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愛しているよ

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 ――ああ、どうしてこんなことに。

 ジョアン・マクガレイは、歌劇の悲劇俳優さながらに、胸中で大いに嘆いた。
 ジョアンはまだ結婚などしたくなかった。今年二十歳、家名に縛られるにはまだ早すぎると思っている。出産年齢のある女より男の結婚適齢期は遥かに長い。それにジョアンは美貌で、女の影が側に絶えたことがない。
 なぜこの世の春を早々に捨てて、堅苦しいしきたりに囚われなくてはならないのか――ジョアンは結婚してから愛人を設けるという発想には至らなかった。親はジョアンを馬鹿と思っているし、間違いではない。顔が自慢で、火遊びが大好きな息子はさりげなくポンコツなのだと、親が一番承知しているのだ。今のところ家には無害なポンコツだが、あまりに放置しては厄介ごとの種になる気しかせぬと、親はせっせと働いた。

 ポンコツなジョアンに用意された婚約者は、醜聞が吹き荒れている同格の家の末娘、ルシエラ。醜聞とはルシエラの三人の姉が、嫁ぎ先で刃傷沙汰や出奔、出戻りをしでかしたゆえのものだった。
 この縁談、結婚自体を億劫がる息子はますます嫌がるだろうと、もちろん親もわかっていたのだが、縁談を持ちかけてきたのは相手方、エーレルヒ侯爵である。

 跡取りが別にいるので、娘を他家に嫁がせなければならないこの侯爵は、娘が多い家庭で多額の持参金を用意せねばならないという極限状態――この父親は一男四女に惜しみなく愛を注ぐ子煩悩であり、息子には資金繰りで傾いた家を継がせるわけにはいかない、娘には嫁ぎ先で不自由はさせないという強い志を持っていた――において、覚醒した。
 それはもう、以前は領地を富ませるより現状維持に向いていた才覚が、ぐるんと針を百八十度回してびんっびんに尖りまくった。牛が豹に突然変異した。
 狩られた獲物は領地どころか国を悩ませていた窃盗団や周辺国を荒らして回った兵崩れであり、侯爵は狩った獲物の戦利品を根こそぎ奪いつくした。
 それに関する王国からの報奨も、言質を取った上で重箱の隅をつつくようなみみっちさを発揮して極限まで搾り取り、それらを領内の投資や王国や他貴族への貸付に回してどんどん資産を増やし、領城を黄金に建て替えられるほどの資産家へと変貌させたのである。実際のところ、悪趣味極まりないので建て替えはしていない。
 この頃新たに定められた家訓は、「金は見せびらかすより振り回せ」である。
 娘の四人どころか十人くらい、持参金を授けられるほど稼いだ侯爵だが、このご時世では珍しい人格者でも通っている。金の魔力に堕とされず、侯爵と取り引きした相手に恨まれることは滅多にない。金の亡者、貴族の成金などと陰口を叩かれるのはやっかみの範囲内だ。
 そんな、どこから見ても立派な侯爵だが、持参金問題は片付いたはずなのに、末娘の縁談がまとまらないという危地に立っていた。醜聞は本人のものではないとはいえ、上の三人が三人ともやらかしたのだ。末娘にも何らかの瑕疵があると見なされるのは当然のこと。持参金があっても、家名に泥を塗られるのに甘んじる貴族家はない。
 ここに至って、彼は人格者の名誉を捨てた。なによりもまず人の親だったので。

「そちらの家で資金繰りに困り、停止中の事業がありましたな。それから、ご子息の不行状の尻拭いも大変なご様子」

 エーレルヒ侯爵は、マクガレイ侯爵家の弱みをつつくというかぶっ刺した。持参金のために血走った目で稼ぎどころをあら探ししまくった昔さながらである。
 王家の管財人すら泣かせた気迫と緻密な口撃に、資産家になって築いた情報網が合わされば、同格といえど、息子を持て余す程度の家など太刀打ちできるはずもない。

 こうして両侯爵家の縁組が整ったのだが、エーレルヒ侯爵はただ適当に娘を嫁がせればよいという無責任な考えも持っていなかった。ジョアンがポンコツなのも把握済みで、末娘ならば対応可能だとわかっていたのである。

