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Ⅱ
付け加え・ワインの度数
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『――賭けをしよう』
『君が負けたら、監視はやめてもらおう』
『試してみるといい。あの人がどう動くのか。私の指示で行うんだから裏切りは気にしなくていいよ』
何が正しいのかわからなくなった。
ヒルディアさまが平民となって屋敷に現れてから、変わった屋敷の雰囲気が。
鉄面皮のようだったセシルさまがよく表情を変えるようになり、淑女の鏡のはずのアデライトさまが快活に笑い、子どものようにじゃれついて、ヒルディアさまはその二人をずっと穏やかににこにこ笑って見つめていた。
ヒルディアさまが幸せそうに笑うのを、初めて見た。
アレンさまがそこに加わると、よりいっそう賑やかになる。
憑き物が落ちたように雰囲気が柔らかくなった三兄妹。心なしか屋敷が明るく、爽やかな風が吹き抜けるような感覚。
少なくともわかるのは、セシルさまもアデライトさまも、ヒルディアさまを中心にして回っていること。
そこには孤独な天才も不憫な凡人もいなかった。
同情で塗り固められた幻想の楽園に、ひびが入ったのを感じていた。
……だから、セシルさまの賭けに従って、ヒルディアさまが王都で怪我をして、侯爵家別邸で療養していると、セシルさまがアデルさまの王都預りを書いた手紙と一緒に報告したのだ。
……そうして賭けた、一縷の望みも。
「――セシル!アデルはどこだ!」
開口一番の言葉で、粉々に崩れ去った。
(……ああ)
旦那さま。あなたさまは。あなたさまたちは。
誰も愛していらっしゃらなかったのですね。
「んで?今後の方針は?」
「なにもしないよ。シドの寝返りで王都との繋がりは遮断。侯爵領は孤立した。他領からの信用も失っている以上、なにもしなくても滅んでくれる」
水を飲んだあと、セシルさまが他のものが飲みたいと言ったので、ミルクと蜂蜜を用意した。それからは、セシルさまは不満顔で、でもありがとうと言ってマグカップに入った蜂蜜ミルクを飲んでいる。……自分でやったのだが、妙に幼く見えてしまう。
「つっても、直轄領になる危険性があるのに諸侯が見逃すか?お前だけで抑えられるもんじゃねぇだろ?」
「私はなにもしないと言っただろう。……そうだね、シド、君の見解を聞こうか」
突然話を振られて驚いたけれど、舌で下唇を湿らせた。軽く酔いが回って、思考がまとまりやすかった。
「……どちらに転んでも、セシルさまはよかったのでしょうか。諸侯の方々はセシルさまを警戒していらっしゃいます。領主になってもならなくても、依然脅威として残ります」
「でもよ」
「うん、シドは合格。アレン、私はまだ『侯爵家嫡男』の身分は捨てていないよ」
「……あー、そういうことか」
「うん、そういうこと。突然あの人たちが奇跡的に目覚めて領が持ち直しても、今度こそ正当に継いで、壊して修復する。しないならしないで、私が領主になる権利を放棄しない以上、諸侯が茶々を入れる手段は限られる」
「…………それ、嫌なんだけど。お前が囮になるわけだろ」
「……ふふ。だからこそシドまでこちらに引き入れた。私たち兄妹のためにしっかり働いてもらうよ」
心配しているアレンさまに対し、セシルさまは嬉しそうだった。声が心なしか弾み、頬に赤みが戻っている。こんな表情、ひと月前まで見たことがなかったのだ。飄々としているアレンさまを見て、なんとか驚愕は押し込めた。
でも、アレンさまも弱いのかもしれない。がりがりと頭をかいて、大きくため息をついていた。
「……わかった、やってやるよ。やればいいんだろ、このシスコンが」
……あれ?そこに帰結するんですか?
