39 / 44
38.退院
しおりを挟む私は買い物を終えて帰宅するとすでに夕方だったので、急ぎで夕食の支度をする。
元々啓一郎さんは医者という職業のためか不定休であり、最近では丸一日帰ってこないこともあった。
食事が取れないときもあるほどで、栄養バランスが心配になった私は自分から作りますよと前のめりに伝えていた。
啓一郎さんはどんなにその料理が不味くても『美味しいよ』と言ってくれるひとだ。
以前、砂糖と塩を入れ間違えるという定番ミスを犯したときも顔色ひとつ変えずに食べきてってくれて、いざ私がその料理にありついたとき、ようやく気がついたという事件もあった。
そのとき私は反省したのだ。
リラックスするための家で気を遣わせてしまった事実に。
そこから私は料理に関して試行錯誤を始めた。そのおかげか最近では自分の料理を食べてくれる人がいることの喜びさえ感じ始めている。
料理自体も少しずつ上達している実感も抱いていた。
私も結婚生活に慣れていっているなとしみじみ思う。そしてそんな自分はとても恵まれているのだとも。
「さーゆきっ。今日はなに作るの? 手伝おうか?」
「大丈夫です! 退院したばっかりなんですから、座っててください」
啓一郎さんは調理中の私の背後に周り、後ろから抱きしめるようにして手元を覗き込んでくる。
顔が近くて思わず心臓が跳ねるが、私は何事もないかのように言った。
つい昨日、ようやく退院の許可が降りた啓一郎さんは自宅で安静にしてくださいと言われている。
普段から朝から晩まで医者として働いている啓一郎さんは正直言って仕事中毒だった。
私の前では疲れた態度は見せないが、一緒に生活する中でよく目元にクマを作っていたり、ソファで寝落ちていたりする姿を見かけていた。
「今日は肉じゃがにしようかなって思ってます。退院したばっかりなのでなるべく消化に良さそうな物がいいかなって」
「それは楽しみだね。最近の紗雪、料理するの楽しそうだし、見ている俺も嬉しくなるよ」
「一人だとなかなか料理することあんまりなかったので考えもしなかったんですけど、最近は料理が趣味みたいになってきて。作るのが楽しいんです」
元々は啓一郎さんの料理の上手さに対抗して密かに練習していたが、いつのまにか作ることが日課になり、趣味にもなっていた。スマートフォンで色んなレシピを検索して、新たな料理を開拓していくことが燃えるのだ。
「紗雪に新しい趣味ができてよかったよ」
啓一郎さんは安堵したような声色で呟いた。バレエ一筋だった私に別の楽しみが出来て良かったと喜んでいる様子だった。
「それよりさ……紗雪はエプロン姿も似合うね。これって新しく買ったやつ?」
「はい。エプロンなんて前はせずにお料理してたんですけど、やっぱり油とか飛ぶので買っといた方がいいかなと思って」
出かけた際に見つけた上品な小花の散った黄色をベースにしたエプロン。
啓一郎さんはそのエプロンの背中の結び目のリボンを触りながら言った。
「かわいい。……今すぐ食べたいくらいに」
耳元で囁かれ、思わず手元が狂いそうになる。全身が小さく震え、頬に赤みがさすのを感じる。
「だ、だめです! 今は料理の真っ最中なので危ないですから離れててください。それに、啓一郎さんは病み上がりなんですよ? た、食べるとか……そういうことは身体が健康になったときに……」
「そういうことってどういうこと?」
一度手を止め、啓一郎さんに顔を向ける。彼は意地悪そうな表情で赤くなる私を見つめていた。
甘々な啓一郎さんはごく稀に私に意地悪をすることがある。基本的にタイミングは私と数日間触れ合うことがなかったときや余裕がなくなったときなどだった。
ここ最近はずっと病院暮らしだった啓一郎さんとはキス以上の触れ合いはない。もちろん彼の傷が心配だったということもあるが、病院という公共施設で破廉恥な行いをすることに抵抗があったからだった。
だからこさ痺れを切らした啓一郎さんは私に意地悪してくるのだろう。
「もうっ、いじわるしないでください! わ、私だって啓一郎さんと……いっぱい触れ合いたいの我慢しているんですからっ」
勇気を出して本心を曝け出すが、後半は照れが大きくて声が小さくなってしまった。俯きながら呟く。
「…………っ」
「……?」
しばらくしても反応がなく、私は赤らめた顔を上げると。
「あ、あんまり見ないでくれ……」
啓一郎さんの整ったその容貌は真っ赤に染まっていた。髪の隙間から見える綺麗な形の耳さえも、同じような赤色だ。
どうやら照れているようで、私は思わず口元を緩める。幾度が啓一郎さんの照れる姿は見たことがあったが、ここまで顔や耳を赤らめることなどはほとんどなかった。
貴重な啓一郎さんの姿に気を良くした私は思わずその薄い唇に己のものを重ねる。
「夜まで……まっててください。今夜は私がその……頑張りますから」
「……うん」
啓一郎さんは素直に頷き、私の首元に顔を埋めた。まるで甘えん坊の子供が出来たようで、私の心は愛おしさで苦しかった。
0
お気に入りに追加
178
あなたにおすすめの小説
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。

ワケあって、お見合い相手のイケメン社長と山で一夜を過ごすことになりました。
紫月あみり
恋愛
※完結! 焚き火の向かい側に座っているのは、メディアでも話題になったイケメン会社経営者、藤原晃成。山奥の冷えた外気に、彼が言い放った。「抱き合って寝るしかない」そんなの無理。七時間前にお見合いしたばかりの相手なのに!? 応じない私を、彼が羽交い締めにして膝の上に乗せる。向き合うと、ぶつかり合う私と彼の視線。運が悪かっただけだった。こうなったのは――結婚相談所で彼が私にお見合いを申し込まなければ、妹から直筆の手紙を受け取らなければ、そもそも一ヶ月前に私がクマのマスコットを失くさなければ――こんなことにならなかった。彼の腕が、私を引き寄せる。私は彼の胸に顔を埋めた……
初色に囲われた秘書は、蜜色の秘処を暴かれる
ささゆき細雪
恋愛
樹理にはかつてひとまわり年上の婚約者がいた。けれど樹理は彼ではなく彼についてくる母親違いの弟の方に恋をしていた。
だが、高校一年生のときにとつぜん幼い頃からの婚約を破棄され、兄弟と逢うこともなくなってしまう。
あれから十年、中小企業の社長をしている父親の秘書として結婚から逃げるように働いていた樹理のもとにあらわれたのは……
幼馴染で初恋の彼が新社長になって、専属秘書にご指名ですか!?
これは、両片想いでゆるふわオフィスラブなひしょひしょばなし。
※ムーンライトノベルズで開催された「昼と夜の勝負服企画」参加作品です。他サイトにも掲載中。
「Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―」で当て馬だった紡の弟が今回のヒーローです(未読でもぜんぜん問題ないです)。

Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?
キミノ
恋愛
職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、
帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。
二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。
彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。
無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。
このまま、私は彼と生きていくんだ。
そう思っていた。
彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。
「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」
報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?
代わりでもいい。
それでも一緒にいられるなら。
そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。
Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。
―――――――――――――――
ページを捲ってみてください。
貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。
【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる