コムギのいた生活

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発覚

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残りわずかな命をそっと静かに灯すコムギを抱いて穏やかな陽の下を歩いていた。

もうほとんど自力では歩けないけれどもその野生の本能で外で排泄したがるコムギを抱きかかえて外に出た。
僕の肩に頭を預けるコムギを頬擦りしながら強く抱きしめ、鼻腔いっぱいにその豊穣な香りを吸い込み心地よく咽せる。
街路樹を介して優しく撫でてくる風を頬で受けながら、コムギと一緒に今まで当たり前のように何度も見てきた近所の目の前の光景を凝視する。
大きな通りとその脇に植えられた街路樹を、交差点の先の立派な古い家を、下り坂の向こうの街並みを。
春の到来を予感させられずにはいられないような眩い日差しがより強く感じられ、街も道行く人も僕もコムギと一緒に光の中にとけいってしまいそう。
あと何回一緒にこの景色を見られるんだろう。
これが最後かもしれないと思うと、それまでに見てきたどの光景よりも鮮やかで儚く見えて、この光景を決して忘れはしまいと視覚では無く記憶に刻み込もうとする。
僕とコムギを包むその情景がより一層眩く輝き出す。

コムギはあと少しで旅立ってしまう。
穏やかに降り注ぐ白く眩い日差しに包まれ、僕はコムギを抱きかかえながら立ち尽くていた。








1年3ヶ月前の2019年の11月初頭の日曜の朝、僕はまだ7歳のコムギが悪性腫瘍に侵されていることを知った。







少し早めの冬晴れが訪れたような良く澄んだ日の朝だった。
いつからかの習慣かは覚えは無いのだが、土曜の朝の散歩は僕、日曜の朝散歩は彼女という不文律のルールが僕たちの間で出来上がっていて、そのルールに従うと本来は彼女が朝散歩の担当であるのだが、その日は早く目覚めていた僕が散歩に連れ出していた。
コムギが我が家に来てから飽くこともなく何度も繰り返している何でも無い朝散歩。
7歳も過ぎてくるとまだまだ若いのだけれども冒険心よりもその犬生で刻み込んできた安定を優先させるようでいつもと同じ散歩道を何の迷いもなくゆく。
人通りの多い交差点は足早に駆け抜け、大きなトラックが行き交う工場の傍を抜ける坂道を登り、新宿のビル群を一望出来る見晴らしのいい高台で街の遠景を眺めつつ一息ついて、自動販売機が目印の我が家へと続く道を曲がるお決まりのコース。



散歩を終えて玄関のドアを開けるとそこに虚ろな表情をした彼女が僕の帰りを待ちかねていたように立っていた。
代わりに僕が散歩に行ったことを知ったのであれば起きてはこないのが常の彼女なのに何かおかしいなと怪訝に思っていたら、少し間を置いて彼女が口を開いた。
「病院から電話あってコムギ」
「悪性だって」
・・アクセイ・・、暫く僕の思考はそれを理解することを拒んだ。
何とかその音が、それが内包しているものは何なのか理解することを受け入れるや否や僕はコムギを抱きかかえながらその場で膝から崩れ落ちてしまった。
歯を噛み締めて何とか耐えようとはするのだが漏れ出てくる嗚咽にどうにも堪えることができなくなってしまって、
・・・まだ、7歳になったばかりなのに・・・
・・・どうしてコムギが・・・どうして・・・
何度も何度も同じ問いかけが止まらず頭の中で繰り返された。
「泣かないで、ね、泣かないで」
自分の嗚咽の隙間から聞こえてくる彼女の声に応えることもできなかった。
恐らく彼女はこう続けたかったのだろう。
「泣かないで、泣かれないように言葉だって選んだんだから、私は泣かないでいたのに。」