「婚約をご子息に明らかにするかどうかは、そちらに任せましょう。私としては、事前に伝えることは避けたほうがいいと思いますが」

 息子の火遊びについて他人に指摘されたマクガレイ侯爵の顔はひきつっていた。嫌がった息子がなにかしでかしそうなのを否定できない。そして、しでかさないように監視するにも人手がいる。すなわち金がいる。エーレルヒ侯爵にその支払いを援助する気がないのはこの口振りから明らかだった。

 マクガレイ侯爵は妻と執事長、侍女長と頷き合った。水面下で結婚式の準備を進めていく特殊部隊が結成されたのは、この日の日暮れ――。












 ああ、どうしてこんなことに。

 そんなわけで、結婚式前日を早朝から簀巻きにされ自室に監禁されて過ごし、当日に自身の結婚を知ったジョアンの嘆きに繋がるのである。
 ちなみに知らされた時にはあまりに突拍子がなかったので冗談かと思ったジョアンだが、文字通りの簀巻きにされた上で自室の窓に外からガンガン板を打ち付けられ扉にも大仰な枷をつけられたことを思い返して、親の本気を悟った。
 結婚式当日だけはエーレルヒ侯爵もジョアンの見張りに屈強な男どもを式場に手配し、ジョアンの身支度をさせたので、ジョアンに逃げ場はない。
 断じて末娘に「男に逃げられた」という醜聞を作りたくない父親の本気も、ジョアンにははっきり伝わった。ポンコツなりに感受性はいいのである。

 逆らえないなら嘆くしかない。あと地味に、筋肉モリモリの男たちに囲まれて体のあちこちを触られて(着替えや整髪のため)いくのが神経を削った。元々護衛や肉体労働についていただろうゆえの手際のもたつきが、さらにそれを後押しした。なんたる嫌がらせ。
 彼らはジョアンを着飾ると、やって来たマクガレイ侯爵にやりきった顔で敬礼してから去っていった。完全に軍隊。廊下を少し移動すれば、ジョアンに内緒でよくもここまで集められたなというほど招待客が待つ広間だ。その中央奥に設えられた祭壇で、まだ見ぬ花嫁を待つことになる。

 招待客の目が、まさしくジョアンを見張っていた。下手に不機嫌な顔もできない……くらいの理性はあった。今のジョアンはこれから女遊びができない身の上を嘆くだけで、花嫁にはなんら興味を抱いていない。侯爵家の格にふさわしい程度の贅を凝らした衣装を身にまとい、顔を隠すベールを被った花嫁がエーレルヒ侯爵と共に現れ、ジョアンと結婚の証人が待つ祭壇に辿り着いても気分はそぞろだった。
 証人の老爺は、エーレルヒ侯爵が離れると「お顔をおあげください」と言った。ジョアンに花嫁のベールをあげろと言っているのだ。
 花嫁はそっと証人とジョアンの間を向くように斜めになり、ジョアンは両手でベールをつまみ、ゆっくりと上げた。
 今になってやっと花嫁について興味がわいたジョアンは、ベールの下にはどんな顔があるのだろうかと、露になっていく形のよい顎の輪郭、花びらのような唇、透けるような肌色にほんのり色付けた頬、まっすぐに通る鼻筋、柔らかな目元――とゆっくりとベールに沿って視線を上げていった。

 丁寧に磨かれた銀盆に空の雫を一滴垂らしたような美しい色の瞳が、上目遣いにジョアンを見ていて、この瞬間、ジョアンの不満も嘆きも軽薄な好奇心も、全てが世界の裏側にぶん投げられた。

 そして、その瞬間である。

「その結婚式、ちょおっと待ったあああああああ!!」

 ジョアンを見上げていた潤むような月の瞳が、すうっと広間の大きな扉の方へ向いた。ジョアンは浮かれ上がった心臓を鷲掴みながらそれを追い、そこにおくるみを片手に、もう片手でぶち開けた扉を押さえて立つ女の顔を見てしまった。