混乱していると、アレンさまが哀れみの目でこちらを見た。セシルさまはとてもいい笑顔で、「それはそうだよ」と言った。
「どうしてヒルダたちといる時間を削ってまで馬鹿たちの相手をしなきゃいけないのさ」
「だからって片手間で領地潰そうとするのはお前くらいだよ……」
「だってヒルダとアデルと、なんの邪魔なく過ごせるのは幼少以来なんだよ。お馬鹿なアデルはともかく、ヒルダは自立するって言うし、甘えてくれるのももうあとちょっとの間だろうし……」
「揺るぎないよな、お前」
「はっきり言って復讐なんてあの人たちにやるのも面倒。意味ないし。ヒルダの魅力を理解しない馬鹿共には自業自得がお似合いだ」
「言い切ったな……」
「最後に息子を道ずれに汚名を着ようと考えた時点で、断絶は決定的だよ。そう仕向けたのが私だったとしても……ほんの、ちょっとくらいは、ためらってほしかったけどね」
セシルさまの青の瞳が、わずかに揺らいだ。
『どちらを選びますか?』
そう言ったセシルさまは、たぶん、誰よりも信じていた。旦那さまが、破滅の道に、形だけでも愛そうとしていた息子を巻き込もうとすることを。
……でも、確かめたのは。
愛していなかったと証明してしまったのなら。愛を理由にこれまで引き離されてきたヒルディアさまは、どうなるのだろう。
「……うちの親ってつくづく救いようがないよ。ヒルダを捨てるより、私たちを先に捨てればよかったのに。下手に劣等感こじらせて、私たちと向き合うのに必死で、でも空回りしてこの結果だ」
『――凡人が天才を理解できると思いましたか?』
「……ヒルダから家族を奪ったのは、結局私たちだった」
それは違う。あなたさまが落ち込むことじゃない。だって――。
「――おっと手が滑ったぁ」
ぱしゃん、と音がして、その場の時が止まった。正確には私とセシルさまの。
……ぽたり、と、金茶の髪から赤い雫がこぼれていった。
「わりーわりー。酔って手元が狂っちまった。シド、拭きもの出してくれねぇ?」
「は……はい……?」
アレンさまは空のワイングラスを振りながら「高い酒だったのになー」と笑顔でぼやいている。
「……アレン、何を……」
「お前の間抜け面なんざ滅多に拝めねぇな。――世迷い事は酔ってから抜かすもんだ。そうだろ?」
アレンさまは嘲るように笑って、ワインの瓶を持ち上げた。さっきまで水が入っていたワイングラスに血のようなそれを注ぎ、自分のにも注ぐ。私の分にも少し足された。
「まさかなぁ。酔ってもないと、ヒルダが一番頼りにしてる奴が、『自分さえいなければ』とかそんな戯言吐かねぇよなぁ」
「…………」
揺らいでいた瞳が据わったセシルさまに目配せされて、タオルを取りに行った。直後に部屋からばしーんという音と「いってえ!」という声がしたが、聞かなかったふりをした。たぶんセシルさまは子どもじゃないから、やられたことをやり返すことはないと信じているので、全部幻聴だ。
「アレン、君、向こう十ヶ月減俸」
「はあっ!?なんで!?」
「……今日のセシルさまのお召し物って、牽制を込めてかなり上等な生地使ってたんですよ……。これ、シミになって取れませんよ。まして赤ワインなんて。メイドが怒る姿が目に見えます……」
「アレンが八割悪いんだから、生け贄にしよう」
「二割悪いの認めてんだろーが!ちょっと待てよ!今日のワインもわりとぎりぎりだったんだぞ!?」
「わ、私からも出します」
「頼む!!……あっ、お前の親父が元凶じゃん!ツケようぜ!」
「あの人の資産全部押さえてるから駄目。金欠ならヒルダとのデートもお預けだね?まさか、この私にワインをかけてただで済むとでも?」
「えげつねえぞお前!!」
「ヒルダが認めてくれてるなら何でもいい。シド、明日は昼から休みをあげるから、このお馬鹿の代わりにヒルダとアデルを迎えに行って」
