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廃屋を駆ける

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 入道雲が西の方にむくむくと姿を現してきた。
 スグルは、もう今は動かない踏切から、砂利を敷いた線路に入りこんで、真夏の太陽の直撃で灼けたレールの上にひょいと乗った。
 左右の腕を横に伸ばしてバランスを取りながら、赤く錆びた鉄を踏む。靴底を通して、足の裏に熱が伝わる。
 砂利の上に落ちていた木の棒切れを見つけ、拾い上げて振り回した。
 トンボの羽音が耳元で聞こえてきて、追い払おうとさらに激しく振る。
「スグル、危ない。落ちて転ぶよ」
 真後ろからサエコの声がして、スグルは思わず振り向いた。
 でも、サエコはいつもスグルの後ろに回り込むので、どうしても顔が見えない。
「落ちるわけないよ、おっと」
 スグルはおどけて片足をあげてバランスをくずしてみせた。

 しばらくの間、黙って線路を歩くうち、前方に、ビルがまばらに並ぶ街が見えてきた。
 コンクリートの壁のいくつかは剥がれ落ちていて、窓ガラスが割れたり、カーテンが外れかけてぶら下がったりしている。真横に立つ樹に押しのけられ、倒れそうになっているビルもある。
 中でもひときわ高い、山のようにそそり立つマンションが、入道雲にかぶさるように目の前に迫ってきた。
 あれが目的地だ。

 アスファルトがじりじりと照り返す中、錆びたシャッターが降りたままの店が並ぶ路を歩いて、ようやく、ガラス張りの広い扉にたどりついた。
 この一帯には、もう人が住んでいない。戸建ての家もマンションも、放置されたまま、だれも取りこわしたり建て直したりしない。
 それでスグルは、サエコと一緒に、毎日毎日あちこちの廃屋を探検している。
 いけないことだとは思いつつ、とがめる人もいないせいで、どうしてもやめることができない。それどころか、日に日にたのしくなって抜け出せなくなってしまった。
 壊れたドアや窓から一歩足を踏み入れる瞬間は、なんともいえずワクワクするし、 荒れ果ててしまった部屋を歩きまわると、くすぐったいような、哀しいような、切ないような気持ちがこみあげてきて、くらくらと目まいがする。
 何かがこの部屋じゅうの空気にぎゅっと詰まっている。それが何なのか、スグルにはうまく言葉にすることができない。
 このマンションも、下の階から順番に攻めてきた。
 今日はいよいよ最上階の部屋を狙う。
 ずっと壊れたままのカードキーの扉を押し開けて、廊下の端にある非常階段を駆け上がると、目の前に街の景色が広がっていく。

 道路を往来する車の影は見えず、他の建物の窓にも、人の気配はない。
 手すりから身を乗り出して、下をのぞくと、腰から下が何だかきゅっとなる。
 何ともいえないスリルだ。
 力が入らないようで、逆に力が入りすぎるようで、むずむず、ざわざわする。
「そんなことしてると、危ないよ」
 今まで黙っていたサエコが、いきなりわかりきったことを言う。それがたのしいのに。
 それでも、二、三階おきに、くりかえし手すりから身をのりだしては階段をのぼり、やっとのことでいちばん上の十二階に辿りつく。
 渡り廊下が短く、ひとつしか扉が見当たらない。
「よほど広いのかな」
 サエコに話しかけるでもなく、ぼそっとこぼす。
 扉の前に立って、ドアのレバーをがちゃりと動かす。やっぱりここも鍵はかかっていない。
 たぶん誰もいないと頭ではわかっているけれど、それでもなぜか、こっそりと、土足のままで薄暗い部屋の中に入る。
 長い長い廊下の左右にあるドアを順番に開く。トイレ、そして風呂。どちらも水垢がこびりついていて、長い間使われていないとわかる。
 廊下の一番奥まで進んで、ドアを開く。
 リビングルームには灰色の古びたソファセットがおかれていて、その向こうのダイニングルームの中央にアルミの流し台がしつらえられていて、天井からその流し台まで、銀色の大きな換気扇が伸びている。
「こんなに広いうちは、はじめてかも」
 スグルのつぶやきに、サエコが言葉を返す。
「あっちにも部屋があるみたい」
 うながされてダイニングの奥にある部屋にそろそろと進む。
 ドアはなく、傷んだ畳の床に汚れたタオルやこわれたハンガーが散らばっている。
 壁には大きな本棚があり、同じような装丁の本が何十冊も並べられている。
 深緑色の背表紙に打たれた金文字が、暗がりの中できらきら輝く。
「ふうん、きれいな本」
 サエコがつぶやく。
「この家の人は本が好きだったのかな」
 スグルはそう問いかけながら、本棚から本を一冊、取り出した。
 ところが、サエコは今度は何も答えない。
 まったく気まぐれだ。
 ふと目を移すと、部屋の手前にきらきら光るものが落ちている。
 スグルは駆け寄った。
「なんだろう」
 ダイヤ型の透明な玉だ。一瞬、大きな宝石に見えて、スグルはどきっとした。
 今通って来た部屋に吊るしてあったシャンデリアから落ちたものらしい。
 すこしがっかりしながら、スグルは玉を拾い上げた。
 明るい方に透かして見る。
 部屋の入り口が二重、三重に見える。
 スグルは、だまってそのままガラス玉を布製の手さげバッグに入れた。
「あ、またそうやってものを盗るの」
 こういうことには反応するサエコに、スグルはときどきイラだつ。
「ここに探検に来たしるしとして、持って行くんだ」
 語気荒く答えて、そのまま隣の部屋に移った。
 天井が斜めに傾斜していて、天窓から光が射している。
 部屋の中央には、プラスチックの大きな衣装箱が置かれている。
 閉まったままの水色のフタに手をかけてみると、プラスチックが古くなっていたのか、バリンと割れてしまった。
「見て。箱の中」
 サエコにうながされ、スグルはおそるおそるのぞきこんだ。
 いろいろな種類の絵筆が散乱し、その脇に水彩絵の具セットの紙箱。そして、何十枚ものスケッチが海苔缶に収められている。バラにスイセンにラン、どれも草花の絵だ。
「絵を描くのが趣味だったんだ、ここの人」
 サエコがつぶやく。
 スグルはうなずいて、立ち去ろうとした。
「待って、このままでいいの?」
 もうここには帰ってこないだろう。どこかに引っ越してしまったのか、病院に入ったのか、介護施設に行ったか、それとももう亡くなったか……。
 どっちにしても、放っておいてもいいはずだ。でも……。
「しかたないな」
 スグルは引き返して、こわれたフタを箱にのせた。
「これでいいだろ?」
 スグルはサエコに呼びかけた。でも、また答えは返ってこない。
 そのまま部屋から出た。
 ふたたび、夏の太陽が直撃する線路まで戻ると、スグルはだっと駆けだした。
 さっき手に入れたガラス玉を、早く宝箱に入れてしまおう。
 その想いばかりが頭の中を占めていた。
「さっきの絵、キレイだったね。センサイな感じっていうのかなあ」
 突然、サエコが話しかけてきた。
 全力で駆けているスグルに、後ろを振り向く余裕はない。
それでも、さっきの絵を思い出して、つぶやくように答えた。
「バラの絵が一番よかったかな」
 いつしか線路の両側にあった街並みは途切れて、住宅地へと変わった。
 眼の前の空には、さっき見たよりもさらに大きく育った入道雲が、まるで高山のようにそびえている。その背後に、白々としてまぶしい青空が広がる。
 左右の家々はひっそりと静まり返っている。空き家ばかりだ。
 庭には雑草が生い茂り、壁に蔦が絡みついて伸び放題になっている家も多い。
 静かな世界で、えんえんとミンミンセミの声だけが響く。
「この辺も、すっかり誰もいなくなったね」
 サエコが話しかけてきた。
「毎年のように新種の病気が次々に現れて、大きな災害も幾度も起きて、そのうち駅ビルもショッピングモールも閑散となって、街の中からも目抜き通りからも、人も車も消えて、電車もいつの間にか動かなくなって……」
 珍しく、長々としゃべり続けている。
「いつの間にか感染が広まるウィルスとか、いきなり症状が現れて、そのまま数時間で死んでしまう食中毒、それから、オゾンホールの破壊で遺伝子異常が発現して重症になってしまう奇病……。列島全体が台風にのみこまれたり、突然内海の深海底にぽっかりと巨大な海溝があいたこともあったね。そのときの大地震とか津波とか……」
 サエコは深いため息をついた。
「ずいぶんといろんなことが起きたっけ……」
 サエコはときどき難しいことを言う。スグルはときどきついていけなくなる。
「……そうだねえ」
 しかたなく、投げやりにあいづちを返した。
 やがて、気づかないうちに、空のそこかしこに雲が広がって、陽射しがかげっていた。
 どこか遠くの方で、ごろごろとくぐもった雷鳴が聞こえた。
「降るのかな」
 ほどなく、ぼつぼつと大粒の雨が降りはじめた。
 灼けた砂利とレールが水滴を吸い、たまった熱が冷やされていく。
 雨足はみるみるうちに勢いを増す。
「雨宿り、雨宿り」
 それでもスグルは楽し気に走っていく。
 線路のずっと先に、レールとレールに挟まれた小さなアーチ型のアルミ屋根付きのプラットホームを見つけて、なんとかその下に逃げ込んだ。
 雨粒が屋根に当たって、大きな音を立てる。
 緩やかにカーブした柱の脇の雨どいから、水が勢いよくほとばしっている。
「もう少しかなあ」
 重い色をしたいくつもの雲が、風にあおられて形を変えながら、次から次へと足早に通り過ぎていく。

