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過去がまるごとやって来た

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 昼下がり、ヒルダが学園から商会へ向かう道中でのことだった。
 庶民の多く暮らす区画と言えどこの辺りは比較的富裕層が集まっており、高級旅館などもあるため、道路はきちんと整備され、行き交う人々も基本は道の中央を空けて突然馬車が来ても簡単に避けれるようにしている。
 歩きながらもヒルダは先程までのことを思い出していた。

(教授ったら、まさか休校の間、ずっと研究室に閉じこもっていたなんてびっくりしたわ)

 ウィンスターが今実家で療養中なので研究室を訪ねる者がほとんどいないとはいえ、まさかいつから寝てないのかわからなくなっているとまでは思っていなかった。
 ドルフに「彼の様子を見てきてくれ」とバルメルク家の使用人小隊をぽんと預けられたときは何事かと思ったのだが、実際にデューク教授の顔を見た瞬間に全てを察した。使用人小隊もこの状況に慣れていたのか、有能な仕事ぶりを発揮し、あれよあれよと教授を学園から彼の持ち家まで輸送していった。
 ヒルダの仕事は研究室の整理整頓と戸締まりだった。毎日毎日整えた端から散乱していく謎の常識がある教授の机周りには数日分の反古紙やインクの染みが飛び散っていて、でんと置かれた水差しだけの様子を見るに、カップも使わずお茶などにすることもなく直接飲んでいたらしい。中身は空になっていたが、まさか脱水状態になっていやしないか。
 ……あの方も貴族のはずなんだけど。ってこれを思うの何回目だろう。

(教授の家の者は何をしてらっしゃるんだろう)

 てきぱきと片付けて戸締まりをして。研究棟の管理室に鍵を返して警備詰所に顔を出した。

「おや、お嬢さん。足はもう大丈夫かね」
「その節はお世話になりました。お陰さまでこの通りです。こちらは差し入れです、よろしかったら皆様でぜひお召し上がりください」
「おお、これは!」
「西区の!売り切れごめんの!」

 休息していた初老の男性陣がわっと手土産に盛り上がる様子はえも言えぬ感慨をわき上がらせるが、ヒルダは笑みをなんとか保ったままでいた。ドルフの周囲に甘味好きが偏りまくっている気がするが、朱に交わったのか偶然かそうなるように集めたのか、ちょっと気になる。
 はじめに声をかけてくれた警備兵が一足先にその輪を抜け出してヒルダの前に立ち直した。

「悪いねえ、いい歳して見境のない連中で」
「いいえ、喜んでいただけたら嬉しいです」
「見ての通り大喜びだよ。怪我は本当にいいのかい?」
「はい、痕も残らないようにと塗り薬まで頂いてしまいました」
「よかったよ」

 ただし毒の後遺症か、時々無意識に怪我をした右足で踏ん張ったらつきりと痛む時があるが、歩行に支障はないし、これもじきに治るとはバルメルク家お抱え医師の言葉だ。黙っておいても変わらない。

「学園の休みが明けても研修生は続行かい?『課題』は終わったんだろう?」
「……おじさままでお聞き及びだったんですか?」
「グランセス殿下が時々ここでお茶を飲んでいかれるからねえ」

 学園の警備詰所でお茶を飲む国内最高峰の貴人の姿を想像して、あ、これ突っ込まない方がいいやつだ、と察した。誰と密会しているんだとか、もし軽い雑談だとしてもそこに同席しているこの警備兵の正体はなんだとか、突っ込んだら最後まで突き進む覚悟が必要な部類だろう。それは嫌だ。
 そうなんですねと無難に流したら残念そうな視線をいただいた。予感は的中らしい。このおじさま怖い。

「お恥ずかしい話でした。ドルフさまのご厚意だったと今はきちんと心得ております。引き続きこちらでお世話になるつもりです」
「そうかい。デュークさまのこと、よろしく頼むねえ。さっき運ばれていったんだけどね?前も同じようなことがあったんだよ」
「そちらは、はい、もう全力で支援させていただきますとも」

 教授の家庭事情を聞く僭越など働く気はないが、それを知らなくてもヒルダにできることはあるので。

(毎日研究室に通えるように時間を調整しましょう)

 先日、学生同士のいざこざというには悪質かつ各方面に甚大な影響をもたらした事件によって、学園の閉鎖が決められた。講師の一部も関係していたというので学園の信用問題にも及んだためだ。不祥事を起こした学生の家が王兄派だったこともあり、王兄派への攻撃材料に事欠かない状況だったが、実際のところ、事件は作られた舞台の上で起こるべくして起こったこと。王兄グランセスとその臣下ドルフは、嬉々として自陣の弱体化に勤しんだ。始末もまだ未公表なだけで実務は終わっており、数週間後の王家主催の夜会で社交界の鄒勢が明らかになるだろう。学園の閉鎖もその日に解かれることになる。
 といっても、研究棟はほぼ政治に無関係ゆえに閉ざされなかったし、遠方に実家のある学生などのために寮も開かれたままだ。ヒルダも研修生として寮で寝起きするつもりだった。
 しかし一応怪我の経過観察だとか学園のゴタゴタの関係者だとかいう理由をこじつけられてバルメルク家に長く滞在することになってしまっており、毎日研究棟へ赴くにはちょっとした手間だ。今度こそドルフに、寮に帰らせてもらうように提案しなくてはなるまい。
 ただでさえ、キルデア侯爵家やレーウェンディア伯爵家など、いくつかの貴族家の凋落によって商会の仕事もまた忙しくなっているのだ。その道を少し早足で辿りつつもげんなりとため息をついた。
 派閥争いってなんて面倒なんだろう。

