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Ⅲ
ついでの規模には個人差があります
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セシルはヒルダがいなくてもやっぱりシスコンだったし、アデルも確かにブラコンである。
アレンとシドはその思いを新たにした。
(超絶相思相愛すぎてからかいもできねえ)
額と額をこっつんこしたあとも、二人はそのままべったりくっつき合っていた。明日から会えなくなる分、今日早めにアデルを帰らせて、妹分・兄分を補給しようという考えはいいのだが、それをアレンたちの目の前でやるところが頂けない。非常に頂けない。
「おいセシル。結局用がないんなら、商会に戻るからな、おれ。お前はそんまま休暇してろ」
「ん。ヒルダにも伝えておいてくれ」
「わかってるよ」
「私は明日からの調整を……」
「あ、待って。二人とも、まだ行かないで」
「なんだおれらを巻き込むな!」
「姉さまのことで話があるの。除け者にしてもいいの?」
すでに一度ドアノブに手をかけていたアレンは、あきれた顔で振り返った。
「今から商会で会うんだ、むしろ早く行って仕事片付けねえと」
「姉さまは、絶対に誰にも言わないわ。――今朝ね、姉さま、寮で窃盗の罪を押し付けられたのよ」
空気が一瞬にして凍りついた。セシルが抱きしめてくる腕は硬直し、シドは書類をばさりと取りこぼし、アレンに至っては「あ?」と、これまで聞いたことのないような声を発した。
「本当は紛失だったらしいけど、盗んだって公衆の面前で言いがかりをつけられて、今日は学園のどこかしこも不愉快な空気だったわ」
「ヒルダは大丈夫なのか」
「なにかお考えがあるみたいで、飄々として、昼間も堂々と食堂に来たのよ。……それで、兄さま、リーナもね、ただの紛失じゃなさそうって言ってたの。兄さまならなにかわかるでしょう?」
椅子に座ったままだったセシルからちょっと離れてその顔を見下ろして、あら、と瞬いた。いまだ理解の追いついてない間抜けな表情だったので。
「兄さま?」
「……アデル、すまないが、もう一度言ってくれないか」
「姉さまが窃盗の濡れ衣を着せられたの」
直後、アデルは背後から引き寄せられ、ものすごい勢いで立ち上がったセシルとのごっつんこをまぬがれた。功労者シドはアデルの腰に回していた手を離し「申し訳ありません」と謝ったが、セシルの声ともろに被って掻き消された。
「――ちょっと出てこようかな。短期決戦で済ませよう」
視界を埋め尽くす氷を砕き割るような声だった。
「待て待て待て待て落ち着け馬鹿シスコン!さっきまで堪えてた癖に一瞬で振り切れんな!!」
怒っていたアレンも、それを凌駕するセシルの激怒っぷりに一気に冷静になったらしい。ドアを背中で庇ってセシルの肩を掴み、必死に押し戻した。
「シド!この馬鹿殴ったれ!」
「さ、さすがにそれは。セシルさま、どうか落ち着いてください。甘いお茶を淹れますから」
「兄さま、それだと姉さまが悪者になっちゃうわ。こういうときのための後見人でしょう」
セシルは暴走をやめた。アデルを振り返り、何度も瞬き、なにか言おうとしては口をつぐみ、最終的に、恐る恐るといったように尋ねた。
「……お前は、なぜそう落ち着いている?」
いつもならセシルに知らせる前、アデル自身が知った直後に暴れまわっていたはずなのに。
すると、アデルはほんのりと儚げに笑った。
「私たち以外に、姉さまを大事に思ってくれる人がいるって、わかったから」
アデルは改めて今日の顛末を話しながら、ナタリーのことを思った。あの場でアデルが飛び出さなかったのは、ファリーナに止められ、ナタリーが先に動いたからだ。そして、アデルよりよっぽどヒルダのためになることをした。アデルやセシルだったら、ヒルダの無実なんて晴らす前に全部壊し去っていただろう。
セシルは、アデルの話す内容を、一つ一つ拾い上げていくように、丁寧に頷きつつ聞いていた。終わり頃には閉じていた目を開いて、アデルと同じように微笑んだ。
「……本当にあの子は、王都に来てよかった」
「ほんとに、そうよね」
「お前も、いい友人を得られたものだね」
「全くその通りよ」
