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まるで知らない間に季節が進んで、彼と最後に会ったのは確か昨冬で一番極寒の日で、遥か10年以上昔に感じる程だ。
僕は勤めている会社で、春先から新しいプロジェクトのサブマネージャーに任命された。
これは能力的にというよりは年齢的に選考されたと考えた方が妥当だろう。それでも、入社以来初めての肩書に奮起しない分けにはいかなかった。
サブマネージャーはその大半が雑用でもあるから、一つの事に打ち込んで実績を上げるのとは真逆だ。分かりやすく可視化されない仕事を淡々と熟さなければならない。膨大な雑多件数と記憶力、もはや通常化しているハプニングへの機転の有無、プロジェクトメンバー全員の進捗と体調などを把握して次の予定を割り振らなければならない。
要は、自分以外の複数の他人の心配で始まり終わる一日の繰り返しだった。
家の外に居る間はずっと緊張感の保持強要される毎日に、気が休まる筈も無かった。
帰宅すれば靴を脱ぐのでさえやっとの思い、ソファーに倒れ込むようになって気付いたら朝・・・を何度繰り返している事だろうか。
このプロジェクトの成果が出始めるのは、恐らく初冬の頃だろう。それまでは辛抱の日々が続く。
公休日には一日眠り込んで、部屋は荒れ放題だ。元々自炊などしていないが、常備していた飲料類が切れたのがいつだったか、電源を入れる必要すら感じない冷蔵庫の中身は空っぽだ。
一度だけ、初夏のある日、帰宅した時に部屋が片付いていた事があった。
彼が合鍵で入って、余りの荒れ放題の部屋に我慢ならずに掃除をしてくれたのだろう。二人でよく通ったカフェのサンドイッチとケーキが冷蔵庫の中にメモ一枚と共に入っていた。
「メッセの既読だけでも付けろ。安否確認代わりにするから。」
それを目にした時、冷蔵庫の扉を開けたまま僕は暫く立ち尽くしていた。
彼を忘れたわけじゃない。
仕事が多忙になる前、ちゃんと事情を話している。彼も理解を示してくれた。
そこは男同士、組織の中に居れば活躍できる機会がそうそう与えられる訳では無い事も知っているし、その機会を掴まなければ歯車の一つにもなり切れない事も知っている。
「頑張れよ、応援しているぞ」と背を押してくれた筈では無かったか・・・
ご都合主義過ぎる自分に、嫌気が差す。
電話に出ない、折り返さない、メッセージを読んだり読まなかったり、レスを返さない・・・ほぼ音信不通にしてしまった期間、自分から彼を気遣う言葉を掛けて来なかった事に今更気付くなんて。
その日は緊張の糸が緩んでしまったのか、泣きながらそのサンドイッチを食べた。
お礼の電話をしようしようと思ううちに寝てしまい、通勤電車の中でお礼の短いメッセージを送り、その後は一日一回はアプリを確認して既読を付ける事は欠かさなかった。
だがいつしか、彼からのメッセージが毎日では無くなっていた事に気付いた。
それでも、多忙を言い訳に距離が開きすぎてしまった僕から彼に、伝える言葉が浮かぶ事は無かった。
通知が無いので暫くアプリを開かずに過ごした。
それでも、一日何度か彼を思い出す。最後に会った日からそれはずっと変わらない。
独りで慰める夜も、彼の太い指や熱い唇、器用に蠢く舌、彼の肌の匂い、腕の力の強さ・・・自分の体内に潜り込んで来る熱く太い異物を思い出しては、果ての後には決まって泣いていた。
彼が恋しい。自分だけに向けられた、彼の優しさが懐かしい。
それでもまた朝が来ると慌ただしさに押し流されて、僕は頭の片隅に彼を追いやって忙殺されていくのを繰り返していた。
秋口頃、スマホの通知バーに暫く開いていないメッセアプリの通知があった。
それを見たら、彼から「久しぶりに会わないか。土日のいい時間を教えてくれ。合わせるから。いつものカフェで会おう。」とあった。
外で会いたいという事に、胸騒ぎがあった。
これは・・・とうとう見切りを付けられる日が来たのだろう、と。
彼を全然気遣っていない数か月の、成れの果て。当然の結果だろう。
僕は覚悟を決めて、日時を指定したレスを送信した。すぐに既読がついたが、それ以降のレスは無かった。
暫くスマホのメンテナンスもしていなかった。
通知バーに溜まって居る”アプリ更新”通知を消去し、久々にアプリストアで更新作業をした。
即座に煩い程に何かのアプリの通知が来て、見るのも面倒だったが何気にそれを開いてみた。
写真メインのSNSアプリが、スマホ電話番号から勝手に知り合いを見付けて勧めて来る。ざっと目を通したが、自分のアドレス帳に登録している電話番号全てを紐づけしてピックアップされても、アカウント名は全てH.Nな分けだし、顔出ししている人ばかりでは無いので誰がどのアカウントなのかまで知る由も無いし興味も無かった。
「〇〇さんはお知り合いではありませんか?」
その通知をタップしてみると・・・彼だった。
SNSアカウントを持っていた事も知らなかったし、聞いた事も無かった。
彼のTOPページに幾つものサムネイルがある。最新のものには・・・飲み掛けのカフェドリンクが二つアップで映っていた。
スクロールする指が震えた。
