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帰る場所

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「セシル殿!?」

 騎士から報告を受けて馬車を飛び出したメイソンは、見知ったその人のあまりにも悲惨な姿に思わず絶叫した。

「怪我は!?」
「落ち着いてください、メイソン殿。ほぼ掠り傷です」

 肩に血をにじませ全身砂埃にまみれた、社交界では見せられないような姿で、それでもセシルはいつもの余裕ある笑みを浮かべて応えた。

「改めて感謝を。メイソン殿のお陰で九死に一生を得ました。ありがとうございます」
「いや、貴殿が無事なら、それに勝ることはない。この場でできる限りの治療も行おう。護衛たちは……」
「それなら、もう少し待てば、後続と合流できるはずです」
「では私も待とう」

 メイソンのすぐ側に控えていた騎士が、一瞬表情を動かした。セシルは視界にそれが入っていたから気づいたのだが、メイソンは見ずともわかっていたらしい。振り返って「異論は聞かない」と釘を刺した。

「ですが」
「冷静に考えろ、カザン。スートライト侯爵家次期当主を万一でも損なうことはあってはならない。それにあの面々を見る限り、セシル殿の護衛は、商会の傭兵隊だろう?」

 カザンと呼ばれた男ははっとして、セシルの背後に立つ男を凝視した。これまではセシルという大物を前に動転していて、その護衛たちについて気を配れていなかったのだ。

「まさか……ヒュー・クアランドル!?」

 ヒューズは口の端だけで笑い、肩をすくめた。いかにも不遜だが、咎めようもないほど堂々とした仕草だった。

「今の名前はヒューズだ。んな仰々しく呼ぶんじゃねえよ」
「……というわけだ。護衛も一人として欠くべきではない。わかったな」
「はっ。申し訳ありません。ではこの場に陣を広げます。本邸へは使いを出しますか?」
「そうしてくれ。セシル殿、そちらの別邸へは?」
「可能ならばお願いします。お手数をおかけして恐縮です」

 日暮れ頃まで待てば、セシルの私兵は全員集結した。全員揃った、とセシルに報告してきたヒューズの言を聞いたルーアン公爵家の騎士たちは、賊の猛攻をこの目で見ただけに耳を疑ったが、セシルとメイソンは当然のように頷くだけだった。

「さすが、伊達ではないな。自力で来れるほどとはさすがに思っていなかったんだが」
「商隊では毎度のことですからね」

 野外の焚き火の前でのんびり茶を嗜んでいた高位令息たちは、さてと立ち上がった。このときにはすでに貸し借りの話が済んでいたので、てきぱきと陣を引き払い、スートライト侯爵別邸へ向かうのだった。









☆☆☆






 先触れとして一足先に侯爵別邸に駆け込んだヒューズの部下ルッツは、そのまま商会に戻り、馬房に馬を戻したところで「あ、ルッツさん」という声にぎくりと固まった。

「帰ってきたの?兄う……会頭も?やたらと汚れてるけど。……しかも怪我まで?まさか何かあったんじゃ」
「お疲れ様です女神さまでもすみません隊長から口止めされてるんでこれにておさらば!」
「えっ」