 やがて、雨音が徐々に静まってきた。
 黒雲の中で稲光が輝き、雷がたてつづけに鳴り響いた。
「そろそろ雨があがるよ」
 スグルはプラットホームから勢いよく飛び降りて、空をふりあおいだ。
 雲の切れ間からさしてきた太陽の光はすでに傾いて、まもなく夕焼けへと移る兆しを見せている。
 吹き渡る風が、あたりの湿気を含んだ空気を飛ばしていく。
 スグルは、持っていた木っ端の棒を水平に上げて、そのまま、ぐるりと線路の彼方を指した。
「よし、行くぞ」
 そうして、水たまりが残る線路の砂利道を、しぶきをあげながら再び走り出した。
 線路はまっすぐ伸びて、はるか先に見える山並みへ続いていく。
 ちょうど山の麓にさしかかるあたりに、スグルは目をこらした。
「あった」
 ずっと向こうの木立の間から、丸太組みの古びたログハウスがちらちらと見えかくれする。
 ゴールが見えて、がぜん足が速まる。
 なかなかたどり着くことができないのをもどかしく感じながら、息をすることも忘れたように、ひたすら駆けていく。

 ようやく、何とかログハウスの全体がわかるところまで近づいてきた。
 正面に広いウッドデッキがあり、その真ん中に、長く伸びた庇から三人掛けの籐椅子が吊り下がっている。
 スグルは線路を外れて、小屋へ直接続くゆるやかな坂道を上りだした。
 いつの間にか、ヒグラシの声がスグルたちを迎えるように周囲に満ちている。
 ほどなくログハウスにたどりつくと、スグルは、木製の階段をゆっくりと踏みしめてのぼった。
 そうして玄関からウッドデッキに跳び移り、うずくまるとごそごそと床板をいじりはじめた。
 しばらくしてから、一気に力をこめて板を引きはがす。
 その下から現れた青い縞模様に彩られた大きな菓子缶を取り出した。
 錆びついた蓋には、赤いマジックで「たからもの」とへたくそな文字が書かれ、隣に、はなまるのヒマワリが描かれている。
 その縁にむりやり爪を立てて、ぐいっと開く。
 中には、あちこちの家や部屋で拾ってきたものが、ぎっしりと詰まっていた。
 ねじ曲がった鈍い銀色の金属管、鮮やかな黄色の革製の眼鏡ケース、じゃらじゃらと沢山繋がったキーホルダー、歯車が折り重なり残っている腕時計の基盤、複雑な彫刻が施されたタンスの引き出しの把手、どうやって動かすのかわからない球体の電子玩具、巨大な円錐形の建物が描かれ外国語の説明が入った何かの入場チケットの半券が五枚、持ちにくいぐらい太い太い黒の万年筆。それから、割れた写真立ての中の色褪せた写真に写っている、縁側に並んだ作業着姿のおばさん、おばあさん、子供たち……。
 あらためて集めてきたものを眺めていくうちに、スグルは気がついた。
 いつも身近にあったさまざまな人々の暮らし、息づかい……。自分は、この街の中に無数に散らばるその痕跡がいとおしくて、その空気を、流れ去った時間を味わうために、棄てられた家々を駆け巡り、こうやってその名残をかき集めているんだ……。
 スグルは、さっき手に入れたガラス玉を布製のバッグから取り出して、もう一度目の前にかざした。
 菓子缶の中の宝物が幾重にも重なり、夕陽に照らされて輝いている。
 スグルは満足そうに微笑んで、ガラス玉を缶に収めた。
「しょうがないなあ」
 顔は見えないけれど、隣でサエコが苦笑いしているのがわかった。
 床板をはめてとんとんと踏みしめてから、スグルはふと顔を上げた。
 ウッドデッキから望むはるかな山並みの向こうに、とてつもなく美しい夕焼けの景色が広がっている。
 ログハウスの屋根を振り返ると、さっき入道雲が見えていた辺りの東の空いっぱいに、夕陽に照らされた赤い筋雲を背景にして、大きな大きな虹ができていた。
 虹のたもとが巨大な柱のように山のたもとにかかっている。
「この時間の、この場所から見る景色」
 先に言葉を発したのは、スグルではなくサエコの方だった。
「もしかしたら、宝物は、こっちの方かもしれないね」
 サエコの口調が急に成長したように感じた。
「綺麗ね……」
 スグルは、何だかくすぐったくなって、もぞもぞ身体を動かした。初めて、サエコがどんな顔でこの景色を眺めているのか、見たくなった。
 しばらくの間、ヒグラシの鳴き声だけが近く遠くに響き続けた。
 いつの間にか、夕陽は沈んで山影が当たりを覆いはじめていた。
「何だかよく見えなくなってきた」
 夜が近づいて暗くなったせいかな。スグルは、ぼんやりそんなことを考えた。
 と、唐突にサエコが声をあげた。
「バッテリーの残量が、低下しています」
 今までとは全然違う無機質な声だ。
「もうそろそろ時間よ、うちに帰りましょう」
 うって変わって静かな声に戻る。でも、さっきまでの声とも、今聞こえていた声とも別の、低くて優し気な調子だ。
 うち? うちって……。
 そうだ、うちに帰ろう。どうしていままで忘れていたんだろう。
 どこかから、ぴっぴっと断続的なブザー音が流れ、それと共に、再び無機質な声が聞こえてきた。
「バッテリーの残量が、5%以下になりました。充電してください」
 声が無性にスグルを焦らせ、混乱させる。
 帰らなきゃ、帰らなきゃ、帰らなきゃ……。
 わずかばかりの残光がさす山並みに向かって、スグルはとぼとぼと暗い坂道を下っていった。