僕と会っていた頃の写真はあるのか・・・何かコメントを添えているのか・・・彼の目に、自分はどう映っていたのか・・・
こうなる以前は週の殆どを彼と過ごしていた筈なのに、彼の事を何も知らなかったのだと今更愕然とした。
サムネイルをスクロールした中間あたりに、見覚えのあるワインボトルの写真があった。
僕はすぐにキッチンを見た。
大切にしていた分けでも無かったが、捨てられずに水切り籠の隣にずっと置いたままの空のワインボトルだ。
それが彼のアカウントに上がっていた。タップをする僕の指は震えたままだ。
投稿日を見ると、彼がこの部屋に通い出した頃では無かったか。
というのも、僕はいちいち詳細に物事を記憶しないせいだ。だいたいの季節とその当時に流行っていた歌とがセットでぼんやりと記憶に刻まれているだけだ。
「とても大切なワインだった。ボトルを捨てないでいてくれて、嬉しい。」
添えられたキャンプションの意味を、一読で理解出来なかった。
僕はスマホをソファーに置き、キッチンのボトルを手に取った。
表ラベルには何処ででも買える名の知れた安価なメーカーワイン。手首を捻って裏ラベルを見ると、マジックで日付が書かれていたのに気付いた。
『202×.02.15』
そこで一気に僕の頭の中に散らばっていた記憶のピースが、あの日を象って再び僕の脳裏に蘇らせた。
初めて彼がこの部屋に泊った日付だ。
多分、二回目に訪れた時に日付を書き、写真を撮ったのだろう。
彼が手土産に持参したそのワインを、スナック菓子をつまみに二人で飲んだ。
ワインが底をつきそうになる頃、酔いの力を借りて彼は僕を抱き締めた。初めて重ねた唇が震えていたのを、今、思い出した。
彼は僕と想いを通じ合わせる願掛けアイテムの一つに、そのワインを選んだのだろう。
酔いのせいもあったかもしれないが、その夜、僕が彼を受け入れた記念のワインだった。
だからその理由をいつしか忘れても、僕はいつまでも捨てる事が出来なかったんだ。
彼は僕とのひとつひとつの出来事を、こんな風に大切に記録していたんだ・・・
そのSNSでの僕との写真は、一見意味不明なものばかりだった。
顔も写さず、身体や部屋の断片的な構図の写真ばかり。僕達二人だけが分かれば良い、思い出。
指をスクロールさせていくと、遠い過去から今に近付いていく途中で、写真の様子が変わってくる。僕との写真では無く、独りきりの日常。同じような景色、同じような構図が幾日も続いている。
そして・・・一月前辺りから、また、僕との写真の構図によく似たものが上がり始めていた。
二つのグラス、明らかに誰かに撮って貰った笑顔、何処かの街を歩く後ろ姿・・・それは暗に”独りでは無い”と写真に語らせているものだった。
そう、彼が僕との時間をこうして写真に記録していく方法と同じだった。
そして一番最近の更新には、彼が頬を誰かの指で突かれ、振り向きざまのぶれた写真があった。
その指は、薄っすらとピンクのマニュキュアが塗られていた。
「・・・ああ、そういう事だったのか。」
ショックはそれほど大きくは無かった。
二人の間に離れた時間が増えていくごとに、何処かでそんな気がしていたせいだ。
僕とはこのまま自然消滅でも構わないのに、わざわざ会いたいと言うからには彼なりの終結宣言をする為なんだろう。
その日を迎えたらきっと、僕との記録は消される筈だ。それが自然だ。僕らにしか分からない写真と記憶は、もう見返しても何の意味も持たない。
彼が初めて僕に「愛している」と言った、抱き合っても寒すぎる夜に繰り返し聞いた曲は、もう二度と聞き返す事は無いだろう。聞いてしまえば、少しずつでもあの夜の場面や匂いや感触が蘇ってしまうから。
それなのに、今、空耳のようにあの曲が頭の中に響き始めた。
あの夜だけじゃない、彼との始まりにまで遡って色々と記憶の引き出しが勝手に開き始めて、僕は混乱し、泣いた。
彼に想いの答えを何一つ返していなかった事すら思い出して、しゃっくりが出るまで泣いていた。
久しぶりに会った彼は、少し顔が丸くなっていた。
最後に会った極寒の日以来、また同じ季節が巡ろうとしている・・・それは見た目も変わって当然だ。
少し強張った笑顔でカウンターの僕の隣に腰を下ろそうとして、少しだけ椅子を僕の座る位置から離したのを見てしまった。
心の距離はこうして何気ない仕草にも自然ににじみ出てしまうものなんだな、と僕は苦笑いをした。
彼は何も悪く無い。全部、自分の身勝手さが招いた結果だ。
「久しぶり。仕事、頑張り過ぎてるんだろうな?」
僕のやつれてしなびてしまった顔を見て、そう言ったんだろう。
「ドリンクは?よく飲んでたやつ、買って来ようか?」
僕は椅子を降りかけたが、彼が首を振るのが目に入って椅子に座り直した。
「君も・・・時間が無いんだね?」
彼は唇を噛んでいた。
「俺から呼び出しておいて、時間が無い・・・わけじゃないんだ。忙しいおまえの時間を使うのが申し訳ないから・・・さ・・・」
「・・・じゃあ、用件、言って?」
「うん・・・」
それからBGMが一曲終わるまで、彼は溜息を吐きながら9割窓の外を眺めて1割僕を盗み見るようにするのを繰り返していた。
もう別の誰かが居るのに、僕に別れを告げるだけなのに、こんなに躊躇うものなのか?