 恋のときめきに動く心臓が鼓動を完全に停止した。

「ジョアンさま!」

 ジョアンは女の名前を知っていた。口がその名の形に動きかけて、花嫁の視線に気づいて固まる。そのわずかな差が、ジョアンを更なる窮地へ追い落とした。

「あなたはこの子をアタシとの子どもだと認めてくれましたよね!証文だってここにあるわ!それでよその人と結婚ってどういうことよ!?」

 ジョアンは冷や汗を垂れ流しながら思った。

(ああ、どうして、こんなことに……)









☆☆☆










 現実逃避しているジョアンの視界の端では、義父が真っ赤な顔をして立ち上がり、実父が真っ青な顔になって腰を抜かしていた。

 顔だけのポンコツ、既に盛大にやらかしていた。
 ポンコツのポンコツたるゆえんは、たまに常識外れなことをしでかすためである。普通の発想ができないだけならただの木偶止まりであるが、ジョアンは無駄な運のよさを発揮して、本人にも無意識のうちに、監視の目を潜り抜けていたのだった。
 花嫁に一目惚れした今のジョアンに、これを収拾づける妙策など思いつく訳がない。花嫁の見上げてくる視線が辛い。
 招待客らも今では単なる野次馬と化していて、エーレルヒ侯爵がマクガレイ侯爵に「実子に証文だと!?どういうことだ!」と怒鳴り付けているのと、呆然と立ち尽くすジョアンの様子を、面白く見比べている。

「お父さま、落ち着いてくださいませ」

 しどろもどろなマクガレイ侯爵の襟首を絞め上げているエーレルヒ侯爵を止めたのは、花嫁の鈴のような声だった。
 ルシエラ、とエーレルヒ侯爵が痛ましく呼ぶ。誰よりも幸福なはずの花嫁が、この場において最も悲惨な状況に置かれているのだ。父親として許せるはずもなかった。
 ベールが完全に後ろに捲られ、露になっている頬にルシエラは片手を添えて、そっと首をかしげた。

「女の方がおられるならまだしも、お子までいらしては、既に成立した婚約そのものが白紙同然ですわね」

 事態とエーレルヒ侯爵家の見解を簡潔に述べたこの一言に、マクガレイ侯爵夫妻の表情は絶望一色だった。
 エーレルヒ侯爵は娘の声に噛みしめるように何度も頷いて、怒りながらも眉をしょんと落とした。

「ああ、ああ、賢いお前の言うとおりだ。父として不甲斐ない。この縁談は即刻――」
「ですので、契約内容の見直しをお願いします」
「――破棄を……ん?……。……見直し?」

 エーレルヒ侯爵の目が点になった。

「ええ、見直しですわ。このままではあまりにもエーレルヒ侯爵家に不利ですもの」

 ルシエラは大真面目に頷いた。

「マクガレイ侯爵さま、それから、そこの……お名前を教えていただけますか?わたくしはルシエラと申します。あなたは?」
「え、アタシ?」
「そうです」
「マ、マリアン」
「マリアンさんね。お話は早い方がいいですから、すぐそこの控えの間にしましょうか。おいでなさって?」
「あ、はい……」

 マリアンは結婚式に殴り込んだ覇気もどこへやら、ぽかんとしながら、ルシエラの声に促されるまま式場に踏み込んだ。

「ご招待された方々には大変お見苦しいところをお見せいたしました。お時間が予定から多少押してしまいますが、どうかこのままお待ちくださいませ」

 ぽかんとしているのはマリアンだけではない。招待客もルシエラの発言の意図がさっぱりわからなかった。もちろん、ジョアンも、マクガレイ侯爵も、エーレルヒ侯爵といった当事者と関係者全員もだ。
 ルシエラはやって来たマリアンの懐を覗き込み、この異常な空気のなか眠りこけている赤ん坊ににこりと微笑んだ。

「では、参りましょう」















 控えの間は七人入っても余裕のある広さだった。慌ただしく部屋を整えたエーレルヒ侯爵家の使用人が扉を開けた後、ルシエラはマリアンと赤子とともに一番乗りで入室し、後をぞろぞろと関係者が続いた。控えの間といえど来賓のためにゆとりを持たせているので、椅子の数は多い。しかし中央のテーブルに寄せられた椅子に、当然ながらマリアンのための席はなかった。平民であるマリアンは同席できる身分ではない上に、ルシエラにとっては恋敵ともいえる立場の女だ。エーレルヒ側が急に悟りでも開かない限り用意されるはずもない。
 しかし、ルシエラは使用人に命じて部屋の端の椅子を移動させ、マリアンを真っ先に座らせた。赤子はどうするかと問えば、マリアンは呆然としつつ「アタシが抱いてますから」と答えた。
 ルシエラはそのすぐ側に腰かけ、他の面々も座ったところを見て、早速「本題」に入った。