長い髪を梳るように兄に撫でられ、真剣に頷き返すアデルは、今、セシルの膝の上にいた。いつの間にかべったべたは再開しており、話だけなら微笑ましいのにな、とアレンは遠い目をしたし、シドは悟りを開いたように淡々とお茶を注いだり軽食を用意したりと働いている。
「……それで、その言いがかりをつけてきたのはどこの誰なんだよ」
「よくわからないの。朝の寮の食堂でのことで、従者から広がっていったのは把握できてるんだけど」
アレンは低く唸った。アデルの理路整然とした話ぶりに問題はないが、内容そのものに対して違和感がある。首を捻っていると、セシルはその段階を通り越しているようで、ふむふむと頷いていた。
「ファリーナ・グレイ嬢はさすがの慧眼だ」
「兄さま、なにかわかる?」
「シド、君は?」
突然話を振られたシドは、しばし視線を泳がせた。「君の推測でいい」と言われて、意を決したようにアデルを見た。
「……アデライトお嬢さま、ヒルダは本当にペンを盗んだと糾弾されたのですか?」
「え?」
「お話だと、『盗んだ』ということだけで、具体的な内容には触れられていないように思います」
「……どういうこと?」
「あー、それか、違和感。窃盗疑惑だけ一人歩きしてるのか。いつどこで何を盗んだのかってのが全くないもんな」
「それは、ペンを……」
「お前の友だちがそう言っただけだろ?言いがかりつけた奴は何一つそんなこと言ってねえんだろ」
アデルはやっと合点がいった。確かに、ナタリーが食堂のあの席で言ったのが初めてだったような気がする。それまで噂は耳に届いていたものの、「貴族の持ち物を盗んだ」ことだけだった。いや、でも、それがなにか問題があるのだろうか。シドはその疑問が聞こえたように確かに頷いた。
「アレンさまのおっしゃる通りであれば、寮監の方に尋ねても無駄でしょう。そのペンの持ち主が特定できたとしても疑惑が完全に晴れることはありません。『何』を盗んだのか、なぜヒルダが盗んだと決めつけられたのか、その証となるものは一切明るみになっておりませんから」
「いくらでもその言い出しっぺは言い逃れできるってこった」
「じゃあ、姉さま、まだ色々言われちゃうの?」
そわっとしたアデルを宥めるように、セシルは柔らかな頬をつついた。これが手触りがよくて癖になるのだ。
「二人とも、惜しいね」
シドとアレンは思わずセシルを凝視した。
「アデル。お前が気になったファリーナ・グレイ嬢の言葉、もう一度言ってみてごらん」
「え、ええと、その方……寮監が、本当にご存知であればいいのですが、って」
「つまり彼女は、寮監が知らないということを半ば確信している。どうしてだろうね?」
「……と、思いましたの。全て私の推測に過ぎませんが」
同じ頃、学園のサロンの一室で、ファリーナはそう言ってからお茶を飲んだ。長々と説明したせいで喉が渇いていた。
丸いテーブルを囲む他の二人はひたすら唖然としていて、お茶にもお茶菓子にも手を伸ばす気配がなかった。
「よく……よく、そこまで考えつきますわね」
「ファリーナさまはいつもお考えが深くていらっしゃるから、すごいわ」
純粋な称賛に頬を緩めたファリーナである。私など、と謙遜するのは、ファリーナよりよっぽど深慮で賢明な人を、二人も知っているからだ。
「現に、ヒルダさんもそこまで見越しているはずです。でないと、あんな風に中途半端な騒動にはなりませんから」
心から尊敬するその人の姿を思い描き、やっぱりかっこいいなあと内心で呟く。悪意ばかりの視線のなかを、堂々と姿勢を伸ばし、颯爽と歩く人。アデルを見つけたとたんうろたえていたのはちょっと可愛かったけど、でも、かっこいいのだ。
ヒルダがなぜ汚名を着てまで事態をおおごとにしているのかは読めないが、言いがかりをつけた相手がこの後どうなるかは、簡単に想像がついた。
(自滅一択)
そもそも自作自演の段階でそれは決まっているが。加えてヒルダが煽ったことで、簡単に収まりがつかなくなり、放校か自主退学に落ち着くことになるだろう。その後のことまではファリーナには関係ないので、考える必要はない。というか考えたくない。怖すぎて。
……ヒルダがバルメルク公爵家の後見を得ていると周知されていないことが、なによりも恐ろしいのだ。本人の自滅で済めばいいが、どこかしらで誘爆しそうな気がする。今の時点でも、ヒルダを弱者と見て貶める者がいるので、可能性はかなり高い。
(あ、でも、ヒルダさんならそこも折り込み済み……?)
