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41.決めたこと
しおりを挟む私はすぐに眠れなかった。
心と身体が満たされて、この幸福な時間をもっと味わっていたかったからかもしれない。隣には啓一郎さんの温もりがあり、それだけで幸せだった。
積み重ねてきた時間は短いが、私にとってのこの夫婦生活はすでに自分の人生になくてはならないものとなっていた。
「眠った?」
啓一郎さんは私が眠れないことに気がついたのか声をかけてくる。その声に私は啓一郎さんの胸に顔を寄せて頭を横に振った。そして顔を上げる。
そばには啓一郎さんの整った顔があり、息のかかる距離だった。私たちは自然と指を絡めて手を繋ぐ。
「紗雪はさ……子ども欲しい?」
「……啓一郎さんは?」
いきなりの質問に驚いた私は答えることなく、質問に質問を返す。
本音を言えば、啓一郎さんとの子どもならば可愛いだろうし欲しいとも思う。授かることがあるならば絶対に産みたいと思っていた。
けれど啓一郎さんはどうなのだろうかと不安に思ってしまい、曖昧に濁した。彼は自分の大切なものを増やすことに怯えてしまうかもしれないと思ったからだった。
「…………俺、は…………紗雪との子どもだったらほしいよ。俺たちの天使が授かったらどんなに嬉しいことか」
「私も……同じ気持ち」
嬉しかった。
啓一郎さんが自分との子を求めてくれているということが何よりも心を満たしていく。
「私、決めたことがあるんです」
啓一郎さんと絡め合う指に少しだけ力を入れ、下唇を噛んだ。この言葉を伝えることに勇気が必要だったから、その決意を伝えたかったから。
啓一郎さんは「どうした?」と優しく呟く。
「私、バレリーナに戻ることは諦めます」
「……っ」
啓一郎さんが息を呑むのが伝わってくる。それでも私は決意を鈍らせることなく続けた。
「……私はバレエの講師────先生になりたい」
「先生に? 教える側になりたいってこと?」
不思議そうに目を瞬かせる啓一郎さんにこくりと頷いた。
この言葉は負の感情から出たものではなかった。もちろんバレリーナを諦めるということも。
「啓一郎さんに好きだって伝えて家を出ていったあと、ステファニアさんのおうちにお世話になったじゃないですか。そのとき自宅の離れにあるバレエスクールの見学をさせてもらったんです」
私はその時の光景を思い出しながら自分の気持ちを言葉にする。
「そこではバレエの練習を楽しんで、目をキラキラ輝かせて取り組んでいる子どもたちが沢山いました。それを見て思ったんです。私は怪我をして現役を一度諦めてしまったけど、今度はプロを目指す子どもたちのお手伝いがしたいなって。あのキラキラした瞳を失わせたくないなって」
啓一郎さんは一言も発することなく、私の言葉を一文字も逃さないように聞き入ってくれた。
「それだけじゃありません。長谷川くんの妹の沙彩ちゃんのこと覚えてます?」
「沙彩ちゃん……うん、覚えてるよ」
「あの子が私に言ってくれたんです。『いつか紗雪お姉さんみたいなバレリーナになりたい。バレエを教えてほしい』って。自分は舞台に立たなくとも、未来ある子たちのお手伝いをして支えていく。そういう在り方もいいんじゃないかって思って……」
私が全てを話し終わると、啓一郎さんとの間に沈黙が落ちる。全力疾走したときのように心臓が高まっているのが耳にも伝わってきた。
少し間を置いてから啓一郎さんが口を開いた。
「紗雪は自分の夢をみつけたんだね」
啓一郎さんは言葉の中に寂寥と悲哀を含ませていた。驚いた私は思わず尋ねる。
「……どうしたんですか?」
「嬉しい気持ちはもちろんある。紗雪が自分の未来を自分で決めて、その道を歩いて行くんだって。すごくいいことと。そう……分かってるはずなのに」
啓一郎さんは絡めあっていた指をゆっくりと離し、私の体を強引に引き寄せて力強く抱きしめた。強いくらいの抱擁に思わず驚嘆を覚えた。
「すごく寂しいんだ。ずっと俺に寄りかかって一緒に歩んでいてくれた紗雪が離れていってしまわないか。不安でしかたない」
「……っ啓一郎さん」
私ははっと息を飲み、思わず抱きしめ返す。
この人はとても強く、そして同時に弱い人だ。
亡くなった妹さんの秘密を一人で長年抱え込む辛抱強さ。そして誰にも愛を告げることが出来ないという心の奥に宿るトラウマともいう弱さ。両方を兼ね備えている。
今の啓一郎さんはまるで迷子になった幼子のようだった。今まで一人きりで歩いてきた道に私というお供が加わり、そしてそのお供である私がまた別の道へ歩もうとしている。そのことが恐ろしくて仕方がないのだろう。
「大丈夫です。一人になんてしません。確かに夢は見つけましたけど、私はこれからも死ぬまで啓一郎さんと一緒ですから」
「うん……」
「それにさっき言ったじゃないですか。啓一郎さんも私も子どもがほしいって。子ができれば二人じゃなくて今度は三人になります。それ以上だってあり得ます。……だからあなたはずっと一人になんてなる暇ありませんよ」
怯えるようにしてしがみついていた啓一郎さんの体から力が抜ける。私の言葉を聞いて安心した様子だった。
「そう、だよね。俺は一体なにを怖がってたんだろう。ははっ……おかしいね」
まるで泣きながら笑うように言う。
私はそんな彼を見て、出会えてよかったなと心の底から思った。
「ありがとう、紗雪。俺と出会ってくれて」
「私も今おんなじこと思いました。……こちらこそ、ありがとうございます」
そう言って私たちは暖かいベッドの中で笑い合う。お互いの温もりに心が解けていく。
「啓一郎さん、愛してます」
「俺も。紗雪のこと愛してる」
そうして私たちはまたキスをした。
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