「マリアンさん、証文はお持ち?拝見したいのだけどいいかしら?……あら、男の子で、お名前はジョナウスというのね。出産は三ヶ月前、在所は、これはマクガレイ侯爵領なのかしら」
「あ、はい。領都から西に外れた街で……」
「そうなのね。ねえマリアンさん、あなたは結婚式に待ったをかけましたが、正妻になるのがお望み?」
「え、いえ!そんなことは全然ありません!ただ、この子が、証文をもらったのにどんな立場になるのかと思って……アタシは、別にいいんです。二股かけた上にまともな手切れもしてこなかったこんな最低男なんてもうどうでもいいんです」
「あら、そうなの」
「ルシエラ、なにを呑気に」

 エーレルヒ侯爵がこの時やっと、眉間に山脈を築きながら娘を呼び止めた。優先的に家督相続権を持つ男子の存在は、間違いなく愛娘の立場を危ぶませる。それなのにのんびりと相づちを打つのはなぜなのかと、睨むようにジョアンとマリアンを見た。二人ともびくっと肩を跳ね上げたが、ルシエラはまた「落ち着いてくださいませ」と言って宥めた。

「マリアンさん、この子をマクガレイ侯爵家に預ける気持ちはおありかしら」
「え?」

 マリアンは素直に目をぱちくりとさせたが、男たちの反応はもっと切迫していた。

「ルシエラ!?」
「エーレルヒ嬢、どうか破談はまだお待ちを!」
「破談にはいたしませんわ。それで、マリアンさん、いかがです?この場合、ジョナウスはわたくしの養子になるのであなたは母ではなくなります。ですが、ジョナウスは侯爵家の跡継ぎとしてなに不自由ない教養と安全を得られます」

 マリアンははっと顔つきを改めて、ルシエラの目を見つめた。それは、己の身の安全よりも息子の将来を重んじる母の顔だった。

「……あなたがジョアンとの子どもを産んでも、ジョナウスは安全なんですか?追い出されたり、いじめられたりしませんか?」

 厳かに不敬極まりない発言をしたマリアンに、ルシエラは同じくらい大真面目に頷いた。

「ええ、もちろんです。マクガレイ侯爵家の跡継ぎはジョナウスであると、婚姻誓約書に明記いたしましょう。もちろんその場合、本来わたくしの責務だったものをあなたに肩代わりしてもらったのですから、あなたにも相応の謝礼をお支払いたします」
「謝礼なんて、いりません。ジョナウスが幸せになれるのであればそれでいいです」
「ですが、あなたはこれから暮らしづらいのではなくて?わたくし、出戻りの姉の愚痴も聞いているので、少しは苦労を知っていますのよ」
「う、それは……」
「わたくしが引き取りはしますが、ジョナウスから産みの母まで取り上げるつもりもないの。そうね、侯爵家の別荘を住まいとするのはどうかしら。別荘の管理があなたのお仕事になるわ。あなたも侯爵家の庇護下におかれるので、これで安全でしょう。もちろんお給金も出します」
「そ、そんなことまでしていただくのは……」
「だって、あなたはマクガレイ侯爵家直系の男児を産むという大役を成し遂げてくださったのよ?」

 この言葉にはマクガレイ侯爵夫人がはっと表情を改めた。有力貴族家の跡継ぎを生まなければならない重責を過去に負った彼女は、夫を自分一人のものにするという女の矜持にも、限界があることを経験として知っていた。夫人はなんとかジョアンを産んだことで体面を保てたが、そうできなかった例など、この時代、いくらでもどこにでもあるものだった。
 とはいえ、ルシエラが切実になるには早すぎる。まだ結婚してすらいないのにと眉を寄せた夫人は、実は一番早くに、ほんのりとルシエラの意図を察していた。

 一方で、話に置いていかれていたエーレルヒ侯爵は、呆然と愛娘を見つめていた。この時点においてジョアンは単なる置物である。ルシエラはマクガレイ侯爵に別荘の管理人任命の許可を申し出ると、彼もまた呆然としながら頷いた。
 ルシエラがジョナウスの母となり、ジョナウスはマクガレイ侯爵家の後継ぎになる……つまりはどういうことだ?

