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Ⅲ
賑やかな居場所
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「おはよーっす。今日も早いっすね」
「おはよう、ウィンスターさん」
くあ、とあくびをしながら入室してきた少年に、ヒルダは爽やかな笑みを返した。早いといっても今日は三十分は遅く来た方だ。お陰でいつも済ませる仕事が済んでいない。ウィンスターもそれに気づいて、目を丸くした。
「あれ、珍しいっすね。教授の机がまだ密林だあ」
「ちょっとは片付けた方よ、これでも。悪いけど手伝ってくれる?」
「もちろんってか、むしろおれの仕事でしょコレ。女史がこれまで働きすぎだったんすよ。っつーか、どうしたんで?そういや、昨日も一昨日も休みだったけど、遊びすぎて寝坊したとか?」
「それ、ご令嬢方には間違っても言わない方がいいわよ」
ウィンスターにその気はないだろうが、女性に対して夜遊びの疑いをかけているようにしか聞こえない言い様はないだろう。実際、ウィンスターは「あれ、どこか駄目でした?」と首を傾げていた。頭でっかちで世間慣れしてない学生そのままの姿である。ヒルダから言うのもなんなので、後で教授にご指導をお願いしようと決めた。
「一昨日、階段から落ちたのよ。それで膝を打っちゃって、どうしても上下運動が辛くて」
「え、骨大丈夫すか、杖とかないけど」
「昨日よりましになった方。ついでに全身痛めてたんだから、昨日は地獄だったわ……。診察も受けたから、骨折してないのは確かよ」
ほら、と椅子から立ったヒルダに、ウィンスターは慌てて「座っててください!」と声をかけて教授の密林に飛び込んだ。
「女史はそのまま座っといて!お茶汲みとかそんなんおれが後でやるんで!ああもう掃除もやっとくからとりあえず大人しくこの論文訳しといてくれません!?あっ腕は平気っすか!?じゃあよろしく!」
普段ずぼらな雑用係に仕事のスイッチが入ったのはいいのだが、と、ヒルダは手元に叩きつけられた紙の束を見つめた。……さりげなくウィンスターの課題を押し付けられていた。途中までは読解が進んでいるので、教授が確認する前に目を通しておこうかとペンを取った。
やがて掃除も終わって涼やかな風が研究室に吹き込む頃、ウィンスターは来客用のソファに「疲れたー!」と寝っ転がった。ヒルダは出されたお茶を啜りつつ、最後の修正を入れた。
「ウィンスターさん、重要な部分には下線引いておいたから、今のうちにここだけでもどうにかした方がいいわよ」
「げっ、うわ、ばれてた?なんで?」
「先週、あたしに参考書の行方を尋ねたのはあなたでしょう」
「……あーしくじったぁ……」
ヒルダが差し出す書類を見ないふりをしてソファでうつ伏せになっているウィンスターのすぐそばに、ふっと陰が差した。その人物がついと伸ばした長い腕はたやすくヒルダの手から課題を抜き取り、ウィンスターの頭上にばさりと落とした。ウィンスターは飛び上がった。
「ぶわっ!? な、なんだ……って、げ、教授」
「『げ』じゃないよ。お前はどうして、まともに褒められることをしないのかねぇ。加点と減点で差し引きゼロだよ、ゼロ。崖っぷちなんだからもっと誠実にしようとは思わんのかね」
「デューク教授、おはようございます」
「ああ、おはよう、ヒルダ殿。ドルフさまから伺ったが、怪我は無事かね?あなたが普段してる仕事の三割はこの間抜けな不良雑用係のものなんだから、ゆっくりしておきなさい。――そこの不良君。講義が始まるまで、確かまだ一時間はあったはずだが。どこに行こうというのかな?」
「よ、予習を、してみようかなー、と」
「よい心がけだ。せっかくなので私が見てあげよう。ついでにその中途半端な課題の採点も」
「いやいやいやいや大丈夫っす!教授は自分の研究を!ぜひ!」
「なに、たまには不良学生の更生に時間を割いてもいいだろう。研究者とはいえ教師の端くれであるのだから」
追い詰めながらにっこりと笑む教授と、退路を完全に断たれた学生。
