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Ⅱ
見ぃつけた(はぁと)
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ルーアン公爵邸での夜会から数日が過ぎたこの日のヒルダは、早朝からうきうきとスートライト侯爵家別邸の厩舎に繰り出していた。
「アズリー、今日はいい天気ね」
話しかけたのは一頭の牝馬。滑らかな光沢の栗毛に引き締まった四つ足、気の強い黒い瞳が特徴的だった。ヒルダがスートライト家と絶縁する前からの長い長い付き合いで、なんなら子馬の頃からヒルダが世話をしてきた馬だ。それから勘当を受けて、父に交渉して正式にヒルダの財産となったのである。
それでも、王都に辿り着くまでがアズリーとの最後の旅になると覚悟していた。路銀にまだ余裕はあっても、それは一時的なこと。兄の商会を頼るにしても、それ以上の先行きがわからない人生にアズリーを引き連れることは嫌だったのだ。王都ではじめに取った宿で引き取り手を探し、一度は泣く泣く手放したが……侯爵家別邸に住みはじめてしばらく後、いつの間にか兄がアズリーを探して買い戻していたのだった。
感動の再会のことを思い出しては、ヒルダはちょっと恥ずかしい思いもしていた。でもやっぱり嬉しい。それからはこうして、時折時間があればアズリーの様子を見、世話をしに厩舎を訪れているのだった。
「今日はアデルのお友だちがうちにいらっしゃるのよ。あの子に友だちができるなんて……あたしね、今でも夢を見ているようなの。王都に来てからいいことずくめで……夢なら覚めたくないなぁ……」
中年の馬屋番レックスを手伝ってアズリーや他の馬の世話を一通りしたヒルダは、アズリーの背に鞍を取り付けた。今日は秘書の仕事は休み、最近働きづめだったヒルダはアレンに「休め!」と商会から追い出されたのだ。
「今日は久しぶりに遠駆けしましょう。思いっきり走っていいわよ」
アズリーは嬉しそうにヒルダの体に鼻先を擦り付けた。
この日、セシルとアデルは王城へ向かう予定があった。午前中に登って、午後のティータイムにアデルの客人が来るのでそれまでには帰る。
ヒルダが遠駆けに郊外へ出かけた、とレックスからシドづてに聞いたセシルは、なんとなくほっと頷いていた。
ルーアン家での騒動から数日、セシルとヒルダ、シドとアレンはその片付けにあちこちを奔走したのだ。王太子派内部のことは王太子やメイソンがどうにかするのでそちらの問題はない。
騒動を起こしてしまった謝罪と詫びの品をルーアン家に贈り、王妃にも礼状を宛てる。一応スートライト家の家長である父に手紙を出して委任状を認めさせ、アレクセイ家へフォード家と連名で抗議文を送り、その間にも騒動で変に注目を集めて客が増えた商会について対応策を練り、と様々である。
ちなみにアデルには、夜会で目立ってしまったファリーナを守るという役目を与え、学園に通わせている。単純お馬鹿な妹は鋭意役目を果たそうと鼻息を荒くして毎日登校していっている。疲労している兄姉の自覚なき癒し担当であった。
今日はそれができないのだが、その理由は王妃へ宛てた礼状の返信にあった。騒動に協力した対価は会って伝えたいから日時を指定して城に来いとの命令である。
「どうしたのかしらね、妃殿下」
「私は嫌な予感しかしないけどね」
動き始めた馬車の中で、アデルは兄の言葉にきょとんと首をかしげた。
「どうして?」
「妃殿下にルーアン家との橋渡しをお願いしたが、その時にも礼の品の話にはならなかっただろう」
「そうね。でも不思議なことではないんじゃないの。あちらの利も大きかったんでしょ」
「先に仰ればこちらが借りを作りたがらないとわかっていて、今まで黙っていたこともあり得る」
セシルも王妃に借りを作るとわかっていて甘んじて乗った部分はあるが、あの抜け目ない王妃はあえて「後払い」を指定し、なおかつこうしてセシルたちを呼び出したのだ。
単純素朴な性格の王太子を産んだとは思えない曲者だと以前から思っていた。馬鹿とは違う意味でなにを考えているか読めないので、どうしても気にかかる。
アデルの言った通り、何だかんだで騒動によって王妃も得をしたのだから、こちらの足元を見るような真似はしないと思うが、警戒しておくに越したことはない。
「私はどうすればいいの?」
「お前はいつも通りでいなさい。私の取り越し苦労で終わる可能性もまたあるんだ」
「兄さまの懸念はいつも大当たりするのよ」
アデルはなぜかそこでふんすと胸を張った。「ああ、サーヴェの時もね」と言われて、途端に萎んだが。
『くれぐれも、くれぐれも慎重に行動するように』とセシルに手紙で釘を刺されておきながら失敗したアデルはぐうの音も出ない。その結果が今の幸福に繋がるとしても、姉があの時傷つけられたことそのものはなかったことにならない。
「……私たちだけでどうにかなることならいいね」
「……そうだね」
やっと自由を、笑顔でいられる居場所を、自分自身のための生き甲斐を見つけられるようになった姉。いつかアデルは嫁に行かなければならないけれど……できるなら、それまでの間は、その間だけは。邪魔なものは一つもいらないの。アデルは柔らかく目を細めた。
「ファリーナさまに姉さまを紹介するの、楽しみ」
「……そうだね」
セシルも微睡むようにそっと瞼を下ろした。
王妃の待つ広い部屋に通された兄妹は、警戒をおくびにも出さないまま王妃の言葉を待った。彼女の隣にはオレサマ王太子もいたが、母親の前では大人しくちんまりと座っている。こうしているとただの裕福な子どもにしか見えない。
(……つまり、王太子殿下にも関わることか)
セシルは舌打ちを堪えた。
ああ、面倒だ。嫌な予感ばかりする。側近になれと言われるのだろうか。もしくはアデルを呼んでいるのだから婚姻とか?