「マクガレイ侯爵家側はこれで解決しましたわね。それでは、エーレルヒ侯爵家側の利益として、わたくしは王妃を産みますわ」

 全員が腰かけていた椅子から飛び上がった。

「ルシエラ!?」
「これならばお父さまの面目もお立ちになるでしょう?わたくし、頑張りますわ」

 おっとり微笑んだルシエラに父親がとうとう悲鳴を上げた。

「ま、待て待て!なぜそうなる!?」
「あら、お父さま。そんなに驚かれることですか?だって、今の段階では、エーレルヒ侯爵家の利益がどこにもないではありませんか。むしろ家名が傷ついているのですから、挽回にはこれくらいしなければなりませんでしょう?」
「……それはわかるが、お前、誰との子を王妃にするつもりだと言っているのだ!」
「もちろんジョアンさまですわよ?」

 なにを言っているのだろうこの人、というきょとん顔だった。娘を想う父親の思考が完全に燃え尽きた瞬間である。

「マクガレイ侯爵家にも損はないでしょう?いかがでしょうか」
「いかがかと言われたら……むしろありがたいというか、断る理由はないというか……」

 家の資金繰りのために息子を売り渡したマクガレイ侯爵だが、こちらもまだまだ人格者ではあった。そもそも人格者のエーレルヒ侯爵の娘だからこそ息子を売ったのだし。夫人もさすがに王妃とは予想できなかった、と思いつつも黙っていられなくなり、そっと尋ねた。

「ルシエラさま、この愚息の妻となって、本当によろしいのですか?」
「ええ、もちろんですわ?」

 あんまり素直な物言いに、もしやこの娘、こんなポンコツに本気で惚れたのかとマクガレイ侯爵夫妻は青ざめた。

「お待ちなさい、この愚息のいいところが顔だけしかない脳足りんなのはあなたももうご承知でしょう。今さらですが、家同士の繋がりとはいえども、あなたにとってあんまりではありませんか」

 くそみそに言われているポンコツ息子はポンコツそのままな間抜け面で、ただ目を白黒させていた。

「お父さまがお決めになったんですもの。否やはありませんわ」
「ルシエラ、私の意向など気にしなくていいんだ!」

 父の絶叫に、ルシエラはまたまたきょとんとした。

「ですが、それが結婚というものでございましょう?」

 一同、戦慄した。

 これが、悲哀を飲んでの言葉なら。もしくは諦念が滲む口調であったなら、まだしもよかった。最悪、恋慕が少しだけでも見られれば。
 しかし、ルシエラのそれはどこまでも無邪気だった。含みも裏表もない、一切の気負いすらない。
 お腹が空いたから食べる。眠る時間だから眠る。そんな風に、縁談があるから結婚する。義務感という言葉ですら片付かない、軽くて硬い決意。
 なにより、ルシエラは一度も夫となる者を振り返らなかった。この席についてから一度も見ていない。話だって一度も振っていない。
 ルシエラは漂う沈黙からなにを思ったか、凍りつく父に「ご安心なさいませ」と微笑んだ。

「わたくし、立派に務めを果たしますわ」

 する、とかできる、とかではなくやる。気負いの一切をなく。
 それでも無反応な父にあれ?と目を瞬かせたルシエラの視界で、ふと影が動いた。

「エーレルヒ嬢」

 ジョアンが、ルシエラの足元に跪いていた。ポンコツな間抜け面ではなく、きりりとかつてなく引き締まった表情だ。麗しい美貌に凛々しさが加わって光輝くようだが、ルシエラは平然とはいと返事をした。

「今の私の言葉ではなにも保証にはならないだろうが、誓わせてくれ。あなたを、妻として、ただ一人の女として愛することを。あなたの負う責務は私のものでもある。私に、あなたを終生愛させてはくれまいか」