その少し前にコムギが鼻血を出していた。

コムギは夜は僕のベッドの横にこしらえてあるコムギ用の小さなベッドで眠るのだが、寒くなってくると僕が熟睡し始めるくらいのタイミングで決まって僕のベッドに入ろうとしてくる。
掛け布団と敷布団の間にマズルをねじ込み、ドアをノックでもするかのように掛け布団を上に「ブワッ、ブワッ、ブワッ」と3回くらい持ち上げる。
熟睡に入るのを妨害されながらもこの行為を愛おしく感じて仕方がない僕は掛け布団を持ち上げてコムギを中に迎え入れる。
布団の中で方位磁石のようにくるくると回転してお決まりの方角を見つけるとズンッと僕のお腹に倒れ込みスースー寝だす。
寝息を立てるコムギの温もりを感じながら僕も深い眠りに入った。
朝、目を覚ましていつものようにコムギに声を掛けようと布団を巻くしあげると白いシーツが真っ赤に染まっていた。
一瞬自分が出血しているのかとも思ったのだが、まだ寝ているコムギの顔を中心に染みが広がっていることに気付き、隣の部屋で寝ている彼女を呼んだ。
「大変、コムギが出血してる!」
急ぎ彼女が部屋に入ってくると、コムギは迎えに来てくれたのかと思ったのか勢いよく布団から飛び出した。
何事も無かったように嬉しそうに彼女の周りを跳ねるコムギを二人で見つめながら
「どこから出血したんだろう?」「昨日様子変だった?」「いや特におかしなとこはなかった」
などと話をしていると、コムギがふいにくしゃみをした。
すると壁に赤い飛沫が散った。
「鼻血だ!」
よく見ると右の鼻穴から血が滴っていた。
恐らく以前にもくしゃみをしていたのだろうけど、くしゃみをすることを特におかしな事と認識していなかった僕たちはその異変に気づくことは出来なかった。
その後もくしゃみと鼻血は止まらなかった。
「何が原因だろう?、昨日散歩中に何か変なもんでも食べて咽せて鼻に詰まってるのかな、、」と僕が呟くと彼女がハッとして言った。
「ひょっとして歯髄炎がまた悪化したんじゃない??」
「あぁ、そうかもしれないね。」
半年程前にコムギは歯が折れたことが原因で右上顎が歯髄炎となり手術を受けていた。
「ひとまず病院で診てもらおう。」
ともに仕事を午前半休にして近所のかかりつけの病院に連れて行った。



病院に着いてもコムギのくしゃみと鼻血は止まらなくて、くしゃみをする毎に床に飛び散る血を持参したタオルで拭きながら診察を待っていた。
診察室に呼ばれ主治医の先生に一通り事情を説明すると、
「そうですね、仰る通り誤飲による異物が原因の可能性も考えられますし、歯髄炎が原因とも考えられます。」
「ただ、コムギちゃんの年齢ではかなり可能性は低いと思いますが、」
少し気になる前置きの後に先生が続けた言葉に僕は思わず息を呑んだ。
「念のためために鼻腔内腫瘍も疑ってCT検査を受けてみてもいいかもしれません。」
鼻腔内腫瘍?聞き慣れない言葉とその緊張感を伴う重い響きに困惑しながら
「・・腫瘍の可能性もあるんですか?」
と何とか返すと
「現時点ではあまり考えられないのですが、何が原因かを特定するためにもCT検査は受けた方がいいとは思いますので、検査が可能な病院を紹介しますね。」
「とは言え歯髄炎が原因の可能性も高いとは思うのでもう一度診てもらった方がいいですね」
一瞬逃れ難い重い緊迫が心を捉えたが、先生のその言葉を受けて脳内を占めた「腫瘍」という言葉が少しづつ薄らいでいった。
歯髄炎の手術はかかりつけの先生に紹介してもらった歯の専門の病院で受けていた。
紹介してもらったCT検査を受けることができる病院をメモりながらも歯髄炎が原因だろうと考えた僕たちは手術を受けた歯の専門の病院に行くことにした。
歯科専門病院は家からかなり離れているため、仕事を休めた彼女に行ってもらうことにして僕は午後から出勤をした。



職場に着いたもののコムギのことがどうにも気になって仕方なくてスマホの画面ばかりチェックしていた。
しばらくして彼女から「もうすぐ病院、鼻血は止まったみたい」とLINEがきて安心し一旦落ち着いた。
鼻血が止まるようならばそんな大したことでは無くてやはり歯髄炎が原因かなと思い歯科専門病院での診断結果を幾分和らいだ心持ちで待つことにした。
しばらくすると彼女からLINEがきた。
「やっぱりCTは撮った方がいいって。」
歯髄炎が原因だと判明する思っていた、もしくは無意識裡では腫瘍では無くてそうであって欲しいと期待していたところがあったのであろう、その結果に少し落胆しながらも夜にこの後どうするか決めることにした。



