこれからもずっと二人のことが大切だし、なにかあれば駆けつけるつもりです。ですけど、それでもいいのなら。あたしは、バルメルクの名がほしい。あのお屋敷に帰ってきたいんです」
「……」

 ジュストは片手で表情を隠しつつ天井を仰いだ。言葉が出てこないのは、感無量だから……というより、父の大号泣が脳裏に響いたからである。あの父がここにいたら絶対泣いていた。これまで泣き顔を見てきたことはないが断言できる。
 あとは全力で突っ込みをこらえていた。緊急事態だったとはいえ求婚した男に、家名がほしいとか面と向かって言うことじゃない。

(潔い宣言は騎士のようだが、中身はまるで嫁入りだぞ)

 どうせわかってないと確信しているので指摘はしない。隣の青年がそわっとしてジュストを見ているので、目配せして小さく首を振った。その辺は聞き流してやれという意味だが、かといって家に受け入れないわけではない。スートライトの従者に釘を刺すため、またヒルダに了承を示すため、こう言った。
 いっそ、ヒルダが出かけている間に、養子縁組を完遂させるよう父と手を回しておこうと決めながら。

「ヒルディア・バルメルクか。いい名ではないか」

 帰ってきたら、総出でおかえりと言って出迎えてやろう。








☆☆☆







 馬車は城に入り、騎士団の敷地を通って外宮の端に辿り着いた。
 誘拐された公爵家嫡男やその同伴者が戻ってきたのだ。人払いは厳重でも、出迎えがないわけではない。同伴者が女性なので侍女の姿もあったが、二人が馬車から降りるのを待っていた全員が、その姿を見て、ひそりと息を呑んだ。
 バルメルク家の後ろ盾のある平民という前評判は全員心得ている。一部の者はさらにスートライトの直系だとも知っている。しかし、明らかに、それだけでは理解が追いつかない衝撃を受けた。
 シドの手を借りて降り立ったヒルダは、まだ上着を借りているとはいえ、返り血を完全に隠しきれているわけではない。降り立つ地面から視線がゆるりと持ち上がり、出迎えの従僕や侍女を見留めた。静かに、ほんのり唇を持ち上げるだけの笑みは幽艶の一言。見る者の言葉を奪う清廉な威圧を放つ。
 まっすぐに伸びた背筋も、足首を隠す裾をほとんど揺らさない滑らかな足取りも、楚々というよりは凛々としている。
 ただ場にあるだけで意識を釘付けにするのは、身分を奪われた少女ではありえず、大家に囲われた娘ととるのも明らかに間違い。ある者はヒルダの面影に「絶氷」を彷彿とさせ、ある者は「大輪」の容姿との共通点を見出していた。

 スートライトの「至宝」、その間に生まれた「秘宝」。

(……リーシャンさまに、本当によく似ている)

 ただし、一人だけは血縁とは遠い人を思い浮かべた。
 この場には、王妃の命令で派遣された王妃宮の侍女マリーナもいた。数ヶ月前、王妃に招かれたヒルダを間近で見て、親しく言葉を交わしたマリーナに、ヒルダはほとんど意識にもかからないような態度でいる。最前列にいるので確実に気づいているのに。
 無視しているわけではなく、冷淡というわけでもなく。貴種としては模範的ですらある。仕える者は主の所有物、人の物へ特別な意識を向けることは無作法極まりない。しかし、本当に単なる物扱いするのか、後ろに主の影を見通すかは個人の別で、あえて言うなら、優秀な為政者ほど後者が多い。
 出迎えの人々の顔をさり気なく素早く確認しているヒルダは、確実に後者だった。
 誘拐先で何があったのか詳細な報告はまだだ。なにがあれば、血色の咲き誇る茨のマントを翻すように帰ってくるのか。