奇妙な空気が僕らの間に流れている。そのうちBGMが変わった。
彼と会わなくなる直前まで繰り返し聞いた、大好きだったあの曲だ。今となっては懐メロの扱いだ。僕は多分、眉間に皺を寄せて唇を噛んでいた。
「え?」
彼の太い人差し指が僕の眉間をそっと押していた。
「皺。可愛い顔が台無しだ。」
僕はやんわりと手の甲で彼の手を振り払った。
今更僕に優しく触れたりなんか、しなくていい。
「僕、君が言い出せない事をもう知っているから、気を遣わないで。オーダーもしてないんだから、早く店を出た方がいい。」
冷静に言ったつもりが、僕の声は震えていた。
「・・・ごめん。これ、返そうと思って。」
彼はテーブルの上の僕らの離れた距離の真ん中に僕の部屋の合鍵をそっと置いた。
「うん。僕こそ、色々、ごめん。」
そう言うのが精一杯だった。
「おまえは謝るな。何も悪い事なんかしていない。」
最期まで優しさなんて必要ない。
僕に掛ける分、あの写真の誰かに注げばいい。
ダメだ・・・どうして涙が出てくるんだ、こんな時に。
僕は自分が分からない。
「じゃ、俺、行くけど・・・連絡先やメッセや・・・俺をブロックしたり消したりしないでくれよ。」
「なんで?もう、必要無いじゃん!僕のは消してよ!全部、消して!」
頬が生暖かい。堪え切れなかったんだな、涙・・・みっともない。
離れかけた足を一歩僕に近付けて、彼は困惑したような笑顔を見せた。
「おまえが不器用で、一つの事しか出来ないって知ってる。仕事、成功するのを祈ってるから。」
多分僕の涙を拭おうとして、だけど、中途半端に伸びて来た彼の手は宙で拳に変わっていた。
「いつか・・・おまえの話をちゃんと聞きたい。俺の話も聞いて欲しい。お前が今頑張ってるそれが終わったら・・・いつか・・・」
彼はまた困ったような顔で僕を見て、背を向けた。数歩進んだところでまた戻って来た。
「俺はおまえを消さない。あの夜言った事は、嘘じゃない。もう合鍵でおまえの留守に待たない分だけ、俺のメッセを気にしない分だけ、少し気が楽になるだろ?余裕が出来たら・・・俺は待つだけだ。じゃあな、身体には気を付けて、頑張れよ。」
彼は僕の肩を軽く叩いて、そしてもう戻っては来なかった。
引き留めたいわけでは無かったけれど、何故か振り向いてしまった僕が見たものは、店の入り口で待っていた女性が彼の腕に腕を絡ませながら出て行く後ろ姿だった。
そこからいつどうやって帰宅したのか覚えていない。
シャワーの濡れた髪の先からポタポタと落ちる滴が下着を濡らす感触に、ようやく我に返った。
身体に染み付いた習慣は、恐ろしくもある。無意識に日々のルーティンを済ませているのだから。
テーブルの上に裏返しにしていたスマホを手に取れば、バッテリーが切れて電源が落ちていた。
充電ケーブルを繋いで、ソファーに頭を乗せた。
こうして髪が濡れたままだと、すぐにドライヤーで乾かしてくれたっけ。
両目尻から涙がソファーを濡らし続けたけれど、僕はそのまま天井をぼんやりと見詰め続けていた。
僕は隣に居るべき人が居なくなり、彼は僕の代わりに別の誰かを置いた。
彼には待つ誰かが居て、僕には居なくなった。
ただそれだけの話だ。
それも、彼のそばから抜け出したのは、僕の方だったのだろう。急激に流れる時間には勝てなかった。
彼から「初めて」を沢山貰った。僕は何かを彼にあげることが出来たんだろうか・・・
身体は床に座ったまま両手をソファーの縁に沿って広げ、頭だけをソファーに乗せた不自然な態勢のまま僕は泣き疲れていつの間にか眠ってしまった。
まるで十字架に磔にされたような格好だな・・・とぼんやりと思いながら、身体が鉛のように重くて寝転ぶ事さえ出来なかった。
翌日は意を決して部屋の大掃除をし、何袋にも溜まったゴミ出しを済ませ、この部屋に越して来たばかりのような心境で気持ちを切り替える事に努力した。
油断するとすぐに目がぼやけてしまうから、必要以上に緊張感を保った。
仕事は今の僕には最高の良薬だった。
多忙になれば成る程、辛さが紛れた。食欲が失せ睡眠時間が減っても、心は楽だった。
雪が舞い散る季節になって、このプロジェクトも漸くゴールが見えて来た。
予定されていた競合他社のプレゼンテーションコンペで、無事にクライアントと契約を締結する事が出来た。
チームはこのまま引継ぎ続行で、仕事内容に合わせた人事の配置移動が行われた。
ここに来てようやく僕の多忙過ぎる日々に一旦の終止符が打たれたわけだ。
時間の流れが緩やかになりつつある頃、体力的に余裕が出れば気力も回復の兆しをみせ始めた。
部屋を整え、冷蔵庫の中を満たせるようになり、気が向けばインスタントラーメン程度は作れるようになった。
休日にふらりと出掛けるだけの気力も戻って来た。
だけど、暫く会社と家との往復しかして来なかった僕は、かつて彼と訪れた店しか知らず、一人で新しいお気に入りを開拓する気にもなれなくて、結局は懐古趣味のようにタイムスリップさせているだけだった。
「結局ここに来ちゃうのか・・・」
彼と最期に会ったカフェで馴染の味に安心感を得るしかない情けなさも味わいながら、もう行くあても無いのだと痛感していた。
「あれ?〇〇さんじゃないですか?」