ちょっとぞっとして腕をさすった。あの兄妹、誰も彼もが大胆不敵すぎる。落ち目とはいえ格上の公爵家に喧嘩を売ったり(そして勝った)、貴族がほとんどを占める学園を平民の身分で引っ掻き回したり(負けはありえない)。勝てる勝負しかしないというより、勝てない勝負を作らない。ある意味、侯爵領という国を治める君主の血筋の賜物だろうか。しかも年若いのにヒルダのその実績は計り知れないとあって、王都の権力闘争にも本腰を入れていない、ぬるま湯に浸る貴族学生には、到底太刀打ちできるものではないだろう。
「ヒルダさんという方、一体どなたの推薦で学園にいらしたのかしら」
つらつらと考えていたファリーナはびくっとしたが、シェルファは気づかなかったようだ。麗しい容貌にぎらぎらと光る紫の瞳は、美しいが、それよりも怖い。熱意が強すぎて。
「アデライトさまやファリーナさまのおうちではないでしょう?なにかご存知?」
「いえ……私からは、なんとも……」
「お知りになってどうするのです、シェルファさま」
ナタリーも少し引き気味に尋ねると、シェルファは「引き抜きよ!」と元気よく答えた。二人はぽかんとした。
「どうせ二年後にはディオールへ嫁ぐこの身、お父さまは残り時間を私の好きに過ごしていいとおっしゃったのよ。私、ここで学ぶこともそうでしたけど、もっとやりたいことがありますの。ヒルダさんの立ち回りの狡猾さは、まさにうってつけでしてよ」
「こ、狡猾……」
「うってつけ、ですか」
地味にお言葉が荒れてますよ、とシェルファの侍女は目線で訴えていたが、興奮するシェルファは気づかないようだった。また勢いよく頷き、「もちろん皆さまにもご協力頂けたらと思います!」と、身を乗り出して二人の手を握った。
「え、わ、わたくしたちもですか!?」
「もちろんですわ!ああ、でもアデライトさまは今いらっしゃらないし、ここで打ち明けたら仲間外れになってしまいますわね。また後日、こうして集まれませんこと?できるならヒルダさんもお呼びしたいわ」
ファリーナはなんとか笑みを保ったまま、背筋に冷や汗をたらりと流した。普段のシェルファは礼節と道理を弁える才多き侯爵令嬢だが、今は興奮しすぎている。この勢いでアデルの目の前でヒルダをどうこうと言って、なんなら断られてもその意志を無視するようなことをすれば……まずい。とてつもなくまずい。セシルとアデルの本性を知るのは、この場ではファリーナとその侍女のエメルのみ。思わず主従はさっと視線を交わし、お互いの戦慄を共有した。そうしてファリーナは己を鼓舞した。
せめて……せめて当事者がいないところで、一旦話を聞くべきだ。そうするしかない。格下のファリーナではシェルファを完全に止めることはできはしないのだ。
「そ、その、シェルファさま。ヒルダさんは研修生でありながら、スートライト侯爵家の運営するソラリア商会の中でも重大なお仕事をこなすお方ですわ。放課後はほぼ毎日を商会に勤めていらっしゃいます」
「あら!そんなに素晴らしい方なのね。なおさらお力を頂きたいわ」
「で、ですが、そのような理由で、ヒルダさんはとてもお忙しいのです!あの方が突然商会を欠勤でもしたら、会頭であるセシル・スートライトさまのご不興にも繋がりますわ。先に私の方から、ヒルダさんのご予定をうかがって参ります。シェルファさま、その時の説明の際にあなたのなさりたいことを触りだけですがお伝えいたします。ですので、今のうちに、少しでもお聞かせ願えませんか?」
「……そう、ね」
さすがにスートライト侯爵家次期当主の名前は効いたらしい。シェルファはすとんも椅子に座り直して、俯き、顔を両手で覆った。
「わ、わ、私ったら、なんという不調法を……!」
ファリーナは心底安堵し、ナタリーは苦笑しつつシェルファの肩をそっと撫でた。シェルファの侍女はお茶菓子のなかから主人の好物を引き寄せ、お茶を淹れ直した。慰める用意は万全である。
「シェルファさま、普段はとても落ち着いていらっしゃるから、今のは少し意外でしたわ」
「とても可愛らしかったですよ」