この騒動の片付けで、セシルはセシルが侯爵家を継ぐまでを期限とした侯爵家当主の委任状を父に作らせた。つまりセシルはもう、いちいち父にお伺いや事後承諾もしなくてよくなったのだ。同時にセシルが数年以内に爵位継承することも確約された。全てのことを鑑みると、ちょうどいいタイミングだった。のだが。この場で判断を求められた時の逃げ道が一つ消えてしまった。
「いらっしゃい、二人とも。顛末について直接教えた方がいいかと思って呼ばせてもらったよ」
王妃はにっこりと微笑み、メイドの用意した茶を優雅に口に含んでいる。その細い指が振られると、メイドたちは無に部屋から消えた。
「アレクセイ家の処分はほとんど完了したわ。この子にもメイソンにも、いいお勉強をさせてもらったわ」
王妃は夜会でセシルたちが引っ掻き回すのを楽しむだけ楽しんでおいて、後始末に息子や弟がてんてこ舞いになっているのもまた面白く見守っていたらしい。ホホホ、と口に手を当てて上品に笑っているが、隣の王太子は膨れっ面だ。当初の予想通り父親に叱られる羽目になったからだ。王太子自身はなにもしてないのに。
しかし、それも王妃に言わせれば、セシルに「とっとと帰れ」などと言ってしまった息子が甘かった、というだけのこと。言質を与えれば王太子相手だろうと逆手に取る猛者がいるのを失念してはいけない。いかにまだ幼かろうと、彼は次期国王の椅子も権力も影響力も持っているのだから、油断も隙もあってはいけない。
「アレクセイ家は国政から大きく遠ざけられるわ。スートライト家を敵に回した上に、あなたたちが煽ったお家が気炎を巻いて追い詰めているから。爵位取り下げの要望書も出ているけれど、そちらは明確な罪状がないので据え置き。……あなたたちの落としどころはこの辺りでよかったかしら?」
「当家としては、当家ならびにフォード家への不名誉を撤回して頂けたのならば、それ以上に望むことはありません」
この場での一番の被害者王太子は、よく言うぜこいつみたいな顔でセシルの白々しい文句を聞いていた。
スートライト家の名を汚された報復はするくせに、その他は丸投げ。興味がないことに一切の見向きもしない性格は、歪んでいると言っても過言ではない。同情心もなければ義侠心もない、果ては忠誠心すらも。いつでも自己中心的に動くくせに敵がいないのは、立ち回りがうまいとかではなく、単純にセシルが敵を作らない位置に立っているからだ。中立派と言えば聞こえはいいが、この男は中立とは名ばかりの完全な傍観者でしかない。
(こんなやつ近くに置いておけるか!)
何より王太子が嫌なのは、いつか自分が成長した時の姿を想像させられるから。身内にしか心を開かないセシルの人間不信は、早熟な王太子にもいやいやながら共感できるのがなお悪い。まだ正常に働く理性と、教育係のケリーが真剣に叩き込んで治してくれた人間性だけが、王太子の希望だった。それなのにセシルを側に置けば、いつか染まってしまいそうな予感がする。
ちなみに、その隣に腰かけている妹からも似たような気配が感じられている。美しく精巧に作られたお人形。兄と王妃のやり取りの最中に少しも表情を変えず、目を楽しませる置物のようにじっとしている。何もかも、彼女の関心を惹き付けるものは城には存在していないのだと、全てが物語っている。
こんなのが二人も次代にいることがもう嫌だ。でもあの弟に椅子を譲ることもできない。ここがかなり複雑なところだ。
「失礼ながら、私たちは妃殿下からのご要望があったために参上したはずなのですが……」
「あら、性急ねぇ。ところで今日は、あの時の護衛の子も連れていているわけではないのね」
王太子が散々に嫌う薄っぺらい笑みがぴくりと形を変えたので、おやと思った。護衛のことは報告を受けて、王太子もそのぶんだけなら知っている。最低限の発言で場の注目を集め、同時に流れを変えるよう仕向けたのは、セシルの仕込みなのかと思っていた。だが、母が気にするならばーーそしてセシルのこの反応を見るに、それだけではない?