一人の女性に声を掛けられた。何処で会った人だろう。見覚えが無いわけでは無い。でも、誰かは分からない。
「はい・・・失礼ですが、あなたは?」
「名刺交換しましたよ?コンペの対抗馬です。」
彼女は笑いながら、改めて名刺を両手で差し出して来た。僕も椅子から立ち上がって、多分二度目の名刺交換をした。
「ああ、〇〇社の・・・待合室で少しお話をしましたね?」
「やっと思い出してくれましたね。△△です。どうぞよろしく。こちら、相席よろしいですか?少し、お話しても?」
「はい、どうぞ?」
僕らは先日のコンペの話から世間話に流れ、二杯目以上のオーダーは流石に水っ腹になってしまうからと笑い合って店を出た。
「もしよかったら、何かのアプリのID交換しません?〇〇さんともっとお話したいです。」
「僕、あんまりスマホを使いこなしてなくて・・・」
「私はその逆。流行りもののアプリ、何でも入れちゃう。〇〇さんがお持ちのアプリID、何かありませんか?」
「あ~閲覧用に取得した写真系のアプリIDならあります。」
「じゃそれ、教えて下さい。DM送ります。チャットみたいに話出来るから。」
IDを教え合ってすぐに別れた。
△△さんは気取らずさっぱりとして後を引かないから、構えないで済んだ。プライベートで誰かと雑談をする楽しさを、思い出させてくれた時間だった。
翌日の就業時間の頃通知音が鳴り、その写真系SNSアプリを開いた。
△△さんから挨拶程度のDMがあり、僕も簡素なメッセージを返した。すぐにスタンプが来て、僕も同様にした。やり取りはそれで簡単に終わった。
自分だけに向けられる言葉を目にしたのが、多分、彼とのメッセージやり取り以来で、何だか胸がほんのりと温かくなる錯覚があった。
△△さんも僕も互いに何か特別な感情があるわけでは無いのに、誰かから自分だけに声を掛けられる事がこんなに嬉しい事なのかと初めてのように知った。そして、返信を殆ど返せなかったあの頃の自分が、どれだけ彼を傷付け、寂しくさせ、不安にさせていたのかを理解出来た気がしていた。
何を悟っても、今更でしかない。
僕は△△さんの可愛い物と色んな食べ物と時々TOEICの勉強の投稿一覧を眺めていたら、急に思い付いて彼のアカウントを見てみようと思った。
僕は誰もフォローしていないから、例の「知り合いではありませんか?」のアプリメッセージを探す羽目になった。これで見つからなかったら、潔く諦めよう。そう思ったが、そのメッセージをすぐに見付けてしまった。
タップする指は、依然、震えていた。
彼はもう、僕の知らない時間を知らない誰かと過ごしている、赤の他人だというのに。
一覧が出てきた時、一際目を引く写真があった。前回初めて彼の写真を開いた時に、何故これを見落としていたのか。
何種類かのチョコレートが無造作にテーブルの上に置かれ、その脇に綺麗な黄色い花を詰め込んだ花籠があった。その写真をタップして日付を見てみると、今年の僕の誕生日だった。
駅のベンチに座っていたのに思わず立ち上がってしまった。
僕への想いを、何かの形に残し続けてくれていたのか。簡単な返事ひとつ返せなかった僕なのに。
他にも僕への隠しメッセージが込められた写真があるのかもしれなかったが、記念日ひとつろくに覚えていない僕にはそれを探し当てる勇気も気力も無かった。
ただ、この胸に込み上げる熱い何かをすぐに彼に伝えたい。
もう、赤の他人になってしまっても、素直にありがとうと伝えたかった。
そして。
多分、一度も言わなかっただろう、彼への本当の想いも。
過ぎてしまった彼との日々全てを『愛していた』と。心の奥底にある僕の現在進行形の想いは、誰も知らなくていい。
何もかも足らない僕に溢れんばかりの優しさを与え続けてくれる彼に、何故僕は気付けなかったのだろう。大切に出来なかったのだろう。
せめて今の彼に邪魔にならない伝え方は・・・
僕はもう一度ベンチに座り直し、何本も電車を見送りながら人差し指をスマホに近付けては遠ざけるのを繰り返していた。
僕には過分な人だった。
この先一生、あの深い優しさには出会えないだろう悲しみと自分の愚かさに、スマホ画面がぼやけて見え始めている。
どうしたら・・・どうすれば伝えられるだろうか。
たった一言の『ありがとう』を。
僕は何も付いてないキャンプションのその写真のすぐ下にハートマークがある事を知った。これをタップすればいいのか・・・
それだけの事なのに、指が手が震えて思わず左手で手首を掴んだ。
まだ宵の口の時間帯なのに、既に酔っぱらった人たちが楽しそうに鼻歌を歌いながら僕の前を過って行った。
「ああ、あの曲・・・」
飽きる程彼と一緒に聞いた、お気に入りの歌。そして、あれ以降聞けなくなってしまった歌。
歌詞も出鱈目な音程の外れたその歌声に、僕の震えはいつしか止まっていた。
僕は一度目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をし、再び目を開けてそのハートマークをそっとタップした。
そしてもう一つの写真。
空のワインボトルの写真にもハートマークにもタップした。
白色が赤に変わって、まるで僕の心みたいに見えた。
電車のホーム入線を知らせるベルと共にアナウンスが流れ、僕はベンチから立ち上がった。