「……うう……」
些細な噂に左右されず、身分に拘らず、公正で、「大輪」のアデライトでさえ動揺しても冷静沈着としていた今日の昼間からまだ数時間で、このギャップが露呈したわけだ。ナタリーの果敢な一面も多少目にすることになったファリーナとしては、ますます友に対する好意が増すだけだ。
この場にアデルがいたら、と思う。彼女やその兄姉に人間不信の傾向があることは見抜いていた。愛称で呼び合うほど親しくなったファリーナでさえ、何かあればたやすくアデルの懐から弾き出されるだろう。だからこそ、ファリーナは彼女に、信じられるものを差し出したかった。あちらに自覚はないだろうが、暗闇に迷子になっていたファリーナを明るいところへ導いてくれた恩がある。
……しかし、明日会えると思っていたアデルに、まさか半月も会えずじまいになるとは、ファリーナでさえ思いもつかないことだった。
そしてアデルが学園に戻るより先に、身分・性別への差別意識が強いあまりヒルダを陥れようとした貴族学生が放校処分となり、騒ぎに便乗して不適切な言動を見せた者は証拠を突きつけられた上罰則つきの厳重注意、酷い者はやはり放校処分となり、窃盗を巡る事件は終息を迎えた。処分された人数は十を優に越え、学園内の顔触れが大きく変動したものである。
特にその者共は、学ぶ意欲を最優先して人材を学園に迎え入れる王兄グランセスの不興を買った。また、ヒルダを研修生として推薦したドルフも、看過できない事態だと処分に介入するだけではなく、それぞれの各家にまで制裁を加える事態となった。そこでもって、やっとヒルダの推薦人は学生に認知されるようになったのだった。
予想していたとはいえ本当にここまでおおごとになってしまったことに、後にファリーナは遠い目をすることになるのだった。
ドルフ「誰もそこまでやってほしいとは言ってない」
アレンとシドはその思いを新たにした。
(超絶相思相愛すぎてからかいもできねえ)
額と額をこっつんこしたあとも、二人はそのままべったりくっつき合っていた。明日から会えなくなる分、今日早めにアデルを帰らせて、妹分・兄分を補給しようという考えはいいのだが、それをアレンたちの目の前でやるところが頂けない。非常に頂けない。
「おいセシル。結局用がないんなら、商会に戻るからな、おれ。お前はそんまま休暇してろ」
「ん。ヒルダにも伝えておいてくれ」
「わかってるよ」
「私は明日からの調整を……」
「あ、待って。二人とも、まだ行かないで」
「なんだおれらを巻き込むな!」
「姉さまのことで話があるの。除け者にしてもいいの?」
すでに一度ドアノブに手をかけていたアレンは、あきれた顔で振り返った。
「今から商会で会うんだ、むしろ早く行って仕事片付けねえと」
「姉さまは、絶対に誰にも言わないわ。――今朝ね、姉さま、寮で窃盗の罪を押し付けられたのよ」
空気が一瞬にして凍りついた。セシルが抱きしめてくる腕は硬直し、シドは書類をばさりと取りこぼし、アレンに至っては「あ?」と、これまで聞いたことのないような声を発した。
「本当は紛失だったらしいけど、盗んだって公衆の面前で言いがかりをつけられて、今日は学園のどこかしこも不愉快な空気だったわ」
「ヒルダは大丈夫なのか」
「なにかお考えがあるみたいで、飄々として、昼間も堂々と食堂に来たのよ。……それで、兄さま、リーナもね、ただの紛失じゃなさそうって言ってたの。兄さまならなにかわかるでしょう?」
椅子に座ったままだったセシルからちょっと離れてその顔を見下ろして、あら、と瞬いた。いまだ理解の追いついてない間抜けな表情だったので。
「兄さま?」
「……アデル、すまないが、もう一度言ってくれないか」
「姉さまが窃盗の濡れ衣を着せられたの」
直後、アデルは背後から引き寄せられ、ものすごい勢いで立ち上がったセシルとのごっつんこをまぬがれた。功労者シドはアデルの腰に回していた手を離し「申し訳ありません」と謝ったが、セシルの声ともろに被って掻き消された。
「――ちょっと出てこようかな。短期決戦で済ませよう」
