【完結】スパダリ医師の甘々な溺愛事情 〜新妻は蜜月に溶かされる〜

雪井しい

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2.悲劇

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 一年前。
 私はフランスのパリにいた。

 子供の頃からバレエを習っており、将来はバレリーナになると信じて疑わなかった私は晴れて目標であった『パリ・オペラ座バレエ団』に入団することができたのだ。

 今年で23になり、入団4年目。
 まだエトワール──バレエ団のトップダンサーになることは出来ていない。
 けれども入団1年目や2年目と比べて役をもらうことができるようになった。

 パリで生活することは生半可なことではなく、来訪した当初はその生活の違いに驚いた。
 そしてなにより言語が違う。

 日本での学生の頃は学校で英語を学んだり、稀に海外のバレエ講師を招いてレッスンを受けることがあったため英語は出来る。
 
 ただ、フランス語の日常会話は全く駄目だった。
 バレエのステップなどはフランス語が語源であるが、それとこれとは全く別だ。

 私は四苦八苦しながらもこの環境に慣れ始め、これ彼から頑張るぞと心を新たにした──そんなとき、私にとっての人生最大の悲劇が襲いかかった。



 それは事故だった。


 子どもが道路を飛び出し、それを避けようとした車がちょうど歩道を歩いていた私に激突した。
 幸いにも命には別状はなかった。


 だが──私は足に大怪我をしたのだ。


 
 私はただ運がなかっただけだった。

 痛い、痛い。
 私は足を押さえてうめいていた。

 私はそのまますぐに病院へ運ばれ、すぐ治療やCTスキャンなどを受けることになった。

 不幸なことに私の右足は車のタイヤに轢かれ、骨折していた。複雑骨折だった。

 そのときの担当医は蓮見啓一郎と名乗った。
 年若い医者で、私のいくつか年上ではありそうだがそう年齢は離れていないだろう。
 染めていない黒髪は清潔感がある程度に切り揃えてあり、右目元にある黒子が印象的だった。

 私が日本人だからなのか、日本人である医者を主治医として連れてきたのかもしれない。

 私は蓮見先生に尋ねる。
 

「……先生…………私の足は…………きちんと治るんでしょうか」

「それは────」

 先生は言葉に詰まっていた。
 それでも私は捲し立てるように口を開く。

「私はもう一度、あの舞台中立てるんでしょうか!」

 本当は自分でもわかっていた。
 なんとなく、複雑骨折というのは上手く骨が繋がるために時間がかかるということを。
 そして足が元通りになることはないのだと。

 ばらばらに壊れてしまったものはもう、初めの状態には戻れないのだ。

 それにこの怪我を治療する時間がブランクとなる。
 1ヶ月練習をしないだけでも身体の使い方が上手くいかないと言われているのに、それが数ヶ月、はたまた年単位となると──。


「私は──前みたいに踊れますか?」

 意を決し、紡いだ言葉は無残にも打ち砕かれる。

「あなたの怪我は治ることは治りますが────前のように現場復帰することは…………おそらく、難しいでしょう」


   蓮見先生の告げた言葉に私は絶望した。
 私の生涯をかけた夢はここで潰えてしまったのだ。
 
 いつかエトワールとなって、多くの人に自分の踊りを見てほしい。
 そして私も大勢の観客が観る舞台の真ん中で踊りたい。

 それは数秒にも満たない、たった一瞬の事故で潰えたのだ。

 先程まで流れ続けていた涙はもう止まっていた。
 涙を流すことできなくなっていた。

 そんな私に気を遣ってか、蓮見先生は優しく穏やかに語りかける。

「たしかにあなたは以前のように踊ることはできないかもしれない。けれど、リハビリ次第ではそれに近いまでの状態に回復することが出来るかもしれない」

「ほんと、ですか?」

 私は顔を上げて蓮見先生の整った顔に目線を送る。
 気づけば冷え切った私の手を温かい手が包んでいる。

「ええ、もちろん。私がお手伝いしますよ。あなたが希望を持てるように」

「ありがとう……ございます」

   バレエ団は怪我で長く舞台に立てない私を在籍させ続けてくれるかどうかは分からない。
 主演クラスのダンサーであればともかく、まだようやく役を貰い始めたばかりのひよっこの私。

 このパリで二度とバレリーナとして舞台に立つことはできないかもしれない。

 けれど──またいつかどこかで復帰できたら。

「瑠璃川さん」

「……?」

    蓮見先生が名前を呼ぶ。
 その真剣な表情に私の心臓はどくりと跳ねる。

 もともと非常に整った顔立ちをしている蓮見先生は、この23年間バレエに対して一途に勤しみ続けた私にとって毒薬のような存在だ。
 それほどまでに私には恋愛耐性がないのだ。

 先程まで人生最大の不幸に身をひたし、涙を流していた私の脳はどこへ行ったのだろう。

「私と一緒にリハビリがんばりましょうね」

「は、はいっ」

   反射的に顔を赤らめた私にくすりと微笑む蓮見先生。
 乙女の複雑な心境を見抜かれたと思い、私は余計に顔を赤くした。

 そしてそんな私に蓮見先生は右腕を取り──。


 ちゅっ、とリップ音を響かせて指先にキスを落としたのだ。

 急激に体温があがる。
 フランスの男性は積極的であり、稀に手にキスをされることもあった。
 けれど、それは挨拶だ。

 日本人は元来童顔で、年齢より年下に見られることが多い。
 私もよく子どもに間違えられることがあった。
 実際はそれほど童顔ではなく、むしろ日本では大人びた顔立ちしてるよねと言われることの方が多かったのに。

 つまり手にキスをすることはフランスの──海外の男性にとって子供扱いされているに等しい。

 けれど蓮見先生はわかってやっている。私が動揺することを。

 激しく脈打つ鼓動とは裏腹に、蓮見先生は余裕を見せていた。
 そして甘く、優しく囁く。

「…………俺の可愛い人」

   小さく聞こえたその言葉に私は聞こえないふりをするほかなかった。

  
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