「……ええ。妹の護衛を一人に付きっきりにさせるのも負担が大きいですので」
「さすが、スートライト家は護衛まで優秀なのねぇ。ミルフォード・アレクセイ相手にあんな啖呵まで切って、公爵家の名に臆することもないなんて。一体どこから見つけてきたのかしら?」
「当領にて長きに渡り研鑽を積んできた者です。妃殿下にそこまでお目にかけていただいたとあれば光栄なことですが、彼女は――」
「光栄ついでに、あなたたちへの要望を伝えようかしら」
セシルの言葉を遮った王妃は、これまでで一番愉しそうな笑みを浮かべていた。
「ヒルダちゃんを私にちょうだいな」
誰も知らないはず、覚えていないはずの名前を口にした王妃に、セシルは嫌な予感が最悪な形で的中したことを悟った。
☆☆☆
ヒルダは午前中に馬をたくさん走らせて、昼時には帰ってどこかの店でご飯を食べる予定だった。予定、になったのは、郊外に行く途中でシドとアレンに遭遇したからだ。彼らも休暇らしく、ヒルダについていくと馬をそれぞれに用意していたのだ。アレンはついでに弁当も作っていて、ピクニックしようぜ!とにっかりと笑いかけてきた。
「いいの?」
「おれもシドも、セシルに休むことは言ったし、なんならあいつから命令されたしな、休めって。あと、ファリーナ・グレイ嬢だったか?その子がお前んとこに遊びに来るのにおれも同席することになってるから」
「そうなのね」
ヒルダはなんとなくほっとしたような、少し嫌なような、変な気持ちになった。何だろうと思っても、するりと逃げられて掴めなかったのでまあいいかと思い直す。
「でも、あたしに付き合わせてるみたいで悪いわ。休暇は交代制のはずなのに被ったってことは、兄さまにあたしのことを見てるようにって頼まれたってことでしょ?」
「いーんだよ。息抜きだ息抜き。普段デスクワークばっかして体鈍ってるし。な、シド」
「はい。ヒルディアさまはお嫌ですか?」
「さまは止めて、ヒルダでいいって言ってるのに。敬語も。嫌ってことはないけど、気が引けるわ」
「安心してください。私たちも休暇を楽しむためにここにいるんです」
キリッと言ったシドだが内心バクバクだ。休暇というよりヒルダの側にいることを楽しむためにここにいると、そう言えたらどんなに楽か。
シドのターン、と言われてはいたものの、アレクセイ家の騒動のせいで全てなし崩しになってしまっているのだ。気障な台詞を口にする自分を想像しようとして、あまりの恥ずかしさに慌てて頭を振った。ヒルダはそんな挙動不審なシドを不安そうに見つめていた。
「ま、行こうぜ」
シドの葛藤を察しているアレンは朗らかに二人を促した。
アレンもシドも、馬の扱いが上手だった。なんでも学園では馬術の授業もあるらしく、剣術よりましだとアレンは選択し、従者として兄と同じく学園に編入していたシドは、兄が受けるからと同じものを取ったらしいとヒルダは聞いた。
ちなみにシドは時折兄の護衛を引き受けるくらいには腕が立つ。アレンは剣はからきしらしい。二人の見た目の印象と中身が真逆だが、なんとなく面白い。
そして、郊外の開けた野原を好きなだけ馬で走り回り、小さな湖の畔で昼食を摂ることになったが、アレン手作りの弁当はとても美味しかった。
「すっきりしたか?」
「ええ。やっぱり息抜きって大事ね。知らない間に気分が塞いでたみたい」
さわさわと吹いていく風が火照った頬を冷まし、髪を揺らしていく。最近忙しくて軽くなった髪を気にする暇がなかったのだが、もうその間に慣れきってしまって、違和感はない。ただ、時折首筋がひんやりする。詰め襟の衣服ばかり選んで着るのはそのためだった。
すっきりしたついでに、とヒルダはシドを振り返った。
「シド、敬語はともかく、あたしのこと呼び捨てにしてよ」
「は……」
「あたしはもうお嬢さまじゃない、兄上に雇われた平民の娘よ。兄上の従者があたしを敬ってたら示しがつかないでしょ?ニーナだって、シドがやらないならって言い訳してくるのよ」
「……いえ、彼女は単純に丸投げしているだけかと……」
「わかってるんだけど、ね。でも無理なことじゃないでしょ?」
ヒルダも酔狂でこんなお願いをしているわけじゃない。シドやニーナに特に頼むのは、二人が今のヒルダの在り方を受け入れているように思えたからだ。仲良くなれそうだと思ったから。……友だちに、なりないなぁ、なんて。
「ね?いいでしょ?」
「ご、ご命令なら……」
「そんなことできるわけないでしょうが。そういう話じゃないし」
ヒルダが逃げ腰のシドをぐいぐい追い詰めていくのを、アレンはちょっと訝しげに見守っていた。
「ヒルダ、お前、最近どうしたんだ」
「どうしたって?」
「なにがそんなに不安なんだ」
「……不安?」
きょとんとするヒルダを、シドも改めて見つめ直していた。彼もどことなく違和感は感じていた。がむしゃらに馬を走らせる姿は息抜きというより何かを振り切ろうとしているようで、シドに迫る姿はいつになく強引。なにより、妹にはじめてできた友人の話題になると、わずかに瞳が揺らぐのだ。その変化が曖昧なまま、いつもの笑みに戻る。ヒルダが自覚しないこと――加えて超弩級のシスコンであるセシルやアデルすら気づいてないかもしれないことに気づいたのは、恋心の為せる奇跡かもしれなかった。そうであってほしいと恋する男二人は思う。
「どうせなら、今ここでゆっくり考えてみな。で、おれたちがいるんだから相談すりゃいいだろ」
「考えるって……」
「……ヒルディアさまは、ファリーナ・グレイ嬢のことをどう思われていますか?」
青い目が、これまでとは違い、ぐらりと大きく揺れた。面と向かって尋ねられてようやく、といったところか。
「ど、どう……?勉強熱心で、アデルと兄上をよく気遣ってくれるいい方で……」
「お前自身は?」
「……ええと……でも、あたしはあの時しかお会いしてないから、よく知らないし……?」
聞き方を変えなくては、とアレンとシドは顔を見合わせた。ファリーナ・グレイ嬢がなにがしかの影響を与えているのは確かだが、ヒルダの言うことも尤もだ。
「あ、アズリー」
ヒルダの首筋に、放していたアズリーが鼻先を押し付けていた。思わずそれを撫でると、もっとすりすりと寄ってくる。なんとなくヒルダは今朝アズリーに呟いた独り言を思い出した。
(不安……?)