視界を埋め尽くす氷を砕き割るような声だった。
「待て待て待て待て落ち着け馬鹿シスコン!さっきまで堪えてた癖に一瞬で振り切れんな!!」
怒っていたアレンも、それを凌駕するセシルの激怒っぷりに一気に冷静になったらしい。ドアを背中で庇ってセシルの肩を掴み、必死に押し戻した。
「シド!この馬鹿殴ったれ!」
「さ、さすがにそれは。セシルさま、どうか落ち着いてください。甘いお茶を淹れますから」
「兄さま、それだと姉さまが悪者になっちゃうわ。こういうときのための後見人でしょう」
セシルは暴走をやめた。アデルを振り返り、何度も瞬き、なにか言おうとしては口をつぐみ、最終的に、恐る恐るといったように尋ねた。
「……お前は、なぜそう落ち着いている?」
いつもならセシルに知らせる前、アデル自身が知った直後に暴れまわっていたはずなのに。
すると、アデルはほんのりと儚げに笑った。
「私たち以外に、姉さまを大事に思ってくれる人がいるって、わかったから」
アデルは改めて今日の顛末を話しながら、ナタリーのことを思った。あの場でアデルが飛び出さなかったのは、ファリーナに止められ、ナタリーが先に動いたからだ。そして、アデルよりよっぽどヒルダのためになることをした。アデルやセシルだったら、ヒルダの無実なんて晴らす前に全部壊し去っていただろう。
セシルは、アデルの話す内容を、一つ一つ拾い上げていくように、丁寧に頷きつつ聞いていた。終わり頃には閉じていた目を開いて、アデルと同じように微笑んだ。
「……本当にあの子は、王都に来てよかった」
「ほんとに、そうよね」
「お前も、いい友人を得られたものだね」
「全くその通りよ」
長い髪を梳るように兄に撫でられ、真剣に頷き返すアデルは、今、セシルの膝の上にいた。いつの間にかべったべたは再開しており、話だけなら微笑ましいのにな、とアレンは遠い目をしたし、シドは悟りを開いたように淡々とお茶を注いだり軽食を用意したりと働いている。
「……それで、その言いがかりをつけてきたのはどこの誰なんだよ」
「よくわからないの。朝の寮の食堂でのことで、従者から広がっていったのは把握できてるんだけど」
アレンは低く唸った。アデルの理路整然とした話ぶりに問題はないが、内容そのものに対して違和感がある。首を捻っていると、セシルはその段階を通り越しているようで、ふむふむと頷いていた。
「ファリーナ・グレイ嬢はさすがの慧眼だ」
「兄さま、なにかわかる?」
「シド、君は?」
突然話を振られたシドは、しばし視線を泳がせた。「君の推測でいい」と言われて、意を決したようにアデルを見た。
「……アデライトお嬢さま、ヒルダは本当にペンを盗んだと糾弾されたのですか?」
「え?」
「お話だと、『盗んだ』ということだけで、具体的な内容には触れられていないように思います」
「……どういうこと?」
「あー、それか、違和感。窃盗疑惑だけ一人歩きしてるのか。いつどこで何を盗んだのかってのが全くないもんな」
「それは、ペンを……」
「お前の友だちがそう言っただけだろ?言いがかりつけた奴は何一つそんなこと言ってねえんだろ」
アデルはやっと合点がいった。確かに、ナタリーが食堂のあの席で言ったのが初めてだったような気がする。それまで噂は耳に届いていたものの、「貴族の持ち物を盗んだ」ことだけだった。いや、でも、それがなにか問題があるのだろうか。シドはその疑問が聞こえたように確かに頷いた。
「アレンさまのおっしゃる通りであれば、寮監の方に尋ねても無駄でしょう。そのペンの持ち主が特定できたとしても疑惑が完全に晴れることはありません。『何』を盗んだのか、なぜヒルダが盗んだと決めつけられたのか、その証となるものは一切明るみになっておりませんから」
「いくらでもその言い出しっぺは言い逃れできるってこった」
「じゃあ、姉さま、まだ色々言われちゃうの?」
そわっとしたアデルを宥めるように、セシルは柔らかな頬をつついた。これが手触りがよくて癖になるのだ。
「二人とも、惜しいね」
シドとアレンは思わずセシルを凝視した。
