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4.彼のこと
しおりを挟むそして私は主治医であった蓮見啓一郎と結婚するに至ったのだ。
彼は結婚するにあたって日本へ帰国すると言う。
「蓮見先生……それってもしかして私のためですか?」
私は自分のせいで蓮見先生が日本へと帰国しようと思っているのだと思い、顔を青ざめさせる。
しかし蓮見先生は否定した。
「それは違う。元々年内にパリから離れるつもりだったんだ。パリにきたのも若いうちに色んな国で患者と接して視野を広めようと思っていたからだし」
どうやら蓮見先生はパリ以外にもイギリスやドイツ、アメリカ等様々な国を跨いで医者として働いてきたのだと言う。
そんな志高い蓮見先生の横顔に何故だか心が騒いだ。
「それと────」
「…………?」
蓮見先生は私の鼻をつまむ。
私はいきなりの行動に目を瞬かせた。
「蓮見センセイって……もう君も蓮見になるんでしょ? だから下の名前でよんでよ。ねぇ…………紗雪?」
わざわざ耳元に口を近づけて名前を呼ぶ蓮見先生──もとい啓一郎さんに肩を震わせる。
絶対今、顔が赤くなっているはずだと分かっているため顔を上げることができない。
「紗雪?」
「…………~~っもうっ!」
私は顔を上げ、涙を浮かべながら啓一郎さんを睨みつけた。
啓一郎さんは分かっているのか、それとも分かっていないのかどっちともつかぬ反応で微笑むのだった。
この人はもしかしたら────結構策士なのかもしれない。
そんなこんながあり。
帰国まで大忙しだった。
パリでお世話になった人たちに挨拶をし、4年分の生活の荷物をまとめ、住んでいたアパートを引き払う。
だが啓一郎さんの方がよっぽど大変だろう。
元々帰国する予定だったとはいっても、ここまで急ではなかったはずだ。
私が尋ねると意外にも「そんなことなかったよ。元々いつでも出られるように準備はしていたし」と言っていた。
それでも病院関係者、特に患者さんとの挨拶はかなり大変だと言う。
今入院中の患者さんに加え、すでに退院した元患者さんのところにまで足を運んでいた。仕事に対して真摯な啓一郎さんらしい。
結局私たちは帰国するまできちんと話し合う時間をあまり取ることができなかった。
お互いのことを知ったのはフライト中の飛行機内だ。
啓一郎さんに飛行機のチケットは任せてと言われ、そのままやってきたのだが。
「啓一郎さん、ここファーストクラスですよね?」
私は恐々としながら尋ねる。
いつもであれば当たり前のようにビジネスクラスだ。
ファーストクラスになんて乗ったことがない。
幼い頃からバレエなんて習ってはいるが、私は根っからの庶民。
貧乏とまではいかないが、一般の中流家庭の出である。
バレエを習うことができたのは、私が一人っ子だったからなのだ。
「ははっ、チケット代金のことは気にしないで。これでも俺、結構稼いでるし。逆にお金の使い道がなくて困ってるくらいなんだよ」
「そうなんですね。…………でも、ありがとう」
私は小さく微笑んだ。
結婚が決まってから少しだけ話したときに私が「日本までのフライトって長時間で大変ですよね。腰が痛くなっちゃいます」と話した事を覚えていてくれたのかもしれない。
その細やかな心遣いに心が少しあったまった。
フライト中、私たちはいろいろな事を話した。
啓一郎は今年で30歳。
きりのいい年齢だと思い、日本に居を構えようと思ったとのことだ。
これから医者としてすぐ開業するか、それとも大学病院などで働き幅広い患者さんと接するか、どちらも捨てがたく迷っているとのことだ。
だがのちのち開業はしたいと考えているらしい。
お互いのことをこんなにも知らないのに結婚しようとしているなど正気の沙汰ではない、と思いながらも私はどこか満たされていた。
それもこれも優しく、そして穏やかに接してくれる啓一郎さんのおかげだった。
帰国後、私たちは予約していたホテルに泊まったが、ダブルベッドであるのになにもすることなく。
翌日、ホテルからその足で結婚届を提出。
晴れて私たちは夫婦となった。
いつの間にか啓一郎さんは都内のタワーマンションの一室を新居として購入しており、私たちは暮らすこととなる。
そして今現在、私は温かな繭の中で新婚生活を送っていた。
けれど──それなりに幸せであるはずなのに私には不安なことがあった。
啓一郎さんは私に「かわいい」やら「結婚して良かった」と言ってくれるのだが、彼の口からは一度も「好き」や「愛してる」といった言葉を聞いたことはない。
私もまだ自分の気持ちさえわかっていないのに相手にそれを求めるのはどうなのだろうと思う。啓一郎さんの気持ちもよく分かっていない状況であるのに。
けれども──私はどうしても不安で。
不安の中にいると疑問ばかり浮かんでくるのだ。
────何故啓一郎さんは私と結婚したのだろうか。
それを聞くタイミングを失ってしまってからというものの、何かが心に引っかかり続けている。
もし仮に「三十路になって未婚だと格好が悪い」だとか「若くて手頃な女がよかったから」と告げられたならば私はどうすればいいのだろう。
それを考えるだけでなぜだか怖くなり、尋ねることはできなくなっていた。
私はもやもやとする考えを心の中に押し込み、今日もまた啓一郎さんに接しているのだ。
しばらくして、ようやく帰国してからの忙しかった日々が落ち着いてきたころ。
最近は新しく勤務が決まった有名大学病院関系で忙しく動き回っていた啓一郎さんは言った。
「ようやく休みが取れることになったよ。だから行こう────新婚旅行へ」
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