 一息に捲し立てるように言い、たったかと建物の中に逃げ去ったルッツは、一度もヒルダに視線を向けなかった。最初から負けるとわかってるのだから戦わないという判断だ。その流れでヒューズに責任を丸投げしてしまったが、まあ、あの人もヒルダに詰め寄られて悪い気はしないだろうと、隊長思いの部下は思うのである。護衛部隊における長女派のトップなので。ちなみにルッツは次女派である。どっちとも尊い存在であることに変わりがないし、姉妹仲そのものがとてもいいから、派閥の垣根は皆無。どこぞの王位争い(というよりその周囲の利権争い)と違う平和な嗜好に万歳。
 この時間だし、ヒルダは今やっと出勤してきたところなのだろう。また鉢合わせする前に、アレンに簡単に報告するだけして退散しようと、ルッツは商会の階段を二段飛ばしで駆け登っていった。装備がガシャガシャ音を立てるが気にしない。
 さっきまで外で命のやり取りをしてきたとは思えない軽快な足取りだが、部隊のみんな、例外なくこんなものである。セシルに拾ってもらうまではもっと劣悪な環境だったし、やりがいも段違いなのだからますます気分はいい。
 横を通りしなに顔見知りの女性職員から悲鳴のようなものを浴びせられたことだけはショックだったが。だが突然目の前に血やら埃やらにまみれた男が現れたら誰でも驚く。いっそ、不審者どころか秘書の暗殺にでもやって来たのかと思われても仕方がない。
 ルッツは「お疲れごめんねー!」とだけ声をかけ、速度は緩めなかった。
 当然、仕事部屋に殴り込まれたアレンも思わず席を立ち、飛びずさった。武器を持たせたらなぜかそれを明後日へカッ飛ばすほど才能のないアレンだが、こういう動きは俊敏なのである。

「誰だよ!?」
「酷いなー。まがりなりにもあんたの部下だよ?おれだよ、お、れ。御曹司が予定通り帰ってきたからその報告。襲撃も予定通り。ルーアンの坊っちゃんと一緒に屋敷に行ってるところ」
「な、なんだ。ルッツか。それ、怪我してるんじゃないのか。セシルたちも無事か?」
「全員軽傷。死者重傷者なし。ただし馬三頭損失。細かい報告書は後でまとめとくからよろしく」

 ほっとしたアレンだが、それだけではない複雑な表情になった。メイソンと一緒に帰ってきたということは、それだけ追い込まれたということだ。

「……本気で殺す気だったんだな」
「さっすが貴族、ドロドロしてるよなー」
「元貴族が言うことじゃねえぞ」
「だって『元』だもーん」
「四十間近のおっさんが『だもん』とかやめてくれ」
「見た目はあんたと同世代だけど?」

 水分補給用に置いていた水差しの中身でハンカチを湿らせ差し出してくれたアレンに、ルッツは簡単に礼を言って受け取った。顔周りを拭くだけで、少し気分がさっぱりする。ついでにコップももらったのでありがたく飲み干した。

「じゃあそろそろ退散するわ」
「お疲れ。ああ、ハンカチ持っていくなよ」
「洗わなくていい?」
「いい」
「あんがとー。今度なんか礼するわ」

 あっさりと出ていったルッツを見送ったアレンは、やがてどさりと椅子に座り込んで、目を覆った。絞り出すようなため息は、友人の無事な帰還に対する安堵と、それを阻もうとした者への苛立ちのため。アレンがもたらした情報がきっかけだったこともあり、今さら心臓が嫌な鼓動を鳴らした。

(……ヒューズたちが追い込まれるって相当だよな……。王都まで来れたんだから諦めてくれるはずなんだが、結託した相手によっては次が来るな)

 もう一度商人の情報を洗い直した方がいいかもしれない。秘書としての仕事の傍ら、になるが手は抜けない。
 領地持ちの貴族と宮廷貴族では考え方も政治の仕方も違う。それは守るべきものの違いだ。地方出身で領政も何割か担っているセシルやその補佐のシドより、宮廷貴族のやり方を知っているのはアレンだ。政治力に直結しているわけではないし、城ではシドの方がスートライト侯爵家次期当主セシルの助けになっているが、生まれついた環境ゆえの見識の差も、なかなか侮れたものではないのだった。
 その後、ひょっこりと出勤してきたヒルダを見て、アレンは一切合切の思考に蓋をして笑いかけた。

「アレン、さっきルッツさんが来なかった?」
「ああ、来たぜ。セシルたち、やっと帰ってきたんだってよ。無事、な。だからそんな不安そうな顔すんな」
「……ルッツさん、すごく汚れてたんだけど」
「しつっこい盗賊に出会したらしいぜ。ちゃんと逃げ切ったらしいから安心しろって」
「……」