 スグルの家は、丸太小屋からそれほど遠くない一角に建つ、古ぼけた平屋だ。
 薄茶色の壁に囲まれていて、小さな窓が数か所に開いている。道の両側に同じような家が何十件も並んでいる。
 がたがたと音をたてて、鍵がかかっていない格子戸を開き、そのまま進んで、居間に通じる引き戸をあける。
 どんな風景が待っているのか、直前まで思いだせなかった。
 八畳の畳部屋の中央にベッドが二つ。周りにはいくつも機械が置かれていて、何本ものチューブがベッドのうちのひとつに伸びている。
 部屋の中には、ふたりいた。
 ベッドにひとりが横たわっている。
 そのかたわらの椅子に座っていたもうひとりが、こちらへ振り向いた。
 長い白髪を小ぎれいに束ねた年老いた女性だ。
 薄く紅をひいたその口が開いた。
「おかえりなさい」
 後ろからも前からも声が聞こえてきて、スグルは混乱した。
 老婦人とサエコが同時に話しかけてくる。声もそっくりだ。
「驚いているのね」
 老婦人は、ベッドの方に向き直った。
 右を向くと、全身用の大きな鏡が掛かっていた。
 人の頭ほどの白いドローンが宙に浮かんでいるのが、映っている。
 本体から細長い二本のマニピュレータが伸び、片方にはさっきスグルが拾った棒切れと同じものを握っている。もう片方のマニピュレータの関節から、布の袋がぶら下がっている。
 おかしい。自分の姿が映るはずなのに。スグルは、見下ろして、自分の胴体と手足をたしかめようとした。でも、どういうわけか、身体をねじっても、手足を動かしても、視野に入ってこない。
 棒切れを振り回すと、ブンブンと羽音のような駆動音が聞こえてきた。鏡の中でマニピュレータの四つの軸が複雑に組み合わさって回転し、びゅんびゅんと棒がしなった。
「思いだした?」
 スグルは、おそるおそる老婦人の隣のベッドをのぞきこんだ。
 頭から口の上までゴーグルにすっぽり覆われた老いた男の姿が目に入った。
 手足は細く老いさらばえて皺だらけになり、木の枝のようだ。
 ゴーグルから伸びた何本ものファイバーが、縒り合されてベッド脇の装置につながり、ちかちかと瞬いている。
 装置のモニターには、スグルが見ているのとまったく同じ光景が映っている。その中にさらにモニターが映り込み、無限に繰り返しが続く。
「あちらに入ったままのようね」老婦人がつぶやく。
「今日は、まだもとに戻れないのかしら」
 困ったようにため息をつき、ゆっくりと言葉を区切って、横たわる老人の耳に向かってささやいた。
「もう寝る時間よ。戻りなさい」
 スグルの耳元、くすぐったくなるぐらい近くで声が聞こえてきた。
 とたんに、まぶたの重さを感じた。
 身体のすべての関節が、きりきりと痛みだした。
 腹のあたりがずんと重たい。
 混乱したまま、目を開く。
 ぼんやりとして焦点が合わない。さっきまでの鮮明な視界とは全然違う。
 足が自由に動かない。まるで何かに固められてしまったみたいだ。
 右の方を見ると、あのドローンが見える。
 部屋の隅のコンセント近くの円形の台の上に、ふらふら降り立とうとしている。
 左を見ると、老婦人の顔がすぐそばにある。
 おぼろげながらほっとした表情をしているのがわかる。
「今日はつかれたでしょう、もう目をつむっていいわよ」
 声が聞こえるけれど、何だか遠い。
 うながされるまま、まぶたを閉じる。
 ようやく少しずつ思いだしてきた。
 ここのところ、毎日、こうやって暮らしていたことを。