「アデル。お前が気になったファリーナ・グレイ嬢の言葉、もう一度言ってみてごらん」
「え、ええと、その方……寮監が、本当にご存知であればいいのですが、って」
「つまり彼女は、寮監が知らないということを半ば確信している。どうしてだろうね?」
「……と、思いましたの。全て私の推測に過ぎませんが」
同じ頃、学園のサロンの一室で、ファリーナはそう言ってからお茶を飲んだ。長々と説明したせいで喉が渇いていた。
丸いテーブルを囲む他の二人はひたすら唖然としていて、お茶にもお茶菓子にも手を伸ばす気配がなかった。
「よく……よく、そこまで考えつきますわね」
「ファリーナさまはいつもお考えが深くていらっしゃるから、すごいわ」
純粋な称賛に頬を緩めたファリーナである。私など、と謙遜するのは、ファリーナよりよっぽど深慮で賢明な人を、二人も知っているからだ。
「現に、ヒルダさんもそこまで見越しているはずです。でないと、あんな風に中途半端な騒動にはなりませんから」
心から尊敬するその人の姿を思い描き、やっぱりかっこいいなあと内心で呟く。悪意ばかりの視線のなかを、堂々と姿勢を伸ばし、颯爽と歩く人。アデルを見つけたとたんうろたえていたのはちょっと可愛かったけど、でも、かっこいいのだ。
ヒルダがなぜ汚名を着てまで事態をおおごとにしているのかは読めないが、言いがかりをつけた相手がこの後どうなるかは、簡単に想像がついた。
(自滅一択)
そもそも自作自演の段階でそれは決まっているが。加えてヒルダが煽ったことで、簡単に収まりがつかなくなり、放校か自主退学に落ち着くことになるだろう。その後のことまではファリーナには関係ないので、考える必要はない。というか考えたくない。怖すぎて。
……ヒルダがバルメルク公爵家の後見を得ていると周知されていないことが、なによりも恐ろしいのだ。本人の自滅で済めばいいが、どこかしらで誘爆しそうな気がする。今の時点でも、ヒルダを弱者と見て貶める者がいるので、可能性はかなり高い。
(あ、でも、ヒルダさんならそこも折り込み済み……?)
ちょっとぞっとして腕をさすった。あの兄妹、誰も彼もが大胆不敵すぎる。落ち目とはいえ格上の公爵家に喧嘩を売ったり(そして勝った)、貴族がほとんどを占める学園を平民の身分で引っ掻き回したり(負けはありえない)。勝てる勝負しかしないというより、勝てない勝負を作らない。ある意味、侯爵領という国を治める君主の血筋の賜物だろうか。しかも年若いのにヒルダのその実績は計り知れないとあって、王都の権力闘争にも本腰を入れていない、ぬるま湯に浸る貴族学生には、到底太刀打ちできるものではないだろう。
「ヒルダさんという方、一体どなたの推薦で学園にいらしたのかしら」
つらつらと考えていたファリーナはびくっとしたが、シェルファは気づかなかったようだ。麗しい容貌にぎらぎらと光る紫の瞳は、美しいが、それよりも怖い。熱意が強すぎて。
「アデライトさまやファリーナさまのおうちではないでしょう?なにかご存知?」
「いえ……私からは、なんとも……」
「お知りになってどうするのです、シェルファさま」
ナタリーも少し引き気味に尋ねると、シェルファは「引き抜きよ!」と元気よく答えた。二人はぽかんとした。
「どうせ二年後にはディオールへ嫁ぐこの身、お父さまは残り時間を私の好きに過ごしていいとおっしゃったのよ。私、ここで学ぶこともそうでしたけど、もっとやりたいことがありますの。ヒルダさんの立ち回りの狡猾さは、まさにうってつけでしてよ」
「こ、狡猾……」
「うってつけ、ですか」
地味にお言葉が荒れてますよ、とシェルファの侍女は目線で訴えていたが、興奮するシェルファは気づかないようだった。また勢いよく頷き、「もちろん皆さまにもご協力頂けたらと思います!」と、身を乗り出して二人の手を握った。
「え、わ、わたくしたちもですか!?」
「もちろんですわ!ああ、でもアデライトさまは今いらっしゃらないし、ここで打ち明けたら仲間外れになってしまいますわね。また後日、こうして集まれませんこと?できるならヒルダさんもお呼びしたいわ」
