どーでもいいからさっさと勘当して

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それは待ってない

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 昼頃には、ヒルダがどこぞの貴族学生の持ち物を盗んだ、という話が学園内にすっかり広まっていた。
 朝、詰られたヒルダはきっぱりと「違います」と否定した。決めつけてきた本人以外からちらちら見られても、「嘘を言うな!」と野次を飛ばされても、言い訳のひとつもしなかった。もちろん謝罪もしない。
 平民の女が何様かと、面白くない彼らはせっせと主人や友人たちに愚痴をこぼし、それが伝言ゲームのように学園内を駆け抜けたというわけだった。

 中でも、ウィンスターは遅くに知った一人だった。従者なんて雇ってないし、同じクラスに親しく話す友人もいない。「その女、お前の通ってる研究室によく出入りしてるんじゃないか」と、確認されがてら説明をされて仰天した。昼休みになると講義室から飛び出して研究室に駆け込んだが、見事にヒルダとはすれ違った。

「女史は!?」
「食事に行ったよ」
「なんで!?」
「いや、私も止めたんだがね。気にしてないから、と元気に言われてしまった」

 教授は困ったような笑みを浮かべていたが、すぐに真剣な顔になった。

「ヒルダ殿を連れて戻ってきてくれ。私からの用事を預かっているから、と言えば大抵の者は引くだろう。この際食事は後回しだ」
「そうさせてもらいます」

 ウィンスターはまた全力疾走したが、今度も間に合わなかった。

「おい、聞いたか。あの研修生、学園長に呼び出されたってよ」
「じゃあ処分が確定したんだな。放校か?そもそも推薦した家ってどこなんだろうな」
「どこでも顔に泥を塗られたのは同じだろ」
「あーあ、前から怪しいと思ってたんだよ、あの女。ただで研修生になれたわけじゃないだろ」
「体か?確かに胸もでかかったし」
「――おい」

 廊下のど真ん中で下劣なことを面白おかしく話す生徒たちに、ウィンスターは憤然と足を踏み出した、が、それにも勝るスピードで彼らに詰め寄る者がいたのである。

「――撤回しなさい」

 普段ののんびりした表情も口調も、全部が明後日に投げ捨てられていた。

「あの人、ヒルダさんは、そのような愚かな人ではありません。絶対に」

 では失礼します、と美しい一礼をした彼女は、走らない限りの最速で廊下を突き進んでいった。















 貴族の学舎である学園を統括する者の部屋となると、とても広く、豪華だ。王族直系がその任についているのだからなおさらだ。
 ヒルダは今、そのきらびやかな部屋のど真ん中に座っていた。

「君が盗んだのかね?」
「いいえ」

 ヒルダは相手が王族だろうと、全く態度を変えなかった。今すぐ退学させられるかも、という危機感の欠片もない。
 相対する王兄グランセス――学園長も、その従者や護衛も、不敬だとかなんだとか、とやかく言うつもりはなかった。グランセスは、ルフマンのいたずらっけな表情を彷彿とさせる笑みを浮かべて、こう評した。

「いかにもドルフが好みそうな子だ」
「恐れ入ります」

 ヒルダへの尋問はさっきので終わりらしい。「せっかくだし、お茶でもどうだい」とのことで、そのまま、王妃宮で提供されたお茶に負けず劣らぬ品質の茶を味わうことになった。元々、ヒルダの狙いを察していて、ここに呼び出して確信した、と言ったところか。黙認どころか協力してくれるらしいのは、恐れ多く、同時にありがたい。
 たまに開かれるバルメルク家での学識者を集めたサロンの話をしながら、一杯目を飲み終えた辺りで、侍従たちに動きがあった。一旦学園長の執務室の外に出て、戻ってきた従者服の男はグランセスに何か耳打ちし、グランセスは優艶に微笑んだ。

「君の無実を直訴しにきたそうだ」
「……はい?」
「どうせならそれらしく見せなくてはな」

 グランセスがそう告げたら、侍従たちが一斉に動いて、お茶をしていた形跡を全てなくしてしまった。目を白黒させるヒルダを椅子から離れたところに立たせ、グランセスはいかにも「偉そう」な姿勢で執務机の向こう側にふんぞり返る。そして「入りたまえ」と、厳粛に声をかけた。