 馬車が通るようなので端に寄って人波と壁の隙間を縫うように歩く。馬車が通り過ぎる時にちらりとそちらを見たのは、見覚えのある家紋が描かれているような気がしたからだ。
 捨ててきた実家、スートライト侯爵家の。
 どくりと胸が騒いで慌てて顔を背けようとしたが、ふと違和感に気づいて目を凝らした。

(――違う)

 微妙に画が違う。あの家紋は――スートライト家門下の一つ、ヒルダが妻として背負うはずだった、あの家のもの。

 ヒルダは自然な素振りで視線を前方に向けた。その表情は全てを圧し殺した完全なる無。

(ああ、嫌なものを見てしまった)

 とてつもなく気分が悪い。早くアレンに彼のことを知っているか確認しないと。兄上とアデルも、もう知っているのだろうか、特にアデルは――いや、その場合は彼の方が危険か。今度こそ不能になるか、存命も危ぶまれる気がする。正直どうなってもいいが、アデルが罪に問われることがないようにはしないといけない。

(どうして、突然王都まで)

「そこの、赤毛の女性、待ってくれないか!」

 ヒルダはびくっと肩を揺らした。どうしてこの声がこんな近くで。それでも耐えて歩調を速めると、制止の声もまた追いかけてきた。人違いだ、赤毛なんて他にもいるはず。なぜか周囲はヒルダと後ろの誰かを見比べている気がするが、気のせいだ。そう、全て。

「止まってくれ!」

 腕を掴まれて、ヒルダは反射的に払い除けようとした。しかしよりにもよって踏ん張った足が右。些細な痛みだが、それに気をとられて体勢を崩してしまった。ぽす、とその人の胸に頭が当たり、ヒルダは悪寒とともにのけ反って離れた。しかし腕はいまだ取られたままで。

「ああ、やっぱりだ……。ここで会えるとは思ってなかった」

 泣きそうな声が降りかかり、ヒルダはその人と一瞬だけ見つめ合ってしまった。記憶の通りの顔立ちなのに、まるで知らない人のようだと思った。
 だって、このくしゃりと歪んだ表情なんて――むしろ不満顔以外、これまで見たことなんてなかったのに。

「……離してくださいませんか。どなたか存じませんが、このような乱暴な真似はよしてください」
「どなたかって……私の顔を忘れてしまいましたか、ヒルディアさま」
「人違いです」
「髪を切ってドレスを脱いでもあなたはあなただ。一目でわかりました。磨かれたダイヤのように強く美しい我が領の姫君」

 今度こそヒルダは震え上がった。婚約者だったときに、こんな風に声をかけられたことも誉められたこともなかった。こんな熱のこもった眼差しだって一度も、わずか一瞬たりとも。
 この人にされたことを思えば、あたしのこと覚えてくれていたんですねとかうっかり感動なんてできるわけがない。

(こんな気持ち悪い人だったの、この人)

 全身鳥肌どころか、髪すら逆立ちそうだ。しかし相変わらず掴まれた腕は簡単には自由になりそうもない。不審者!と叫んで投げ飛ばしたいところだが周囲は人混みだし、貴族と平民だし、この人も馬車で来たのだから供もそれなりにいる。
 どうして、この人はこんなところでこんな暴挙をしでかしているのだ!

「離してください……!」
「逃げないのならば離します。私に弁明の一度も許してくださらなかったまま、お姿を消してしまったのですから。今だって馬車を見なかったふりをしたでしょう。小さな窓からあなたを私がどれほど驚いたかわかりますか?」
「なんのことだかこれっぽっちもわかりません、人違いです、あたしはヒルダという名前のただの平民で、あなたの探し人とは一切関わりがありません」
「そうか、素のあなたはそういう感じなのか。これもまた好ましい」

 話を聞け!と叫びそうになるのをこらえたヒルダは、ぐいっと腕を引っ張られてたたらを踏んだ。また足に痛みが走って、さりげなく振り払うタイミングを逃してしまった。
 ここに来てヒルダの目が据わった。

(もういっそよろめくふりをしてそこの路地裏に引っ張り込んで殴ろう)

 物騒な決意とともに拳を固めたヒルダに、「そこの女性、困りごとか?」と声をかける者が現れた。みんな貴族との厄介事だと見て見ぬふりをしていたところだったので、一斉に注目が集まった。

