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ぷっつん

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「ラ、ライゼン先生……?」

 動揺を落ち着かせようと広場の空いたベンチに一人座らされたヒルダは、恐る恐るそう尋ねた。
 ハルト・ライゼンと名乗った男は紅茶色の髪を揺らし、垂れた目尻をさらに下げた。

「……覚えていらっしゃったんですね」
「名前だけは……ドルフさまからも伺いました」
「そのご様子ですと、その後のことも、もうご存じでしょうか?」
「……はい、研究者として隣国で活躍していらっしゃると……」

 ジュストは二人の間に漂う微妙な空気を見、「なんだ、お前たちも知り合いなのか」と普通の調子で言った。空気が読めないというより、読む気がない態度だ。ハルトはそんな彼に振り返って、「私のとても希少な教え子なんだよ」と苦笑した。先程は大勢の前だったので畏まっていたが、本来は気安い仲らしい、とヒルダは思った。ハルトの顔は見れない。
 ジュストはすぐに事情を理解したようで、ヒルダのつむじを冷ややかに見下ろした。

「なるほどな、この娘が、お前が教壇を降りた原因か」
「ジュスト!」
「私も心中複雑なものでな。この友を虚仮にした者には怒りが湧くが、今こうして肩を並べていられるのはその事件がきっかけだ。大っぴらには非難できん」
「この方のせいではないんだ、友よ。私のたった二人しかいない教え子の一人なんだぞ」
「その期間は一ヶ月もなかった気がするがな」
「――ジュスト。私を怒らせたいのか」

 ハルトの柔らかい声が固く冷たくなった。聞く者の喉を穿つような鋭さだが、ジュストは慣れているのか肩を竦めただけだった。

「怒らせるつもりはない。ただ、この娘がどう思っているのかには興味がある。――ヒルダ嬢、」
「ヒルダ!」

 うつむいて体を強張らせていたヒルダは、はっと顔を上げた。ジュストの言葉を遮ったのは、商会のある方の道から駆けてくるアレンの呼び声だった。

「ああ、そういえば、どこかに向かっている最中だったのか?」
「……商会への出勤の途中でした。彼は私の上司です」
「先程の騒ぎで君が心配になったのか。……ずいぶんと部下思いな上司だな?」

 ジュストのヒルダを見る目が確実に怪しくなった。男をたぶらかすふしだらな女とか思われている気がする。不名誉極まりないが、ヒルダはなにも言えなかった。
 なにも。

(反論しなきゃ、いけないのに)

 こんなに心が波立って全く収まる気配がなく、むしろどんどんと荒れていくようなことなんて滅多に経験がない。感情の嵐に翻弄されないように耐え、唇を噛みしめるしかできない。それがますます悪印象を与えているのに気づいても、どうしようもなかった。
 冷や汗が気持ち悪い。
 膝の上でわなわなと震える拳に、そっと大きな手が触れた。

「……お嬢さま、こうして元気なお姿を見ることができて、私はとても嬉しかったです。また後ほど、お時間が合えばお会いしましょう。ジュスト、行くぞ」
「なぜだ?」
「今は時間が必要だ、お互いに。それにこれは私とお嬢さまの問題だ。友といえども首をやすやすと突っ込んでいいものではない」
「……仕方がないか」
「仕方ないじゃない」

 アレンがヒルダの元にやっと駆けつけた時には、ジュストもハルトも、人混みのなかに行方をくらませていた。

「ヒルダ、大丈夫か!?誘拐されかけたって聞いて……ひどい顔色だぞ、何があった!?」
「……アレン。ごめん、今日、お仕事休ませて……」

 手の甲に、ハルトの指が触れた感覚が残っている。腕には強引に引っ張られた感触もまだ消えていない。
 鼻の奥がずきずきと痛みはじめた。

「仕事しなくていいから商会の仮眠室で休んでけ!なにかされたのか!?」
「ひ、一人に、なりたいの」
「駄目だ。せめて目の届くところにいてくれ。さっきの今だぞ」
「一人にさせて……っ」
「ヒルダ、――っおい!」

 ヒルダはアレンの制止を振り切って全力で走り出した。がむしゃらに、無鉄砲に。
 涙がこぼれ落ちる前に、誰もいないところを目指して。















 アホ息子が帰ってきたとドルフが知ったのは城にいた時だ。先触れのない唐突な帰還は毎度のことではあるが、今回はそれに加えてお忍びの格好であちこちをぶらぶらしてきた末だという。
 ドルフは笑顔で額に青筋を立てた。多くの人に一目置かれているドルフだが、一人息子にだけは昔から散々に手を焼かされてきており、今も続いている。あのアホ息子、嫡男の自覚をいまだに持ち合わせていないらしい。
 説教とは別に罰則もつけよう。しかもうんと嫌がるものを。

「いやあ、父上、相変わらず活闥ですな!まだまだ後継に焦ることはないでしょう!」

 以上、一通りドルフが説教したあとにジュストがつけた感想である。
 完全なるジュストの巻き添えで同席させられていたハルトは、恩師の青筋の切れる音を確かに聞いた。常に穏和な風貌が今や般若である。むしろ晴れやかにドルフの尾を的確に踏んづけるジュストの方がはるかに悪魔的なのだが。