しかしなにか違う気がする。かっちりと嵌まらない。なんだろう。あたしは一体、なんでアレンたちにこんな心配そうな顔をさせているんだろう。あたし、なにも不調なんて起こしてないのに。
「……帰りましょう。そろそろ戻らないと、お茶会に間に合わないわ」
「……」
「アレン?シド?」
「……いえ、そうですね。ですが……何かあれば、ぜひお話しください。私もアレンさまも、ヒルディアさまのことが心配なのです」
「なにがよ」
ヒルダが茶化すように言い返してみたが、二人とも下げた眉は戻らない。やがて、ヒルダもすっかり困りきった様子を隠さず、二人を上目遣いに見た。なぜか二人ともぐっと顎を引いた。
兄とは違うけれど、とても頼れる大人だと知っていた。年上の友人ってこんな感じなんだろうかと思うと、少し……安心した。「頼れ」と言われることもまた、王都で得た幸福の一つ。
「……その時はお願いね」
「お、おう」
「は、い」
こんな状況にも関わらずばきゅんと音が鳴ったかどうかは、本人たちの胸のうちである。
中心の市街地に戻ってきたヒルダたちは、馬を連れてゆっくりと街並みを歩いていった。昼のご飯時を過ぎて、平民向けの商店が軒を連ねる大通りの人通りも若干落ち着いている。馬を傍らに連れてのんびりと家路を辿れるのはありがたい。特に、自分の心の在りかを探そうとしているヒルダには。
「ヒルディアさま」
ぼけっとしていたヒルダを呼び止めたシドは、あらぬ方角に視線を向けていた。アレンも不思議そうに彼を見て、その視線を追って……「げ」と声を上げた。
「なんでこんな所に公爵家の馬車があるんだ?」
「公爵家?」
「バルメルク家です。現当主は王兄殿下のご友人でいらっしゃいます」
「まさか当主本人なわけないだろ。見なかったふりしてさっさと帰ろうぜ」
特に後ろ暗いというわけではないが、アレンは面倒ごとは勘弁してくれという顔で二人を急かした。ヒルダもそれに従うが、シドは若干心苦しいようだった。侯爵家嫡男の従者らしい生真面目ぶりだ。それでも再度アレンに促され、進行方向に向き直った、そのタイミングだ。
「もし」
幼い声にヒルダは振り返った。視線を下に向けると、貴族家の小間使いといった風情の少年と目が合った。小さいながら仕立てのいい燕尾服を身に纏い、髪も油で撫で付けている。教育の行き届いていることがわかる洗練された動作で少年は一礼した。
「わがあるじから、あなたあてのお手紙をお預かりしています。おうけとりください」
「主……?」
「あたし宛?」
「先に何者か名乗りなさい」
シドが固い声で促すと、少年はうっすらと微笑んだ。人間味の薄い微笑だ。
「失礼をいたしました。ドルフ・バルメルクが従僕の一人、ルフマンともうします。わたしの仰せつかった役目は、お手紙をそちらの貴婦人にお渡しするのみです」
「き、貴婦人……?」
「ちがうのですか?」
ルフマンはきょとんとヒルダを見上げた。あざとい、とアレンが思ったそれは間違いではないはずだ。辿々しい口調のくせに、子どもらしさなどどこにも感じさせない計算づくの仕草。同じくその印象を持ったシドも警戒度を上げている。
ルフマンはといえば、大人二人に警戒されても全く動じず、ヒルダに丁寧に折り畳まれた上質な紙を差し出した。書かれた宛先を、あえてヒルダに見えるように向きを変えてまで。
その文字を追ったヒルダの表情が、みるみる驚愕に染められていった。
「ヒルディア・スートライトさまあてでございます。どうか、おうけとりくださいませ」
「アズリー、今日はいい天気ね」
話しかけたのは一頭の牝馬。滑らかな光沢の栗毛に引き締まった四つ足、気の強い黒い瞳が特徴的だった。ヒルダがスートライト家と絶縁する前からの長い長い付き合いで、なんなら子馬の頃からヒルダが世話をしてきた馬だ。それから勘当を受けて、父に交渉して正式にヒルダの財産となったのである。
それでも、王都に辿り着くまでがアズリーとの最後の旅になると覚悟していた。路銀にまだ余裕はあっても、それは一時的なこと。兄の商会を頼るにしても、それ以上の先行きがわからない人生にアズリーを引き連れることは嫌だったのだ。王都ではじめに取った宿で引き取り手を探し、一度は泣く泣く手放したが……侯爵家別邸に住みはじめてしばらく後、いつの間にか兄がアズリーを探して買い戻していたのだった。
感動の再会のことを思い出しては、ヒルダはちょっと恥ずかしい思いもしていた。でもやっぱり嬉しい。それからはこうして、時折時間があればアズリーの様子を見、世話をしに厩舎を訪れているのだった。