「かしこまりました」
「あっおいこら待てお前、おれん家だぞ!?」
「うるさいよ貧乏男。シドにお金工面してもらって強く出られるわけ?明日は君の負け。シドのターンだ。君は精々早く返済できるよう、私がこき使ってやるから」
「やめてくれえええええ!!」
絶叫と共に、王都侯爵邸の夜は更けていく。
『君が負けたら、監視はやめてもらおう』
『試してみるといい。あの人がどう動くのか。私の指示で行うんだから裏切りは気にしなくていいよ』
何が正しいのかわからなくなった。
ヒルディアさまが平民となって屋敷に現れてから、変わった屋敷の雰囲気が。
鉄面皮のようだったセシルさまがよく表情を変えるようになり、淑女の鏡のはずのアデライトさまが快活に笑い、子どものようにじゃれついて、ヒルディアさまはその二人をずっと穏やかににこにこ笑って見つめていた。
ヒルディアさまが幸せそうに笑うのを、初めて見た。
アレンさまがそこに加わると、よりいっそう賑やかになる。
憑き物が落ちたように雰囲気が柔らかくなった三兄妹。心なしか屋敷が明るく、爽やかな風が吹き抜けるような感覚。
少なくともわかるのは、セシルさまもアデライトさまも、ヒルディアさまを中心にして回っていること。
そこには孤独な天才も不憫な凡人もいなかった。
同情で塗り固められた幻想の楽園に、ひびが入ったのを感じていた。
……だから、セシルさまの賭けに従って、ヒルディアさまが王都で怪我をして、侯爵家別邸で療養していると、セシルさまがアデルさまの王都預りを書いた手紙と一緒に報告したのだ。
……そうして賭けた、一縷の望みも。
「――セシル!アデルはどこだ!」
開口一番の言葉で、粉々に崩れ去った。
(……ああ)
旦那さま。あなたさまは。あなたさまたちは。
誰も愛していらっしゃらなかったのですね。
「んで?今後の方針は?」
「なにもしないよ。シドの寝返りで王都との繋がりは遮断。侯爵領は孤立した。他領からの信用も失っている以上、なにもしなくても滅んでくれる」
水を飲んだあと、セシルさまが他のものが飲みたいと言ったので、ミルクと蜂蜜を用意した。それからは、セシルさまは不満顔で、でもありがとうと言ってマグカップに入った蜂蜜ミルクを飲んでいる。……自分でやったのだが、妙に幼く見えてしまう。
「つっても、直轄領になる危険性があるのに諸侯が見逃すか?お前だけで抑えられるもんじゃねぇだろ?」
「私はなにもしないと言っただろう。……そうだね、シド、君の見解を聞こうか」
突然話を振られて驚いたけれど、舌で下唇を湿らせた。軽く酔いが回って、思考がまとまりやすかった。
「……どちらに転んでも、セシルさまはよかったのでしょうか。諸侯の方々はセシルさまを警戒していらっしゃいます。領主になってもならなくても、依然脅威として残ります」
「でもよ」
「うん、シドは合格。アレン、私はまだ『侯爵家嫡男』の身分は捨てていないよ」
「……あー、そういうことか」
「うん、そういうこと。突然あの人たちが奇跡的に目覚めて領が持ち直しても、今度こそ正当に継いで、壊して修復する。しないならしないで、私が領主になる権利を放棄しない以上、諸侯が茶々を入れる手段は限られる」
「…………それ、嫌なんだけど。お前が囮になるわけだろ」
「……ふふ。だからこそシドまでこちらに引き入れた。私たち兄妹のためにしっかり働いてもらうよ」
心配しているアレンさまに対し、セシルさまは嬉しそうだった。声が心なしか弾み、頬に赤みが戻っている。こんな表情、ひと月前まで見たことがなかったのだ。飄々としているアレンさまを見て、なんとか驚愕は押し込めた。
でも、アレンさまも弱いのかもしれない。がりがりと頭をかいて、大きくため息をついていた。
「……わかった、やってやるよ。やればいいんだろ、このシスコンが」
……あれ?そこに帰結するんですか?
