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11.憧れの人
しおりを挟む私は驚きで目を瞬かせた。
なぜならその女性は──。
「熊沢じゃないか。偶然だな」
「ほんと、2年前のパリ以来だな!」
そう言って熊沢と呼ばれた男は親しげに啓一郎さんの肩を叩く。
啓一郎さんも朗らかな顔であり、2人が親しいことが目に見えてわかった。
「それで啓一郎。その隣の女性は……」
「俺の妻だよ。紗雪って言って入籍したばかりなんだ」
「仕事バカなお前もとうとう女と一緒になるなるなんて……俺は嬉しいよ!」
そう言う熊沢に対し啓一郎さんも「大袈裟だな」っと言って笑った。
そのあと男はその愛嬌のある顔を私に向け、話しかけてくる。
「はじめまして、啓一郎の奥方。僕の名前は熊沢。啓一郎の昔からの友人だ」
「20年以来のな。腐れ縁ってやつなんだよ」
「腐れ縁言うな! あ、それと隣にいるのはステファニア。僕の妻だ」
私も「紗雪です、よろしくお願いします」と微笑む。
熊沢さんは私に握手を求めてきたので応じたが、それよりもステファニアと呼ばれた女性のことが気になって仕方がなかった。
一目で日本人ではないとわかる女性で。
「紗雪、よろしく」
女性も熊沢さんと同様に手を差し出し、私も握手をした。
少しカタコトではあるが、流暢な日本語を使っている。
「あ、あの……ステファニアさんってもしかしてバレリーナの……」
「ええ! よく知ってるわね。ワタシ2年前に引退したのだけど」
「私も実はパリ・オペラ座バレエに所属してたので」
そういうとステファニアさんは目を丸くする。
ステファニア・グロウ。
彼女は2年前までパリ・オペラ座バレエ団でエトワールを務めていた有名なバレリーナだった。
世界に名を馳せており、バレリーナを志すものならば誰でも知っているほどである。
私も幾度か練習場で見たことがあるが、同じ舞台に立ったのは彼女──ステファニアの引退公演の一度きりだった。
ただ同じ舞台に立ったことがあるというが、団の中でも末端であった私のことを覚えているはずがないだろうが。
当時、まだまだ現役継続が可能だったにもかかわらず電撃入籍、かつ引退をしたのはバレエ界に激震をもたらした。
私もずっと憧れを抱いていたため、そのニュースに落ち込んだことは記憶に新しい。
ステファニアさんにずっと憧れていたことを伝えると喜んでくれた。
「そうだったのね! 嬉しいわ! それもあの引退公演にも出ていて、夫の親友の奥さんなんてなんか運命感じちゃう!」
思った以上に喜んでくれたステファニアさんに私も心を躍らせた。
楽しく盛り上がっている私たちに熊沢さんが声をかけてくる。
「ああ、あの公演か! 啓一郎の奥方も出ていたんだな! …………そういえばあの公演って啓一郎も無理矢理連れてったような」
「そうだよ。もうすぐ結婚する恋人の最後の舞台だからって関係ない俺まで連れてかれて」
「だって俺の妻になるんだぜって自慢したかったんだもん」
そう言って熊沢さんは腰に手を当てて威張る。
その面白い仕草に私もステファニアさんもクスリと笑った。
どうやら啓一郎さんの友達である熊沢さんは愉快な人のようだ。
そしてそんな面白い人がステファニアさんの夫で。
「啓一郎さん私の出演していた舞台観たことがあるって言ってましたが、それって熊沢さんに連れられてだったんですね」
「そうそう! いや~もしかしてそんな運命を繋げちゃった僕って……もしかして恋のキューピット?」
「ないだろ」
「ないわね」
そう言って啓一郎さんとステファニアさんがあり得ないとばかりに否定し、熊沢さんはほろろと涙を拭う素振りをする。
その楽しい空気に釣られて私も笑った。
会話の中でステファニアさんの日本語が堪能なのは彼女の叔母が日本に住んでおり、子供の頃よく遊びに行っていた際に覚えてしまったことがきっかけらしい。
そうして話していると啓一郎さんと熊沢さんは私たち妻にはよく分からない話を始める。
仕事の関係の話なのだろう。
そういえば熊沢さんもその楽しいキャラクターとは裏腹にこの場にいるということは有望な医者であることに違いないのだ。
そんなことを考えているとステファニアさんに再度話しかけられる。
「そうだ、紗雪。ワタシ今日本でバレエの講師してるんだけど、あなたは今どうしてるの?」
「あ……」
私は少し言い淀みながら答える。
「実は事故で怪我をしてしまったせいで今はまったくバレエに関することはなにも……」
「そう、だったの」
ステファニアさんは眉を下げる。
私は憧れのバレリーナにわざわざ気を遣わせてしまっていることに恐縮し、口早に話す。
「でも怪我をして退団を言い渡されたあと、啓一郎さんが励ましてくれて」
「それで結婚まで至ったってわけね」
少し普通と状況は異なるが、その言葉に違いはない。
「ねえ、もし紗雪さえ良ければワタシが講師をしているバレエスクールに見学にでもきてみる? 今は色々あってバレエから離れたいって思ってるかもしれないけど、いつか気が向いたときに」
「……ありがとうございます」
「じゃあ連絡先教えとかなきゃね。さっき言ったことのほかにも、もしかして夫が何か迷惑をかけるかもしれないし」
ステファニアさんの心遣いにうれしく思った。
私は啓一郎さんと熊沢さんが話し込んでいる横で連絡先交換をする。
私はスマートフォンにある憧れのバレリーナの連絡先にごくりと唾を飲んだ。
空の上の人だと思っていたので全く現実感がない。
スマートフォンを握る自分の手が汗で滲んでいるのを感じ、自分は興奮しているのだと知る。
なんとなく喉が渇いた気がして、私は近くにいたスタッフが配っていたグラスの飲み物を口にする。
透明な飲み物だったので水だと思い一気に煽ったのだが──。
「うっ」
「紗雪!?」
目の前でふらついた私にステファニアさんが驚きの声を上げる。
隣で話し込んでいた啓一郎さんも「どうした紗雪!」と大きな声で叫ぶのが聞こえる。
喉が異様に熱く感じ、これはお酒だったとわかった時には私の視界はブラックアウトしていた。
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