「今日はアデルのお友だちがうちにいらっしゃるのよ。あの子に友だちができるなんて……あたしね、今でも夢を見ているようなの。王都に来てからいいことずくめで……夢なら覚めたくないなぁ……」
中年の馬屋番レックスを手伝ってアズリーや他の馬の世話を一通りしたヒルダは、アズリーの背に鞍を取り付けた。今日は秘書の仕事は休み、最近働きづめだったヒルダはアレンに「休め!」と商会から追い出されたのだ。
「今日は久しぶりに遠駆けしましょう。思いっきり走っていいわよ」
アズリーは嬉しそうにヒルダの体に鼻先を擦り付けた。
この日、セシルとアデルは王城へ向かう予定があった。午前中に登って、午後のティータイムにアデルの客人が来るのでそれまでには帰る。
ヒルダが遠駆けに郊外へ出かけた、とレックスからシドづてに聞いたセシルは、なんとなくほっと頷いていた。
ルーアン家での騒動から数日、セシルとヒルダ、シドとアレンはその片付けにあちこちを奔走したのだ。王太子派内部のことは王太子やメイソンがどうにかするのでそちらの問題はない。
騒動を起こしてしまった謝罪と詫びの品をルーアン家に贈り、王妃にも礼状を宛てる。一応スートライト家の家長である父に手紙を出して委任状を認めさせ、アレクセイ家へフォード家と連名で抗議文を送り、その間にも騒動で変に注目を集めて客が増えた商会について対応策を練り、と様々である。
ちなみにアデルには、夜会で目立ってしまったファリーナを守るという役目を与え、学園に通わせている。単純お馬鹿な妹は鋭意役目を果たそうと鼻息を荒くして毎日登校していっている。疲労している兄姉の自覚なき癒し担当であった。
今日はそれができないのだが、その理由は王妃へ宛てた礼状の返信にあった。騒動に協力した対価は会って伝えたいから日時を指定して城に来いとの命令である。
「どうしたのかしらね、妃殿下」
「私は嫌な予感しかしないけどね」
動き始めた馬車の中で、アデルは兄の言葉にきょとんと首をかしげた。
「どうして?」
「妃殿下にルーアン家との橋渡しをお願いしたが、その時にも礼の品の話にはならなかっただろう」
「そうね。でも不思議なことではないんじゃないの。あちらの利も大きかったんでしょ」
「先に仰ればこちらが借りを作りたがらないとわかっていて、今まで黙っていたこともあり得る」
セシルも王妃に借りを作るとわかっていて甘んじて乗った部分はあるが、あの抜け目ない王妃はあえて「後払い」を指定し、なおかつこうしてセシルたちを呼び出したのだ。
単純素朴な性格の王太子を産んだとは思えない曲者だと以前から思っていた。馬鹿とは違う意味でなにを考えているか読めないので、どうしても気にかかる。
アデルの言った通り、何だかんだで騒動によって王妃も得をしたのだから、こちらの足元を見るような真似はしないと思うが、警戒しておくに越したことはない。
「私はどうすればいいの?」
「お前はいつも通りでいなさい。私の取り越し苦労で終わる可能性もまたあるんだ」
「兄さまの懸念はいつも大当たりするのよ」
アデルはなぜかそこでふんすと胸を張った。「ああ、サーヴェの時もね」と言われて、途端に萎んだが。
『くれぐれも、くれぐれも慎重に行動するように』とセシルに手紙で釘を刺されておきながら失敗したアデルはぐうの音も出ない。その結果が今の幸福に繋がるとしても、姉があの時傷つけられたことそのものはなかったことにならない。
「……私たちだけでどうにかなることならいいね」
「……そうだね」
やっと自由を、笑顔でいられる居場所を、自分自身のための生き甲斐を見つけられるようになった姉。いつかアデルは嫁に行かなければならないけれど……できるなら、それまでの間は、その間だけは。邪魔なものは一つもいらないの。アデルは柔らかく目を細めた。
「ファリーナさまに姉さまを紹介するの、楽しみ」
「……そうだね」
セシルも微睡むようにそっと瞼を下ろした。
王妃の待つ広い部屋に通された兄妹は、警戒をおくびにも出さないまま王妃の言葉を待った。彼女の隣にはオレサマ王太子もいたが、母親の前では大人しくちんまりと座っている。こうしているとただの裕福な子どもにしか見えない。
(……つまり、王太子殿下にも関わることか)
セシルは舌打ちを堪えた。
ああ、面倒だ。嫌な予感ばかりする。側近になれと言われるのだろうか。もしくはアデルを呼んでいるのだから婚姻とか?
