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9.膝枕
しおりを挟む私は彼の柔らかな髪をゆっくりと撫でてあげる。
猫毛なのか髪が柔らかい。
私は元々直毛のため羨ましい。
「ねぇ紗雪」
「どうしたの?」
「俺との生活はどう? 後悔はない?」
私は「ないですよ」と答える。
啓一郎さんとの暮らしはとても楽しい。
最初は他人と同じ家で一緒に暮らしていくということに不安を覚えないわけではなかった。
優しいとはいえど啓一郎さんは男性で。
それに私は医者としての啓一郎さんのことはそれなりに知っていたが、プライベートな面での彼は知らない。
実はなにか思いもよらないような面があったらどうしようと緊張していたものだ。
昔の私がいきなり同棲だなんて聞いたらびっくりしすぎて腰を抜かすだろう。
だけれど。
啓一郎さんとの暮らしはパリでアパートに一人暮らしをしていた頃では考えられないほど充実していた。
いざ生活してみると実は料理も洗濯も、そして掃除さえなんでもパーフェクトに出来てしまうところに驚いた。
むしろ料理なんて私の方が絶対下手で。
己の女子力のなさにほとほと呆れたものだ。
実はそのあと啓一郎さんの料理上手さに対抗してひっそり練習しているのは秘密である。
「そう……よかった。紗雪みたいな女の子がいきなり俺みたいな大の男のと一緒に住むってなると警戒しないわけないだろ? 家が居心地のいい場所じゃなきゃ辛いだろうからね。もし何かあったら言ってくれな?」
「ありがとう。むしろ私、よくしてもらいすぎて……申し訳ないくらいです」
「言っただろ? 俺は紗雪を支えたいって。逆に俺と一緒にいてくれてありがたいくらいだよ。…………ほんと、ありがとな」
そう言って啓一郎さんはまるで子供のように私の腰に手を回し、お腹に顔を埋めた。
少し時間が経つと啓一郎さんは離れた。
そして「膝枕ありがとう」と言って体を起こした。
「それじゃあ寝ようか。紗雪、こっちおいで」
そう言って自身の掛け布団をめぐり、隣をトントンと叩いた。
私は四つん這いの姿勢でそこへ移動し、もぞもぞと隣へと潜り込む。
啓一郎さんの温かさを感じ、やはりここが一番安心するなと思った。
それと同時に罪悪感が込み上げてきた。
私は本当に何もしなくてもいいのかと。
私はこくりと唾を飲む。
行動に移すのには勇気が必要だった。
私は胸にある勇気を全てかき集めて──。
胸元に埋めていた顔を上げ、、啓一郎さんに向かって問いかけた。
「私、啓一郎さんに何もしてあげられてない。いつもだって一緒に眠るだけで。だから────」
浴衣を手にかけようとする。
だがそれは途中で止められた。
そして啓一郎さんは私の頭を撫でる。
「無理しなくてもいい。大丈夫。俺は紗雪の気持ちがついてくるまでいつまでも待つから」
私の不安な気持ちはお見通しだったのだろう。
だけど、不安なだけではなかった。
啓一郎さんに触れてみたい。
そう思う心も確かにあったのだ。
だけれど啓一郎さんはやんわりと拒絶した。
それに少し落ち込みかけたが、頭を撫でる優しい手は私の睡魔を呼び起こす。
そしていつのまにか私は眠りについていた。
***
私たちは数日の間、この旅館周辺でゆっくりと時を過ごした。
途中、部屋についている露天風呂ならば水着着用も可能だと聞いた啓一郎さんと無理矢理混浴させられたがそれ以外は至って平凡な日々。
だた──結局のところ一度も身体の関係を持つことはなかった。
キスはしたものの、それ以降の進展はない。
けれど私は少し安心していた。
昔からバレエ一筋だったためろくな恋愛経験もなく、唯一の経験は学生の頃何度か異性に告白されたことだけだ。
それも夢に専念するためにすべて断り──。
啓一郎さんはどう考えても恋愛経験豊富な人種だろう。
普段の私に対する振る舞いや、細かいところにも気がつく細やかさには感嘆させられる。
それをみて自分とのギャップに落ち込むのだ。
そんな恋愛経験皆無の私は当然のように処女である。
異性と手を繋いだのもキスの経験も啓一郎さんが初めてだ。
その度に心臓は爆発しそうになり、顔はゆでだこのように真っ赤に染まってしまう。
世の女性たちはどうしてかっこいい男性を前に平静でいられるのだろうか。
私は一人思い悩んでいた。
そういえばと啓一郎が言っていたことを思い出す。
──『気持ちがついてくるまで待ってる』と。
私は啓一郎さんを待たせすぎているのだろう。
けれど同時にやんわりとした拒絶もされた。
正直なところ私は混乱している。
いったいどっちが本心なのかと。
旅行も終盤、今はすでに部屋の持ち物を纏めている。
もやもやとした気持ちを抱えていると、啓一郎さんの方から声をかけてきた。
「紗雪、そういえばこの旅行中に話そうと思ってたんだけど」
「……ど、どうしたんですか?」
私は若干挙動不審になりながら問いかける。
すると「少しお願いが」と啓一郎さん。
もしかして──私がさっき考えていたこと、つまりエッチな頼みなのかと一人顔を赤らめる。
冷静に考えれば完全なる私の妄想なのだとわかるのだが。
それでも乙女心は加速する。
そういえば啓一郎さんは私と混浴したがっていた。
わざわざ水着を旅館の人に頼んでまで。
脳内の妄想にあわあわとした私を尻目に啓一郎さんは言った。
「1週間後に若手医師たちによる懇親会があるんだけど──そこに一緒に出席さて欲しいんだ。もちろん俺の妻として」
私ははっと現実に戻り、啓一郎さんに目を向けた。
「…………懇親会?」
啓一郎さんは「そう、懇親会」とオオム返しをした。
私は気が抜けたように「はい」と伝えるのだった。
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