電車に乗り込もうとする列に並び、発車を告げるベルに紛れて聞こえなかった。
僕が握るスマホがずっと振動するから、画面を見て乗り込む筈の電車をまた見送った。
表示されたのは、僕が言い付けを守って消さなかった相手の名前と電話番号。
その画面はすぐに数滴の滴のレンズで、いびつに霞んで僕の目に映っていた。
僕は勤めている会社で、春先から新しいプロジェクトのサブマネージャーに任命された。
これは能力的にというよりは年齢的に選考されたと考えた方が妥当だろう。それでも、入社以来初めての肩書に奮起しない分けにはいかなかった。
サブマネージャーはその大半が雑用でもあるから、一つの事に打ち込んで実績を上げるのとは真逆だ。分かりやすく可視化されない仕事を淡々と熟さなければならない。膨大な雑多件数と記憶力、もはや通常化しているハプニングへの機転の有無、プロジェクトメンバー全員の進捗と体調などを把握して次の予定を割り振らなければならない。
要は、自分以外の複数の他人の心配で始まり終わる一日の繰り返しだった。
家の外に居る間はずっと緊張感の保持強要される毎日に、気が休まる筈も無かった。
帰宅すれば靴を脱ぐのでさえやっとの思い、ソファーに倒れ込むようになって気付いたら朝・・・を何度繰り返している事だろうか。
このプロジェクトの成果が出始めるのは、恐らく初冬の頃だろう。それまでは辛抱の日々が続く。
公休日には一日眠り込んで、部屋は荒れ放題だ。元々自炊などしていないが、常備していた飲料類が切れたのがいつだったか、電源を入れる必要すら感じない冷蔵庫の中身は空っぽだ。
一度だけ、初夏のある日、帰宅した時に部屋が片付いていた事があった。
彼が合鍵で入って、余りの荒れ放題の部屋に我慢ならずに掃除をしてくれたのだろう。二人でよく通ったカフェのサンドイッチとケーキが冷蔵庫の中にメモ一枚と共に入っていた。
「メッセの既読だけでも付けろ。安否確認代わりにするから。」
それを目にした時、冷蔵庫の扉を開けたまま僕は暫く立ち尽くしていた。
彼を忘れたわけじゃない。
仕事が多忙になる前、ちゃんと事情を話している。彼も理解を示してくれた。
そこは男同士、組織の中に居れば活躍できる機会がそうそう与えられる訳では無い事も知っているし、その機会を掴まなければ歯車の一つにもなり切れない事も知っている。
「頑張れよ、応援しているぞ」と背を押してくれた筈では無かったか・・・
ご都合主義過ぎる自分に、嫌気が差す。
電話に出ない、折り返さない、メッセージを読んだり読まなかったり、レスを返さない・・・ほぼ音信不通にしてしまった期間、自分から彼を気遣う言葉を掛けて来なかった事に今更気付くなんて。
その日は緊張の糸が緩んでしまったのか、泣きながらそのサンドイッチを食べた。
お礼の電話をしようしようと思ううちに寝てしまい、通勤電車の中でお礼の短いメッセージを送り、その後は一日一回はアプリを確認して既読を付ける事は欠かさなかった。
だがいつしか、彼からのメッセージが毎日では無くなっていた事に気付いた。
それでも、多忙を言い訳に距離が開きすぎてしまった僕から彼に、伝える言葉が浮かぶ事は無かった。
通知が無いので暫くアプリを開かずに過ごした。
それでも、一日何度か彼を思い出す。最後に会った日からそれはずっと変わらない。
独りで慰める夜も、彼の太い指や熱い唇、器用に蠢く舌、彼の肌の匂い、腕の力の強さ・・・自分の体内に潜り込んで来る熱く太い異物を思い出しては、果ての後には決まって泣いていた。
彼が恋しい。自分だけに向けられた、彼の優しさが懐かしい。
それでもまた朝が来ると慌ただしさに押し流されて、僕は頭の片隅に彼を追いやって忙殺されていくのを繰り返していた。
秋口頃、スマホの通知バーに暫く開いていないメッセアプリの通知があった。
それを見たら、彼から「久しぶりに会わないか。土日のいい時間を教えてくれ。合わせるから。いつものカフェで会おう。」とあった。
外で会いたいという事に、胸騒ぎがあった。
これは・・・とうとう見切りを付けられる日が来たのだろう、と。
彼を全然気遣っていない数か月の、成れの果て。当然の結果だろう。
僕は覚悟を決めて、日時を指定したレスを送信した。すぐに既読がついたが、それ以降のレスは無かった。
暫くスマホのメンテナンスもしていなかった。
通知バーに溜まって居る”アプリ更新”通知を消去し、久々にアプリストアで更新作業をした。
即座に煩い程に何かのアプリの通知が来て、見るのも面倒だったが何気にそれを開いてみた。
写真メインのSNSアプリが、スマホ電話番号から勝手に知り合いを見付けて勧めて来る。ざっと目を通したが、自分のアドレス帳に登録している電話番号全てを紐づけしてピックアップされても、アカウント名は全てH.Nな分けだし、顔出ししている人ばかりでは無いので誰がどのアカウントなのかまで知る由も無いし興味も無かった。
「〇〇さんはお知り合いではありませんか?」
その通知をタップしてみると・・・彼だった。
SNSアカウントを持っていた事も知らなかったし、聞いた事も無かった。
彼のTOPページに幾つものサムネイルがある。最新のものには・・・飲み掛けのカフェドリンクが二つアップで映っていた。
スクロールする指が震えた。