朝から賑やかな光景をよそに、ヒルダは日誌を広げて、さらさらと「今日も平穏」と書き加えた。
☆☆☆
ヒルダが王立学園の研修生の身分を得たのは二ヶ月前のことだ。バルメルク家が出資する旅館の一室で寝起きしては兄の商会で仕事をしていた日常の最中、公爵邸に急に呼び出され、筆記式の課題を差し出され、「三時間で回答してください」とルフマンに言われ、首を傾げたままペンをとり、一時間早く終わればお茶とお菓子を出されてのんびりしていたところ、「合格おめでとう」と、ドルフじきじきのお言葉を賜った。
採点された答案を返却されてやっと、これが試験だったのだと気づいた。特に、ヒルダの署名の隣に、王立学園の紋章がでかでかと捺印されていたので。これが合格のハンコらしい。雑だ。
「……あたしに何をお望みなんですか?」
「貴族籍から抜けているので学生にはなれないが、研修生としては立派に通用するのでね。あなたにはそろそろ新しい経験の機会を、と思ったんだ」
機会を与えようと言うわりには問答無用に手配している気がするが、ヒルダの返事を待っているような沈黙に、冗談というわけではないようだと察した。本当に断ってもいいらしい。
ちょっと考えたあと、結局承諾したので、ヒルダは学園の寮に移り住み、堂々と学園の敷地を歩けている。ドルフの思惑はまだ読みきれていないが、それ以外ではなんとも充実した毎日だ。
(研修生っていう立場で学園に入り込めるのがあたししかいなかったからこそ、なんだろうけど。今のところそれらしい異常はないのよね)
昼食の時間、普段は食堂へ向かうところだが、今日はウィンスターが三人分の昼食を研究室まで持ってきてくれた。貴族家の出でありながら親から一切の援助を受けていないウィンスターは、食い扶持を稼ぐために雑用係として働いている。食事の運搬もその仕事のひとつで、ヒルダの分が一つ増えたところで変わらないと言って、軽やかに買い出しに行ったのだった。
「お、うま、これ。へえー緑色のソースだ。枝豆でも入ってんの?」
「どれかね。……枝豆じゃなくて葉物だろうこれは。しかしあまり青臭くもなく、美味しいな」
「っすよね。あ、女史は大丈夫すか、こんなんで」
「美味しいわ。たまにはこういう味も食べてみるものね」
ちょっと固くて顎が疲れるけど、とは言わなかった。やたら噛みごたえのあるパンに塩気の強い具が挟まったシンプルなサンドイッチは、物珍しく、同時に美味しかったので。
「どこで買ってきているの?食堂にこんなメニューあったかしら……」
「あーそりゃ、外の屋台のやつだからこんなとこにはないっすよ。食堂のやつとか、どんくらい食ってねえかなー」
「……お二人とも、貴族ですよね?」
「勘当寸前のお坊っちゃんなんで、社会勉強っすよ、社会勉強」
「最初は下手物ばっかり買ってこられて、道連れにされたものだよ……」
「いやあんた、そりゃ好奇心のせいでおれのせいじゃないでしょ」
「何を言う。お前が買ってこなければ興味もそそられなかったとも」
「うっわあすげえ責任転嫁!」
この二人がいると沈黙が遠くなるな、とヒルダは思った。温かく賑やかなやり取りは、聞くだけでとても楽しい。ただあんまり一緒の空間にいると
楽しすぎて疲れてくるが。今日の二人は、ヒルダの怪我にやたらと気を遣って、あれやこれやとヒルダが動く前に雑事を終わらせるので、ヒルダはほとんど歩くことすらしていない。ヒルダがサンドイッチをなんとか食べ終わった頃に、とっくに食後のお茶を味わっていた二人は、どこの屋台のどの料理が一番不味かっただの、いやあのキワモノもあれと一緒に食べれば中和されるなどと討論していた。案外面白いので耳半分で聞きながら、こっそり席を立って研究室を出て、共用の簡単な調理場で新しく湯を沸かす。
近くを通ったので何気なく窓の外を見て、目を丸くした。
陽光に金に煌めく髪は何年も見慣れた通り。その隣にはカフェオレのような優しい色の髪の少女もいる。二人とも、ピクニックのように裏庭の一角に布を敷いて、その上に座って昼食を食べているようだが、やけにひたむきな様子で研究棟を見上げていた。そんな有り様だったので、思わず立ち尽くしたヒルダをすぐに見つけて、あっという形に口を開けていた。