「……どうやら本当に甘やかしすぎたようだな」

 ドルフはおどろおどろしい声で呟いた。

「ハルト君、いつまでには隣国に戻る?」
「あ、はい、半月後に学会がありますから、そちらが終わり次第戻る予定です」
「急ぐような課題は?」
「そちらは済ませてきましたので、今回はたまった休暇の消化にフィールドワークを兼ねています」
「ありがとう。それならジュスト、お前が社交界に顔を出すゆとりはあるわけだ」
「そんな予定は存在しません」
「私があると言ったらあるのだよ、アホ息子。ひとまず明日のサロンから行ってもらおうか」

 社交より研究が好きなジュストはとても嫌そうな顔をした。紳士淑女のさんざめく壮麗な舞台に見合う華やかな容姿は、それだけでももてはやされるものだが、ジュストはさしてそれを得に感じたことはない。

「父上、果報は寝て待てという格言をご存じないのですか」
「人事を尽くして天命を待とうとしているだけだが?」
「私をここに長期間拘束すると共同研究に遅れが……」
「そこに予算の三割も出資しているのは我が家だとお前は覚えていないようだな」
「ハルト、我が友よ。助けてくれ」
「自業自得です、ジュストさま。潔く諦めてください」
「お前、他人事だからと……」

 ジュストの恨みがましい視線もさらりと笑顔で流したハルトは、打って変わって真剣は眼差しでドルフを見つめた。

「ドルフさま、お伺いしたいことがございます」
「どうしたんだい」
「ヒルディアお嬢さまのことです。なぜあの方はバルメルク家と所縁を持つようなことになったのでしょうか」
「……もう会ったのか」
「街でお会いしました。偶然出会ったらしき元婚約者と揉めていたところをジュストさまが仲裁なさったのです。その際に平民のヒルダだと何度もおっしゃっていたのですが、本当なのですか?」
「確かに、頑として主張していたな。我が国有数の名家が娘を平民に落とすとはただ事ではない。父上、私たちへの手紙にも詳細はなかったですな?よりにもよってハルトの教え子が『秘宝』だとは、夢にも思わなかった」
「……文字にするには繊細すぎる問題だからだよ。それからジュスト、平民落ちはお前の考え違いだ。まさかその場で彼女を問い詰めたりしなかっただろうね?」
「考え違いとは?」
「彼女の婚約者に、彼女の妹君が懸想したとスートライト侯爵が勘違いしてね。ヒルディア嬢から婚約者を取り上げて妹君に宛がおうとしたことがきっかけだった。彼女は自ら勘当してくれと侯爵に掛け合ったんだ」
「……勘違いだったのなら、勘当など言わずとも穏当に話し合いで片をつけられたのでは?」
「彼女はこのような仕打ちを長年受け続けてきたようなのだ。もちろん婚約者のことはこれが初めてだったようだが。……学びを欲していた彼女からハルト君を取り上げたように」

 親子の視線が向いたのは、いつの間にか蒼白になって震えているハルトだった。

「……まさか、スートライト侯爵は、十年以上もお変わりないままだったのですか……?」

 小さな兄妹へ襲いかかる不条理と、彼らのためにどうにもできなかった自分の無力さ。まざまざと思い出されるそれはハルトのトラウマそのものだ。ドルフはそれを気遣って、やんわりと首を振った。

「……なんということを……!」
「つまり、あの娘は侯爵の意向で軽んじられてきたというわけですか。これまたおかしな話ではありませんか」
「お前も知っているはずだが。彼女の兄と妹の異名は『絶氷』と『大輪』だ」
「それが?」
「侯爵は――あの領は、ヒルディア嬢を二人の生け贄にし続けたのだよ。ヒルディア嬢本人はスートライト侯爵令嬢として、常に己を律し、励んでいたのだがね。むしろ彼女はよくぞあの環境の中であれほどひたむきに努力し続けてこれたものだ」

 そこまで言われるとさすがに察しがついたのか、ジュストの顔が一気に苦いものになった。

「ろくでもありませんな」
「だからこそ彼女は故郷を捨てたんだ。婚約者まで含めてね」

 あの最後まで徹底していた態度はそのためかとジュストは納得して頷いたが、直後に首を横に倒した。

「捨てられたと言っていましたが」
「なに?」
「どうも、勘当以前より冷えきった仲ではあったようですが、あの口振り……あの若者から手切れを渡したような印象を覚えました」
「……なんだと?」

 ドルフの声が数段低くなり、ジュストもハルトも反射的に姿勢を糺した。

「お前たち、彼女とは一緒ではないようだが、彼女は今どこに?」
「私たちが仲裁したあと、職場の上司が迎えに来ていたので引き揚げました。今はまだ働いている時間なのでは?」
「ジュストさまがヒルディアお嬢さまと私の関係に余計なことを言って動揺させてしまったので、私から提案したのです。混乱もしていたようですし、落ち着くまでは顔を会わせるべきではないと判断しました」
「そうか。では彼女の帰宅次第、私が先に話そう。確認すべきこともできた。アホ息子よ、それまではまた説教といこうか。ハルト君はテノンのところへ行くかい?」
「お気遣いありがとうございます。そうさせていただきます」
「おい友よ、私を置いて逃げるな!」
「なんのことでしょう?」