 しばらく前に、少ない年金を貯めて、最新式のドローン……ゴーグルでカメラ、マイク、スピーカーと視聴覚が連動し、ローターやマニピュレーターと手足の筋肉が直結するマシン……を手に入れた。
 不自由になった身体の代わりに、そして今目の前にいる妻の代わりに、部屋を片付けたり、掃除をしたり、ベッドにものを運んできたり、身の回りのことができるようにと思っての買い物だった。
 そのうち、まるで自分自身がドローンと一体になったような感覚に捕らわれて、ゴーグルを外そうとしなくなってしまった。
 日中になると屋外を飛びまわるようになって、子供に戻ったような気持ちになり、そして夜になってバッテリーが切れると、家に帰ってくる……。そんな日々を繰り返すようになった。
 走ったあとの息切れも、じっとりする皮膚の汗ばみも、どきどきする胸の鼓動も、現実に感じているものじゃない。ドローンの駆動系と運動神経が深く連動しているのと、視覚や聴覚があまりにも鮮明なせいで、記憶にあった身体の感覚が呼び醒まされてしまったとしか思えない。
 スグルの耳に、サエコのほっとしたようなため息が聞こえてきた。
「あまり無茶はしないでね」
 続く声は、わずかに弾んでいた。
「でも、このモニターを一緒に見るうちに、いつの間にか私も貴方と一緒にあちこちを探検しているような気分になって……。ちょっとわくわくするわね」
 その言葉を聞くともなしに聞くうちに、眠くてたまらなくなった。
 こうやって、今まで彼女はずっと自分の隣にいた。
 気づかないうちにこうしてゆっくりと滅びていくこの街で、この世界で、あと何回、こうして隣同士で眠りを迎えることができるんだろう。
 そう思いながら、スグルはいつしかすやすやと寝入っていた。

 空が蒼白らみかけているのが、カーテン越しにわかる。
 スグルは、目の前に老いた自分自身の顔が見えるのに気がついた。
 見る見るうちにその顔が遠ざかる。
 いつの間にかドローンを起動してしまったらしい。
 そう思いながら部屋の隅を見ると、待機したままのドローンが見えた。
 不思議に思う間もなく、自分の身体が天井を突き抜けたのを感じた。
 だれかが自分の手をとった。
 目をあげると、ふわふわと長い髪をなびかせて、白いブラウスと緑のスカートの少女が、スグルの方を見て微笑んでいる。
 サエコだ。見た目はまるで違うけれど、スグルにはすぐわかった。
 彼女とつないでいる自分の手は、浅黒くてすらりと長い少年の手だ。
 これは夢だろうか。幻だろうか。
 それとも、その時が来たんだろうか。
 山並みの彼方から、朝の陽光がさしてくる。
 雲間から光の筋が伸びる。
 スグルは、あらためて思い出した。
 今日まですごしてきた毎日が、苦しいものであれ、愉しいものであれ、ひとつひとつがいとおしく、かけがえのないものだったと。
 スグルはサエコに笑いかけ、彼女の手を引いて、光指す彼方へと駆け出した。
 彼女の微笑みを何よりも心強く感じながら。

(完)
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