「いた!言ってくれたらおれが行ったのに……って、どうしたんで?」
「あ、えっとね」
ヒルダが何か言う前に、ウィンスターはその視線の先に目を向けていた。
「――へえ、『大輪』と学年首席ちゃんだ。こんなところで飯食ってんだ。天気いいもんなぁ」
「そ、そうね。二人きりでいるなんて珍しいわよね。お付きの人たちもどこに行ってるのかしら」
「ほんとだ。確かにいないっすね」
アデルもファリーナも、ウィンスターの顔が見えた時点で何も見なかったように手元のバスケットに目を落とし、二人きりで雑談しているように見せかけていた。二人を学園生よりもよく知っているヒルダにはそれが演技だとすぐにわかったが、傍目には違和感はない。淑女教育の賜物であろう。
(あ、アデル、そわそわしすぎ。ファリーナさまも釣られちゃってる)
二人からウィンスターの気を逸らせようと、ヒルダは窓から離れて沸かしていた湯の方へ戻っていった。なんの話題を振ろうか悩んだが、ウィンスターはヒルダに合わせてさっさと音を鳴らす銅のやかんを火から取り上げ、水差しにも並々と水を蓄えてから、「帰りましょ」と告げて、研究室へと踵を返していた。「大輪だ」などと言っていたが、見惚れるわけでもなく、興味もない素振りだった。男性にしては珍しい反応だ。特にアデル関連で身持ちを崩す様々な不埒者の相手をしていたヒルダにとっては。
アデルたちを見つけた窓のところでひらりと手を振るようにしつつ追いかけて、研究室に戻ってから尋ねてみた。
「ウィンスターさんって、好きな方はいるの?」
「ぶっ!?」
ちょうど飲んでいた、残っていた冷めたお茶を噴き出された。そのあともゲホゴホと噎せ返るので顔が真っ赤になっている。そんなに驚くこと訊いたかしら、と内心で思いつつ、ヒルダは丸まったその背中を撫でた。
教授は膝の上に肘をついてにやにやしていた。
「ほう、知らなかったよ。だが満更でもなさそうだ。確かに生真面目に朝早くから研究室に来るようになったし……」
「ゴッホゴホッ!は、鼻!に!水入るかと思っただけだっての!教授あんた黙って!!」
「いやしかし、顔が赤いぞ?」
ムキになったらダメなやつだと早々に悟ったウィンスターは、いまだ背中を撫でてくる温かな手の感触を意識しないようにしながら振り返った。
「どうして急にそんなことを」
「アデライトさまを見て無反応な人を見るのが珍しかったから、ひょっとしたら意中の相手がいるんじゃないかと思って」
「いやそれ、どういう文脈!?」
「私の友だちがそうだって言っていたけど」
「…………それ男?」
「? ええ、そうよ」
「……(目の前に)好きな人がいるからよそ見しないって?」
「当たってるわ、すごい」
ヒルダはちゃんと誉めたはずなのに、なぜかウィンスターの目が死んだ。教授はもはや腹を抱えて大爆笑だ。この方も貴族らしくないわよね、と思って、教授のカップにお茶を注ぎ足した。
「あ、ありがとう、ヒルダ殿。ところで、話に出てきたということは、アデライト・スートライト侯爵令嬢が研究棟に来ているのかね?」
「外の庭で昼食を食べていたみたいです。キッチンに行く途中、たまたま窓の外を見たらいたんですもの。驚きました」
「ということはあの裏庭か。確かに学部棟から離れたちょうどいい死角だし、景色もいい。最近穏やかな天気が続いているし、たまには私たちも外で食べてもいいかもしれないな」
「『大輪』と出会すかもしれないじゃないっすか。おれは嫌」
「別に毎日来るわけではないだろう。だったらもっと話題になっているはずだよ。ヒルダ殿、そのところはどうかね?」
「これまで、学部棟の大食堂以外で食べることはなかったはずです、けど」
ヒルダの戸惑いに気づいたのか、ウィンスターは首の後ろを掻いた。
「別に、嫌いって訳じゃないんすけど。そこまで知らないし。でも、もし会ったあと、それを同じクラスの奴らに知られるのが面倒。絶対ウザい」
「前にも同じようなことがあったんですか?」