 ジョアンの瞳には、かつてない真摯な熱があった。ジョアンはたった今、改めて恋に落ちたのである。
 ここに至るまで、妻となる人の奇異さをまざまざと見せつけられたわけだが、ルシエラが気狂いではなく、貴婦人の重圧に歪んでいるわけでもなく、ただまっすぐなのだと、なぜかジョアンはすんなり理解ができた。

(常人にあるべき感情が、欠落している)

 女好きならではの人を見る目が、そう判断した。

 ジョアンは、そんなルシエラをあるがままに愛したいと思った。それこそが、ルシエラの夫に選ばれた自分の責務だと思った。果てのない思いをひたすらに捧げる、そんな恋。
 ルシエラはジョアンの言葉を吟味するように首を軽く傾げたものの、はあ、と曖昧に頷いた。ジョアンにはそれで充分だったので、頷いた。
 己の溢れて無駄に垂れ流されていく愛は、この人のためにあったのだ。

「それも婚姻誓約書に盛り込もう」
「よろしいのですか?」
「離縁できないから罰則のかけられない、ただの決意表明になるが……私なりのけじめだ」
「さようですか」

 エーレルヒ侯爵もマクガレイ侯爵夫妻もついていけていないまままとまりつつある状況に、ジョアン同様の例外がいた。マリアンだ。
 さすが一時はジョアンと恋人同士だったというべきか、通じる部分があったようだった。少なくとも、マリアンにとってルシエラは恩人だ。それが許容を押し広げたとも言える。

「ルシエラさま、いえ、奥さま!ジョナウスをお願いします!」
「ええ、もちろんですわ」

 マリアンの目は尊敬の念にきらきら光っている。同時に、このなにかが欠けた人を支えたいという欲求も生まれていた。――アタシ、いいえ、私よ。

「私、ルシエラさまのお役に立ちたいです!」
「そう?もう充分なのだけど……」
「いいえ!そんなんじゃ全っ然足りません!なんでもお申し付けください!」
「そうなのね、覚えておくわ」

 ルシエラは勢いに押されて頷いた。

 この時、ジョアンにもマリアンにも自覚はなかったが、ルシエラが生涯で流されるように受け入れたのは、この二人のこの願いだけである。









☆☆☆










 ジョアンは結婚後、三年してから侯爵位を継いだ。その間にルシエラはころんころんと男児を二人産んで、あれ?と首をかしげていた。

 ルシエラの母は女を四人産んだ。ルシエラの長姉も、嫁ぎ先で女児しか産めず、夫の妾が男児を産んだことで半ば気が狂って刃傷沙汰を起こしたのだ。別なところに嫁いだ末姉はそのとばっちりを受けて、まだ女児一人のみ出産しただけなのに醜聞で肩身が狭くなり、婚家の親戚一同から冷遇を受け、娘をつれて出戻った。
 身の周りがそんなものだから、ルシエラはあっさり娘を産めると思っていたのだ。むしろ男児の方が難しいと判断したからこそ、ジョナウスの存在を確保したともいえる。
 これでは、ジョナウスの立場が危うくなるところだが、ルシエラは婚家と実家を見事に統制してみせた。実子があったとて、ジョナウスを跡継ぎとすると、婚姻誓約書にきちんと記したのだ。それは覆らないし、覆す気はないし、覆させるつもりはなかった。ジョアンも変更を求めなかったし、マリアンもなにも言わなかった。全てをルシエラの意向に預けた二人の態度は、結婚した日から一貫している。

 ルシエラは実子の未来も早々に決め、そのように教育の手配をして跡目争いの火種を潰した。一人は、子宝に恵まれず三女の出戻りの娘を後継としたエーレルヒ侯爵家に婿として。もう一人はマクガレイ侯爵家の縁戚の家の婿へ。兄弟は教育に差をつけたが待遇は変わらず、生まれた頃から己の微妙な生い立ちを教え聞かされていたジョナウスも、その立場を脅かすはずの二人の実子も、実に仲の良い兄弟として育った。これは、子どもたちに平等に愛を注ぐジョアンの力が大きい。
 なんだかんだルシエラと結婚してから覚醒したジョアンは、今やポンコツの見る影もない。遊んでいた女たちとの仲をマリアン協力の元後腐れなく断ち切り、ルシエラ一人を妻とし恋人とし深い愛を捧げた。結婚式でのことも含め、社交界でもてはやされていた不行状がぱたりと鳴りを潜めたことで、マクガレイ侯爵家の醜聞の立ち消えは時間の問題となった。
 元々高位貴族家であり、地盤が整っていたので、顔以外突出した才のないジョアンでも、王家と縁続きになるに相応しい地位を保つことができていた。下手に上り詰めようとする野心を抱かないことが奏功していたのだった。