 わかるのは、王妃になると決めたリーシャンのように、ヒルダも己の意地と誇りにかけて、自由とは遠く、細く険しい道を歩むと決めていること。

 ……いいや、最短距離を駆け抜ける気だ。
 そう思い直したのは早かった。

 外宮の客室を二つ空けてヒルダとジュストを各々部屋に通し、身支度と医師の診察を受けさせた。王妃の腹心マリーナが率先して平民のヒルダの側につくことに、「バルメルク家の問題児」が呆れたように、しかし愉快げに笑っていた。彼は国王や王妃、マリーナたちと同年代だ。その分だけ他に比べて馴染みがある。あの顔はまたなにか企んでいる顔だった。
 ドレスを脱ぎ湯を浴びたヒルダはこざっぱりとしたが、まだ異様とも言える雰囲気を拭い去ってはいなかった。医師から細かな傷の手当を受けたが、血が流れるような怪我はない。本当にあれだけの血が全部他人のものならば現場は凄惨だったろうに、騎士でもなんでもないご令嬢として育てられたはずのヒルダには、どこにも不安定な様子がない。あのリーシャンと渡り合えるほどの実戦的な剣術を見たときから思っていたが……。

(あの領地で、どうやって実戦を積んだのでしょうね)

 公爵家当主となるべく育てられたリーシャンは望めばそれ相応の環境が与えられた上であれこれ修得したが、ヒルダは望めば望むほど道を狭められたはずだ。兄妹の協力があっても限界がある。ここまで来ると、出し抜かれた大人たちを嘲笑うよりは、これほどにも己を極めたヒルダに、恐ろしさと痛ましさを覚えた。

 幼い頃のヒルダを知っている。兄妹に挟まれ、誇らしさと悔しさ、悲しさと愛しさを両手に握って笑っていた少女。
 解き放たれたヒルダの上げた、爽快な笑い声が耳に残っている。遊ぶことに全力を尽くしたのは初めてだと、自由を高らかに謳った少女。……今はその声が遠い。
 遊びのために身につけたのではない技倆、捨てきれなかった過去を負うゆえの冷徹な眼差しは、過去の一切を捧げてきた兄妹にも容赦なく向けられた。
 支度が終わってジュストと軽食を摂り、しばしの休息を与えられたあと。ジュストは今回の件の報告と弁明のために席を外し、単なる同伴者の立場で「巻き込まれた」ヒルダはその場に残っていた。そこにセシルとアデルが訪れたのだ。

「ヒルダ」
「姉さま」

 駆け寄る二人の顔色が悪い。安堵だけではなく、不安や焦慮が見えた。

「侍女さま、人払いをお願いできますか」

 ヒルダはあえてマリーナをそう呼び、あえてそう頼んだ。それとなく全員を追い出すこともできるだろうに、しなかった。
 ただしここは王城の客室であり、ヒルダたち全員が客分である以上、完全に王宮勤めの耳目をなくすことはできない。わかりやすい申し出は、その配慮への釘刺しのため。

(私一人にだけは聞くことを許す。リーシャンさまのお耳に入ることが前提の内緒話ということですね)

 王妃一人なら譲歩する、というより、それすらヒルダの「これから」の計画のうちである予感がする。ひしひしと。

「かしこまりました」

 それでもマリーナは素直に従った。
 ヒルダがマリーナに、王妃に――ひいては王家に求めるのはどんな役割なのか。堂々と聞けるのなら、その方が、王家が噛める範囲は広がるだろうと考えたからだった。
 兄妹の分の茶を用意して、侍女やメイドが下がっていく。そうして三兄妹以外はマリーナだけになった部屋で、扉の前をマリーナは陣取った。

 夜は、これからゆっくりと更けていく。
 明ける朝にも支度が必要だというように、長く長い夜だった。







 ……ヒルダがまた衣服を替え、国王の選んだ精鋭数騎を従え王都を飛び出したのは、遅い朝を急かす未明のことだった。













ーーー

バルメルク家の衣裳お披露目計画……針子と従僕ヨランドで結託して、ドルフの仕事の空き時間とドレス仕立て直しの時間を計算してなんとか仕立てを間に合わせ、針子たちは徹夜明けテンションでヒルダをこれでもかと着飾らせた。
後でボーナス支給。うはうは。さらにヒルダが本当に養子に入るきっかけの一つと判明して上乗せ。うっはうは。ヒルダの側仕え争奪戦に優位な地位獲得。ひゃっはー。

馬車での話し合いで、ニコラスの安全確保はジュストが請け負ってくれることになったので、ヒルダは一任した(ジュストにとっても恩人なので)。

同年代の中でも年齢的には上からジュスト、マリーナ、リーシャン、アイザック。

兄妹説得は次話にて。
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