「『大輪』が編入してきた時に、少し。あいつらネチネチネチネチしつっこいんすよ。身分差も能力差もわかってるっつの。人格は言われる筋合いねぇし。そんなくっだんねえ牽制して来んならさっさと当たって砕けてこい」
「砕けるのが前提なんだね」
「だってあいつら夢見すぎ。粉々に砕けたのをザマアミロって影でめっちゃ笑いたい」
「そ、そんなに大変だったのね」
珍しくウィンスターの闇を感じさせる笑みに、ヒルダは笑みをひきつらせた。
アデルに「高嶺の花」や「自分だけへの特別」を求める男性は数多知っているが、「ウザい奴を痛めつけること」を求める人は初めて見た。世界はとっても広い。
ここで、安易に「アデルはしょっちゅうここに来る訳じゃないわ」と断言できないヒルダは口をつぐんで曖昧に微笑み続けた。
きっと、昨日唐突に休みを取ったことと、怪我をしたことを聞いて、心配でヒルダの様子を確かめようとしていただけだろうから。いつもなら学部棟に何度も出入りするはずが、ウィンスターのお陰で研究棟の一室にこもりっぱなしだったのも悪かった。明日はあちこち歩いて、安心させないと。
(少し前までなら)
アデルに直接会って、抱きしめて、大丈夫よと言えたのに。
平民として生きることを選択したヒルダに、それはもう許されない。接触なんて考えてはいけない。スートライト家から勘当されたヒルダは、本来ならアデルのいる学園、セシルが会頭の商会への出入りすらも禁止されるはずだが、バルメルク家の名前で見逃されている。その温情をもぎ取ったのはヒルダ本人だ。だからこそ、寂しくても、一線を越えてはいけない。
「じゃあ今度女史んとこの商会行くからよろしく!」
「はい!?」
しみじみと浸っていたのに急に現実に引き戻された。なにがどうして「じゃあ」で「よろしく」なのか。思わず素頓狂な声を上げたヒルダは悪くない、はずだ。
「おはよう、ウィンスターさん」
くあ、とあくびをしながら入室してきた少年に、ヒルダは爽やかな笑みを返した。早いといっても今日は三十分は遅く来た方だ。お陰でいつも済ませる仕事が済んでいない。ウィンスターもそれに気づいて、目を丸くした。
「あれ、珍しいっすね。教授の机がまだ密林だあ」
「ちょっとは片付けた方よ、これでも。悪いけど手伝ってくれる?」
「もちろんってか、むしろおれの仕事でしょコレ。女史がこれまで働きすぎだったんすよ。っつーか、どうしたんで?そういや、昨日も一昨日も休みだったけど、遊びすぎて寝坊したとか?」
「それ、ご令嬢方には間違っても言わない方がいいわよ」
ウィンスターにその気はないだろうが、女性に対して夜遊びの疑いをかけているようにしか聞こえない言い様はないだろう。実際、ウィンスターは「あれ、どこか駄目でした?」と首を傾げていた。頭でっかちで世間慣れしてない学生そのままの姿である。ヒルダから言うのもなんなので、後で教授にご指導をお願いしようと決めた。
「一昨日、階段から落ちたのよ。それで膝を打っちゃって、どうしても上下運動が辛くて」
「え、骨大丈夫すか、杖とかないけど」
「昨日よりましになった方。ついでに全身痛めてたんだから、昨日は地獄だったわ……。診察も受けたから、骨折してないのは確かよ」
ほら、と椅子から立ったヒルダに、ウィンスターは慌てて「座っててください!」と声をかけて教授の密林に飛び込んだ。
「女史はそのまま座っといて!お茶汲みとかそんなんおれが後でやるんで!ああもう掃除もやっとくからとりあえず大人しくこの論文訳しといてくれません!?あっ腕は平気っすか!?じゃあよろしく!」
普段ずぼらな雑用係に仕事のスイッチが入ったのはいいのだが、と、ヒルダは手元に叩きつけられた紙の束を見つめた。……さりげなくウィンスターの課題を押し付けられていた。途中までは読解が進んでいるので、教授が確認する前に目を通しておこうかとペンを取った。
やがて掃除も終わって涼やかな風が研究室に吹き込む頃、ウィンスターは来客用のソファに「疲れたー!」と寝っ転がった。ヒルダは出されたお茶を啜りつつ、最後の修正を入れた。
「ウィンスターさん、重要な部分には下線引いておいたから、今のうちにここだけでもどうにかした方がいいわよ」