混乱していると、アレンさまが哀れみの目でこちらを見た。セシルさまはとてもいい笑顔で、「それはそうだよ」と言った。
「どうしてヒルダたちといる時間を削ってまで馬鹿たちの相手をしなきゃいけないのさ」
「だからって片手間で領地潰そうとするのはお前くらいだよ……」
「だってヒルダとアデルと、なんの邪魔なく過ごせるのは幼少以来なんだよ。お馬鹿なアデルはともかく、ヒルダは自立するって言うし、甘えてくれるのももうあとちょっとの間だろうし……」
「揺るぎないよな、お前」
「はっきり言って復讐なんてあの人たちにやるのも面倒。意味ないし。ヒルダの魅力を理解しない馬鹿共には自業自得がお似合いだ」
「言い切ったな……」
「最後に息子を道ずれに汚名を着ようと考えた時点で、断絶は決定的だよ。そう仕向けたのが私だったとしても……ほんの、ちょっとくらいは、ためらってほしかったけどね」
セシルさまの青の瞳が、わずかに揺らいだ。
『どちらを選びますか?』
そう言ったセシルさまは、たぶん、誰よりも信じていた。旦那さまが、破滅の道に、形だけでも愛そうとしていた息子を巻き込もうとすることを。
……でも、確かめたのは。
愛していなかったと証明してしまったのなら。愛を理由にこれまで引き離されてきたヒルディアさまは、どうなるのだろう。
「……うちの親ってつくづく救いようがないよ。ヒルダを捨てるより、私たちを先に捨てればよかったのに。下手に劣等感こじらせて、私たちと向き合うのに必死で、でも空回りしてこの結果だ」
『――凡人が天才を理解できると思いましたか?』
「……ヒルダから家族を奪ったのは、結局私たちだった」
それは違う。あなたさまが落ち込むことじゃない。だって――。
「――おっと手が滑ったぁ」
ぱしゃん、と音がして、その場の時が止まった。正確には私とセシルさまの。
……ぽたり、と、金茶の髪から赤い雫がこぼれていった。
「わりーわりー。酔って手元が狂っちまった。シド、拭きもの出してくれねぇ?」
「は……はい……?」
アレンさまは空のワイングラスを振りながら「高い酒だったのになー」と笑顔でぼやいている。
「……アレン、何を……」
「お前の間抜け面なんざ滅多に拝めねぇな。――世迷い事は酔ってから抜かすもんだ。そうだろ?」
アレンさまは嘲るように笑って、ワインの瓶を持ち上げた。さっきまで水が入っていたワイングラスに血のようなそれを注ぎ、自分のにも注ぐ。私の分にも少し足された。
「まさかなぁ。酔ってもないと、ヒルダが一番頼りにしてる奴が、『自分さえいなければ』とかそんな戯言吐かねぇよなぁ」
「…………」
揺らいでいた瞳が据わったセシルさまに目配せされて、タオルを取りに行った。直後に部屋からばしーんという音と「いってえ!」という声がしたが、聞かなかったふりをした。たぶんセシルさまは子どもじゃないから、やられたことをやり返すことはないと信じているので、全部幻聴だ。
「アレン、君、向こう十ヶ月減俸」
「はあっ!?なんで!?」
「……今日のセシルさまのお召し物って、牽制を込めてかなり上等な生地使ってたんですよ……。これ、シミになって取れませんよ。まして赤ワインなんて。メイドが怒る姿が目に見えます……」
「アレンが八割悪いんだから、生け贄にしよう」
「二割悪いの認めてんだろーが!ちょっと待てよ!今日のワインもわりとぎりぎりだったんだぞ!?」
「わ、私からも出します」
「頼む!!……あっ、お前の親父が元凶じゃん!ツケようぜ!」
「あの人の資産全部押さえてるから駄目。金欠ならヒルダとのデートもお預けだね?まさか、この私にワインをかけてただで済むとでも?」
「えげつねえぞお前!!」
「ヒルダが認めてくれてるなら何でもいい。シド、明日は昼から休みをあげるから、このお馬鹿の代わりにヒルダとアデルを迎えに行って」
「かしこまりました」
「あっおいこら待てお前、おれん家だぞ!?」
「うるさいよ貧乏男。シドにお金工面してもらって強く出られるわけ?明日は君の負け。シドのターンだ。君は精々早く返済できるよう、私がこき使ってやるから」
「やめてくれえええええ!!」
絶叫と共に、王都侯爵邸の夜は更けていく。
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