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8.結婚指輪
しおりを挟む夕食を取り終わり、私たちは各々露天風呂へと入浴した。
啓一郎さんは冗談混じりに混浴しようと言っていたが、流石にそれは恥ずかしくて私は断固拒否したのだ。
そのときのしょぼくれた顔は忘れられない。
まるで母親に見捨てられた子供のような顔をしていた。
見ていられなくなり、もし水着での入浴が可能だったらと私が言葉を漏らすと啓一郎さんは目を輝かせていた。
……選択を間違ってしまったかもしれない。
内心そう思ったが、啓一郎さんの喜ぶ姿をみていると許してしまうものだから私はすでに絆されているのだろう。
そうしている間にも太陽は日を落とし、夜を迎える。
私たちは露天風呂の併設してあるとなりのバルコニーで外を見ていた。
露天風呂ばかりに気を取られていたが、そのバルコニーからの眺めも感動するものだった。
旅館周辺は自然あふれる森が広がっているが、ここからは遠くの街の光が見える。
そして空には満天の星。
澄んだ空気だからなのか、東京やパリで見た星の何倍も輝いているように感じた。
景色を見ているとまたあの頃の記憶を思い出してしまう。
けれど、パリで一人きりだった頃に比べて心は軽い。
隣には揃いの浴衣を着た啓一郎さんが立っている。
その横顔を見て、私の空っぽだった心はいまだけ満たされているように思えた。
「ねえ、紗雪」
「どうしたの啓一郎さん?」
「少し待ってて」
そう言って一度部屋へと戻る啓一郎さん。
いつもよりも少し硬く、私は不思議に思い目を瞬く。
啓一郎さんが戻ってくると、なにやら右手に白い箱を持っていた。
そして私の目の前でそれを開ける。
「これって……」
私は息を呑む。
そうこれは────。
「結婚指輪だよ。遅くなってごめん。特注で作らせていたから遅くなったんだ」
「……っ」
言葉が出なかった。
夫婦として籍入れたが、私たちは本当の夫婦なのかといつも不安に思っていた。
けれど啓一郎さんはちゃんと指輪まで用意してくれていた。
私の左手を取り、薬指にはめる。
シンプルだけれど丁寧なつくりのリング。
私はそれを空に掲げてる。
自然と涙が溢れてきた。
私たち夫婦がどういう関係なのかいまだよくわからない。
恋人の延長線上でもないし、お見合いでもないし。
だけれどこの指輪が啓一郎さんとの深い繋がりのような気がして。
私は嬉しかったのだ。
「紗雪、これからも大切にするから」
「うん……ありがとう、ございます……」
優しい抱擁に心が温まる。
私は啓一郎さんの背に手を回した。
甘くて苦い、清潔感のある大人の男性の香りがした。
「結婚式も年内にはやろう。俺、紗雪のウエディングドレス姿みたいな」
「……いいの?」
私は手をほどき、至近距離の啓一郎の瞳を覗く。
啓一郎は「もちろん」と言ってもう一度抱きしめる。
私は左手の結婚指輪の存在をより強く感じた。
「良ければ俺にも指輪をはめてくれないか?」
密着していた体が離れたあと、啓一郎さんは指輪ケースの中のもう一つのリングを渡してきた。
私は頷き、そっと左手を握る。
そして薬指にはめた。
啓一郎さんは私の頭を引き寄せ、ちゅっと頭部にキスを落とす。
再び啓一郎さんの香りを感じ、安心する。
あの頃の心細さなど──もうなかった。
「そういえば私の指輪のサイズ……どうやって知ったの?」
「それは──企業秘密」
口元に弧を浮かべる啓一郎さん。
私が「なんでよ」と言って笑うと、釣られて啓一郎さんも笑う。
とても幸せな時間だった。
しばらく時間が経ち。
指輪をもらった後、部屋に戻り少しダラダラとしたあと眠りにつく時間となった。
この『空雲の間』には特上客室だという通り、部屋が複数ある。
そのため私たちが食事をしている間に従業員の方が隣室に布団を敷いておいてくれていた。
私はいつもと違う環境で眠れそうにないかなと思いながらも隣室へ移動する。
「それじゃあ……お休みなさい、啓一郎さん」
「おやすみ紗雪」
並べてある布団の一つに潜り込む。
隣には啓一郎さんが布団に潜り込んだ気配がした。
月明かりが障子紙に差し込み、いつものような真っ暗な部屋ではない。
私は眠ろうとぎゅっと目を閉じる。
だがやはりいつもと環境が異なるせいなのか、はたまた左手の薬指に意識が向いているためかなかなか眠ることができない。
枕が変わっても眠ることが出来ていたのに──と思いながら、部屋の環境以外にいつもと何が違うのかと考える。
そうだ、いつもは啓一郎さんと一緒に寝ていたじゃないか。
私は身体をぎゅっと丸めた。
やけに外の風音が耳につく。
いつのまにか私は啓一郎さんの温もりがなければ眠れなくなっていたのかもしれない。
現に部屋の温度が寒いわけでもないのに、なぜか全身が冷えているような気さえする。
新居に越してきてからというものの、常にダブルベットで抱き合って寝ていた。
肉体関係は未だないものの、それが日課だった。
子供じゃないんだからと自分に言い聞かせ、私は寝返りを打った。
すると。
「……紗雪、眠れないの?」
優しい声が聞こえる。
大人であればそんなことないよ、と答えるべきなのかもしれない。
それでも私は──。
「…………はい」
さらに目を強く瞑りながら答える。
まるで子供のようで恥ずかしく思った。
だがそんな私の心とは裏腹に。
「俺もだよ。いつもは紗雪を抱いて寝てるから、ちょっと寂しい」
「うん」
「……ねえ、よければ────」
啓一郎さんは予想外なことを言い出した。
私は最初恥ずかしいからだめだと断ったのだが、「今日行きにずっと運転してきたご褒美」と言ってために最終的には断ることが出来なかった。
私は布団から出て正座をする。
そして照れながら太ももを叩いた。
啓一郎さんも起き上がり、私に近づく。
そして──。
「紗雪の膝は心地いいね」
「今日だけですからね」
啓一郎さんがおねだりしてきたのは膝枕だった。
ちょうど短く整えられた黒髪が浴衣越しにあたり、温もりを感じる。
背の高い啓一郎さんの頭頂部など見ることがないために新鮮だ。
啓一郎さんはリラックスしているのか目を閉じている。
右目付近にある黒子がかわいいな、と心の中で思った。
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