「げっ、うわ、ばれてた?なんで?」
「先週、あたしに参考書の行方を尋ねたのはあなたでしょう」
「……あーしくじったぁ……」
ヒルダが差し出す書類を見ないふりをしてソファでうつ伏せになっているウィンスターのすぐそばに、ふっと陰が差した。その人物がついと伸ばした長い腕はたやすくヒルダの手から課題を抜き取り、ウィンスターの頭上にばさりと落とした。ウィンスターは飛び上がった。
「ぶわっ!? な、なんだ……って、げ、教授」
「『げ』じゃないよ。お前はどうして、まともに褒められることをしないのかねぇ。加点と減点で差し引きゼロだよ、ゼロ。崖っぷちなんだからもっと誠実にしようとは思わんのかね」
「デューク教授、おはようございます」
「ああ、おはよう、ヒルダ殿。ドルフさまから伺ったが、怪我は無事かね?あなたが普段してる仕事の三割はこの間抜けな不良雑用係のものなんだから、ゆっくりしておきなさい。――そこの不良君。講義が始まるまで、確かまだ一時間はあったはずだが。どこに行こうというのかな?」
「よ、予習を、してみようかなー、と」
「よい心がけだ。せっかくなので私が見てあげよう。ついでにその中途半端な課題の採点も」
「いやいやいやいや大丈夫っす!教授は自分の研究を!ぜひ!」
「なに、たまには不良学生の更生に時間を割いてもいいだろう。研究者とはいえ教師の端くれであるのだから」
追い詰めながらにっこりと笑む教授と、退路を完全に断たれた学生。
朝から賑やかな光景をよそに、ヒルダは日誌を広げて、さらさらと「今日も平穏」と書き加えた。
☆☆☆
ヒルダが王立学園の研修生の身分を得たのは二ヶ月前のことだ。バルメルク家が出資する旅館の一室で寝起きしては兄の商会で仕事をしていた日常の最中、公爵邸に急に呼び出され、筆記式の課題を差し出され、「三時間で回答してください」とルフマンに言われ、首を傾げたままペンをとり、一時間早く終わればお茶とお菓子を出されてのんびりしていたところ、「合格おめでとう」と、ドルフじきじきのお言葉を賜った。
採点された答案を返却されてやっと、これが試験だったのだと気づいた。特に、ヒルダの署名の隣に、王立学園の紋章がでかでかと捺印されていたので。これが合格のハンコらしい。雑だ。
「……あたしに何をお望みなんですか?」
「貴族籍から抜けているので学生にはなれないが、研修生としては立派に通用するのでね。あなたにはそろそろ新しい経験の機会を、と思ったんだ」
機会を与えようと言うわりには問答無用に手配している気がするが、ヒルダの返事を待っているような沈黙に、冗談というわけではないようだと察した。本当に断ってもいいらしい。
ちょっと考えたあと、結局承諾したので、ヒルダは学園の寮に移り住み、堂々と学園の敷地を歩けている。ドルフの思惑はまだ読みきれていないが、それ以外ではなんとも充実した毎日だ。
(研修生っていう立場で学園に入り込めるのがあたししかいなかったからこそ、なんだろうけど。今のところそれらしい異常はないのよね)
昼食の時間、普段は食堂へ向かうところだが、今日はウィンスターが三人分の昼食を研究室まで持ってきてくれた。貴族家の出でありながら親から一切の援助を受けていないウィンスターは、食い扶持を稼ぐために雑用係として働いている。食事の運搬もその仕事のひとつで、ヒルダの分が一つ増えたところで変わらないと言って、軽やかに買い出しに行ったのだった。
「お、うま、これ。へえー緑色のソースだ。枝豆でも入ってんの?」
「どれかね。……枝豆じゃなくて葉物だろうこれは。しかしあまり青臭くもなく、美味しいな」
「っすよね。あ、女史は大丈夫すか、こんなんで」
「美味しいわ。たまにはこういう味も食べてみるものね」
ちょっと固くて顎が疲れるけど、とは言わなかった。やたら噛みごたえのあるパンに塩気の強い具が挟まったシンプルなサンドイッチは、物珍しく、同時に美味しかったので。
「どこで買ってきているの?食堂にこんなメニューあったかしら……」
「あーそりゃ、外の屋台のやつだからこんなとこにはないっすよ。食堂のやつとか、どんくらい食ってねえかなー」