「そこの、地方貴族の青年に腕を掴まれている赤毛の君のことだ」

 ヒルダは目を丸くしたし、周りもそうだった。いかにも庶民な服装の三十代ほどの男が、堂々とそこに立っていたのだ。端正な顔立ち、まっすぐした立ち姿や尊大なほど毅然とした表情が安物の衣服と似合っていない。
 どこのお忍び貴族だ。
 ヒルダがとっさに返答につまった間に、その男の後ろからさらにもう一人、男が顔を出した。

「失礼ですが、そちらの方も、紳士としてそのように無理やり連れていくようなそぶりはいかがなものかと思います。どのような理由で揉めているにせよ、ひとまず手を離してはどうですか?」
「……私と彼女の問題だ。口出しは慎んでもらいたい」
「だから困りごとかと訊いているのだ。白昼堂々目の前で婦女の誘拐及び暴行があったとなれば、到底看過できないからな」
「なっ」

 婦女暴行という言葉が効いたのか、ヒルダは腕を掴む力が緩んだのに気づいて、やっと拘束を抜け出した。追いかけてきた手からも逃げて、離れて向かい立つ。

「人違いですから、あたしをどこかへ連れていこうとするのはやめてください」
「彼女はそう言っているが、諦めたらどうだ?」
「貴殿こそ、他家の問題に口を挟むのは――」
「そこで失言しないのは賢いと言えば賢いが、生憎だったな。ここは貴殿の地元ではなく王陛下のお膝元だ。私の権限で預からせてもらうぞ」

 男が懐から出したのは懐剣だった。見せつけるようにゆっくりとした動作でその鞘に刻印された紋章を露にする。
 ヒルダはまさかの邂逅に絶句した。隣国にいると聞いていたのに、なぜここに。 

「名乗っていなかったな。私の名はジュスト。バルメルク公爵家当主の長子だ。そちらも名乗れ」
「……失礼しました。スートライト侯爵家門下の一、サーヴェ子爵家のナジェルと申します」
「ほう、そうか。そちらの女性は?」
「ヒルダ、と申します」

 慎ましく頭を下げたヒルダは、ジュストの横に立つ男が目を見開いたのがちらっと見えて、内心で首をかしげた。……あの顔、どこかで見覚えがあるような。

「赤毛でヒルダという名。もしや父上の言っていた『秘宝』とは君のことか?」
「え、なんのことかわかりません」
「父上とは知り合いなのだろう?」
「公爵さまには日々、大変お世話になっておりますが……」
「そうか、それなら君を保護する義務があるな。サーヴェの、頭が冷えたなら下がるがいい」

 元婚約者はぞんざいに手を振られて、顔をしかめたものの一礼をして立ち去っていった。ジュストはさらに周囲を見渡して「往来で邪魔をしたな」と言った。時が止まったようだった人波がやっと動き出す。
 ジュストはヒルダにさっと手を差し伸べた。

「掴まれ。先程は声をかけるのが遅れたが、足を痛めているのではないか」
「ご心配には及びません。あの方を止めてくださったこと、心より感謝申し上げます」
「礼は必要ない。あの若者とはどういう関係だ?」
「人違いに遭っただけで、赤の他人です」
「今の君はそうなのだろうが、昔の関係は?」

 とりあえずと人混みから離れたところに誘導されていく中、ヒルダは強く掴まれていた腕をさすりながら、掻き消えそうな声で答えた。

「……元婚約者です」
「なるほど、痴情のもつれか」
「ジュストさま」

 すぐさま諌めた男に「しかし」とジュストが言ったが、「しかしもなにもありません」とばっさり切り捨てられて拗ねた顔をした。

「むう。父上があれほどお気に召した娘はどんなものかと思ったのだ」
「……はあの方に捨てられた立場でしたので。ここで出会うとは――いえ、ああして追いかけられるとは思っておりませんでした。ドルフさまにもご迷惑をおかけしてしまうことになりますね……」

 ジュストは呆気なく押し黙り、隣の男はそら見ろという顔をして首を振った。

「お嬢さま、不躾なことを尋ねてしまい、申し訳ありません。この方のかわりに私がお詫び申し上げます」

 ヒルダの正面に回り、男がそう言って丁寧に頭を下げた。この二人の関係性が見える一方で、ヒルダは「お嬢さま」という呼びかけが気になった。

「あたしはただの平民のヒルダです。その呼び方は遠慮します」
「……そう、でしたか。これは失礼をしました」

 だから平民相手に丁寧すぎる、とヒルダが思っていると、その垂れた目と視線が交錯した。
 やっぱり、どこかで会ったことがある……?

「私だけ名乗っておりませんでしたね。私は……ハルト・ライゼンと申します。同じく平民ですから、そう固くならないでくれるとありがたいです」

 今度こそヒルダは驚きすぎて倒れるかと思った。

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