「ジョナウス、グレゴリー、ニクス。お前たちのお母さまは不器用だからな。困った時は私が解説するので、迷わず相談に来なさい。そしてお母さまにお休みのキスをするのは私の特権なのでお前たちは私にしなさい!」

 息子たちは、そんな父親の愛情深さを、愛を愛としてあげられない母親の分までたくさん味わうことになった。

 そして、結婚してから五年後――マクガレイ侯爵家に待望の女児が誕生した。
 ジョアンの父やルシエラの父が、孫娘の生誕に喜びつつも戦慄したとは誰も知らない。
 ジョアンの変貌や、新しきマクガレイ侯爵家の緩やかながらも完全なる統制を――ルシエラの影響力を、彼らは身をもって体感している。ルシエラのあの宣言はあまりにも突拍子がなく現実味もなかったのだが、簡単に忘れることもできなかったのだ。

 ルシエラは、これから、満を持して詰めをかけていくのだろう……。

「ルシエラさま、私の娘と息子、鍛えておきますから、いつか存分にお使いください」

 別荘で働きつつ他の使用人と結婚して数人出産していたマリアンから、出産祝いに届いた手紙に記されていた威勢のいい文言だった。

 鍛え方、王城に放り込む。

 今のうちからルシエラの娘ミーナの足場をガンガン築いていく気満々のマリアンの臣従っぷりは、いっそ女好きなバカ息子の変貌よりも恐ろしいものがあった。しかも誰の指図もなく、自ら学んで単独で判断し、城への伝にもマクガレイ侯爵家はほぼ関与していない。
 ルシエラとは違った意味で恐ろしいマリアンの行動力はいずれ、娘が王妃つきの侍女となることで証明されるが、このときは誰も、ルシエラすらもが予想だにしていない未来であった……。














 そして、時は駆け抜け約三十年後。

 王妃が男児を出産したという祝報が王国中にもたらされていた頃、王妃の両親と一番上の兄は、一足先に祝いと見舞いのために王宮へ馬車を走らせた。
 マクガレイ侯爵家から王家へ、娘が嫁いで十年以上経つ。はじめは仲睦まじかった関係が、夫が即位した頃から急激に冷めはじめ、破綻寸前だという噂は彼らの耳にも当然ながら届いていた。
 つい昨年に離婚騒動が――夫婦喧嘩が起こったときも、マクガレイ侯爵位を継いでいたジョナウスは会場に居合わせていた。といっても、妹の窮地に青ざめた演技をしつつ、本心では(あ、陛下詰んだ)と思っていただけだったが。さすがに剣を抜かれたときは焦ったものの、華麗に躱して反撃してみせた妹の姿には、空笑いしか出なかったほどである。

 彼らが王妃をそんなに心配しなかったのは、ルシエラと同じくらい、別の方向に突き抜けたミーアの性格をよく知っていたからだ。どんな終着であれ、ミーアが負けることはありえないと、一家全員が見守る態勢でどんと腰を据えていたので、王妃不遇時代にもマクガレイ侯爵家はさほども揺らがなかったのだった。

(美貌は両親のいいとこ取り、商才はエーレルヒの祖父さま譲り、政治能力は私たち兄弟と切磋琢磨した)

 ちなみに負けたところでマクガレイ侯爵家とエーレルヒ侯爵家が腰を上げるだけなので困りごとは一切存在しない。

「王妃殿下、無事のご出産おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 まあ、それでも心配は心配だった。ミーアの性格と思考を慮って距離を取っていたこれまでと違い、やっと正式に面会を取れた機会に、ジョナウスは妹の健康な様子をまじまじと見て大いに安堵した。ジョアンも同じようで、せっせとミーアに話しかけている。生まれてまだ一ヶ月ほどの王子も別室から乳母に抱かれてきて、あどけない寝顔を全員で観賞した。