「……お二人とも、貴族ですよね?」
「勘当寸前のお坊っちゃんなんで、社会勉強っすよ、社会勉強」
「最初は下手物ばっかり買ってこられて、道連れにされたものだよ……」
「いやあんた、そりゃ好奇心のせいでおれのせいじゃないでしょ」
「何を言う。お前が買ってこなければ興味もそそられなかったとも」
「うっわあすげえ責任転嫁!」
この二人がいると沈黙が遠くなるな、とヒルダは思った。温かく賑やかなやり取りは、聞くだけでとても楽しい。ただあんまり一緒の空間にいると
楽しすぎて疲れてくるが。今日の二人は、ヒルダの怪我にやたらと気を遣って、あれやこれやとヒルダが動く前に雑事を終わらせるので、ヒルダはほとんど歩くことすらしていない。ヒルダがサンドイッチをなんとか食べ終わった頃に、とっくに食後のお茶を味わっていた二人は、どこの屋台のどの料理が一番不味かっただの、いやあのキワモノもあれと一緒に食べれば中和されるなどと討論していた。案外面白いので耳半分で聞きながら、こっそり席を立って研究室を出て、共用の簡単な調理場で新しく湯を沸かす。
近くを通ったので何気なく窓の外を見て、目を丸くした。
陽光に金に煌めく髪は何年も見慣れた通り。その隣にはカフェオレのような優しい色の髪の少女もいる。二人とも、ピクニックのように裏庭の一角に布を敷いて、その上に座って昼食を食べているようだが、やけにひたむきな様子で研究棟を見上げていた。そんな有り様だったので、思わず立ち尽くしたヒルダをすぐに見つけて、あっという形に口を開けていた。
「いた!言ってくれたらおれが行ったのに……って、どうしたんで?」
「あ、えっとね」
ヒルダが何か言う前に、ウィンスターはその視線の先に目を向けていた。
「――へえ、『大輪』と学年首席ちゃんだ。こんなところで飯食ってんだ。天気いいもんなぁ」
「そ、そうね。二人きりでいるなんて珍しいわよね。お付きの人たちもどこに行ってるのかしら」
「ほんとだ。確かにいないっすね」
アデルもファリーナも、ウィンスターの顔が見えた時点で何も見なかったように手元のバスケットに目を落とし、二人きりで雑談しているように見せかけていた。二人を学園生よりもよく知っているヒルダにはそれが演技だとすぐにわかったが、傍目には違和感はない。淑女教育の賜物であろう。
(あ、アデル、そわそわしすぎ。ファリーナさまも釣られちゃってる)
二人からウィンスターの気を逸らせようと、ヒルダは窓から離れて沸かしていた湯の方へ戻っていった。なんの話題を振ろうか悩んだが、ウィンスターはヒルダに合わせてさっさと音を鳴らす銅のやかんを火から取り上げ、水差しにも並々と水を蓄えてから、「帰りましょ」と告げて、研究室へと踵を返していた。「大輪だ」などと言っていたが、見惚れるわけでもなく、興味もない素振りだった。男性にしては珍しい反応だ。特にアデル関連で身持ちを崩す様々な不埒者の相手をしていたヒルダにとっては。
アデルたちを見つけた窓のところでひらりと手を振るようにしつつ追いかけて、研究室に戻ってから尋ねてみた。
「ウィンスターさんって、好きな方はいるの?」
「ぶっ!?」
ちょうど飲んでいた、残っていた冷めたお茶を噴き出された。そのあともゲホゴホと噎せ返るので顔が真っ赤になっている。そんなに驚くこと訊いたかしら、と内心で思いつつ、ヒルダは丸まったその背中を撫でた。
教授は膝の上に肘をついてにやにやしていた。
「ほう、知らなかったよ。だが満更でもなさそうだ。確かに生真面目に朝早くから研究室に来るようになったし……」
「ゴッホゴホッ!は、鼻!に!水入るかと思っただけだっての!教授あんた黙って!!」
「いやしかし、顔が赤いぞ?」
ムキになったらダメなやつだと早々に悟ったウィンスターは、いまだ背中を撫でてくる温かな手の感触を意識しないようにしながら振り返った。
「どうして急にそんなことを」
「アデライトさまを見て無反応な人を見るのが珍しかったから、ひょっとしたら意中の相手がいるんじゃないかと思って」
「いやそれ、どういう文脈!?」