 わざとらしくにこりと笑ったハルトは一足先に退出した。

(あの方は今、こちらにお住まいなんだな……次会うときは、私もしっかり心構えをしておかないと)

 後悔と無力感にまみれた記憶の中の幼女が、逆境に遭っても美しく成長した姿に対して、自分はどうか。教壇を降りて十年経つのに教え子の前では教師でありたいなんて思ってしまうのは、あの少女が悲痛な声で「ライゼン先生」と呼んだからだろうか。

(先生と呼ばれるなんて、二度とないと思っていた)

 元々、同じ境遇だと思っていた「秘宝」への挨拶代わりの土産も用意していたし、今度会うときは、それを忘れないようにしよう。辛い過去に向き合うことは痛みを伴うけれど、成長した彼女との会話を楽しみたい気持ちも覚えていた。

 しかし、その次の機会は、想定よりもかなり後に訪れることになる。

 その晩、ヒルダはバルメルク公爵邸に帰ってこなかったのだ。










☆☆☆









 勘当されたとき、ヒルダは両親のいるその場で細々と令嬢としての身辺整理をした。餞別代わりにわずかな家財を譲り受け、中途半端だった仕事の処理も引き継ぎ、アズリーを買い取った。
 勘当といえば即座にポーンと放り出されるのが普通だが、ヒルダの場合は婚約者をアデルに譲るというので、名誉を守るために破談の手続きもしなくてはならなかった。
 婚約解消の書面は父があらかじめ用意しており、両家の当主の名までとっくに記入されていた。ヒルダが署名すればそれで破談が成立するようにとお膳立てされていたのだ。どうしようもなく嗤えて嗤えて仕方がなくて、ペンを持つ手が震えて困ったものだった。 

 だから、そこに婚約者の名前が書かれていたことも、ヒルダはきちんと覚えている。

 ヒルダは自分が家族と故郷を捨てるよりも先に、未来の夫に捨てられてしまっていたのだった。








(――それが偽造だった可能性があるってこと?)

 元婚約者の被害者のような顔と口振りが脳裏に過る。でもヒルダはあの筆跡に違和感を持たなかった。
 あの人の筆跡なんて知らない。趣味も性格も知らない。こちらが送った手紙に一切返事はなく、あちらから送られたこともなく、贈り物も一方的なままで、逢瀬デートも断られ、社交でのエスコートも最低限、会話すら事務的。
 それで弁明ってなんだ。

(どうしてあたしのせいだって言うの。どうしてあたしが責められるの。あなたはちっとも悪くないって言うの?)

 ――この娘が原因か。

「っ、うわ」

 躓いてスッ転んで、擦りむいた手のひらや打ち付けた膝の痛みではっとした瞬間、とうとうぽろっと雫が頬に転がり落ちていった。顎を伝って冷たい石畳に当たって砕ける。とっさに涙を引っ込めようと思ったが、荒ぶる呼吸に急かされて次々とこぼれてゆく。ぽろぽろと、雫の一つ一つがヒルダの心の欠片であるように。
 足が重くて立ち上がれない。走りすぎて胸が張り裂けそうに痛い。
 歯を食いしばろうとしても嗚咽が漏れる。そしてなにより、涙をどうやって引っ込めればいいのか、やり方をとんと忘れてしまった。自己嫌悪からこぼす涙など、苦痛しかもたらさないと、わかっているのに。
 どこの路地に入り込んだのか、人の姿が全くないことも、取り戻したはずの理性が旅立つのを後押しした。

「うう、う」

 闇に心が落ちてゆくに任せ、ヒルダはうずくまり泣き続けた。


















「うっわ、なにこれ、もう運命じゃない?ねえねえディアちゃん、こんなとこで独りぼっちで泣いちゃって、辛いの?苦しいの?よしよし、おれの胸で泣きなー」

 両腕を握りしめていた手をほどかれなにかを抱えるように位置を誘導される。そのせいで上半身が横にずれて温かいものに凭れるようになった。髪と背中に別の感触。

「わー素直、これはこれでイイなぁ可愛いなぁ。このまま連れ帰りたいなぁ。駄目かな」

 よしよしと頭を撫でられ、とんとんと背中を叩かれ。ほとんど意識のないヒルダは凭れた胸にいっそう体を寄せるように、ありったけの力を込めて抱きしめた。頬にしっとりと濡れた衣が擦れる。温かいものに密着した安堵からか、ふうと緩んだ吐息が漏れた。
 人間の形をした抱き枕は、胴体をぎりぎりと絞られているのに苦しがる様子もなく、嬉しげな笑みをこぼした。
 蛇のような目が甘やかな熱を灯してうっとりととろけてゆく。

「うんこれもう連れ帰ろ!」

 かーわいっ!と目尻に口付けして抱きしめ返した。

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