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36.目覚め 啓一郎side
しおりを挟む嗅ぎなれた匂いがする。
消毒液や薬品の香り。
いつも仕事で嗅いでいるものだ。
「……っう」
腹に鋭い痛みを覚え、俺は呻き声を上げた。
白い天井と腕には細い線──点滴を打たれているみたいで、俺はどうやら助かったのだと実感する。
「起きましたか、啓一郎さん」
「さ、ゆき?」
掠れる声で無理矢理愛しい人の名前を呼んだ。彼女はベッドサイドの椅子に腰掛け、俺が寝ているそばにいてくれたようだった。
ここは病室だった。
梅本に刺された俺は病院に運び込まれ、治療を受けたらしい。
俺は状況を理解して紗雪へと顔を向けるが。
「啓一郎さんのバカっ! 医者なのに命を粗末にしないでください! どうして梅本の前に飛び出したりしたんですか。どうして……」
紗雪は怒っていた。そして同時に泣いていた。
紗雪の勢いに思わず口をつぐむ。
「もう少しで死んじゃうところだったんですからね。運良く熊沢さんがきてくれたからよかったものの、もし来なくて治療が遅れたりしたら……」
「紗雪……ごめん」
紗雪の手は震えていた。
涙を浮かべた愛らしい瞳は真っ赤に腫れている。泣き腫らしたその瞼を見ていると、罪悪感とともに自分が愛されているのだという実感を抱いた。
それで嬉しくなり、そのことに対してまた罪悪感を抱き……といつ謎のループが発生している。
頭を下げて小さく謝ると、紗雪は「違う……」と言いながら首を横に振った。
「……本当はこんなこと言いたかったんじゃないんです。私は啓一郎さんに守ってくれてありがとうございますって伝えたくて……でも、顔を見たらもう気持ちがぐしゃぐしゃで訳わかんなくなって」
「うん…………分かってるよ、大丈夫。紗雪は俺のこと大好きだもんね」
反省する様子の紗雪を尻目に俺は茶化すように言う。すると紗雪は鼻を鳴らし、腰に手を当てた。
「もう……啓一郎さんったら調子いいんだから」
「そんなこと……っ痛」
笑った拍子に刺された傷がジクジクと痛みを訴え、俺は思わず眉を顰める。
紗雪は途端に心配した様子で俺の背中をさすった。
俺は窓から見える緑一色に茂っているクスノキの葉を眺めてから少しだけ痛みも落ち着いてくる。
紗雪は真剣な面持ちで俺の手を握りしめた。そしてそっと病院服の俺の背に手を回し、優しく包み込むように抱きしめる。
「啓一郎さんが無事で本当によかった」
「俺も。紗雪に大きな怪我がなくてよかった。…………でも」
体を離し、紗雪のほっそりとした首元に指先を当てる。ツーっと撫で下ろすと紗雪は身震いしたようだった。
「ここ、傷付けられちゃって……本当にごめんな。せっかくの綺麗な肌だったのに」
「そんなの気にしないでください。これくらいの傷なら跡もなく治りますし、万が一傷が残ったとしてもファンデーションで隠せますから」
傷口は乾き、すでに塞がっているのは目にわかる。仕事で様々な傷を見てきているが、紗雪の体についた傷ほど俺の心に痛みを与えるものはなかった。
俺は塞がれた切り傷に己の渇いた唇をそっと押し付ける。こうしたところでなんの意味もないが、一種の願掛けのような物だった。
──紗雪の傷があらかたもなく治りますようにと。
口を離すと紗雪はとろりと溶けたような目で俺を見つめていた。その甘すぎる瞳に引き寄せられるように、俺は紗雪の唇を貪った。
赤くて柔らかくて、そして甘い。
こんなに美味しい唇を独り占めできるのは俺だけなんだと幸福感に身を浸す。
そして俺たちは何度も口づけを繰り返した。
そして5分後。
正気を取り戻した紗雪の瞳を見て、とりあえず続きはお預けだと肩をがっくり落としたのだ。
それから俺は紗雪に気を失った後の状況を聞いた。
「救急車が5分後くらいに到着して、啓一郎さんはすぐに運ばれました。それから梅本は警察官3人に連行されて、現行犯で逮捕されたようです。でも……」
「梅本がなんか言ってた?」
「はい。連れてかれるとき警察官の方に『どうせすぐ釈放される』って言い放ってて。近くにいた熊沢さんは怒って……そのあとどこかに電話してました」
俺は自分の顎を掴み、考え込む。
おそらく上手く行くはずだろうが────。
「啓一郎~! 見舞いに来たぞ!」
「失礼します」
見覚えのある愛嬌のある顔立ちの男と金髪の美しい女────熊沢と妻のステファニアだった。
突然のことに驚いた紗雪は椅子から立ち上がり、二人からフルーツの詰め合わせをもらう。来てくれたことと見舞いの品に対して丁寧なお礼を伝えた紗雪は奥へと案内した。
部屋は一人部屋で、奥には客用のソファやテーブルの他に大型テレビなども置かれている。
ソファに腰掛けた熊沢たちを横目に俺はベッドから立ち上がろうと床に足をつける。
貧血のせいかふらりと地面が揺れる感覚がしたが、そばにいた紗雪に支えられて二人の座ったソファの対面に腰掛けた。
「で、無事いけそうか?」
俺は熊沢に尋ねる。
熊沢はニヤリと口元に弧を浮かべた。
「もちろん」
呆れた顔のステファニアさんと置いていかれたような紗雪が俺たち二人を見つめていた。
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