「私の友だちがそうだって言っていたけど」
「…………それ男?」
「? ええ、そうよ」
「……(目の前に)好きな人がいるからよそ見しないって?」
「当たってるわ、すごい」
ヒルダはちゃんと誉めたはずなのに、なぜかウィンスターの目が死んだ。教授はもはや腹を抱えて大爆笑だ。この方も貴族らしくないわよね、と思って、教授のカップにお茶を注ぎ足した。
「あ、ありがとう、ヒルダ殿。ところで、話に出てきたということは、アデライト・スートライト侯爵令嬢が研究棟に来ているのかね?」
「外の庭で昼食を食べていたみたいです。キッチンに行く途中、たまたま窓の外を見たらいたんですもの。驚きました」
「ということはあの裏庭か。確かに学部棟から離れたちょうどいい死角だし、景色もいい。最近穏やかな天気が続いているし、たまには私たちも外で食べてもいいかもしれないな」
「『大輪』と出会すかもしれないじゃないっすか。おれは嫌」
「別に毎日来るわけではないだろう。だったらもっと話題になっているはずだよ。ヒルダ殿、そのところはどうかね?」
「これまで、学部棟の大食堂以外で食べることはなかったはずです、けど」
ヒルダの戸惑いに気づいたのか、ウィンスターは首の後ろを掻いた。
「別に、嫌いって訳じゃないんすけど。そこまで知らないし。でも、もし会ったあと、それを同じクラスの奴らに知られるのが面倒。絶対ウザい」
「前にも同じようなことがあったんですか?」
「『大輪』が編入してきた時に、少し。あいつらネチネチネチネチしつっこいんすよ。身分差も能力差もわかってるっつの。人格は言われる筋合いねぇし。そんなくっだんねえ牽制して来んならさっさと当たって砕けてこい」
「砕けるのが前提なんだね」
「だってあいつら夢見すぎ。粉々に砕けたのをザマアミロって影でめっちゃ笑いたい」
「そ、そんなに大変だったのね」
珍しくウィンスターの闇を感じさせる笑みに、ヒルダは笑みをひきつらせた。
アデルに「高嶺の花」や「自分だけへの特別」を求める男性は数多知っているが、「ウザい奴を痛めつけること」を求める人は初めて見た。世界はとっても広い。
ここで、安易に「アデルはしょっちゅうここに来る訳じゃないわ」と断言できないヒルダは口をつぐんで曖昧に微笑み続けた。
きっと、昨日唐突に休みを取ったことと、怪我をしたことを聞いて、心配でヒルダの様子を確かめようとしていただけだろうから。いつもなら学部棟に何度も出入りするはずが、ウィンスターのお陰で研究棟の一室にこもりっぱなしだったのも悪かった。明日はあちこち歩いて、安心させないと。
(少し前までなら)
アデルに直接会って、抱きしめて、大丈夫よと言えたのに。
平民として生きることを選択したヒルダに、それはもう許されない。接触なんて考えてはいけない。スートライト家から勘当されたヒルダは、本来ならアデルのいる学園、セシルが会頭の商会への出入りすらも禁止されるはずだが、バルメルク家の名前で見逃されている。その温情をもぎ取ったのはヒルダ本人だ。だからこそ、寂しくても、一線を越えてはいけない。
「じゃあ今度女史んとこの商会行くからよろしく!」
「はい!?」
しみじみと浸っていたのに急に現実に引き戻された。なにがどうして「じゃあ」で「よろしく」なのか。思わず素頓狂な声を上げたヒルダは悪くない、はずだ。
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しきたりで、いち早く相応しい花嫁を捕まえたものが皇帝になるそうで。それで、私に。
将来のリスクと今後のキャリアを考えても、帝国の王宮は魅力的……なのですが。
どうやら五人のお相手は女性を殆ど相手したことないらしく……一体どう出てくるのか、全く予想がつきません。
私自身経験豊富というわけでもないのですが、まあ、お手並み拝見といきましょうか?
あ、なんか元いた王国は大変なことなってるらしいです、頑張って下さい。
◆◆◆◆◆◆◆◆
需要が有れば続きます。
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