いつもと同じようにたっぷりご飯を食べて自分専用のソファーで寛いでいるコムギを横目に今後について彼女と話し合っていた。
「できれば暫くは麻酔はさせたく無いな、出血も止まってコムギも元気そうだし少し様子見るとかはどう?」
半年程前に歯髄炎の手術で麻酔をさせていたこともあり、尚且つどこかで軽い症状だと考えたい僕はCT検査を何となく避けていた。
人間とは違ってじっとはしていられない犬はCT検査を受ける際に麻酔で眠らせる必要がある。
「T先生が犬が長時間鼻血を出す時点で普通ではないことだから原因をちゃんと特定するためにある程度リスクをとってもCT検査受けるべきだって。」
僕たちは厳しくも真摯に対応してくれる歯科専門病院のT先生のことをとても信頼していた。
直接T先生にアドバイスされた彼女の強い言葉に僕も考えを改めさせられた。
「そうだね。CT検査を受けれる病院を探そう。」
コムギはその後も鼻血を出すことはなかった。





CT検査が可能な病院は意外にも家のすぐ近くにあった。
以前からその病院の存在はコムギの散歩道沿いにあることもあって知ってはいたのだが、高度な医療機器が外からも垣間見れてどこか近未来的なその出立に何となく近寄り難さを感じ、自分達がまさか通うことになるとはつゆほどにも思っていなかったこともあって日常の生活の中で意識したことは無かった。
コムギが鼻血を出した翌日に予約を取り、その週末にCT検査を受けることとなった。

週末になり病院に行ってみると、その外観で抱いた近寄り難いイメージとは違って観葉植物がたくさん置かれた温もりに溢れた心地の良い空間だった。
ご多分に漏れず病院が大嫌いなコムギは初めて訪れる場所ということもあり落ち着きがなかった。
更に具合が悪いことに病院の大きな窓からはよく散歩で通る道が眺められて、家の方向が分かるだけに何とか帰ろうと隙をついては出れはしない窓から飛び出そうとする。
そんなコムギをなだめながらも、やっぱり人間も初めて訪れる病院というのはなかなか居心地も悪く、この後麻酔をさせることもあってどこか二人ともそわそわしていた。
ただ、初めて出血してからその後は鼻血を出すこともなくコムギの様子も全く普段と変わらないことから、症状自体には深刻なイメージを抱いてはいなかった。
呼ばれて診察室に入ると若い男性の先生が待っていた。
隣の部屋には人間のものと同じようなドーナツ型の大きなCT検査機器装置がガラス窓越しに見えて少し緊張感が増した。
「その後、出血はありましたか?」
先生の質問に答えた。
「いえ、無いです。」
「普段の様子はどうですか?」
「全く変わらなくてご飯も普通に食べてます。」
「そうですか。」
何か考え込んだように少し間を置いて
「ひょっとしてCTを撮ってみても何も映らないかもしれませんが、万が一のこともあるので撮っておきましょうか」
その言葉で心の奥底で燻り続けていた恐れは晴れはしたものの、もうひとつずっと気になっていた点を確認した。
「半年程前に麻酔をしたんですが、そう何回もして大丈夫なんですか?」
「CT撮影は眠らせる時間が短いので基本的には問題ないと思います。」
抱いていた懸念は払拭された。
「それではCT検査をお願いします。」
「はい、わかりました。血液検査から始めますのでコムギちゃんをお預かりしますね。」
コムギは寸前まで逃げようともがき抵抗を続けるのだが、いざ先生に連れて行かれる段階になると諦めたように後を付いて行った。
そんなコムギの後ろ姿を頼もしさと切なさが入り混じった気持ちで見送って待合室に戻った。