「ナタリー・レーウェンディア、入室いたします」

 護衛が開いた扉から出てきた顔とその声に、ヒルダはぽかんとした。
 ナタリーの頬は上気していた。アデルたちといるときの和やかな表情ではなく、険しく眉を寄せているが、ヒルダの姿を見て、少しだけ頬を緩ませた。

「挨拶はいい。手短に伺おう、ナタリー嬢。窃盗の件に関して、どうしても私の耳に入れておきたかったこととは?」
「わたくしが、彼女が窃盗犯ではないという証人になります」
「レーウェンディアさま?」
「昨日、彼女が寮の手前でペンを拾って寮監に届け出たところをわたくしはこの目で見ておりました。盗んだものではなく、落ちていたのです。そもそも紛失で、窃盗ではございません」

 きっぱりと宣言したナタリーは、昨夜泣いていた姿が吹き飛ぶほど勇ましかった。しかしよく見れば、前で重ね合わせた手が震えていた。相手は王族で、学園の全てを統括する役職で、下手をすればナタリー自身も放校される危険性もあるのだ。
 グランセスはナタリーのその様子を見て、ヒルダの戸惑うような、意外だというような微妙な表情を見て……にっこりとわざとらしく笑った。

「なるほど。どうやらこちらの調査がまだ足りていなかったようだ。ご協力感謝する、ナタリー嬢。ヒルダ君、聴取については、またしばらく時間を置いてからにしよう。今のまま行っては無駄だろう」

 事実不問にするということだ。ナタリーは見るからにほっとしていたし、ヒルダは諦めと安堵で瞼を伏せた。

「退出してかまわないよ。貴重な昼食の時間だ。午後の講義に身が入らなくなってはいけないからね」

 二人揃って退室した後、ナタリーは有無を言わさずヒルダの手を取って歩き始めた。

「あ、あの、ナタリー・レーウェンディアさま?」
「ナタリーと呼んで」
「では、ナタリーさま。先ほどはありがとうございます」

 ちょっと手を引くと、ナタリーは足を止めて振り返ってくれた。ヒルダは心を込めて一礼した。言ってはなんだが、学園長のところに乗り込んでくるまでの気概を持っていたとは、ヒルダにとっては予想外すぎたのだ。……気概、というか。ナタリーの方がよっぽど悲壮感を醸し出していたあの証言の時を思い返せば、ずいぶんな葛藤の末の決断だったようだ。

(礼儀正しいことに加えて、責任感が強いというか……)

 今でもヒルダの手を掴む指は小刻みに震えている。温度もヒルダの方が上だ。温もりを分け与えるように上から手を重ね、そっと微笑んだ。後ちょっと自制が遅れていたら頭をアレンにされるように撫でていた。危ない。
 さっそく予定が崩されてしまったが、ナタリーの勇気は称賛されるべきで、間違っても否定されるべきものじゃない。

「心強かったです。本当に、ありがとうございます」

 なぜかナタリーは真っ赤になった。そして慌てて顔を背けた。

「ナタリーさま?」
「こ、これから昼食を一緒にどうかしら?」
「ですが、あたしといると……」
「わたくしがあなたの味方をしたのはついさっきよ。今さら気にしたって、どうしようもないわ。……それとも、お嫌かしら。緊張させますわよね。わたくしったら考えなしに……」

 ナタリーは急にくよくよしはじめた。こっちが本質か、とヒルダは内心で苦笑して、「お言葉に甘えます」と返事をした。









 しかし、実際に食堂に向かって、ナタリーが突き進んでいく席の先を見て取って、すぐさまヒルダは逃亡を選択した。

(迂闊だったわ、あたし!)