 不謹慎だが、ぷくりと膨れている想い人の姿に思わず癒されたアレンだった。

「今頃、別邸でもアデライト嬢と感動の再会をしてると思うぜ。あいつも今回はえらく我慢してたからな。ヒルダの刺繍したハンカチも、やっとセシルに渡されるだろ。明日にでも、シド伝てでなんか返事来るだろうから、な?」

 ヒルダは渋々と自分の机の前に腰かけ、そのまま突っ伏した。

「どうした?」
「……時々、後悔するの。家を出たこと」

 泣きそうに潤む声にまたもアレンは腰を浮かせてしまったが、ヒルダの顔は伸びた髪に遮られて見ることができない。しかし、ヒルダは泣いている訳ではなかった。ただ……ひたすらに弱っていた。
 血の繋がった大事な兄なのに、今すぐ無事を確かめに行くこともできず、屋敷にこもりっきり、孤独と戦う大切な妹に直接の激励も慰めもできず、アデルのために防衛戦線を張る屋敷を守る手助けもできなかった。何度、もどかしい気持ちで突っ走りかけたことかわからない。
 勘当されてなければ、こんな苦しい気持ちにはならなかった。あのときの選択は間違いだったのではと、時々そう考えてしまうのだ。
 顔のそばに置いた自分の掌を、じいっと見つめ、深く深く息をついた。ペンだこや剣だこができている手は、令嬢時代は手袋を着けてごまかしていたが、セシルやアデルはヒルダと手を繋ぐのが好きだった。素手でだ。両隣から繋がれ、自由にならない手だけど、温かくて幸せで、ヒルダも好きだった。

 でも、それだけでは破綻してしまったから、ヒルダは二人の手を振りほどいて、ここにいる。

(……うじうじしてる暇があるなら、少しでも二人の負担を軽くしましょう!)

 決然と頭を持ち上げると、いつの間に歩み寄っていたアレンがびくっとしていた。

「あ、あら、どうしたの?」
「いや、どうしたのっていうか、落ち込んでるから……」
「ありがとう、でも大丈夫よ。仕事するわ」
「……言っとくけどな?セシルもアデライト嬢も、お前のこと大好きだからな?めっっちゃ愛してるからな?」

 ヒルダは生ける彫像となった。

「……。……な、なに、急、に」
「後悔ってそういうことかと思って。まあこんだけ目の前がざわざわしてたら罪悪感あっても仕方ねーけど、あいつらがお前を嫌うなんて、ないない。地面と空がひっくり返ったって、突然隕石が落ちてきたってそんなことありえないから。全人類死滅してもあいつらは最期まで変わらずシスコンだよ。いや、むしろヒルダのために世界滅ぼしそう……」

 実際親とメンチ切ってるし、と内心でアレンは呟いた。ついでに言えば王家さえ巻き込んでいるし。やることに容赦がないというか、躊躇いがない。遠い目になっているうちに、ヒルダはまじまじとアレンを見上げていた。
 改めて名前を呼ばれたアレンは、ん?と首をかしげた。

「……アレンって、どうしていつも、あたしの欲しい言葉をくれるの?」
「……具体的にどの辺がそう?」
「…………なんとなく恥ずかしいから言わない」
「なんでだよ!?」

 叫ぶアレンからヒルダはそっぽを向いた。だって、まるで、ヒルダの内心など全部見透かしたことを言うから。後悔、罪悪感、虚栄心、羨望、孤独。後ろ暗いその感情を丸っと理解して、それごと許容してしまうようなおおらかさはとてつもなく希少で、貴重で、涙が出そうなほどの救いだ。

 ――甘えてくれたら、喜んでどろどろにふやかすけどなあ。

 ぼんっと頭から湯気が出て、ヒルダは再び机に突っ伏した。あの発言の素地がやっとわかった気がした。
 背中がぷるぷると震えるヒルダを見下ろすアレンはまた訝しげな顔だが、ヒルダは机に額を擦り付けてぐりぐりもだもだするので精一杯だ。こんな顔、見せられない。机があってよかった……!