CT検査は思っていたよりも早く終わり診察室に呼ばれた。
コムギはまだ麻酔が掛かっていて眠っているようで診察室に姿は無かった。
目の前のモニターに先ほど撮影したであろう画像が映し出されていた。
「こちらが今撮影したCT画像になります。」
「非常にわかりづらいとは思いますが、鼻先から5cm程のところに4mm程度のとても小さな影があります。」
と僕たちが動揺しないようにしてくれているのか淡々と説明を続けた。
初めて見るCT画像だったので見方がよく分からず、すぐにはその小さい影を把握することができなかったが、よく見てみると確かにゴマ粒のような点があった。
「それが何なのかわかるんですか?」
「成分については採取して検査してみる必要がありますね。」
少し戸惑った後、晴れたと思っていた不安が口をついて出た。
「その、・・・腫瘍の可能性はあるんですか?」
「正直これ程小さな悪性腫瘍の影は見た事ないですし、コムギちゃんの年齢からもあまり考えられないので、ひょっとして何かの異物の可能性もあります。」
「なので、これから該当箇所を採取して成分を検査し、何らかの腫瘍だと判明した場合は培養検査に出して良性か悪性の検査もしましょう。」
先生は続けた。
「ただ、影がとても小さくて場所も狭い鼻腔にあるため、必ず該当箇所を採取できる保証は無いのが正直なところではあります。」
とても小さなものではあったが、何らかの異物が写っていたことに少なからず衝撃は受けつつもそれが何なのか知りたかった。
「ではお願いします。」
先生は診察室から出ていき僕たちは再び待合室に戻った。

採取に難航しているのかCT撮影よりは少し時間がかかっていた。
二人とも待合室で置いてある本やスマホを見るでもなくただ漫然と座っていた。
「あの影なんだろうね。」
彼女が話しかけてきた。
「拾い食いしたフライドチキンの骨がくしゃみで鼻に詰まってるとかだったら良いのにね。」
幾分軽い雰囲気で希望的観測も込めて答えたが、その後に彼女は言った。
「もし腫瘍だったらどうしよう。」
しばらく考え込んでその重苦しさを打ち消すかのように僕は言った。
「仮に腫瘍でも出来物みたいな良性のものじゃないかな。先生が年齢的にも大きさ的にもあんまり考えられないって言ってたし。」
「そうだね。」
しばらくして診察室に呼ばれた。

「手探りで周辺の組織を採取したのですが、恐らく該当箇所も取れているとは思います。」
「こちらで成分も検査してみたのですが、やはり何かまでは分からなかったので培養検査に出そうと思ってます。」
結果がすぐに出なかったことで少し安心してる自分がいた。
「外部の検査機関に出しますので1週間ほど時間をいただくことになりますが大丈夫ですか?」
他に選択肢は無く検査のお願いをした。
「それでは結果が分かり次第連絡させていただきます。もうすぐコムギちゃんも目覚めると思いますので待合室でお待ちください。」



目覚めたコムギは連れてきてくれた看護師さんを引っ張るように待合室に飛び込んできた。
無事に麻酔から目覚めてくれたことに安堵し、ハッハッと息を切らしながら近づいてるコムギを二人で迎えようと立ち上がると、コムギは僕たちの間をすり抜けて一目散に入口のドアに向かっていった。
「いつものコムギだね。」
僕たちは連れてきてくれた看護師さんと笑いあった。
コムギはその後も鼻血を出すこともなく以前と何も変わらない生活が続いた。
写った影がとても小さかったこともあり、腫瘍の可能性があることや何なら出血があったことすらも忘れてしまうような日々だった。








「結果は残念ではありましたが、捉え方をかえればこんなに早期の段階で発見できたことはむしろ幸運なのかもしれません。」
先生は完全に気落ちしてしまっている僕たちを励ますためではなく、本心からそう言ってるように感じた。
悪性腫瘍の結果の連絡を受けてからすぐに病院の予約をして、コムギを家に残し二人で病院を訪れていた。
「この後はどうすればいいんでしょうか?」
力無く先生に尋ねた。
「抗癌剤治療や放射線治療を受けることになると思います。」
その今まで関わりが無かった死の陰りを帯びる言葉を僕はまだ受け入れることが出来ないでいた。
「この後は毎週火曜日に来る外来の腫瘍専門医に診てもらうことになります。」
「来週火曜日は来診可能ですか?」
僕たちは翌週の火曜に腫瘍科の予約をした。

(続く)
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