ファリーナはなんとか笑みを保ったまま、背筋に冷や汗をたらりと流した。普段のシェルファは礼節と道理を弁える才多き侯爵令嬢だが、今は興奮しすぎている。この勢いでアデルの目の前でヒルダをどうこうと言って、なんなら断られてもその意志を無視するようなことをすれば……まずい。とてつもなくまずい。セシルとアデルの本性を知るのは、この場ではファリーナとその侍女のエメルのみ。思わず主従はさっと視線を交わし、お互いの戦慄を共有した。そうしてファリーナは己を鼓舞した。
せめて……せめて当事者がいないところで、一旦話を聞くべきだ。そうするしかない。格下のファリーナではシェルファを完全に止めることはできはしないのだ。
「そ、その、シェルファさま。ヒルダさんは研修生でありながら、スートライト侯爵家の運営するソラリア商会の中でも重大なお仕事をこなすお方ですわ。放課後はほぼ毎日を商会に勤めていらっしゃいます」
「あら!そんなに素晴らしい方なのね。なおさらお力を頂きたいわ」
「で、ですが、そのような理由で、ヒルダさんはとてもお忙しいのです!あの方が突然商会を欠勤でもしたら、会頭であるセシル・スートライトさまのご不興にも繋がりますわ。先に私の方から、ヒルダさんのご予定をうかがって参ります。シェルファさま、その時の説明の際にあなたのなさりたいことを触りだけですがお伝えいたします。ですので、今のうちに、少しでもお聞かせ願えませんか?」
「……そう、ね」
さすがにスートライト侯爵家次期当主の名前は効いたらしい。シェルファはすとんも椅子に座り直して、俯き、顔を両手で覆った。
「わ、わ、私ったら、なんという不調法を……!」
ファリーナは心底安堵し、ナタリーは苦笑しつつシェルファの肩をそっと撫でた。シェルファの侍女はお茶菓子のなかから主人の好物を引き寄せ、お茶を淹れ直した。慰める用意は万全である。
「シェルファさま、普段はとても落ち着いていらっしゃるから、今のは少し意外でしたわ」
「とても可愛らしかったですよ」
「……うう……」
些細な噂に左右されず、身分に拘らず、公正で、「大輪」のアデライトでさえ動揺しても冷静沈着としていた今日の昼間からまだ数時間で、このギャップが露呈したわけだ。ナタリーの果敢な一面も多少目にすることになったファリーナとしては、ますます友に対する好意が増すだけだ。
この場にアデルがいたら、と思う。彼女やその兄姉に人間不信の傾向があることは見抜いていた。愛称で呼び合うほど親しくなったファリーナでさえ、何かあればたやすくアデルの懐から弾き出されるだろう。だからこそ、ファリーナは彼女に、信じられるものを差し出したかった。あちらに自覚はないだろうが、暗闇に迷子になっていたファリーナを明るいところへ導いてくれた恩がある。
……しかし、明日会えると思っていたアデルに、まさか半月も会えずじまいになるとは、ファリーナでさえ思いもつかないことだった。
そしてアデルが学園に戻るより先に、身分・性別への差別意識が強いあまりヒルダを陥れようとした貴族学生が放校処分となり、騒ぎに便乗して不適切な言動を見せた者は証拠を突きつけられた上罰則つきの厳重注意、酷い者はやはり放校処分となり、窃盗を巡る事件は終息を迎えた。処分された人数は十を優に越え、学園内の顔触れが大きく変動したものである。
特にその者共は、学ぶ意欲を最優先して人材を学園に迎え入れる王兄グランセスの不興を買った。また、ヒルダを研修生として推薦したドルフも、看過できない事態だと処分に介入するだけではなく、それぞれの各家にまで制裁を加える事態となった。そこでもって、やっとヒルダの推薦人は学生に認知されるようになったのだった。
予想していたとはいえ本当にここまでおおごとになってしまったことに、後にファリーナは遠い目をすることになるのだった。
ドルフ「誰もそこまでやってほしいとは言ってない」
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