僕と会っていた頃の写真はあるのか・・・何かコメントを添えているのか・・・彼の目に、自分はどう映っていたのか・・・
こうなる以前は週の殆どを彼と過ごしていた筈なのに、彼の事を何も知らなかったのだと今更愕然とした。
サムネイルをスクロールした中間あたりに、見覚えのあるワインボトルの写真があった。
僕はすぐにキッチンを見た。
大切にしていた分けでも無かったが、捨てられずに水切り籠の隣にずっと置いたままの空のワインボトルだ。
それが彼のアカウントに上がっていた。タップをする僕の指は震えたままだ。
投稿日を見ると、彼がこの部屋に通い出した頃では無かったか。
というのも、僕はいちいち詳細に物事を記憶しないせいだ。だいたいの季節とその当時に流行っていた歌とがセットでぼんやりと記憶に刻まれているだけだ。
「とても大切なワインだった。ボトルを捨てないでいてくれて、嬉しい。」
添えられたキャンプションの意味を、一読で理解出来なかった。
僕はスマホをソファーに置き、キッチンのボトルを手に取った。
表ラベルには何処ででも買える名の知れた安価なメーカーワイン。手首を捻って裏ラベルを見ると、マジックで日付が書かれていたのに気付いた。
『202×.02.15』
そこで一気に僕の頭の中に散らばっていた記憶のピースが、あの日を象って再び僕の脳裏に蘇らせた。
初めて彼がこの部屋に泊った日付だ。
多分、二回目に訪れた時に日付を書き、写真を撮ったのだろう。
彼が手土産に持参したそのワインを、スナック菓子をつまみに二人で飲んだ。
ワインが底をつきそうになる頃、酔いの力を借りて彼は僕を抱き締めた。初めて重ねた唇が震えていたのを、今、思い出した。
彼は僕と想いを通じ合わせる願掛けアイテムの一つに、そのワインを選んだのだろう。
酔いのせいもあったかもしれないが、その夜、僕が彼を受け入れた記念のワインだった。
だからその理由をいつしか忘れても、僕はいつまでも捨てる事が出来なかったんだ。
彼は僕とのひとつひとつの出来事を、こんな風に大切に記録していたんだ・・・
そのSNSでの僕との写真は、一見意味不明なものばかりだった。
顔も写さず、身体や部屋の断片的な構図の写真ばかり。僕達二人だけが分かれば良い、思い出。
指をスクロールさせていくと、遠い過去から今に近付いていく途中で、写真の様子が変わってくる。僕との写真では無く、独りきりの日常。同じような景色、同じような構図が幾日も続いている。
そして・・・一月前辺りから、また、僕との写真の構図によく似たものが上がり始めていた。
二つのグラス、明らかに誰かに撮って貰った笑顔、何処かの街を歩く後ろ姿・・・それは暗に”独りでは無い”と写真に語らせているものだった。
そう、彼が僕との時間をこうして写真に記録していく方法と同じだった。
そして一番最近の更新には、彼が頬を誰かの指で突かれ、振り向きざまのぶれた写真があった。
その指は、薄っすらとピンクのマニュキュアが塗られていた。
「・・・ああ、そういう事だったのか。」
ショックはそれほど大きくは無かった。
二人の間に離れた時間が増えていくごとに、何処かでそんな気がしていたせいだ。
僕とはこのまま自然消滅でも構わないのに、わざわざ会いたいと言うからには彼なりの終結宣言をする為なんだろう。
その日を迎えたらきっと、僕との記録は消される筈だ。それが自然だ。僕らにしか分からない写真と記憶は、もう見返しても何の意味も持たない。
彼が初めて僕に「愛している」と言った、抱き合っても寒すぎる夜に繰り返し聞いた曲は、もう二度と聞き返す事は無いだろう。聞いてしまえば、少しずつでもあの夜の場面や匂いや感触が蘇ってしまうから。
それなのに、今、空耳のようにあの曲が頭の中に響き始めた。
あの夜だけじゃない、彼との始まりにまで遡って色々と記憶の引き出しが勝手に開き始めて、僕は混乱し、泣いた。
彼に想いの答えを何一つ返していなかった事すら思い出して、しゃっくりが出るまで泣いていた。
久しぶりに会った彼は、少し顔が丸くなっていた。
最後に会った極寒の日以来、また同じ季節が巡ろうとしている・・・それは見た目も変わって当然だ。
少し強張った笑顔でカウンターの僕の隣に腰を下ろそうとして、少しだけ椅子を僕の座る位置から離したのを見てしまった。
心の距離はこうして何気ない仕草にも自然ににじみ出てしまうものなんだな、と僕は苦笑いをした。
彼は何も悪く無い。全部、自分の身勝手さが招いた結果だ。
「久しぶり。仕事、頑張り過ぎてるんだろうな?」
僕のやつれてしなびてしまった顔を見て、そう言ったんだろう。
「ドリンクは?よく飲んでたやつ、買って来ようか?」
僕は椅子を降りかけたが、彼が首を振るのが目に入って椅子に座り直した。
「君も・・・時間が無いんだね?」
彼は唇を噛んでいた。
「俺から呼び出しておいて、時間が無い・・・わけじゃないんだ。忙しいおまえの時間を使うのが申し訳ないから・・・さ・・・」
「・・・じゃあ、用件、言って?」
「うん・・・」
それからBGMが一曲終わるまで、彼は溜息を吐きながら9割窓の外を眺めて1割僕を盗み見るようにするのを繰り返していた。
もう別の誰かが居るのに、僕に別れを告げるだけなのに、こんなに躊躇うものなのか?