 周囲の好奇や嫌悪や侮蔑の視線はどうでもいいし、ナタリーがのんびりといつものように微笑みつつ振る話はつまらなくなかったから、それもいい。だがしかし、これは駄目だ。

 なにせ、ナタリーの向かう先にアデルがいるのだ。

「ヒルダさん?どうかした?」
「い、いえ、その」

 あまりに抜けていた自分の馬鹿さ加減に衝撃を受けすぎて、頭が回らない。えーとえーと、と内心で言葉を編んでいくが、すぐにとっちらかって収拾がつかない。足を止めたヒルダに怖じ気づいているのかと、困り顔で優しく引っ張ってくるナタリーの面目も立たせるような言い訳も出てこない、が。
 とっさに視線を巡らせたところにウィンスターの顔が見えて「あっ」となった。

「ナタリーさま、申し訳ありません。デューク教授から所用を預かっていたのを思い出しまして……」
「あ、あら、そうなの?」
「はい。せっかくのお誘いですが……」
「そう、よね。あなたのお仕事を勝手にサボらせるわけにはいかないものね」

 残念そうな顔を見て罪悪感が駆け抜けたが、「また今度……」と言ったら、ふんわりと笑ってくれた。

「ええ、ぜひともお願いね!」

 どうやってアデル抜きで食事するかは後で考えよう、と冷や汗だらだらのヒルダは決意した。









☆☆☆








 ヒルダの背中を追って食堂を出ていくウィンスターを、ファリーナはさりげなく見送った。

「皆さま、お待たせしてごめんなさい」
「いいえ、ナタリーさま、今の方は……?」
「ご推察の通り、ですわ」

 尋ねたシェルファはひっそりと眉を寄せ、アデルは「あんな噂」と吐き捨て、ファリーナはそれを宥めつつ尋ねた。

「どうしてご一緒になったんですか?」

 アデライトさまのその怒り、分かる。と得々と頷いていたナタリーは、のんびりした表情を真剣なものに改めた。

「グランセス王兄殿下がお召しになられていたので、それを追いかけたのです。彼女は窃盗などしておりません。それは、わたくしが昨夜、ちゃんと目にしていたから、一番証言として確かでしょう?」
「昨夜?」
「あの人はアデライトさまのお兄さまの商会でお勤めになっているのでしょう?その帰寮の時にたまたま出会いまして、寮までご一緒しましたの。その時、落ちていたペンを拾っていたのです。そもそも窃盗どころか紛失ですわよ、これでは」

 だから無関係なはずのアデルや、それと特に親しいファリーナが朝からなんとなく苛立っていたのかと、やっとシェルファは合点がいった。身内や知り合いが汚名を着せられたのに憤っていたのだろう。ちらりと視線を周囲に向ければ、話が聞こえていて、こちらを凝視していた数人が慌てて顔を背けていた。素知らぬふりで聞き耳を立てるほどの余裕がなかったらしい。

「でしたら、疑いは晴れましたのね」
「おそらく、そうだと思います。王兄殿下は公正な方ですもの。一方的な発言だけで裁くことはありえません」
「それもそうだわ」

 それに、おそらくこうしてここで話すだけでも正しい情報が伝播していくだろう。女研修生の無実は最早確定だ。
 となれば、気になるのは言い出しっぺだ。ファリーナもおかしいと言いたげに首を傾げた。

「そもそも……どこの家の者が、そのようなことをおっしゃったのでしょう」
「ニーナ」

 アデルの問いかけに、背後で給仕のために控えていたニーナはそっと首を振った。

「申し訳ありません。いまだ特定できておりません」

 実はヒルダへの仕打ちにアデル同様にキレていたニーナだが、その時その場にいなかったためにかなり出遅れていた。アデルが通学生なので仕方がないのだが、忸怩たる思いは消えていない。

「そのペンの持ち主を当たればいいのではない?」
「となると、レミィ夫人ですわね」
「……本当にその方がご存じであればいいのですが」

 ファリーナは思わずそう言ってしまい、集まった三人の視線に気づいて、やんわりと苦笑した。

「お三方、放課後にどこかのサロンでお茶をいたしませんか?」

 つまり、今大勢の耳目の前では口にしにくいことらしい。三人は口々に同意を示したが、アデルは放課後、ニーナから兄の伝言を受けた。
 講義が終わり次第、別邸に帰ってくるように、とのことだった。