(まさか甘える前に甘やかしてくるって、恐ろしい人……!!)

 そんなヒルダに何を勘違いしたのか、アレンは「あー、その、な」と声をかけた。

「おれの言ったこと、お前に都合よく聞こえたのかも知れないけど、本当のことだからな?あいつらだって、いつまでも兄妹だけでおんぶにだっこの生活なんて無理だったんだから、今回はちょうどいい機会だったんだよ。二人とも本気で嫌ならとっくに逃げてお前んところに押しかけてきてたって。それを我慢したのはあいつらの意志なんだから。見守るのが正解なんだよ」

 慰めるつもりでヒルダの頭を撫でようとしたアレンは、一瞬ためらい、ぽんっと弾むように一回だけ触って、離した。ヒルダはそんな葛藤など知るよしもなく、また(だからなんでそんなに的確に!!!!)と脳内大荒れだ。でも、アレンの言葉は、心を凍りつかせるような後悔や負い目のような恐怖じみた気持ちを、確実に、染み入るように融かしていった。本気で嫌なことがあれば嫌と言うほどの胆力を、二人とも持っていたことはヒルダがよく知っていることで、改めて指摘されれば納得できたのだ。
 もう不安がらなくてもいいとわかったヒルダは、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので、のろのろと顔を上げた。

「……仕事、するわ。ありがとうアレン」
「お、よかった、機嫌直ったか」

 ヒルダはちらっとアレンを見上げたが、失敗だった。いつものように朗らかに微笑んでいるだけなのに、なぜかまたあのときの声と表情がフラッシュバックして、机に轟沈し、とんでもなく痛い音を響かせた。






 この日のヒルダは珍しく仕事に手がつかない有り様だったが、その理由を知るのは本人ばかりだった。
 ちなみに額にはたんこぶができて、会う者を漏れなく二度見させた。







☆☆☆








 その日、ヒルダは注意深く学園内を観察していたが、そうするまでもなく変化は一目瞭然だった。

 アデルが復学するやいなや、学園の雰囲気が鮮やかに波打ったのだ。それまでは客観的に見ても精細を欠いていたのだと、色めきはじめてからやっと気づいた。それほどまでに、生徒たちの表情が変わる。久しぶりの妹の登校のため周囲の牽制も含め付き添って馬車から降りたセシルと並ぶと、ますます人目を惹き付け、離さない。
 美しさとは、それだけで人を歓ばせることができると証明していた。
 そして、アデルはその変化を敏感に感じ取りつつも、淑女然としてたおやかに微笑み、セシルと何言かを囁き交わし、またふんわりと表情を綻ばせる。セシルもまた、周囲には冷たすぎるほどの視線を向けるのに、アデルにはいとおしく微笑みかけていた。きゃあっと少ない女学生から声が上がるのはまだわかるが、一部男性からも漏れ聞こえたのには少し引いたヒルダだった。

 二人が別邸以外で猫を被っているのは承知の上だが、やはり「大輪」も「絶氷」も、 アデルとセシルを構成する大部分なのだと、ヒルダは改めて思い直した。彼ら自身が磨き上げ、周りに認められたゆえ、二人が完全にそれを捨て去ることはできない。アレンの言った通り、二人は自分たちで残ることを選び、積み上げたものを守るために戦ったのだ。
 生まれついたのに貴族社会に馴染めなかったヒルダとは違う。二人の居場所は、本人が気づいていないだけで、確かにそこにあった。

(今度、またプレゼント贈ろう。シドに頼まないと)

 物陰に姿を消すヒルダの視界の端に、お馴染みの三人の令嬢が喜びを満面に、アデルとセシルの元へ駆け寄っていくのが見えた。

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