この騒動の片付けで、セシルはセシルが侯爵家を継ぐまでを期限とした侯爵家当主の委任状を父に作らせた。つまりセシルはもう、いちいち父にお伺いや事後承諾もしなくてよくなったのだ。同時にセシルが数年以内に爵位継承することも確約された。全てのことを鑑みると、ちょうどいいタイミングだった。のだが。この場で判断を求められた時の逃げ道が一つ消えてしまった。
「いらっしゃい、二人とも。顛末について直接教えた方がいいかと思って呼ばせてもらったよ」
王妃はにっこりと微笑み、メイドの用意した茶を優雅に口に含んでいる。その細い指が振られると、メイドたちは無に部屋から消えた。
「アレクセイ家の処分はほとんど完了したわ。この子にもメイソンにも、いいお勉強をさせてもらったわ」
王妃は夜会でセシルたちが引っ掻き回すのを楽しむだけ楽しんでおいて、後始末に息子や弟がてんてこ舞いになっているのもまた面白く見守っていたらしい。ホホホ、と口に手を当てて上品に笑っているが、隣の王太子は膨れっ面だ。当初の予想通り父親に叱られる羽目になったからだ。王太子自身はなにもしてないのに。
しかし、それも王妃に言わせれば、セシルに「とっとと帰れ」などと言ってしまった息子が甘かった、というだけのこと。言質を与えれば王太子相手だろうと逆手に取る猛者がいるのを失念してはいけない。いかにまだ幼かろうと、彼は次期国王の椅子も権力も影響力も持っているのだから、油断も隙もあってはいけない。
「アレクセイ家は国政から大きく遠ざけられるわ。スートライト家を敵に回した上に、あなたたちが煽ったお家が気炎を巻いて追い詰めているから。爵位取り下げの要望書も出ているけれど、そちらは明確な罪状がないので据え置き。……あなたたちの落としどころはこの辺りでよかったかしら?」
「当家としては、当家ならびにフォード家への不名誉を撤回して頂けたのならば、それ以上に望むことはありません」
この場での一番の被害者王太子は、よく言うぜこいつみたいな顔でセシルの白々しい文句を聞いていた。
スートライト家の名を汚された報復はするくせに、その他は丸投げ。興味がないことに一切の見向きもしない性格は、歪んでいると言っても過言ではない。同情心もなければ義侠心もない、果ては忠誠心すらも。いつでも自己中心的に動くくせに敵がいないのは、立ち回りがうまいとかではなく、単純にセシルが敵を作らない位置に立っているからだ。中立派と言えば聞こえはいいが、この男は中立とは名ばかりの完全な傍観者でしかない。
(こんなやつ近くに置いておけるか!)
何より王太子が嫌なのは、いつか自分が成長した時の姿を想像させられるから。身内にしか心を開かないセシルの人間不信は、早熟な王太子にもいやいやながら共感できるのがなお悪い。まだ正常に働く理性と、教育係のケリーが真剣に叩き込んで治してくれた人間性だけが、王太子の希望だった。それなのにセシルを側に置けば、いつか染まってしまいそうな予感がする。
ちなみに、その隣に腰かけている妹からも似たような気配が感じられている。美しく精巧に作られたお人形。兄と王妃のやり取りの最中に少しも表情を変えず、目を楽しませる置物のようにじっとしている。何もかも、彼女の関心を惹き付けるものは城には存在していないのだと、全てが物語っている。
こんなのが二人も次代にいることがもう嫌だ。でもあの弟に椅子を譲ることもできない。ここがかなり複雑なところだ。
「失礼ながら、私たちは妃殿下からのご要望があったために参上したはずなのですが……」
「あら、性急ねぇ。ところで今日は、あの時の護衛の子も連れていているわけではないのね」
王太子が散々に嫌う薄っぺらい笑みがぴくりと形を変えたので、おやと思った。護衛のことは報告を受けて、王太子もそのぶんだけなら知っている。最低限の発言で場の注目を集め、同時に流れを変えるよう仕向けたのは、セシルの仕込みなのかと思っていた。だが、母が気にするならばーーそしてセシルのこの反応を見るに、それだけではない?