奇妙な空気が僕らの間に流れている。そのうちBGMが変わった。
彼と会わなくなる直前まで繰り返し聞いた、大好きだったあの曲だ。今となっては懐メロの扱いだ。僕は多分、眉間に皺を寄せて唇を噛んでいた。
「え?」
彼の太い人差し指が僕の眉間をそっと押していた。
「皺。可愛い顔が台無しだ。」
僕はやんわりと手の甲で彼の手を振り払った。
今更僕に優しく触れたりなんか、しなくていい。
「僕、君が言い出せない事をもう知っているから、気を遣わないで。オーダーもしてないんだから、早く店を出た方がいい。」
冷静に言ったつもりが、僕の声は震えていた。
「・・・ごめん。これ、返そうと思って。」
彼はテーブルの上の僕らの離れた距離の真ん中に僕の部屋の合鍵をそっと置いた。
「うん。僕こそ、色々、ごめん。」
そう言うのが精一杯だった。
「おまえは謝るな。何も悪い事なんかしていない。」
最期まで優しさなんて必要ない。
僕に掛ける分、あの写真の誰かに注げばいい。
ダメだ・・・どうして涙が出てくるんだ、こんな時に。
僕は自分が分からない。
「じゃ、俺、行くけど・・・連絡先やメッセや・・・俺をブロックしたり消したりしないでくれよ。」
「なんで?もう、必要無いじゃん!僕のは消してよ!全部、消して!」
頬が生暖かい。堪え切れなかったんだな、涙・・・みっともない。
離れかけた足を一歩僕に近付けて、彼は困惑したような笑顔を見せた。
「おまえが不器用で、一つの事しか出来ないって知ってる。仕事、成功するのを祈ってるから。」
多分僕の涙を拭おうとして、だけど、中途半端に伸びて来た彼の手は宙で拳に変わっていた。
「いつか・・・おまえの話をちゃんと聞きたい。俺の話も聞いて欲しい。お前が今頑張ってるそれが終わったら・・・いつか・・・」
彼はまた困ったような顔で僕を見て、背を向けた。数歩進んだところでまた戻って来た。
「俺はおまえを消さない。あの夜言った事は、嘘じゃない。もう合鍵でおまえの留守に待たない分だけ、俺のメッセを気にしない分だけ、少し気が楽になるだろ?余裕が出来たら・・・俺は待つだけだ。じゃあな、身体には気を付けて、頑張れよ。」
彼は僕の肩を軽く叩いて、そしてもう戻っては来なかった。
引き留めたいわけでは無かったけれど、何故か振り向いてしまった僕が見たものは、店の入り口で待っていた女性が彼の腕に腕を絡ませながら出て行く後ろ姿だった。
そこからいつどうやって帰宅したのか覚えていない。
シャワーの濡れた髪の先からポタポタと落ちる滴が下着を濡らす感触に、ようやく我に返った。
身体に染み付いた習慣は、恐ろしくもある。無意識に日々のルーティンを済ませているのだから。
テーブルの上に裏返しにしていたスマホを手に取れば、バッテリーが切れて電源が落ちていた。
充電ケーブルを繋いで、ソファーに頭を乗せた。
こうして髪が濡れたままだと、すぐにドライヤーで乾かしてくれたっけ。
両目尻から涙がソファーを濡らし続けたけれど、僕はそのまま天井をぼんやりと見詰め続けていた。
僕は隣に居るべき人が居なくなり、彼は僕の代わりに別の誰かを置いた。
彼には待つ誰かが居て、僕には居なくなった。
ただそれだけの話だ。
それも、彼のそばから抜け出したのは、僕の方だったのだろう。急激に流れる時間には勝てなかった。
彼から「初めて」を沢山貰った。僕は何かを彼にあげることが出来たんだろうか・・・
身体は床に座ったまま両手をソファーの縁に沿って広げ、頭だけをソファーに乗せた不自然な態勢のまま僕は泣き疲れていつの間にか眠ってしまった。
まるで十字架に磔にされたような格好だな・・・とぼんやりと思いながら、身体が鉛のように重くて寝転ぶ事さえ出来なかった。
翌日は意を決して部屋の大掃除をし、何袋にも溜まったゴミ出しを済ませ、この部屋に越して来たばかりのような心境で気持ちを切り替える事に努力した。
油断するとすぐに目がぼやけてしまうから、必要以上に緊張感を保った。
仕事は今の僕には最高の良薬だった。
多忙になれば成る程、辛さが紛れた。食欲が失せ睡眠時間が減っても、心は楽だった。
雪が舞い散る季節になって、このプロジェクトも漸くゴールが見えて来た。
予定されていた競合他社のプレゼンテーションコンペで、無事にクライアントと契約を締結する事が出来た。
チームはこのまま引継ぎ続行で、仕事内容に合わせた人事の配置移動が行われた。
ここに来てようやく僕の多忙過ぎる日々に一旦の終止符が打たれたわけだ。
時間の流れが緩やかになりつつある頃、体力的に余裕が出れば気力も回復の兆しをみせ始めた。
部屋を整え、冷蔵庫の中を満たせるようになり、気が向けばインスタントラーメン程度は作れるようになった。
休日にふらりと出掛けるだけの気力も戻って来た。
だけど、暫く会社と家との往復しかして来なかった僕は、かつて彼と訪れた店しか知らず、一人で新しいお気に入りを開拓する気にもなれなくて、結局は懐古趣味のようにタイムスリップさせているだけだった。
「結局ここに来ちゃうのか・・・」
彼と最期に会ったカフェで馴染の味に安心感を得るしかない情けなさも味わいながら、もう行くあても無いのだと痛感していた。
「あれ?〇〇さんじゃないですか?」
一人の女性に声を掛けられた。何処で会った人だろう。見覚えが無いわけでは無い。でも、誰かは分からない。
「はい・・・失礼ですが、あなたは?」
「名刺交換しましたよ?コンペの対抗馬です。」