「ルシエラ、君も抱いてみなさい」
「わたくしが?」

 ルシエラがびっくりした顔をするのも仕方がないとジョナウスは思う。この母は、三人の我が子すら抱いたことがなかったからだ。一般の高位貴族家としては当たり前ではあるので、それを考えるとジョアンの発言の方が突拍子もなかったが、ミーアもどうぞと微笑んで乳母ごと近寄らせた。
 ミーアはこれまで度々息子を抱き上げているが、これはジョアンの影響だ。ルシエラが冷めているのと反対に、熱烈に大げさに子どもたちを愛したため、家族間の関係に亀裂が入ることはなかった。
 ジョアンは手を出そうとしない妻の背後にそっと回って、ルシエラの両腕を取った。

「私が支えているので、やってみてごらん」
「ですが……」
「大丈夫」

 息子と娘は母親の様子をさりげなく窺っていた。ジョアンにはなにか勝算があるらしい証拠に、母がためらう姿を見たのはこれまでで初めてだった。
 ジョアンは作戦を変えて、ソファにルシエラを座らせて、ジョアン自らが赤子を抱いてルシエラの前に持っていった。膝に載せてやると、ルシエラが落とさないようにととっさに手を伸ばす。はっと固まった妻の腕を、もう一度夫は取って、赤子を二人で支える形になった。

「……奇跡だ」
「奇跡ですわ」

 息子と娘の囁きが重なった。
 誤解を招かないために言っておくと、ジョナウスもミーアも他の兄弟も、ルシエラのことを尊敬している。
 しかし、ジョアンが不器用だと称したわけを、大人になって理解できるようになった。母の愛には父の解説が必須なのである。今も昔も。抱きしめる、撫でるなどの分かりやすい愛情表現とは縁のない母が、赤子を抱いている光景を、奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶのか。

「侯爵のご子息は?」
「正真正銘、王子殿下が初めてですよ。帰ったら尋ねてみます。ぜひ抱いてもらわなくては」
「エーレルヒ侯爵家にもルーゼン卿にもお問い合わせしなくてはなりません。仲間外れにしては恐ろしいことになりますわよ」
「そこは長兄の役目ですよ、王妃殿下。まだお身体は本復なされていないでしょう。やつらの年甲斐もない突撃は毒です」
「ではせめて、経過をお知らせくださいますか?」
「これまで通り、マリアンを通してお知らせしましょう」

 息子と娘が密やかに作戦会議をしているよそで、ルシエラはぎこちなく孫の頬を撫で、その様子をジョアンが目を細めて見守っていた。







ーーー
やべえ王妃の製造元のお話でした。
破れ鍋に綴じ蓋カップル。+αがなんかいる。
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感想 3

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みんなの感想(3件)

UR10k
2023.07.13 UR10k

ピリッと山椒が効いてて、思わず笑っちゃいました!

水
2023.07.15

感想ありがとうございます!
山椒なんて高級品に例えられるなんて、しかも笑っていただけるなんて、身に余る光栄です……!
実はもう一話、別の女性が主役のお話を書こうかなと思っています。こちらもお口に合えば幸いです。投稿がんばります!

解除
くまきち
2022.07.26 くまきち

好きです王妃様❤️
憧れます

水
2023.07.13

感想ありがとうございます!
長らく返信しておりませんで、大変申し訳ありませんでした。
この王妃さまを書くのはとても楽しかったので、そう言っていただけて、とても嬉しいです。つよつよ王妃さまはきっと人生一度も負けてませんからね……。

解除
UR10k
2022.07.26 UR10k

水さんの作品、好ましいです。
ひねりが効いていてブラックで、ユニークです。

引き続き楽しみに、応援しております。

水
2023.07.13

感想ありがとうございます!
長らく返信しておりませんで、大変申し訳ありませんでした。
流行りっぽいテーマをとりあえず捻ってみてるので、書ききるまで自分でもオチがどうなるかわからない……けれど今回はやべえやつでした。
好ましいと言っていただけて、とても嬉しいです!
これからも捻りに捻っていきたいと思います!

解除

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