「……ええ。妹の護衛を一人に付きっきりにさせるのも負担が大きいですので」
「さすが、スートライト家は護衛まで優秀なのねぇ。ミルフォード・アレクセイ相手にあんな啖呵まで切って、公爵家の名に臆することもないなんて。一体どこから見つけてきたのかしら?」
「当領にて長きに渡り研鑽を積んできた者です。妃殿下にそこまでお目にかけていただいたとあれば光栄なことですが、彼女は――」
「光栄ついでに、あなたたちへの要望を伝えようかしら」
セシルの言葉を遮った王妃は、これまでで一番愉しそうな笑みを浮かべていた。
「ヒルダちゃんを私にちょうだいな」
誰も知らないはず、覚えていないはずの名前を口にした王妃に、セシルは嫌な予感が最悪な形で的中したことを悟った。
☆☆☆
ヒルダは午前中に馬をたくさん走らせて、昼時には帰ってどこかの店でご飯を食べる予定だった。予定、になったのは、郊外に行く途中でシドとアレンに遭遇したからだ。彼らも休暇らしく、ヒルダについていくと馬をそれぞれに用意していたのだ。アレンはついでに弁当も作っていて、ピクニックしようぜ!とにっかりと笑いかけてきた。
「いいの?」
「おれもシドも、セシルに休むことは言ったし、なんならあいつから命令されたしな、休めって。あと、ファリーナ・グレイ嬢だったか?その子がお前んとこに遊びに来るのにおれも同席することになってるから」
「そうなのね」
ヒルダはなんとなくほっとしたような、少し嫌なような、変な気持ちになった。何だろうと思っても、するりと逃げられて掴めなかったのでまあいいかと思い直す。
「でも、あたしに付き合わせてるみたいで悪いわ。休暇は交代制のはずなのに被ったってことは、兄さまにあたしのことを見てるようにって頼まれたってことでしょ?」
「いーんだよ。息抜きだ息抜き。普段デスクワークばっかして体鈍ってるし。な、シド」
「はい。ヒルディアさまはお嫌ですか?」
「さまは止めて、ヒルダでいいって言ってるのに。敬語も。嫌ってことはないけど、気が引けるわ」
「安心してください。私たちも休暇を楽しむためにここにいるんです」
キリッと言ったシドだが内心バクバクだ。休暇というよりヒルダの側にいることを楽しむためにここにいると、そう言えたらどんなに楽か。
シドのターン、と言われてはいたものの、アレクセイ家の騒動のせいで全てなし崩しになってしまっているのだ。気障な台詞を口にする自分を想像しようとして、あまりの恥ずかしさに慌てて頭を振った。ヒルダはそんな挙動不審なシドを不安そうに見つめていた。
「ま、行こうぜ」
シドの葛藤を察しているアレンは朗らかに二人を促した。
アレンもシドも、馬の扱いが上手だった。なんでも学園では馬術の授業もあるらしく、剣術よりましだとアレンは選択し、従者として兄と同じく学園に編入していたシドは、兄が受けるからと同じものを取ったらしいとヒルダは聞いた。
ちなみにシドは時折兄の護衛を引き受けるくらいには腕が立つ。アレンは剣はからきしらしい。二人の見た目の印象と中身が真逆だが、なんとなく面白い。
そして、郊外の開けた野原を好きなだけ馬で走り回り、小さな湖の畔で昼食を摂ることになったが、アレン手作りの弁当はとても美味しかった。
「すっきりしたか?」
「ええ。やっぱり息抜きって大事ね。知らない間に気分が塞いでたみたい」
さわさわと吹いていく風が火照った頬を冷まし、髪を揺らしていく。最近忙しくて軽くなった髪を気にする暇がなかったのだが、もうその間に慣れきってしまって、違和感はない。ただ、時折首筋がひんやりする。詰め襟の衣服ばかり選んで着るのはそのためだった。
すっきりしたついでに、とヒルダはシドを振り返った。
「シド、敬語はともかく、あたしのこと呼び捨てにしてよ」
「は……」
「あたしはもうお嬢さまじゃない、兄上に雇われた平民の娘よ。兄上の従者があたしを敬ってたら示しがつかないでしょ?ニーナだって、シドがやらないならって言い訳してくるのよ」
「……いえ、彼女は単純に丸投げしているだけかと……」
「わかってるんだけど、ね。でも無理なことじゃないでしょ?」
ヒルダも酔狂でこんなお願いをしているわけじゃない。シドやニーナに特に頼むのは、二人が今のヒルダの在り方を受け入れているように思えたからだ。仲良くなれそうだと思ったから。……友だちに、なりないなぁ、なんて。
「ね?いいでしょ?」
「ご、ご命令なら……」
「そんなことできるわけないでしょうが。そういう話じゃないし」
ヒルダが逃げ腰のシドをぐいぐい追い詰めていくのを、アレンはちょっと訝しげに見守っていた。
「ヒルダ、お前、最近どうしたんだ」
「どうしたって?」
「なにがそんなに不安なんだ」
「……不安?」
きょとんとするヒルダを、シドも改めて見つめ直していた。彼もどことなく違和感は感じていた。がむしゃらに馬を走らせる姿は息抜きというより何かを振り切ろうとしているようで、シドに迫る姿はいつになく強引。なにより、妹にはじめてできた友人の話題になると、わずかに瞳が揺らぐのだ。その変化が曖昧なまま、いつもの笑みに戻る。ヒルダが自覚しないこと――加えて超弩級のシスコンであるセシルやアデルすら気づいてないかもしれないことに気づいたのは、恋心の為せる奇跡かもしれなかった。そうであってほしいと恋する男二人は思う。
「どうせなら、今ここでゆっくり考えてみな。で、おれたちがいるんだから相談すりゃいいだろ」
「考えるって……」
「……ヒルディアさまは、ファリーナ・グレイ嬢のことをどう思われていますか?」
青い目が、これまでとは違い、ぐらりと大きく揺れた。面と向かって尋ねられてようやく、といったところか。
「ど、どう……?勉強熱心で、アデルと兄上をよく気遣ってくれるいい方で……」
「お前自身は?」
「……ええと……でも、あたしはあの時しかお会いしてないから、よく知らないし……?」
聞き方を変えなくては、とアレンとシドは顔を見合わせた。ファリーナ・グレイ嬢がなにがしかの影響を与えているのは確かだが、ヒルダの言うことも尤もだ。
「あ、アズリー」
ヒルダの首筋に、放していたアズリーが鼻先を押し付けていた。思わずそれを撫でると、もっとすりすりと寄ってくる。なんとなくヒルダは今朝アズリーに呟いた独り言を思い出した。
(不安……?)