彼女は笑いながら、改めて名刺を両手で差し出して来た。僕も椅子から立ち上がって、多分二度目の名刺交換をした。
「ああ、〇〇社の・・・待合室で少しお話をしましたね?」
「やっと思い出してくれましたね。△△です。どうぞよろしく。こちら、相席よろしいですか?少し、お話しても?」
「はい、どうぞ?」
僕らは先日のコンペの話から世間話に流れ、二杯目以上のオーダーは流石に水っ腹になってしまうからと笑い合って店を出た。
「もしよかったら、何かのアプリのID交換しません?〇〇さんともっとお話したいです。」
「僕、あんまりスマホを使いこなしてなくて・・・」
「私はその逆。流行りもののアプリ、何でも入れちゃう。〇〇さんがお持ちのアプリID、何かありませんか?」
「あ~閲覧用に取得した写真系のアプリIDならあります。」
「じゃそれ、教えて下さい。DM送ります。チャットみたいに話出来るから。」
IDを教え合ってすぐに別れた。
△△さんは気取らずさっぱりとして後を引かないから、構えないで済んだ。プライベートで誰かと雑談をする楽しさを、思い出させてくれた時間だった。
翌日の就業時間の頃通知音が鳴り、その写真系SNSアプリを開いた。
△△さんから挨拶程度のDMがあり、僕も簡素なメッセージを返した。すぐにスタンプが来て、僕も同様にした。やり取りはそれで簡単に終わった。
自分だけに向けられる言葉を目にしたのが、多分、彼とのメッセージやり取り以来で、何だか胸がほんのりと温かくなる錯覚があった。
△△さんも僕も互いに何か特別な感情があるわけでは無いのに、誰かから自分だけに声を掛けられる事がこんなに嬉しい事なのかと初めてのように知った。そして、返信を殆ど返せなかったあの頃の自分が、どれだけ彼を傷付け、寂しくさせ、不安にさせていたのかを理解出来た気がしていた。
何を悟っても、今更でしかない。
僕は△△さんの可愛い物と色んな食べ物と時々TOEICの勉強の投稿一覧を眺めていたら、急に思い付いて彼のアカウントを見てみようと思った。
僕は誰もフォローしていないから、例の「知り合いではありませんか?」のアプリメッセージを探す羽目になった。これで見つからなかったら、潔く諦めよう。そう思ったが、そのメッセージをすぐに見付けてしまった。
タップする指は、依然、震えていた。
彼はもう、僕の知らない時間を知らない誰かと過ごしている、赤の他人だというのに。
一覧が出てきた時、一際目を引く写真があった。前回初めて彼の写真を開いた時に、何故これを見落としていたのか。
何種類かのチョコレートが無造作にテーブルの上に置かれ、その脇に綺麗な黄色い花を詰め込んだ花籠があった。その写真をタップして日付を見てみると、今年の僕の誕生日だった。
駅のベンチに座っていたのに思わず立ち上がってしまった。
僕への想いを、何かの形に残し続けてくれていたのか。簡単な返事ひとつ返せなかった僕なのに。
他にも僕への隠しメッセージが込められた写真があるのかもしれなかったが、記念日ひとつろくに覚えていない僕にはそれを探し当てる勇気も気力も無かった。
ただ、この胸に込み上げる熱い何かをすぐに彼に伝えたい。
もう、赤の他人になってしまっても、素直にありがとうと伝えたかった。
そして。
多分、一度も言わなかっただろう、彼への本当の想いも。
過ぎてしまった彼との日々全てを『愛していた』と。心の奥底にある僕の現在進行形の想いは、誰も知らなくていい。
何もかも足らない僕に溢れんばかりの優しさを与え続けてくれる彼に、何故僕は気付けなかったのだろう。大切に出来なかったのだろう。
せめて今の彼に邪魔にならない伝え方は・・・
僕はもう一度ベンチに座り直し、何本も電車を見送りながら人差し指をスマホに近付けては遠ざけるのを繰り返していた。
僕には過分な人だった。
この先一生、あの深い優しさには出会えないだろう悲しみと自分の愚かさに、スマホ画面がぼやけて見え始めている。
どうしたら・・・どうすれば伝えられるだろうか。
たった一言の『ありがとう』を。
僕は何も付いてないキャンプションのその写真のすぐ下にハートマークがある事を知った。これをタップすればいいのか・・・
それだけの事なのに、指が手が震えて思わず左手で手首を掴んだ。
まだ宵の口の時間帯なのに、既に酔っぱらった人たちが楽しそうに鼻歌を歌いながら僕の前を過って行った。
「ああ、あの曲・・・」
飽きる程彼と一緒に聞いた、お気に入りの歌。そして、あれ以降聞けなくなってしまった歌。
歌詞も出鱈目な音程の外れたその歌声に、僕の震えはいつしか止まっていた。
僕は一度目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をし、再び目を開けてそのハートマークをそっとタップした。
そしてもう一つの写真。
空のワインボトルの写真にもハートマークにもタップした。
白色が赤に変わって、まるで僕の心みたいに見えた。
電車のホーム入線を知らせるベルと共にアナウンスが流れ、僕はベンチから立ち上がった。
電車に乗り込もうとする列に並び、発車を告げるベルに紛れて聞こえなかった。
僕が握るスマホがずっと振動するから、画面を見て乗り込む筈の電車をまた見送った。
表示されたのは、僕が言い付けを守って消さなかった相手の名前と電話番号。
その画面はすぐに数滴の滴のレンズで、いびつに霞んで僕の目に映っていた。
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