 言われた通りに帰宅したアデルは兄の執務室に直行し、シドどころかアレンもそこにいることに少しだけ驚いた。二人とも苦々しい表情で、セシルだけが淡々とアデルに「お帰り」と声をかけた。

「ただいま帰りました、けど。どうしたの、兄さま」
「アデル。しばらく人事不省になりなさい」
「はあ?」
「私はスートライト領に戻ることになった」

 アデルはひぅ、と息を飲んだ。一気に顔が青ざめ、どくりと大きく鼓動が鳴り、心が大きく軋んだ。

「我らが母上が、大層ご加減が悪いらしくてね。見舞いに行こうと思う。ちなみにこの情報を持ってきたのは、シドではなくアレンだよ。商人経由で仕入れてきた。信憑性はかなり高い」
「……ど、どうしても、行くの……?」
「今、私があの人たちとの断絶を公にするわけにはいかないからね。ついでに釘も刺そうと思って」
「お前らの親、びっくりするんじゃねえか?どこからそんなこと知った!?って感じで。すげえ怖がりそう」
「そのくらいでいいのさ。またぞろ不愉快な動きが見えはじめていたし。アデル、私のところで止めていたけど、父上が君を呼び戻そうと再三手紙を出してきていたんだ。私がここを離れている間になにかあっては対処が遅れてしまう。だから、私が帰ってくるまでは療養だ」

 アデルは一瞬で頭が冷えた。あれだけ暴れたのに、まだ自分は「必要」と見なされているらしい。
 傍のシドは苦虫を噛み潰した顔になり、アレンは「あー……」と頭を掻き、セシルは皮肉に笑った。

「涙と失笑を誘う、実に大変ありがたい思いやりに満ちた文面だったよ。読みたいなら家令のマーキスに預けているから、彼から受け取りなさい」
「興味ないわ。いっそ破り捨てたいくらい。……いつ出るの?今日?」
「明日の夜明け頃には出立する。私が出るのと入れ替わりにお前が倒れて、私は母の見舞いをしてとんぼ返りする。そういう筋書きなんだ。面会はファリーナ・グレイ嬢も含めて、全て途絶だ。窮屈だが我慢しなさい。いいね?」

 アデルは頷いて、とことこと兄に近寄って、ぎゅっと抱きしめた。座っているセシルの首に腕を巻き、肩にぐりぐりと額を押しつけ、「気をつけてね」と言った。髪型も服も化粧も崩れてしまうが、そんなこと今はどうでもよかった。

「お留守番は、ちゃんとするわ。だから帰ってきてね」
「もちろんさ。私が帰ってこないと、お前が引きこもりになってしまうからね」
「あら、違うわ。スートライト侯爵家の最後の令嬢は失踪するのよ」
「……それはさすがに笑えないんだが」
「ひとりぼっちは、期限があるからできることよ」

 すでに一度置いていかれたことがあるアデルが言ったことなので、セシルは口をつぐんだ。ぽんぽんと背中を撫でて、「ヒルダは偉大すぎる」とぼやいた。ヒルダ以外に目を向けるようになった最近は、しょっちゅうそう実感している。アデルも同じだろう。
 二人は同類だからこそ、強引に開かれた世界に、同じように戸惑って、慰めあって、なんとか毎日を生きている。周りが求めるのは人形のような二人だった。ヒルダを介さない世界は、それほどまでにセシルたちには過酷であり、だからこそ、これまでは無意識に外に目を向けたがらなかったのだろう。
 でも、ヒルダが開いてくれた扉の向こうで得たものは、ちゃんと掌に残ったままで。

「アデル。短い間だ。頑張れる?」
「ぎりぎりまで、頑張るわ」

 こつんと額をぶつけて、目と目で確かめ合った。
 ヒルダとの未来を失って、それでも残ったものを捨てるのは、今の二人にはとても難しいことなのだと。でも捨てそうになる自分がいて、そうしないように、めいいっぱい頑張るのだと。

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