しかしなにか違う気がする。かっちりと嵌まらない。なんだろう。あたしは一体、なんでアレンたちにこんな心配そうな顔をさせているんだろう。あたし、なにも不調なんて起こしてないのに。
「……帰りましょう。そろそろ戻らないと、お茶会に間に合わないわ」
「……」
「アレン?シド?」
「……いえ、そうですね。ですが……何かあれば、ぜひお話しください。私もアレンさまも、ヒルディアさまのことが心配なのです」
「なにがよ」
ヒルダが茶化すように言い返してみたが、二人とも下げた眉は戻らない。やがて、ヒルダもすっかり困りきった様子を隠さず、二人を上目遣いに見た。なぜか二人ともぐっと顎を引いた。
兄とは違うけれど、とても頼れる大人だと知っていた。年上の友人ってこんな感じなんだろうかと思うと、少し……安心した。「頼れ」と言われることもまた、王都で得た幸福の一つ。
「……その時はお願いね」
「お、おう」
「は、い」
こんな状況にも関わらずばきゅんと音が鳴ったかどうかは、本人たちの胸のうちである。
中心の市街地に戻ってきたヒルダたちは、馬を連れてゆっくりと街並みを歩いていった。昼のご飯時を過ぎて、平民向けの商店が軒を連ねる大通りの人通りも若干落ち着いている。馬を傍らに連れてのんびりと家路を辿れるのはありがたい。特に、自分の心の在りかを探そうとしているヒルダには。
「ヒルディアさま」
ぼけっとしていたヒルダを呼び止めたシドは、あらぬ方角に視線を向けていた。アレンも不思議そうに彼を見て、その視線を追って……「げ」と声を上げた。
「なんでこんな所に公爵家の馬車があるんだ?」
「公爵家?」
「バルメルク家です。現当主は王兄殿下のご友人でいらっしゃいます」
「まさか当主本人なわけないだろ。見なかったふりしてさっさと帰ろうぜ」
特に後ろ暗いというわけではないが、アレンは面倒ごとは勘弁してくれという顔で二人を急かした。ヒルダもそれに従うが、シドは若干心苦しいようだった。侯爵家嫡男の従者らしい生真面目ぶりだ。それでも再度アレンに促され、進行方向に向き直った、そのタイミングだ。
「もし」
幼い声にヒルダは振り返った。視線を下に向けると、貴族家の小間使いといった風情の少年と目が合った。小さいながら仕立てのいい燕尾服を身に纏い、髪も油で撫で付けている。教育の行き届いていることがわかる洗練された動作で少年は一礼した。
「わがあるじから、あなたあてのお手紙をお預かりしています。おうけとりください」
「主……?」
「あたし宛?」
「先に何者か名乗りなさい」
シドが固い声で促すと、少年はうっすらと微笑んだ。人間味の薄い微笑だ。
「失礼をいたしました。ドルフ・バルメルクが従僕の一人、ルフマンともうします。わたしの仰せつかった役目は、お手紙をそちらの貴婦人にお渡しするのみです」
「き、貴婦人……?」
「ちがうのですか?」
ルフマンはきょとんとヒルダを見上げた。あざとい、とアレンが思ったそれは間違いではないはずだ。辿々しい口調のくせに、子どもらしさなどどこにも感じさせない計算づくの仕草。同じくその印象を持ったシドも警戒度を上げている。
ルフマンはといえば、大人二人に警戒されても全く動じず、ヒルダに丁寧に折り畳まれた上質な紙を差し出した。書かれた宛先を、あえてヒルダに見えるように向きを変えてまで。
その文字を追ったヒルダの表情が、みるみる驚愕に染められていった。
「ヒルディア・スートライトさまあてでございます。どうか、おうけとりくださいませ」
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